第5節 西欧地域
1.西欧地域の内外情勢
(1)概観
(イ)85年は,主要西欧諸国において大きな国内選挙はなく,また,アキレ・ラウロ号乗っ取り事件を乗り切ったイタリアのクラクシ政権が戦後最長政権の記録を樹立するなど,西欧は総じて安定した政治情勢であった。
しかし,フランスにおいては,86年3月に国民議会(下院)選挙が行われ,保守陣営が僅差ながら過半数を制したため,社会党のミッテラン大統領の下で保守内閣が成立(コアビタシオン)するという第5共和制始まって以来初の事態が生じたが,今後のフランス政局の動き及びこれが欧州の政治情勢にいかなる影響を与えるかが注目される。また,英国では,86年1月,ウエストランド社の救済問題により,2人の重要閣僚が相次いで辞任したことなどのため,サッチャー首相の指導力が問われており,今後の動向が注目される。
(ロ)85年の西欧経済情勢は,総体的に着実な回復傾向を示しており,また,物価上昇率にも顕著な改善が見られるが,西独及びオランダを除いて,物価上昇率は依然高い水準にある。また,失業率は全体として高水準のまま推移しており,今後インフレを抑制しつつ,雇用を増大させるため,産業構造の硬直性の除去等経済の活性化をいかに図っていくかが西欧各国の重要な課題である。
(2)欧州における東西関係
(イ)北大西洋条約機構(NATO:NorthAtlanticTreatyOrganization)
85年に入って以来,ジュネーヴにおける米ソ軍備管理・軍縮交渉の開始,米ソ首脳会談の実現等それまで厳しい状況にあった東西関係に漸く改善の兆しが見られた。他方,ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の軍事力増強が継続され,特に通常戦力分野における東西の戦カインバランスはNATO劣勢の方向に拡大しつつある。かかる状況の下で,NATO諸国は緊密な協議を通じて同盟としての結束を維持しつつ,米INFの欧州配備及び通常戦力強化の努力を継続し,「抑止と対話」を二本柱とするNATOの基本政策を一貫して堅持してきた。
米INFの欧州配備は,これまでのところ計画どおり進捗している模様であり,85年3月にはベルギーが配備を開始し,同年11月にはオランダが配備を決定するなど,INFの配備に関するNATOの結束は維持されている。
また,通常戦力強化の努力は,84年以降NATOの最重要課題として一貫して継続されている。長期的には概念的軍事枠組み(CMF:ConceptualMilitaryFramework)の作成作業が精力的に進められており,短期的には通常戦力改善策(CDI:ConventionalDefenceImpro-vement)に基づき具体的な施策を推進しようとしている。また,84年12月のNATO防衛計画委員会(DPC:DefencePlanningCommittee)で決定された増援軍支援施設や弾薬備蓄の整備等による継戦能力強化策と並行して,同盟内の装備協力促進も着実に実行に移されつつある。
(ロ)欧州安全保障協力会議(CSCE:ConferenceonSecurityandCoo-perationinEurope)(アルバニアを除く全欧州諸国及び米国,カナダの35か国が参加)
83年9月のマドリッド・フォローアップ会議結論文書に基づき,欧州軍縮会議(CDE)が84年に引き続き行われたほか,85年10月には「欧州文化フォーラム」がブダペストにおいて,86年4月には「人的接触に関する専門家会議」がベルンで開催されるなど,安全保障及び人間・情報等の交流の分野でCSCEのフォローアップ活動が継続的に行われている。
また,86年11月には,ウィーンにおいてCSCEフォローアップ会議の開催が予定されている。
(ハ)欧州軍縮会議(CDE:ConferenceonDisarmamentinEurope)(参加国はCSCEと同じ,開催地:ストックホルム)
