第6節 ソ連・東欧地域

1.ソ連・東欧地域の内外情勢

(1)ソ連

(イ)内政

(a)85年3月,ゴルバチョフ政権が誕生し,ソ連はブレジネフ時代後期以来ほぼ10年振りに漸新かつダイナミックな指導部を持つに至った。

(b)ゴルバチョフ書記長の内政課題は,人事の刷新と経済の活性化であり,書記長就任以来1年間を費してかかる課題に取組み,86年2~3月の第27回党大会において2000年に至る「ゴルバチョフ路線」の策定にほぼ成功したものと見られる。

(c)すなわち,人事政策の面では5名を政治局員(リガチョフ-イデオロギー担当,ルイシコフ-首相,チエブリコフ-KGB議長,シェヴァルナッゼ-外相,ザイコフ-軍需産業・経済担当)に,5名を政治局員候補(ソコロフ-国防相,エリツイン-モスクワ市第一書記,タルイジン-ゴスプラン議長,ソロヴィヨフ-レニングラード州第一書記,スリュニコフ-白ロシア第一書記)に,さらに7名を書記にそれぞれ抜てきして,党,国家最高指導部において自己の政権基盤をほぼ確立し(この間に最大のライバルであるロマノフ政治局員兼書記,ブレジネフ時代の旧幹部であるチーホノフ前首相及びグリシン前モスクワ市第一書記を解任,グロムイコ前外相を最高会議幹部会議長に祭り上げ),中堅レベルにおいても党大会において中央委員の約40%を自派で固めるとともに,連邦大臣クラスの約半数及び地方・州第一書記の3分の1近くを入れ替えて自派の勢力を滲透させることに成功している。

(d)ゴルバチョフ書記長は政策の面では党大会において新党綱領(25年振りの改訂),改正党規約,第12次5か年計画及び2000年までの経済社会発展基本方向の各重要文書及び右を踏まえた政治報告において中・長期路線を打ち出した。その主たる目標は2000年までに科学技術発展をてこに生産力と国民所得を倍増することにより,国民の生活水準の抜本的向上を図ることであり,そのために「ラジカルな経済改革」の実施をうたっている。

現在までのところ,実際の施策の面では党の指導力の回復と並行して(i)反アルコール・キャンペーンを中心とした規律強化,(ii)ゴスプラン,工業・農業分野の管理機構の行革,(iii)農業・サービス分野における部分的な私企業経営的実験(家族経営・請負)等が行われている。

(e)しかしながら,ゴルバチョフ政権発足以来予想を上回るテンポで人事刷新が行われ,また次々にゴルバチョフ・スタイルの政策が展開されてきたものの,依然としてソ連の既成党・国家官僚グループの抵抗と,ソ連国民の消極的姿勢は根強いものがあり,ゴルバチョフ政権1年目の実績から見る限り,本当の意味での人事と政策の基礎固めのためには,少なくとも86年から始まった第12次5か年計画の全期間が必要となろう。

(ロ)外交

対外政策面でのゴルバチョフ政権にとっての最大の課題は依然として対米関係の再構築であり,5か月間の核実験の一方的モラトリアムを発表するなど,ソ連の「平和的意図」を大々的に内外に示すことによって,軍拡か緊張緩和かの選択を迫る形で米国を始め西側諸国の世論に揺さぶりをかけ,反戦・反核運動の盛り上がりを期待するとともに,軍備管理・軍縮交渉における,特にSDIについての何らかの譲歩を米側に強いる作戦をとっていることがうかがわれる。

(a)対米・対西欧関係

84年9月のグロムイコ外相の訪米以来,ソ連は西側に対する対話を中心とした「平和攻勢」路線に移行し,85年1月のグロムイコ・シュルツ会談を経て,米ソはジュネーヴにおける軍備管理・軍縮交渉のテーブルに着くこととなり,86年3月にはその第4ラウンドが終了した。

85年11月にはジュネーヴで米ソ首脳会談が行われたが,実体面についての歩み寄りは見られなかった。しかし,同会談においては,曲がりなりにも共同発表が行われ,次回以降の首脳会談の目途を設定したことは交渉を促す方向に働くものと見られた。

西欧諸国との関係については,ゴルバチョフ政権登場後,「対米関係のプリズムのみを通じて世界を見るべきでない」あるいは「共通の家」たるヨーロッパといった表現,さらにはコメコンとECとの関係樹立作業の再開という形で西欧重視の姿勢を強調したが,これとても米欧分断の途を探り,対米ポジションの強化を図るという考慮に基づくところが大と見るべきであろう。ゴルバチョフ書記長が米ソ首脳会談に先立って,SDIを巡って米に批判的なフランスを訪問した(85年10月)こともこの文脈において評価すべきであろう。

