第7節 中近東地域

1.中近東地域の内外情勢

(1)中東和平を巡る動き

(イ)85年2月のフセイン・アラファト合意成立後,アラブ穏健派を中心とする和平への動きが活発化し,同年夏にかけて米国とジョルダン・パレスチナ合同代表団との対話の可能性が模索された。しかしジョ/パ合同代表団のパレスチナ人の代表問題等を巡り意見が一致せず,結局この対話は行われなかった。

(ロ)その後10月に入り,イスラエルによるPLO本部爆撃事件,イタリア客船乗っ取り事件及びジョ/パ合同代表団と英外相との会談キャンセル等和平への動きに悪影響を及ぼす一連の事件が発生したため,和平への動きは一時休止を余儀なくされた。

(ハ)しかし,10月21日,ペレス=イスラエル首相は7項目和平提案を発表し,和平交渉が国際的枠組みの支援を得て開始されてもよい旨表明,また,アラファトPLO議長も11月7日カイロ宣言を発表し,イスラエル占領地内以外でのテロ活動を非難するに至り,以後国際会議開催を巡り和平への動きが再び活発化した。

(ニ)その後12月末にはウィーン・ローマ空港テロ事件が発生したが,86年1月下旬~2月上旬にはフセイン・アラファト会談が行われ,PLOの決議242受入れを条件にPLOの国際会議への参加を認めるとの米新提案につき協議されたと言われる。

(ホ)しかし,この協議でも両者間で実質的合意には至らず,その後2月19日,フセイン国王は「PLOが信頼性と一貫性を回復するまでPLO指導部との政治的調整は行い得なくなった」旨表明,和平への動きは再び休止を余儀なくされた。

(ヘ)ムバラク大統領は3月20日フセイン国王と,同23日にはアラファト議長と会談を行ったが,和平に向け大きな進展は見られず,さらに翌24~25日にはシドラ湾において米国とリビア間で戦闘が発生するに至った。

(2)レバノン情勢

(イ)85年1月14日イスラエル政府は82年6月のレバノン侵攻以来南レバノンに駐留しているイスラエル軍を撤退させる計画を決定し,6月6日イスラエル軍当局は,イスラエル軍の撤退がほぼ完了した旨発表した。

(ロ)イスラエル軍撤退後もレバノンは依然として不安定な情勢が続き,6月中旬にはTWA機ハイジャック事件が発生するとともに,8月中旬にはベイルートにおいてイスラム教徒・キリスト教徒間,9月中旬~下旬にかけてトリポリにおいてイスラム教徒間,11月下旬には再びベイルートにおいてイスラム教徒間で大規模な戦闘が発生し,多くの死傷者が出た。

(ハ)かかる状況下,シリアはレバノンに対する影響力を拡大し,12月28日には,シリアの主導の下,ダマスカスにおいてアマル(イスラム教シーア派),PSP(イスラム教ドルーズ派)及びレバニーズ・フォース(キリスト教マロン派)が(a)従来の宗派主義の廃止,(b)大統領権限の縮小,(c)シリアとの関係強化,(d)内戦終結のための方策等を骨子としたレバノン問題解決のための国民合意(ダマスカス合意)に調印した。同合意はレバノンで最大の軍事力を有する民兵三派間で調印されたものであり,かなりの効力を有すると見られたが,右合意調印後,キリスト教徒マロン派内部では,キリスト教徒の権限が縮小されることに対する反発が強まり,キリスト教徒内部及びキリスト教徒・イスラム教徒間でも紛争が継続しており,同合意は現在までのところ有効に機能していない。

(ニ)方レバノン南部ではイスラエル軍撤退以後,PLOアラファト派を始めとするパレスチナ人コマンドが再び勢力を伸張させており,86年3月下旬以降,イスラエル軍によるパレスチナ人キャンプ等に対する攻撃が活発化している。

(3)イラン・イラク紛争と湾岸情勢

(イ)85年4月より86年初めまでのイラン・イラク紛争の進展には,(a)85年6月までの相互都市攻撃,(b)同年8月よりのイラクによるカーグ島攻撃,(c)86年2月初めよりのイラン軍による地上攻勢と3つの大きな局面が見られた。