欧州軍縮会議は,84年1月から開始され,85年3月から86年3月までの間に4回の会議が開催された。欧州軍縮会議は,第1段階で信頼醸成措置につき協議し,その結果をウィーン・フォローアップ会議に報告した後,第2段階として軍縮につき協議することとなっている。
欧州軍縮会議は,85年に入って,米ソ関係を中心とした東西関係改善の兆しを反映し,また,86年11月のウィーン・フォローアップ会議への成果報告というタイムリミットもあって,合意文書草案の作成作業を行うところまで進展したものの,信頼醸成措置の具体的内容については,東西両ブロック間に依然根強い対立がある。
(ニ)中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR:MutualandBaIancedForcesReduction)(オブザーバーを含め,西側12か国,東側7か国が参加,開催地:ウイーン)
中欧相互均衡兵力削減交渉は,73年10月に第1回交渉が開催されて以来13年を経過しており,85年3月から86年3月にかけては,第36会期から第38会期まで3回開催された。
同交渉においては,対象地域(西側:西独及びベネルクス3国,東側:東独,チェッコスロヴァキア,ポーランド)及び双方の兵力削減目標(陸:70万人,空:20万人の合計90万人になるまで削減)については東西間の合意が達成されているものの,検証措置及び削減対象に装備を含めるか否か等の諸点については依然東西間で大きな意見の対立があり,今後とも難航が予想される。
(3)欧州統合問題
86年1月をもって,スペイン,ポルトガル両国のEC加盟が実現し,ECは12か国へと拡大した。近年ECにおいては,この拡大を控えて,部内の政策決定手続の円滑化や協力体制の改善等を図るためにその制度を改革することが重要な課題となってきていた。そして85年12月に開催されたルクセンブルグ欧州理事会においてその欧州統合に向けての歩みの中で歴史的ともいうべき諸改革について決定を見た。これらの決定を盛り込んだ「単一欧州議定書」(SingleEuropeanAct)が86年2月末をもって全加盟国により署名された。
改革の主要点は以下のとおり。
(i) 域内市場については,92年末までに財,人,役務及び資本の自由な移動を確保し,国境のない領域たる域内市場を完成するための措置を定めることに合意。このため,ローマ条約の市場関連の条文の幾つかについて理事会での政策決定手続を現行の全会一致制から特定多数決制とするよう改正する。
(ii) ローマ条約に新章を挿入。経済通貨政策の収斂を目的とする協力,EC域内の経済格差是正,EC域内の研究技術開発活動の組織的勧奨,環境保全の推進等を明記。
(iii) 欧州政治協力について,EC諸国がECの枠組みを活用して事実上行ってきたEC外相協議等を,「外交政策に関する欧州協力条約」として正式に認知。また,このためにブラッセルに事務局を設置。
(iv) 「単一欧州議定書」を採択。EC諸国間の関係全体をヨーロッパ・ユニオン(欧州連合)に移行させる意思を確認している。さらに欧州理事会を制度化し,かつ,前述のローマ条約改正と欧州政治協力条約とを統合することを規定。
(4)各国の情勢
(イ)ドイツ連邦共和国(西独)
(a)85年の西独内政は好調な経済情勢を背景におおむね安定的に推移した。同年前半に行われた3つの州議会選挙のうち,連邦最大与党のキリスト教民主同盟は2州において敗北を喫し,一時的にはコール連邦政権に対する支持率の低下も見られたが,その後の野党側の盛上がりも欠け,また連立与党である自由民主党が過去数年来の退潮傾向を脱したこともあって,秋以降コール政権は安定度を強めた。85年後半に入ると,政局は87年1月に予定される次期連邦議会総選挙に向けての動きが活発になったが,与党間には次期総選挙も現体制で臨むとの点で意見の一致をみている。なお,86年2月及び3月,コール首相に対し,政党不正献金問題に係る偽証罪の疑いで2件の刑事捜査が開始され,現政権の安定ムードに影をさす結果となっており,捜査の成行きが注目されている。