(b)対東欧関係

東欧ブロックの支柱であるワルシャワ条約が85年6月期限切れを迎えることとなるので,同年4月ゴルバチョフ書記長は同条約加盟諸国首脳をワルシャワに集めて同条約の延長議定書調印を行った。これにより従来同様,ワルシャワ条約は今後20年(自動延長期間は更に10年)機能し続けることとなった。

10月には米ソ首脳会談を前にしてソフィアにおいて同条約最高機関である政治諮問委員会が開かれ,東欧ブロックの団結を誇示した。米ソ会談直後,ゴルバチョフ書記長は再度ワルシャワ条約諸国首脳のプラハヘの参集を求め,米ソ会談の結果を通報するとともに,支持を取り付ける措置をとった。

(c)対アジア関係

中国に対しては関係改善を呼びかけており,外務次官級の政治協議は86年4月までに8回行われたほか,85年12月のゴルバチョフ・李鵬会談,86年3月のアルヒポフ第一副首相の訪中等に見られるごとく,人的交流,貿易は引き続き拡大の傾向にある。

しかし,中国側の要求する3条件に対してはソ連側が譲歩の姿勢を見せていないこともあり,関係改善には自ら限度が予想される。

ソ朝関係においては85年4月の金永南外相,12月の姜成山総理の訪ソ,8月の朝鮮解放40周年記念式典へのアリエフ第1副首相の出席等,一定の進展が見られたほか,86年1月には北朝鮮はシェヴァルナッゼ外相のアジアの社会主義国の最初の訪問先となり,同訪問に際しては「見解の完全な一致」が強調された。

ゴルバチョフ書記長は85年5月のラジーブ・ガンジー=インド首相訪ソの機会にいわゆる「アジア安保構想」を打ち出し,その後も機会あるごとに右構想を提唱しているが,右はアジア・太平洋地域の重要性の高まりが予想される状況の下で,この地域に対する「正当な」国際的に承認された関与の場を作ることを狙っているものと考えられる。

(d)対中東関係

ソ連は引き続き中東和平については国際会議方式を提唱している。

85年にオマーンとの外交関係樹立,12月にアラブ首長国連邦との外交代表交換についてそれぞれ合意したことにも見られるとおり,湾岸アラブ穏健派諸国への接近に意を用いている。

アフガニスタン問題に関するソ連の立場には変化は見られない。

(e)その他の地域

中南米ではニカラグァ支援,キューバとの関係強化(シェヴァルナッゼ外相の85年10月のキューバ訪問は11年振り)が主なる動きであり,アフリカについてはエティオピア,アンゴラ,モザンビークとの関係強化が図られたと見られる。

(ハ)経済

(a)85年3月,チェルネンコ書記長死去後,ゴルバチョフ政権が誕生し,同政権は基本的には従来の経済政策を踏襲する方向性を打ち出したが,次第にゴルバチョフ流施策というものが看取された。すなわち,(i)科学技術の抜本的促進をてことする「質と効率」の経済,又は経済の集約化を図ることを最重要課題に据え,(ii)現在の中央集権的管理システムの枠組を出るものではないが,「抜本的な改革」の必要性を強調して,企業・コルホーズ等の自主性強化,計画作成方法の改善,機構改革,財政政策と価格政策の弾力化等によって経済管理システムの改革を推進せんとし,(iii)右経済的諸措置と並んで,経済活性化を図るための基盤として,規律強化,人事刷新,反アルコール・キャンペーン等いわば政治的・社会的諸措置をも同時平行的に進めながら旧来からの惰性の打破をねらっているなどの点がゴルバチョフ流施策の一つの特徴といえよう。

他方,今後のソ連経済がどれだけ活性化していくかは,旧来のシステムの惰性,既得権益層の抵抗が存在する中で,これらゴルバチョフ流改革路線がどれだけ実行され,功を奏していくかにかかっているものと見ることができる。

(b)85年のソ連経済は,厳冬のために,第1四半期の工業生産は対前年同期比2%増と,スタートは順調ではなかったが,その後しり上がりに伸びていったものの,農業生産が振るわなかったことも影響して,結局国民所得は年度計画目標3.5%を達成し得ず3.1%にとどまった。ただし,工業生産は計画目標3.9%増を果たした。他方,85年は第11次5か年計画期の最終年であるところ,同5か年計画は未達成に終った。

85年における鉱工業分野での計画未達成品目としては,石油,圧延鋼材,化学肥料,合成樹脂・プラスチック,化学繊維,化学機械,石油関連機器,木材,セメント,テレビ等が挙げられる。