(ロ)イ・イ両国間での相互都市攻撃は,85年3月初めのイラクによるブシェール,アフワーズ攻撃以後激化したが,4月初めの国連事務総長のイラン・イラク訪問後は,国境付近の都市に限定されるようになった。しかし,5月21日にイラクがアフワーズ近郊の経済施設及びロレスタン州の石油施設を攻撃したのに対しイランが報復攻撃を実施,また,26日にはイラクがテヘランを始めとするイラン諸都市を攻撃,イランもこれに対し報復し相互都市攻撃が再度激化した。

このような中で,6月14日,フセイン=イラク大統領は,同月15日より30日までイラン深奥部の諸都市攻撃を停止する旨のメッセージを発出,イラン側は右メッセージを拒否はしたものの,以後,現在までのところ大規模な相互都市攻撃は行われていない。

(ハ)こうした都市攻撃の終息後は,両国国境全域では小規模戦闘が続いていたが,8月中旬より,イラクは航空力の優勢を背景にイランの妥協的姿勢を引き出すべくカーグ島に対する攻撃を開始し,イランに対しゆさぶりをかけた。イラクの攻撃数は,85年中に62回に至り,86年に入っても,3月までに24回に上っている。

ただし,イラクのカーグ島攻撃は,これによりカーグ島油送桟橋に被害が生じ,向島よりの原油積出しが一時的に停止したこともあったが全体としてイランの原油輸出を大きく左右するものではなかったと見られる。

(ニ)86年2月9日,イラン軍はファジル第8作戦と銘打ち,新たな地上攻勢を開始した。攻勢は南部に集中し,バスラ方面では,イラク軍がイラン軍の攻勢を食い止めたものの,シャットルアラブ川河口の地域においては,イラン軍がイラクの石油・工業都市ファオを占領するに至り,これを奪回しようとするイラク軍との間で戦闘が続いている。我が国は紛争の激化を憂慮し両当事国に自制を呼びかける外務報道官談話を発表,また,国連安保理も,アラブ連盟イ・イ紛争フォローアップ委の要請を受け公式会合を開催,2月24日戦闘の即時停止等を求める決議582を採択した。

また,イランはイラクが化学兵器を使用していると非難,イランの要請に基づいて国連事務総長により同国に派遣された調査団は,その報告書の中でイラク軍により化学兵器が使用されたと結論付けた。これを受け,安保理は3月21日イラクによる化学兵器使用を1925年ジュネーヴ議定書違反として非難する議長声明を発表し,また我が国も化学兵器の使用を遺憾とする外務報道官談話を発表した。

イラン軍は同時に北部のスレイマニア地区においてもファジル第9作戦と銘打った攻撃を開始しイラク軍との間で戦闘が続いている。

(ホ)このような情勢の下,湾岸諸国とイランの関係については,5月のサウド=サウディ・アラビア(「サウディ」と略す)外相のイラン訪問,12月のヴェラヤティ=イラン外相のサウディ訪問,同月のアブドッラー=アラブ首長国連邦外務担当国務相のイラン訪問等に見られるごとく雰囲気に若干の改善の兆しが見られた。また,11月に開催されたGCC首脳会議(マスカット)においても,イ・イ紛争についてはイラン・イラク双方により中立的内容のコミュニケが発表された。しかし86年2月よりのイランの攻勢を受け,湾岸諸国内にはクウェイト等を中心として再びイランを批判する声が強まっている。

また,85年は,ソ連と湾岸諸国との関係改善に顕著な動きが見られた。9月26日・オマーンがソ連と外交関係を樹立する旨発表したのに続き,11月15日,アラブ首長国連邦も同国との外交関係樹立を決定した。

(4)アフガニスタン情勢

アフガニスタンにおいては,ソ連軍の駐留(約12万名)及びソ連軍・カルマル政権側と反体制勢力との戦闘が85年も依然として続き,同国を巡る情勢は,問題解決への確たる動きのないまま推移した。