(b)西独経済は83年以降引き続き安定回復基調で成長を続けており,85年は成長率2.4%を達成,消費者物価上昇率は2.2%と一層の落ち着きを示した。86年に入ると原油価格の大幅低下があり,経済見通しは一段と明るいものとなっている。輸出は85年も依然好調で,貿易収支,経常収支とも史上最高の黒字となったが,マルクの対ドル・レート上昇に伴い輸出の伸び率は徐々に鈍化している。他方,民間設備投資は堅調な伸びを見せ,個人消費も86年の所得税減税等の効果で一層の伸びが期待されることから,景気の主導力は外需から内需へ移行しつつあると見られている。
残る最大の課題である失業問題については,人口構成等の構造的問題をも背景として依然失業者数200万人を超える高水準で推移しており,その取扱いは87年総選挙を控え政治的争点の一つとなっている。
(c)コール政権は外交政策においては米国との関係緊密化を中心とする西側同盟諸国との強固な関係に立脚しつつ,ソ連・東欧諸国との対話路線の維持発展に努めている。米国との間では,注目されたSDI研究計画につき85年4月西独政府として基本的支持を表明し,政府部内に意見対立があったものの,86年3月には西独民間企業の同研究参加のため米国との間にSDI取極を締結するなど,対米協調重視の姿勢が貫かれた。他方コール政権は欧州統合にも積極的に取組んでおり,その中核となるべき独仏関係において,85年も安全保障分野を中心に協力関係の顕著な進展が見られた。対ソ関係においては,INF西独内配備決定後見られたソ連の対西独報復主義批判キャンペーンは85年に入って次第に鳴りを潜めていりたものの,その後も西独はソ連の対西側積極外交の枠外に置かれている。しかし東欧諸国とは地道な対話,協力が続けられており,特に東欧との間には,文化協定,環境協定交渉の進展,86年2月のジンダーマン東独人民議会議長西独訪問等実務関係を中心に関係の緊密化が図られている。
(ロ)フランス
(a)84年7月に誕生したファビウス社会党内閣が,イデオロギー色の強い政策をできるだけ避け,現実路線をとったこともあり,85年のフランス内政は,環境保護団体グリーン・ピースの所有船「虹の戦士号」爆破事件(7月)で揺れ動いたものの(エルニュ国防大臣が辞任),比較的平穏に推移した。
86年に入ると,同年3月の国民議会(下院)選挙を巡って,与野党の動きが極めて活発になった。選挙前の主要な世論調査では,野党の保守連合(共和国連合及び仏民主連合)が単独で過半数を制するとの見方が強かったが,投票の結果は,保守連合の票が予想外に伸び悩み,単独で過半数を制することができず,右翼諸派を含めて保守陣営全体(ただし,国民戦線を除く)で辛うじて過半数を上回るに過ぎなかった。他方,社会党は,敗れたとはいえ,30%台を上回る得票率(31.6%)を獲得するとともに,議席数も200議席の大台を超え,国民議会における第一党の地位を保った。
同選挙結果を受けて,ミッテラン大統領は,野党第一党である共和国連合のシラク総裁(パリ市長)を首相に指名し,3月,シラク新内閣が発足した。これにより,58年の第5共和制発足以来初めて,大統領を支持する党派と内閣を構成する党派が異なるという,いわゆる「コアピタシオン(保革共存)」が成立した。
(b)ミッテラン政権は,84年に引き続き,85年も対外均衡の達成とインフレ抑制に重点を置いた経済運営を行った結果,物価上昇率は84年以上に沈静化し,85年は年平均5.8%にまで低下した。また,85年の貿易収支は240億フランの赤字(84年は247億フランの赤字)と赤字幅は縮小傾向を示した。失業者数については,85年末には232万人(84年末は241万人)とやや減少したものの,依然10%台の高い水準にある。