石油は,83年の6億1,600万トンをピークに下降傾向にあるところ,85年もこの傾向を食い止められないまま遂に6億トンの大台を割った。

かかる石油生産の停滞はソ連の対西側石油輸出量の削減をもたらし,最近における石油価格の下落問題とともにソ連は外貨収入面で苦境に立たされることとなった。

他方,天然ガスは対前年比9%増で好調が続いている。

農業は依然不振であり,農業総生産はゼロ成長に終った。

(c)第27回党大会において採択された「第12次5か年計画及び2000年までの経済・社会発展基本方向」によれば,2000年までに国民所得及び工業生産の倍増計画が打ち出されている。右目標の実現は,ゴルバチョフ書記長が目指している経済改革がどれだけ実行され,経済活性化をもたらすかにかかっているものといえるが,近年におけるソ連経済の実績及び現状からみてその前途は多難であり,楽観は許されないものと思われる。

(2)東欧地域

東欧諸国の国内情勢は,ポーランド情勢もほとんど正常化し,各国の政権も安定している。ルーマニア(84年11月)を皮切りにハンガリー(85年3月),チェッコスロヴァキア(86年3月),ブルガリア(同4月),東独(同4月)において相次いで5年に1度の党大会が開催されているが,各国党指導部に大きな変更はなく,政策面でも,85年3月に誕生したソ連ゴルバチョフ政権の政策動向を睨み,自国経済の活性化を強調しつつも,基本的には従来の路線を踏襲した政策を打ち出している。85年4月にはワルシャワ条約首脳会議が開催され,同年6月をもって期限切れとなる同条約の期限延長を定める議定書が調印された。

85年の東欧諸国の経済は,冬に大寒波,夏に大旱ばつに見舞われたこともあり,計画成長率を達成したのは東独,チェッコスロヴァキアの2か国のみであり,83年から見られた経済回復傾向に早くも陰りが見え始めた。

(イ)ワルシャワ条約(WP)諸国

(a)ドイツ民主共和国(東独)

(i) 内政面では,ホネカー政権は86年4月に第11回党大会を迎えたが,85年11月の党首脳部の一部人事異動等により一段と安定度を増した。歴史の再評価も継続して行われており,85年には楽聖バッハ,ヘンデル生誕300年祭が盛大に祝われた。

(ii) 経済面では,85年の経済成長は同年初めの厳寒の影響もあり84年ほどではなかったものの計画(4.4%)を上回る4.8%の好成績を収め,穀物収穫量も84年を上回る史上最高を記録した。貿易収支も黒字を続け,対外債務も更に減少した。

(iii) 外交面では,ホネカー議長はゴルバチョフ政権登場後の5月にいち早く訪ソするなど,対ソ関係の修復,強化に努めるとともに,対西側対話政策も引き続き積極的に推進し,特に4月に行われた同議長のイタリア訪問は東独元首として初のNATO加盟国訪問であった。両独関係では,ホネカー議長の西独訪問が依然として懸案であるが,86年2月には東独最高首脳の一人ジンダーマン人民議会議長が西独を訪問した。

(b)ポーランド

(i) 85年10月13日,戒厳令導入以後初めての国会選挙が実施された。

同選挙においては,反体制グループの選挙ボイコットの呼びかけにもかかわらず投票率が公式発表では78%を超え,国内情勢の正常化が達成されつつあることを内外に示した。

(ii) 上記国会選挙結果を踏まえ,11月にはヤルゼルスキ党第一書記が兼任していた首相職をメスネル第一副首相に譲り自らは国家評議会議長に就任するなどの主要人事異動が行われた。この異動により,ポーランドの最大の課題である経済困難に取り組むための実務内閣が成立するとともに,ヤルゼルスキ党第一書記は86年6月の党大会に向けて党務に専念することとなった。

(iii) 外交面では,ヤルゼルスキ首相の国連総会出席(85年9月),訪仏(同12月)等に見られる対西側諸国との交流が84年に引き続き活発化した。社会主義諸国とは4月のWP首脳会議開催(ワルシャワ)等を通じ一層の関係緊密化が図られた。

(iv) 経済面では,85年は全般的な回復基調が維持され,約3%の成長率を記録したものの,累積債務問題では,対西側累積債務総額が85年末には293億ドルに増加し,ポーランド経済の回復にとって大きな重荷となっている。

(c)チェッコスロヴァキア

(i) フサーク大統領は85年5月再選され,また,86年3月に開かれた第17回党大会での人事においてもフサーク書記長以下の指導部に変更はなく,フサーク体制の継続が確認された。

政情は表面上安定しているが,85年7月に挙行された聖メトデュウス没後1,100年祭では当局の予想を上回る市民が集まり,現体制への不満を叫ぶなど,国民の間に根強く存在する鬱屈した心理が改めて露呈された。