11月ジュネーヴで行われた米ソ首脳会談においては,アフガニスタンを含む地域問題についても話し合われ,その結果両首脳により地域問題について専門家の間で意見交換を定期的に行っていくことが合意されたが,ソ連軍の撤退問題等についてのソ連の基本姿勢には変化が見られていない。

本問題の解決については,コルドベス国連事務次長の仲介によるパキスタン・カルマル政権間の間接交渉が,6月,8月,そして12月にジュネーヴにおいて行われたが,本問題解決の鍵である撤兵問題については交渉が行き詰まっていると言われる。

同事務次長は86年3月にもアフガニスタン・パキスタンの両国を訪問し,双方の立場の調整を試みた。

我が国は,ソ連の軍事介入は国際法及び国際正義に反するものであり,アフガニスタン問題の解決には,(i)ソ連軍の全面撤退,(ii)アフガニスタンの政治的な独立及び非同盟としての立場の回復,(iii)アフガニスタン国民の自決権の尊重,(iv)難民の安全かつ名誉ある帰還の4条件が満たされる必要があるとの立場を機会あるごとに表明してきている。

なお,パキスタンへ流入したアフガン難民は250万人以上にも達したと言われているが,我が国は,国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)及び世界食糧計画(WFP)を通じて85年度に40億8,000万円の援助を行った。また,約180万人と言われるイランのアフガン難民に対しても,85年度に初めてUNHCRを通じて9,600万円の援助を行った。

(5)各国の情勢

(イ)エジプト

(a)ムバラク大統領は,84年に引き続き,民主化を推進し,84年5月に総選挙により選出された人民議会の権限強化,野党の育成,言論の自由の拡大等の面で成果を収めた。他方,国内治安面では85年前半はシャリーアの即時実施を巡り一部のイスラム主義者の運動が活発に行われたが,政府はイスラム過激派の大規模な取締りを行うなど,イスラム原理主義者等過激派に対する対策もおおむね成功し,国内での大きな騒動,混乱は回避された。

(b)エジプトの経済情勢は対外累積債務,経常収支,財政赤字の面で依然として厳しい状況が続いているが,85年3月のサイード経済貿易相の辞任及び9月のアリ首相の辞任も,経済政策を巡る閣内の対立も一つの原因とされている。

アリ首相の後任には経済専門家であるルトフィー・アインシャムス大学商学部長(与党NDP経済委員長)が就任した。

(c)85年前半から半ばにかけジョルダン・PLO合意の成立,ジョルダン・パレスチナ合同代表団と欧米諸国との対話の可能性の模索,中東和平に関する国際会議開催のための努力等ムバラク大統領及びフセイン=ジョルダン国王を軸とする中東和平への動きが活発化したが,85年後半にはイスラエルによるPLO本部爆撃事件(10月)を始めとして一連の武力行使,テロ事件が発生し,中東和平問題を巡る環境は悪化した。

(d)対米関係では10月アキレ・ラウロ号乗取り事件に際し米軍機によるエジプト航空機強制着陸事件が発生し,エジプト国内には一時反米感情の高まりが見られた。ソ連との関係では,貿易委員会の開催,貿易協定の締結等の動きが見られた。

(e)イスラエルとの間では,タバ問題を巡る交渉が再開されたものの地域情勢の変化に伴い一進一退を続けた。

(ロ)シリア

(a)85年3月をもって就任15周年を迎えたアサド大統領は,84年後半以降心配された健康も回復し,85年2月には国民投票により99.97%の支持を得て再選(任期7年)された。

(b)また4月に成立した第3次カセム内閣は,行政改革,腐敗の一掃,経済問題への積極的取組みを推進しており,85年を通じシリア内政はほぼ平穏に推移した。

(c)しかし経済面では石油価格の下落に伴う出稼ぎ労働者からの送金の減少,産油国からの財政援助の低下により,農・工業とも生産が伸び悩む一方で,外貨準備の不足が深刻化しており,9月以降物価の急騰,物資の入手難が伝えられている。

