第3節 北米地域

1.北米地域の内外情勢

(1)米国

(イ)内政

(a)レーガン政権第2期目の主要政策課題

レーガン大統領は,84年の大統領選挙で地滑り的勝利を収め,政権第2期目を迎えた。

レーガン大統領は,その第1期目に同政権の基本目標である米国の力と威信の回復が達成されたと評価し,それを踏まえ,(1)財政赤字削減,(2)公平,簡素かつ経済成長を目指す税制改革,さらに(3)米ソ関係の改善等未完成の仕事として2期目の政策課題とすることを一般教書等を通して明らかにした。

(b)85年の内政課題を中心とした動き

(i) 財政赤字削減については,86米会計年度の予算作成過程において赤字削減努力が行われたが,迂余曲折を経て,91年度予算までに財政均衡達成を義務付ける,財政均衡化法(グラム・ラドマン・ホリングス法)の成立という予想外の展開となった。税制改革については国民の関心が今一歩と見られていたが,下院では成案が得られ上院に送付されるところまで進展した。市場経済的要素の導入,財政負担の軽減という2つの目的を持った新農業法案については,農業不況の現状に鑑み議会でも妥協が図られ,成立した。その間行政府は,巨額の貿易赤字を背景に議会で高まった保護主義に対し,新通商政策の発表等矢継ぎ早の対応を迫られるなど国内における保護主義の高まりも大きな問題となった。

(ii) 以上のとおりレーガン大統領は,対議会運営面で若干の困難さを指摘された面はあるも,2期目の大統領として異例とも言える60%程度の国民の支持率の高さを維持しつつ,「小さな政府」,規制緩和といった自らの政治理念に則った政策を提示し,実現に向けて努力した。

(c)主要人事異動

85年中に,ホワイト・ハウスを中心に一連の人事異動が行われたが,中でもリーガン財務長官とベーカー大統領首席補佐官の交替,保守派ないしカリフォルニア時代以来の側近と見られていたミース大統領顧問及びディーヴァー大統領次席補佐官のホワイト・ハウスよりの転出,さらにマクファーレン国家安全保障担当補佐官の辞任が注目された。

(d)86年中間選挙と政治再編成

86年11月の中間選挙では,上院34議席,下院全議席(435)が改選されるが,上院で共和党が現在の優位(53:47)を維持できるかが焦点となっている。特に共和党は22名の改選議員を抱えており,既に予算審議の過程等において,改選共和党議員を中心に選挙を意識した動きも見られた。

(ロ)外交

(a)85年の米国外交で最も注目されたのは,11月19,20日の両日,ジュネーヴにおいて,レーガン政権発足以来初めて,米ソ首脳会談が開催されたことである。

合計15時間に及ぶ会談で,両首脳は,軍備管理問題や二国間問題,地域問題等について活発な意見交換を行い,会談後の共同発表文では,核兵器の50%削減の原則,両首脳の相互訪問,外相協議・地域協議の活発化,人的交流の拡大等が約束された。

その後米ソ関係は,米ソ経済協議会の開催(85年12月)や民間航空業務の再開(86年4月)等二国間実務案件の分野で地道な進展を見せた。

しかしながら,軍備管理問題では,86年1月15日にゴルバチョフ書記長が,また同2月24日にレーガン大統領が,それぞれ核廃絶に向けての提案を行ったものの,具体的な成果にはつながっていない。

またゴルバチョフ書記長の訪米についても,レーガン大統領より,6月訪米を招請した経緯はあるが,訪米時期についてその後ソ連側からの具体的な反応はなく今日に至っている。

(b)アジアとの関係では,まず中国との関係において,李先念国家主席の訪米(85年7月)やブッシュ副大統領の訪中(同10月)及び米中原子力協定の署名(李主席訪米の機会に実施)等,着実な進展が見られた。

ASEANとの関係も順調に推移しているが,フィリピンの政変では,アキノ政権樹立後は直ちにこれを承認し,同国の政治的経済的安定に向けて協力するという姿勢を示している。

(c)中米問題では,レーガン政権は,84年6月以来9回にわたる米・ニカラグァ交渉を通じ,ニカラグァ側に革命輸出の禁止や国内的民主化の促進等を要求してきた。しかし,85年1月には,ニカラグァ側に誠意が見られないとしてこれを中断させるとともに,5月には,ニカラグァに対する経済制裁措置を発表し,また同国の反政府勢力支援にも努めた。

(d)対中東政策では,85年2月11日にフセイン=ジヨルダン国王とアラファトPLO議長との間で和平達成に向けての合意が成立したことなどから,中東和平への期待感が高まった。レーガン政権もマーフィー国務次官補のシャトル外交を通じて,ジョルダン及びジョルダン代表団の一部を構成するパレスチナ人とイスラエル間の直接交渉実現に努めたが,パレスチナ人代表の問題等が事態の進展を阻んだ。

また85年,86年は,米・リビア間の緊張が激化した時期でもあり,レーガン政権は,リビアがウィーンとローマの空港テロ事件に関与していたとして,86年1月に直接貿易の全面禁止等の制裁措置に踏み切ったほか,同4月には西ベルリンでのディスコ爆破事件にやはりリビアが関与していたとして,リビア軍基地を爆撃するなど,同国に対する姿勢を強化させている。

(e)アフリカとの関係では,南アフリカでの黒人暴動が激化し,米議会において南アフリカに対する制裁法案を支持する気運が高まったことから,85年9月に議会の機先を制する形で,南アフリカに対する制裁措置を発表し,同国政府にアパルトヘイト撤廃や黒人指導者との対話を求めた。