(ii) 経済面では,85年は計画を僅かに上回る3.3%の成長率が記録された。しかしながら,硬直的な経済メカニズム,科学技術・設備投資の立ち遅れなどの問題は依然深刻であり,党大会で打ち出された長期経済政策においてもかかる問題に対する抜本的な解決策は示されていない。

(iii) 外交面では,従来どおりソ連との協力関係に重点を置いた政策がとられた。ただし,沈滞した経済の活性化のため西側諸国と資本・技術協力を促進する動きも見られている。

(d)ハンガリー

(i) 85年6月に行われた総選挙は,全選挙区(352区)に完全複数立候補制を導入して行われ,愛国人民戦線推薦候補でない候補24名が当選した。また複数区とは別に,党幹部,少数民族代表,学術・文化関係者等35名より成る全国区が新設され,単一リスト方式に基づいて投票が行われ,全員が当選した。

(ii) 経済面では,一貫して経済改革路線が推進されているが,85年は不振であり,東欧諸国中唯一マイナス成長(国民所得-1.0%)を記録した。

(iii) 外交面では,85年9月カーダール書記長が訪ソした際,ハンガリー側は,経済改革推進路線及び東西間の対話外交に対しソ連側の理解が得られたと評価している。西側諸国との対話外交も,カーダール書記長の訪英(85年11月),シュルツ米国務長官の来訪(同12月)等,相変らず活発に進められた。

(e)ルーマニア

(i) 国内政情は,チャウシェスク大統領の健康悪化説が流布されたが,表面上はさしたる波乱もなく安定している。なお,国民の生活水準は,対外債務返済のための輸出優先・輸入抑制政策等により低迷している。

(ii) 85年の国民所得は統計上では対前年比5.9%増と東欧諸国中最高であった。しかし,原油,天然ガス等の生産は前年を下回りエネルギー不足問題は深刻化している。また,厳冬,早ばつの影響を受け農業生産は不振であった。

なお,貿易収支は81年以降黒字を続けており,対外累積債務は引き続き減少した。

(iii) 社会体制の相違に関係なくあらゆる国々との友好関係を促進するとのチャウシェスク大統領の外交方針は85年も堅持され,引き続き活発な招待・訪問外交が展開された。

(f)ブルガリア

(i) 党・政府の大規模な人事・機構改革が行われ,86年3月には首相がフィリポフ(66歳)からアタナーソフ(52歳)に交代した。内政は基本的に安定しており,ジフコフ治政30周年に当たる同年4月の第13回党大会では,74歳の高齢ながらジフコフが引き続き党書記長の地位にとどまった。

(ii) 85年の経済は,厳冬,早ばつによる農産物の不作,水不足等の要因による電力・エネルギー危機などにより,全般的に不振で,国民所得の成長率は1.8%であった。

また86年に入り自主管理を中心とした新たな経済改革の方針が打ち出されており,統廃合された省庁を統括する「経済会議」が設置された。

(iii) 駐ブルガリア・ソ連大使がブルガリアの経済運営を批判するなど,一時ソ連との関係に冷ややかなものが見られたが,85年10月に行われたゴルバチョフ書記長の訪「ブ」以後は関係が改善されてきている模様である。12月にルーマニアと共同でバルカン非化学兵器地帯化構想を提唱した。またトルコ系少数民族政策を巡ってトルコとの関係が悪化している。

(ロ)その他の諸国

(a)ユーゴースラヴィア

(i) コソヴォのアルバニア系住民問題が長期化し,「自由主義的反体制派」の裁判の実施やその他種々の民族主義的グループの摘発が散見されてはいるが,ユーゴースラヴィアの集団輪番指導体制に動揺は見られず,内政は基本的に安定している。

(ii) 経済面では,引き続き長期経済安定化計画に基づく諸施策の実施,特に外為関係法令,銀行法,社会計画法等の改正を行って,経済困難乗り切りに努めている。西側諸国による債務救済等により鉱工業生産,国際収支の面で改善が見られたが,85年の社会総生産の実質伸び率は1%にとどまり,相変らずインフレの高進,生活水準の低下など,いまだに困難な状況が続いている。

(iii) 外交の基本である非同盟・独立路線を一貫して維持しており,85年9月のルアンダ非同盟外相会議及びその準備にも活発に参画した。また西側及び東側との間においても活発な訪問外交を展開した。

(b)アルバニア

建国以来アルバニアを指導してきたホッジャ第一書記が85年4月に死去し,後継者にはアリア人民議会幹部会議長(元首)が選出された。アリアは,ホッジャ路線を継承し,現在までのところ,内政面で目立った変化は見られない。対外的にも依然として米ソ非難を繰り返し,またユーゴーとは実務関係を維持しつつも,緊張関係は継続している。他方,近隣諸国,西側諸国及び中国等との経済を中心とする関係改善は引き続き進展しつつある。

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