(d)外交面では85年もレバノン政府の要請に応じて引き続きシリア軍をレバノン内に駐留させる一方,12月にはレバノン内のアマル等民兵三派による「ダマスカス合意」をまとめ上げるなど,レバノン情勢の安定に向け努力を継続した。また中東和平に関しては2月のフセイン・アラファト合意以降活発化したジョルダン等のアラブ穏健派による和平への動きに強く反発している。

(e)近隣諸国等との関係ではサウディ・アラビアの仲介もありジョルダンとの関係改善が進められ,12月にはダマスカスでアサド・フセイン会談が行われたが・PLOについては82年以来対立を強めているアラファト議長との関係は依然として改善されなかった。またイラン・イラク紛争についてはシリアは引き続きイランを支援しておりイラクとの緊張関係は解消されなかった。

(ハ)ジョルダン

(a)現体制はフセイン国王の個人的魅力及び現実的かつ着実な政策により,広く国民的支持を得て,85年も内政は比較的平穏に推移した。

(b)また85年4月には,オベイダード内閣に代わってリファイ内閣が成立し,国内経済の立て直しのため自由化による国内経済の再活性化を進めている。

(c)外交面では,85年2月11日のフセイン・アラファト合意成立以降,フセイン国王は和平に向けPLOとの共同活動の可能性を探究し,米国,エジプト等と精力的な話合いを行った。しかし,かかるジョルダンの努力にもかかわらず,和平を巡る米・PLO間の意見の相違を解消するには至らず,86年2月19日フセイン国王はPLOが信頼性と一貫性を回復するまでPLO指導部との政治的調整は行い得なくなった旨表明した。

(d)79年以降関係が悪化していたシリアとの関係は,85年8月以降サウディ・アラビアの仲介により改善に向け動き出し,12月30日にはフセイン国王がシリアを訪問し,アサド大統領らと会談を行った。

(ニ)リビア

(a)内政面では,カダフィ大佐の体制が引き続き維持されたが,85年もカダフィ大佐暗殺未遂事件が伝えられたほか,11月には同大佐の有力側近殺害事件が起きるなどの不安定要因も見られた。

(b)また86年2月には国会に相当する全国人民会議が開催されたが,その際全国人民委員会(内閣)の首相格,外相格書記等が更迭されるとともに,従来22あった書記(閣僚)のポストも統廃合により11に削減された。

(c)外交面では,アラブ・アフリカ地域での孤立が一層深まっており,特に85年8月にはリビアがチュニジア人労働者を強制的に追放したため,翌9月にはチュニジアが同国との外交関係を断絶した。

(d)またチャード紛争については,引き続き反政府軍を支援しており,86年2月には,チャード政府軍及びこれを支援する仏軍とリビア軍との間で戦闘が再発した。

(e)従来より事実上断交状態にあった米国との関係は86年1月米国が対リビア制裁措置を発表したことにより一層悪化し,さらに3月にはシドラ湾において米国との間に戦闘が発生した。

(f)経済面では石油価格低下に伴う国家収入の減少により,81年から開始された5か年経済開発計画は大幅に縮小され多くの開発プロジェクトが延期又は中止された。

(ホ)スーダン

(a)85年4月のクーデターにより,ダハブ将軍を議長とする暫定軍事評議会(TMC)が実権を握り,ニメイリ前大統領失脚の重要要因であった経済問題の解決を目指したが,その後公布されたスト禁止令にもかかわらず労働者による賃上げ・待遇改善要求ストの続発が伝えられた。

また南部地域では,スーダン人民解放戦線(非イスラム系南部黒人組織)の反政府攻勢が続いている。

(b)外交面では,85年6月下旬モハメド=スーダン国防相のリビア訪問に際しリビアとの軍事取極が締結され,また7月にはダハブTMC議長のエティオピア訪問が行われた。一方エジプトとの関係では85年10月ダハブTMC議長がエジプトを訪問し,今後ともエジプトとの統合を推進していきたい旨表明した。