(ハ)経済

85年の米国経済は,84年の高い経済成長(実質6.5%)のあとをうけて,実質2.2%の小さい伸びにとどまった。これは,鉱工業投資と住宅建設に支えられた景気拡大局面初期に対するある程度予想されていた反動である。基調としてはインフレのない,緩やかな3年目の景気上昇局面を経過した。しかし,米国経済の主軸である国内民間最終需要は3.9%増とまずまずの上昇を示した中で,国内需要は国内生産の増加率を上回り,その結果貿易収支は悪化した。

四半期別にみると,第1,第2四半期は,84年からの金融緩和,金利低下等を背景に自動車販売を軸とした個人消費の堅調さ,住宅金利の低下に刺激された住宅投資と設備投資が伸び,成長の要因をつくった。特に乗用車販売は,5,6月に低利融資セールが人気を呼び,消費経済の底固さを発揮した。

第3四半期になり,国内需要は引き続き旺盛な中で,純輸出の不振がほぼ月を追って悪化し,在庫投資は大幅に調整が進んだことから国内需要が輸入で賄われる傾向が続いた。第4四半期に入り設備投資も回復,調整を終えた在庫も積み増しに転じた。こうした中で,9月半ば先進5か国蔵相による為替のリアラインメントを目指した合意が得られ,米国では新貿易政策が発表されるなど貿易に対する政策的取組みの上での転換期を画した。

85年の持続的景気上昇の要因としては,(1)失業率の低下と第3次セクターを中心とした新規雇用機会の創出,(2)物価の安定,(3)新車売上げの伸び,(4)金利低下の下での住宅建設などがあるが,反面個人所得の伸びの低迷時には貯畜を犠牲にして消費を維持した形跡があり,消費者信用の残高も記録的高さに達している。このことは,ある意味では景気の先行きに対する楽観視の表われでもあるが,国民経済の安定性を損う一面もある。

貿易収支について見ると,85年は輸出(FAS)は前年比2.2%減の2,131億ドル,輸入(CIF)が6%増の3,616億ドルとなったため,貿易収支の赤字幅は前年比20.4%増と1,485億ドルの史上最高額に達した。こうした赤字幅拡大の要因は,(1)米経済の拡大による輸入圧力の増大,(2)ドル高下の輸入促進効果,(3)諸外国の景気拡大の緩慢さ,(4)債務累積国の金融手詰りなどがある。

(2)カナダ

(イ)内政

(a)84年9月,マルルーニー進歩保守党党首は自由党長期政権に対する国民の飽きと変化を求める期待感を背景に,政権を奪回し,首相に就任した。マルルーニー首相は,トルドー元首相の「対決の政治」に対し,「和解と協調の政治」を標ぼうし,連邦と州の関係の改善,加経済の活性化を最優先し,経済の好転,投資環境の自由化,ディレギュレーションにかなりの実績を収めた。

(b)しかしながら,国民の圧倒的人気をもって誕生したマルルーニー政権も,85年9月以降支持率の低迷に悩んでいる。その背景には,閣僚の不祥事件が相次いだことや,「協議」の下に難しい政策決定を先送りしていることなどに対する国民の失望感が指摘されている。

(c)他方,マルルーニー政権誕生後,オンタリオ州では長期にわたる進歩保守党政権が敗退し自由党と新民主党との連立政権にとって替わられ(85年5月),また,ケベック州においても約10年続いたケベック党(ケベック州の独立を強く支持した政党)がケベック自由党に大敗するなど,過去約1年で連邦及び州レベルでカナダの政治地図は大きく変化した。

(ロ)外交

緊密な米加関係とともに,NATO,自由主義陣営の一員として協調的外交を基本としている。特にマルルーニー政権は,「第3の選択」として米国以外の国との経済関係拡大の方途を探ったトルドー時代と比べ,対米関係緊密化の色合いは鮮明であり,過去約1年半の間に既に3回の米加首脳会談を開催した。

(ハ)経済

85年の実質GNP成長率は45%(84年は5.0%)の成長を達成し,景気回復3年目で初めて米国の成長率(2.2%)を上回った。内容的には米国景気の鈍化に伴い貿易のテンポが鈍る一方,個人消費の一層の拡大・住宅・民間設備投資がようやく低迷を脱して動き始めた結果,実質最終国内需要は5%増と,76年以来の最大値を記録し,外需主導から内需主導の成長への転換が特徴的であった。

以上の結果,失業率は依然高水準にあるものの,85年4月には3年振りに11%台から10%台に下がるなど徐々に改善しつつある。

消費者物価,卸売物価はそれぞれ4.0%,2.7%と一層の安定を示した。重点施策の一つである財政赤字対策を見ると,85年度予算において歳出規模は約40億ドルの削減措置を織り込んだ結果,1,050億ドル(対前年度5.4%増)となり,歳入は約4億ドルの増税により,712億ドル(同11.6%増)となる結果,財政赤字は84年度の358億ドルから338億ドルヘの縮小を見込んでいる。

貿易収支(B/Pベース)は85年は168億ドルの黒字となり高い水準にあるが,前年比では39億ドルの減少であった。また経常収支は82年から84年にかけての黒字が85年は26億ドルの赤字になった。

マルルーニー政権は,経済活性化を目的とする一連の経済政策(外資規制緩和,エネルギー規制緩和,公社民営化等)を次々と実施する一方,米国との貿易拡大を図るための交渉(いわゆる米加自由貿易交渉)に政治生命をかけて着手するなど経済政策を意欲的に進めた点が注目される。

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