(c)外交面では,ミッテラン政権は,第三世界,南北問題重視の従来の外交政策を堅持する一方で,東西関係においては,84年6月のミッテラン大統領の訪ソに続き,85年10月には,ゴルバチョフ書記長が西側最初の訪問先としてフランスを訪れたほか,12月には,ポーランドのヤルゼルスキー国家評議会議長が訪仏するなど,ソ連を中心としてフランスの東側との特権的な対話のパイプを堅持するとの姿勢を示した。また,フランスは,欧州諸国が共同して,高度先端技術の研究・開発を行うことを目指した「ユーレカ計画」を提唱したほか,ECの機構改革についても積極的な役割を果たした。
(ハ)英国
(a)84年以来大きな懸案であった石炭ストが政府側の勝利という形で3月に収束したが,サッチャー政権及び保守党の支持率は低迷を続け,このため,同首相は9月内閣改造を行い,もって任期半ばの沈滞を打破し,イメージ刷新に努めるとともに,次期総選挙への体制固めも行った。また,高い失業率を最大の争点として政府批判を強める野党側に対し,「サ」首相は,比較的好調な経済活動の持続等の実績に立ち,民営化推進,法と秩序の問題への対応等を打ち出し,三選に向けて強気の政局運営を図った。
一方,労働党は,キノック党首の下で党内急進左派を抑え,左傾化路線を修正することにより,次期総選挙での政権復帰の可能性を高めようという姿勢をとってきている。また,社民・自由連合は地方議会選挙(5月)で善戦し,世論調査の支持率でも保守,労働両党とほぼ同レベルを保ってきている。
こうした状況の下で,85年末から86年初めにかけてウエストランド社(英国唯一のヘリコプター製造会社)救済の方途を巡り,「サ」政権閣内が紛糾し,国防大臣及び貿易・産業大臣の辞任にまで発展した。「サ」首相は本件を巡る議会での追及をひとまず乗り切ったものの,同首相の統率力の低下を問われる結果を招いた。
長年の懸案となっている北アイルランド問題に関しては85年11月アイルランド政府との間で同政府の北アイルランド行政への関与を認める合意が成立したが,ユニオニストとIRAの双方がこれに反対しており,今後の情勢は必ずしも楽観視できない。
(b)英国経済は,85年には84年を1%上回る3.5%(見込み)の成長を示し,物価も引き続き安定(5.5%見込み)するとともに,対外面でも経常収支の黒字を確保するなどおおむね順調であった。ただその中で失業問題は依然として改善の兆しを見せず,失業率13.3%,失業者数321万人(86年2月末)の過去最高水準を記録した。また,85年12月以来の原油価格急落は,産油国と消費国の両方の側面を有する英国経済に複雑な影響を与えている。
(c)外交面では,英国は米国に対し注文すべき点については大いに主張を行うという態度をとりつつも,最終的には米国支持と西側結束維持を前面に出す姿勢をとった。
「サ」首相は84年12月に引き続き,85年2月にも訪米し,レーガン大統領と会談した。SDIについては当初,慎重な姿勢も一部でみせたが,最終的には研究参加を決定し,85年12月米国と取極を結んだ。
85年11月の米・ソ首脳会談については歓迎しつつも,軍備管理交渉の見通しは楽観されないとの見方を示した。
対EC関係については,英国は欧州統合への性急な動きには牽制しつつも,積極的な姿勢がうかがわれた。なお,86年1月には英仏海峡トンネル建設に関しフランスとの間で合意に達した。
対ソ連・東欧関係では,ハウ外相が2月及び4月に東欧5か国を訪問し,その結果同外相は83年以降ワルシャワ条約機構加盟6か国をすべて訪問した西側初の外相となった。
(ニ)イタリア
(a)85年においてクラクシ内閣は,統一地方選挙(5月),スカーラ・モービレ(賃金物価スライド制)に関する国民投票(6月)で勝利を収め,その勢いにのって議員による大統領選挙においても前例のない1回の投票でコッシーガ大統領の選出を果たすことに成功した。その後10月のアキレ・ラウロ号乗取り事件の処理を巡って連立5党内の意見の相違が表面化し,クラクシ内閣は,一旦は総辞職に追い込まれたが,結局はクラクシ首相が再任され,その結果,クラクシ政権は戦後史上最長命記録を樹立するに至った。