米国との関係は85年11月米国政府がリビア人を主とするテロリストの存在を理由に米国人の旅行制限を行うなど必ずしも円滑ではなかった。

(c)経済面では,多額の債務返済に絡んで,85年12月中旬IMFから破産国として宣告するとの警告を受け,86年2月には新規融資の資格を停止された。これに対してTMCは同月末,財政支出と通貨供給の削減,為替レートの切り下げなどからなる経済政策を決定した。

(ヘ)トルコ

(a)国内治安はその後も徐々に回復し,83年12月の民政移管時に全県(67県)に施行されていた戒厳令は85年末には9県を残し解除された。

なお人民党は社会民主党と合併し社会民主人民党と改称したほか,野党側に新党結成の動きが見られた。

(b)対外関係では西欧諸国との関係に改善が見られたほか,近隣諸国のみならず,米国,アジア諸国等とも積極的な交流が図られた。なお近隣諸国との関係では新たにブルガリアとの間に同国に居住するトルコ系住民問題を巡り対立が生じた。

(c)経済面では85年1月に付加価値税の導入を図るとともに,外資の積極的導入を図るためフリー・トレード・ゾーン法が制定された。また,国際収支の面では輸出の伸張,観光収入の増大等もあり経常収支は対前年比かなり改善された。しかしインフレ率は当初目標の25%を大きく上回る45%前後に達したものと見られ,また対外債務残高も借入れなどの増大により224億ドルに増大した。

(ト)イスラエル

(a)84年9月成立した挙国一致内閣は,内外に多くの課題を抱えながらも一応の成果を収めた。すなわち85年1月レバノンからの撤退を決定し,その結果同6月初めにはイスラエル軍は南部レバノンの一部を除き撤退を完了し,また経済面においても段階的に緊縮政策を実施し,7月の緊縮措置の結果インフレは急速に収束されつつある。

(b)中東和平に関しては依然としてPLOとの交渉を拒否しているが,85年11月にはペレス首相がジョルダンとの直接和平交渉を呼びかけ国際フォーラムの支援を得て直接交渉を開始する用意がある旨明らかにした。またエジプトとはタバ交渉を継続し,一時イスラエル軍によるPLO本部爆撃等により中断されたにもかかわらず,その後も交渉は続けられている。

(c)このほかアジア,アフリカ,東欧諸国との関係改善にも積極的に取り組み,12月には象牙海岸との外交関係再開に合意した。また86年1月にはスペインとも外交関係を開設した。

(d)経済面では7月に財政支出の削減,物価・賃金の凍結を中心とする第4次緊縮措置を実施した結果,それまで年率400%以上であったインフレは急速に収束に向かい,8~12月のインフレ率は年率37.7%にまで下落した。なお9月4日デノミが実施された。

(チ)アルジェリア

(a)84年11月に再選されたシャドリ大統領は,85年もその堅実かつ現実的な政策を引き続き維持し,その内政はおおむね平穏に推移した。

また同大統領は,86年1月,76年採択された国民憲章を改正し,従来の重工業偏重政策を改め,軽工業,農業水資源開発の促進及び私的産業部門の積極的育成による民生の安定,向上を重視する政策を打ち出した。

(b)外交面でも,シャドリ大統領は85年4月には大統領として初めて米国を公式訪問するなど従来以上に東西にバランスのとれた現実的外交を推進した。

また近隣諸国との関係では,西サハラ問題を巡り76年以来外交関係を断絶しているモロッコとの関係回復の兆しは見られなかったが,テュニジアとは,85年8月リビアが在りビア・チュニジア人労働者を追放した際,アルジェリアが政治,経済面でチュニジアを強く支援したこともあり,二国間関係がますます強化されている。

(c)また85年には,今後5年間の年平均GDP成長率を6.6%,その投資総額を5,500億ディナールとすることを目指した第2次5か年計画が開始された。

(リ)チュニジア

(a)内政は,83年末の食糧暴動事件以後は比較的平穏に推移していたが,85年8月労働者の賃上げ問題を巡り,政府と労働総同盟の対立が表面化し,さらに同時期,リビア政府により3万人以上にも上る在リビア・チュニジア人労働者が追放されるなど不安定要因も幾つか見られた。

(b)外交面では,非同盟,東西等距離外交を基本としつつ米国とも良好な関係を有しており,85年10月のイスラエルによるPLO本部爆撃事件以降も86年3月ブッシュ副大統領がテュニジアを訪問するなど米国との友好関係は維持されている。

また近隣諸国との関係では,リビアによるチュニジア人労働者追放事件を契機に,85年9月には,同国との外交関係を断絶するに至った。

(c)経済面では,リビアのチュニジア人労働者追放による3万3,000人の失業者の増加,移民送金の減少,石油グラットに伴う外貨収入の減少等にもかかわらず,農業,軽工業,手工業及び観光等の伸びもあり,経済成長率は,当初見込みの3.5%を上回る4.5%を達成し,また国際収支も改善された。

(ヌ)モロッコ

(a)85年4月にラムラニ内閣の改造が行われたが,内政は比較的安定的に推移した。

(b)外交面では,西側寄りの現実,穏健路線を基調としつつも,西サハラ問題については,従来の反ポリサリオの立場を維持しており,85年10月には,国連総会で,アルジェリア決議案が採択されたのを契機に,今後国連における西サハラ問題の審議には参加しない旨発表した。

(c)経済面ではIMFの勧告に従い,緊縮財政,輸出促進等の諸策をとり,経済再建に取り組んでおり,また天候の回復により農業生産も回復しているが,累積債務問題は依然解消されず,85年9月パリ・クラブに対し,第2次債務繰延べ要請を行った。

(ル)アフガニスタン

(a)依然として11万ないし12万のソ連軍の駐留が続いており,国内のアフガン現政権・ソ連軍と反政府ゲリラ側の戦闘が継続し,数百万人にのぼる難民の流出,国内経済の疲弊という事態に改善の兆しは見られない。

現政権内部にはまた,パルチャム派とハルク派の派閥抗争という問題も存在している。85年4月には革命後初めてのローヤ・ジルガ(国民評議会)を開催するなど国内における支持基盤拡大の試みがなされたが実効はあがっていない模様である。

(b)現政権は非同盟主義を標榜しているものの,実際にはあらゆる面でソ連に大きく依存している。

(ヲ)イラン

(a)内政面では,85年11月最高指導者ホメイニ師の後継者としてモンタゼリ師が選出され,将来にむけての現指導体制の基盤固めがなされた。

また大統領選においてハメネイ大統領が再選され,引き続いて同大統領の下ムサビ首相が再任された。全般的に反体制運動の活動にも特に大きな動きはない。革命後6年間でも相対的に安定した年であった。

(b)外交面では近隣諸国,西側諸国との関係改善にむけ積極的な活動が展開された。西側との要人往来ではラフサンジャニ国会議長の訪日(7月)が注目された。またフランスとの関係でイラン国会議員団の訪仏(12月)等関係改善の動きが見られた。さらに湾岸諸国との二国間関係でもサウド=サウディ・アラビア外相のテヘラン訪問(5月),ヴェラヤティ外相のサウディ・アラビア,アラブ首長国連邦訪問など注目すべき要人往来があった。隣国トルコ,パキスタンとは,従来の機構を改組した形で経済協力機構が設立(1月)されたほか,ムサビ首相のトルコ訪問(1月),オザル=トルコ首相のイラン訪問(86年1月),ハメネイ大統領のパキスタン訪問(86年1月)などの交流があった。

シリア,リビアのアラブ強硬派とは数度にわたる外相会議(1月,8月,12月)などを通じ緊密な関係が続いた。

(c)経済面では84年に引き続き一般予算(85年)の約3割を戦費に充当し,開発投資を抑制した内容の継戦重視型予算が組まれた。石油収入については同予算においては203億ドルと見込んでいるが,ペルシャ湾におけるタンカー攻撃,あるいは石油市況の軟化等により計画どおりの収入確保には厳しい状況にある。戦時体制等に伴う外貨準備の制約もあり,輸入物資を厳しく規制している。