(b)85年のイタリア経済は,84年の堅調な改善(2.6%の成長率)を受け,回復基調を示し,2.8%の経済成長率を達成した。インフレについては,8.6%と前年に引き続きかなりの改善をみせた(84年は83年の15%から10.6%へ低下)が,これは政府のインフレ抑制策が徐々にその成果をあげた結果と見られ,特にスカーラ・モービレ制度について一部労組及び国民一般の支持を得てこれの修正に成功したことが大きく寄与しているものと考えられている。失業率は若年層を中心に依然10.6%という高水準にとどまっている。
(c)外交では米国,NATO,ECとの協調を基軸とし,特に85年前半は,EC議長国として,ECの機構改革及びスペイン,ポルトガルのEC加盟実現に積極的な役割を果たした。また,ゴルバチョフ政権が成立して以来,クラクシ首相が西側主要国の首相としては初めて訪ソを実現するなど,東西対話の推進にも積極的な姿勢を示した。
(ホ)北欧・アイルランド
スウェーデンでは85年9月に行われた総選挙で,パルメ首相率いる社民党は議席数を減らし,政策遂行のためには共産党の協力を得ることが必要となり,パルメ政権は困難な政局運営を強いられることとなった。86年2月,パルメ首相が暗殺されたことにより,カールソン副首相が首相に就任,パルメ首相の政策を引き続いて継承してゆく旨表明した。
デンマークでは,財政赤字解消に改善が見られたものの,国際収支赤字解消には依然として厳しい状況にあることから,シュルター政権は内需抑制,企業競争力の強化等を中心とする改善策を最重要課題として経済政策運営を行った。「シュ」政権発足以来継続していた安保政策を巡る与野党対立は沈静化したものの,外交政策においてEC改革パッケージ案を巡り,与野党が対立したため,86年2月同案の賛否を問う国民投票が実施され,同案への賛成が決定した。
ノールウェーでは,9月の総選挙の結果,ヴィロック政権が継続することとなったものの,議会過半数を制するには至らず,困難な議会運営を余儀なくされている。他方,経済面では85年のインフレ率を69年以来最低の5.7%まで引き下げたことで,前政権から引き継いだ最大の課題たるインフレ抑制に成功し,また,経済成長率の上昇,失業率の低下といった面で着実な成果を挙げた。
フィンランドでは,ソルサ政権が安定した政策運営を行っており,経済成長率は85年3.5%,貿易収支も10億ドルの黒字等満足すべき経済状態を保っている。他方,外交面においては,85年7月にCSCE最終文書署名10周年記念会議を成功裡に開催した。
アイルランドでは,フィッツジェラルド政権は,経済再建を最大課題とし,財政再建,失業問題,税制改革に積極的に取り組んだものの依然として厳しい状況にある。なお,北アイルランド問題に関しては,11月に前記の英・アイルランド協定が署名されたが,英国及びアイルランド双方に右合意に不満を表明している勢力が存在するため,前途は楽観視できない状況にある。
(ヘ)ベルギー,オランダ
ベルギーでは,第5次マルテンス内閣が85年5月のヘイゼル競技場サッカー暴動事件の処理を巡る引責問題で総辞職の危機に瀕したが,マルテンス首相は,キリスト教社会党と自由進歩党との連立の下で,当初の予定を2か月早め,10月に総選挙を行い,2議席増の勝利を収めた結果,11月には第6次マルテンス内閣が成立した。85年のベルギー経済は,回復基調にあり,また,インフレ率(4.9%),経済成長率(1.6%)とも84年に比し改善したが,失業率は依然高水準(12.9%)にある。