(ワ)イラク

(a)内政面では,北部地域でクルド・ゲリラ(特にタラバーニ派)による散発的な反政府活動はあったものの,与党バアス党を中心に軍及び治安組織を掌握するフセイン大統領の現政権は安定的に推移した。しかし経済的には,85年9月にサウディ・アラピァ経由のパイプラインが完成したものの,石油価格の低下のために大幅な石油収入の増加は見込めない状況にあり,戦時経済下の同国としては苦しい経済運営を強いられた。

(b)外交面では,汎アラブ,非同盟,反シオニズムを基本方針としつつイランとの紛争遂行を背景に引き続き穏健アラブ諸国,ソ連,西側諸国との関係拡大に努めた。要人往来の面ではムバラク=エジプト大統領,フセイン=ジコルダン国王のイラク訪問(3月)があったほか,12月にはフセイン大統領が7年振りにソ連を訪問し,注目された。右訪問は対イラン紛争開始後初めての非アラブ国への訪問でもあった。なおリビアとは外交関係を断絶した(6月)。

(c)我が国との関係ではアジーズ外相の訪日(85年3月)があったのに続き,安倍外務大臣はジョルダン(7月)・国連(9月)においても同外相と会談,我が国とイラクとの間でハイレベルの対話が続けられた。

(カ)サウディ・アラビア

(a)ファハド政権は,引き続き有力王族,部族,宗教界長老との頻繁な接触及び国民との対話を通じた慎重な政策運営を行い,小規模な爆弾テロ事件はあったものの,内政政情は安定していた。

(b)外交面では,サウド外相のイラン訪問(85年5月),ヴェラヤティ外相のサウディ・アラビア来訪(12月)等を通じ,イランとの対話の動きが見られた。また同国はシリア・ジョルダン間の和解を実現する上で少なからぬ役割を果たした。

(c)サウディ・アラビアは長年にわたりOPECの盟主としてスウィングプロデューサーの役割を演じてきていたが,同国の石油収入の減少を背景にかかる役割を放棄する政策に転じた。また,原油販売にあたっては公定価格にとらわれないより市場原理を反映した価格の採用にも踏み切った。しかし,石油市況がいっそう軟化し将来の石油収入見通しが不透明な状況下,政府は86年3月,86/87年度予算の策定を5か月間遅らせる旨発表した。また,新規プロジェクトの凍結,補助金の整理,在外資産の取り崩しなどを通じ財政の見直しを実施しようとしている。

(ヨ)クウェイト

(a)クウェイト市内においては新聞社編集長の暗殺未遂事件(4月),ジャービル首長暗殺未遂事件(5月),市内カフェでの爆破事件等,相次いでテロ事件が発生した。このため政府は反破壊活動法の制定,外国人の強制国外退去の実施,新身分証明書制度の導入を行うなど,一連の治安強化措置をとった。

(b)対外面では,イラン・イラク紛争の継続がクウェイトの安全にとり脅威となっており,クウェイトはその早期解決を希望している。この観点から,2月にはサバーハ外相がシリア,イラクを訪問,続いて3月にはイラク,アルジェリアを訪問した。また,10月には国連総会の場においてヴェラヤティ=イラン外相やシュルツ米国務長官とも会談した。

(c)85年度も石油収入の減少により4年連続の赤字予算となった。このため政府は現在,公共料金の値上げ,企業に対する課税を検討しており,またシリア,ジョルダン,PLOの拒否戦線諸国向け援助の削減を決定するなど,財政の改善のため種々の措置を講じてきている。

(タ)アラブ首長国連邦

(a)内政面では大きな事件もなく平穏であった。その中でシャルジャ,ラッセルハイマの北部首長国が,ガス田よりの収入等で経済的自立の道を歩み始めたことが注目された。

(b)外交面では11月のソ連との外交関係樹立が注目される。また対アラブ諸国外交については8月,モロッコで開催された緊急アラブ・サミットにおいて同国はイラクとリビア及びPLOとリビアの和解を担当する委員会のメンバーに選出された。イラン・イラク紛争については,引き続き早期解決を求める姿勢を示している。

(c)同国は83年度,84年度に続き,3年連続で赤字予算を組んでいる。

また歳出圧縮に起因する新規プロジェクトの削減等経済引締めの傾向が続いた。

(レ)オマーン

(a)内政面では,85年11月,元首を含む55か国の代表の参列を得て,国王即位15周年記念式典を成功裡に挙行し,国内開発の進展振りを内外に示した。また体制基盤の強化のため,引き続き,行政組織の改善を図る一方で地方の開発にも力を入れるとの姿勢を打ち出した。

(b)外交面では,85年9月,突如ソ連との外交関係の樹立を発表したことが注目された。また,10月には南イエメンと大使を交換し82年以来の国交正常化のプロセスを完了した。さらに11月,第6回GCC首脳会議を主催した。

(c)原油価格の下落に対し,原油増産を図った結果同国の石油収入は前年より増大した。これを背景に,開発投資中心に政府支出が増加し,経済は比較的順調に運営された。また,第2次5か年計画は所期の目標を達成して終了し,第3次5か年計画の概要が国王により承認された。

(ソ)カタル

(a)石油収入の低下はカタル経済の先行きに影響を及ぼしているが,ハリーファ首長の施政は広く国民の支持を得ており,体制は安定している。

(b)外交面では,サウディ・アラビアを始めとするGCC諸国との善隣友好関係の維持・強化に努めた。またイラン・イラク紛争等の問題については,GCC,アラブ連盟,OIC,国連等を通じた調停努力を積極的に支持するとの立場にある。

(c)85年の平均原油生産量は前年比25%減の約30万B/Dにとどまり,85年度の予算は歳入が97億リアル,歳出は170億リアルであり,赤字幅はここ数年のうちでは最も厳しい状況となった。

(ツ)バハレーン

(a)同国はシーア派教徒が全人口の7割強を占めるとの複雑な宗教事情を有してはいるものの,イサ首長,ハリーファ首相を始めとする王族首脳陣による堅実な政策運営により内政面では全般的に平穏であった。

(b)外交面では,従来よりの親欧米ラインを基調としつつも,最近ではアジア,大洋州方面へも目を向け始めるなど,外交の幅を広げる努力を行っている。

(c)経済面では,金融関係企業の誘致に力を注ぐ一方,GCC関連プロジェクトの自国への誘致に努力している。

(ネ)南イエメン

(a)85年2月,ムハンマド大統領が兼務していた首相職を離れアッタース首相の下に新内閣が成立した。また,3月には80年4月辞任したイスマイル前書記長が亡命先のソ連から突如帰国し,10月のイエメン社会党党大会でイスマイル前書記長が政治局員兼書記に復帰して注目された。こうした中で86年1月13日ムハンマド大統領とイスマイル政治局員,アンタル第一副首相等反大統領派の間で内紛が勃発,10日余にわたる激しい市街戦の末,反大統領派がアデンを制圧し新政権を樹立した。

(b)2月8日発足したアッタース大統領,ノーマン首相,アルベード書記長による新体制は,親ソ路線を維持しつつも前政権同様,近隣諸国との関係改善政策を進める旨表明している。

(ナ)北イエメン

(a)内政面では,サーレハ大統領の下で政権は安定的に推移した。また,地方協力促進評議会及び国民全体会議のメンバーが初めて選挙を通じて増員されるなど国民が政治参加の基盤を整備する動きも見られた。

(b)外交面では,同国は積極的中立主義を標榜してきているところ,ソ連,EC,サウディ・アラビアそしてフランスと合同委員会を開催(それぞれ2月,3月,5月,10月)するなどの外交活動を展開した。

また,12月には,南イエメンと合同閣僚委員会を開催した。なお,86年2月に樹立された南イエメン新政権との関係については,慎重ながら友好的関係の構築を探っている。

(c)同国は,出稼ぎ労働者の送金額減少により厳しい経済情勢に直面しているが,84年7月からマーリブ油田が1万B/Dの生産(確認埋蔵量3億バーレル)を開始したことは経済的には明るい材料として注目される。

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