オランダでは,85年11月1日,ルッベルス内閣が米INF配備決定を行い,右に関する蘭・米協定の発効(86年4月)により,79年NATO二重決定以来の内政,外交上の最大懸案が解決したことを受け,オランダ内政の焦点は86年5月実施の下院総選挙に移った。オランダ経済は,輸出の順調な伸びにより経済成長,経常収支,インフレとも好転しているが,失業率(15.6%)は依然深刻な状況にあるため,失業対策は一層の財政赤字削減とともに「ル」内閣の最重要課題である。
(ト)オーストリア,スイス
オーストリアでは,シノヴァッツ首相が10月の社会党(与党)大会を経て首相・党首としての立場を安定させ,また,連立の相手たる自由党に対しては国防相による旧ナチ戦犯護送事件(1月),ツヴェンテンドロフ原子力発電所操業開始問題(3月)で譲歩して連立関係を維持した。また経済面では総じて良好な経済実績を示したものの,財政赤字,産業構造調整の立遅れ,過度の雇用重視の問題等が見られ,同国最大の国有企業フェスト・アルピーネ社の経営悪化問題が露呈した(12月)。また,ワイン有害物質混入事件(7月)が発生し,国際的な反響を引き起こした。
スイスの内・外政は引き続き安定的に推移した。内政面では難民問題と森林の枯死という環境保護問題が取り上げられ,経済は輸出の増大,設備投資の活発化等により順調に拡大した。
また,86年3月16日スイス政府は国連加盟の是非を問う国民投票を実施したが,反対票が圧倒的多数を占め(賛成24.3%,反対75.7%),スイスの国連加盟は当分遠のいた。
(チ)南欧
スペインでは,ゴンサレス社会労働党政権が,経済・外交政策等で,現実的な穏健路線を維持し,EC加盟(86年1月)を実現し,NATO残留を国民投票により決定した(86年3月)。
他方,失業問題は引き続き深刻であり,同政権の支持率を低下させる一要因となっている。
ポルトガルでは,85年6月に,社会・社会民主党の連立政権が崩壊し,同11月,社会民主党のシルバ単独政権が成立し,86年2月には,ソアレス新大統領(前首相,社会党)が選出された。外交面では,86年1月にEC加盟を実現した。
経済面ではシルバ政権は前政権の緊縮引締め政策を緩和する政策をとっている。
ギリシャでは,全ギリシャ社会主義党(PASOK)政権のパパンドレウ首相が85年3月国会において同党推薦候補サルゼタキス最高裁判事を新大統領に選出させることに成功し,その余勢をかって6月に行われた繰り上げ総選挙においても安定多数を制し,引き続き4年間政権を担当することとなった。
サイプラスにおいては,1月の国連主催のギリシャ・トルコ両系住民間首脳会談が決裂したことに伴い,国会においてキプリアヌー大統領に対する批判が高まり,2月に大統領不信任案が可決されたが,12月に行われた国会議員選挙では,同大統領の率いる民主党が第3党から第2党に躍進した。このため,同大統領の地位は強化され,内政上の危機は回避された。
マルタにおいては,ポニチ新首相の下に従来の強硬外交路線の軟化が見られ,西側諸国との関係改善の努力も見られた。
(リ)ヴァチカン
11月から12月にかけて開催された特別世界代表司教会議では,法王が信仰の統一と教会組織の統一の中心的存在であることが再確認され,現法王の指導力が一段と強化され,教会活動・国際情勢に関する法王の言動にますます重味が加わることになった。
法王は,中米,ベネルックス,アフリカを歴訪し,現地教会,信者大衆への宗教活動を行うとともに各国政府首脳と会談した。中米訪問では教会のあり方として貧しい人々を重視することが必要なことを強調,オランダにおけるプロテスタントとの対話の推進,アフリカにおける開発途上国共通の問題への理解と連帯の表明,アパルトヘイトの非難,イスラム教との対話の促進などを訴え,話合いによる平和と隣人愛を説く法王の真摯な姿は多くの人々の共感を呼び,ヴァチカンの国際的イメージの向上に貢献した。
また,11月の米・ソ首脳会談に先立って,法王は米・ソ両首脳に親書を送り対話の進展を要望したが,これは,法王の核軍縮と平和に対する関心の強さを物語るものである。