第2節 大洋州地域
1.大洋州地域の内外情勢
(1)豪州
(イ)内政
ホーク労働党政権は,84年12月の総選挙で期待していた結果を得られなかったところ,85年に入りMXミサイル実験対米協力問題を巡る党内派閥対立の表面化(2月),大型間接税の導入による直間比率の是正を目指した税制サミットの不調(7月)等の問題が起きた。
しかしながら,その後同政権の行った堅実型の予算編成(8月),物価・所得合意の延長(9月),公平と成長志向を基本とした直接税改正案の発表(9月)等は国民の評価もおおむね良好であった。
他方,野党側では,85年9月,ピーコック議員よりハワード議員への予想外の党首交替があり,ハワード新党首(前蔵相)は経済合理主義に則った労使関係の自由化,公営企業の民営化等の諸政策を打ち出した。
(ロ)外交
3年目のホーク政権は,従来同様,ANZUS条約の維持等対米関係,最大の貿易相手国たる対日関係並びにASEAN諸国等の東アジア・太平洋地域諸国等との関係を重視する姿勢を堅持した。また軍縮問題にも積極的取組みを示し,85年8月の第16回南太平洋フォーラム会議で採択された南太平洋非核地帯条約の作成にあたっては重要な役割を果たした。
米国との関係では,ANZUS枠内での同盟関係を堅持する一方,ニュー・ジーランドの米艦船寄港拒否問題については,基本的には米・ニュー・ジーランド間の問題であるとしている。インドネシアとの関係では85年7月のホーク首相による東チモールに対するインドネシアの主権承認発言,12月のモフタル「イ」外相の訪豪,86年2月のヘイドン外相の訪「イ」等を通じ両国関係を強化した。対フィリピン関係では86年2月のアキノ新政権成立直後同政権を承認し,3月のヘイドン外相の訪比等同政権との友好協力関係の構築に努めた。中国との関係では,85年4月の胡ヨウ邦総書記の訪豪等両国関係は経済関係を中心に順調に発展した。
(ハ)経済
83年後半以降回復基調にあった豪州経済は,85年も順調に推移した。
実質GDP成長率は84/85年度で4.6%,85年10~12月期でも対前年同期比4.9%と順調な推移を示した。物価も安定的に推移し,消費者物価上昇率(CPI)は84/85年度で4.3%と前年度6.8%から更に改善された。また失業率も8%台を割り込み85年12月には7.8%に低下した。他方,経常収支の大幅な悪化,対外債務の増大,豪ドルの下落の問題等,対外経済面の不調が顕在化した。
こうした情勢下,財政政策においてホーク政権は経済成長の維持とインフレの抑制を目標に緊縮型の85/86年度予算を発表した(8月)。
また84年総選挙時の公約に基づき税制改革を推進,タックス・サミットの開催(7月)に続き,直接税課税ベースの拡大,所得税減税等を内容とする税制改革案を発表した(9月)。
賃金問題については,現行の物価・所得合意の原則を更に2年間延長することでACTU(豪州労働組合評議会)との間で合意が成立した(9月)。
金融面については一連の金融自由化が進められ,住宅ローン金利を除く小口貸付預金の自由化が行われ,金利の自由化がほぼ完成した。
産業面では,豪州産業の活性化と競争力強化の観点から,引き続き構造改革等の努力が行われた。
貿易面では,輸出促進を図るため政府機構の改革が行われ,豪州貿易機構(AustralianTradeCommission)が設立された。
(2)ニュー・ジーランド(NZ)
(イ)内政
ロンギ労働党政権は84年7月の誕生以来,自由民主主義の維持,国民生活の安定向上等を基本としコンセンサス重視の政治を指向し,野党国民党の内部分裂等の問題もあり,ロンギ政権は国民より安定した支持を得て,所期の諸政策を推し進めている。
(ロ)外交
ロンギ政権は同国が西側諸国の一員であるとの立場を維持しつつも,反核の姿勢を強調する独自の外交路線を維持している。85年1月の米艦船寄港拒否以来米国との関係がギクシャクしており,85年12月には,非核法案がNZ議会に提出された。また,85年7月にオークランドで発生した環境保護団体「レインボー・ウォリアー」号爆破事件に端を発し,フランスとの関係が下降線をたどった。
対外貿易,経済の分野においては,我が国,米国,豪州などとの貿易・経済関係の一層の緊密化を図るとともに,ソ連,中国,中近東,ASEAN諸国,中南米諸国などの市場開拓に努力を払った。NZはまた,南太平洋島興国との政治,経済関係を引き続き強化させている。
(ハ)経済
85年前半のNZ経済は,84年の好況の余韻が残る中で通貨切り下げ(84年7月,20%)による輸入インフレが拡大し,国際収支赤字幅も高水準で推移した。また,労働党政権による自由主義的経済政策及びインフレ鎮静化を目的とした厳しい財政・金融引締政策は,NZ経済の先行きに不透明感を増加させるとともに外資の流出が進みNZドル安が進行した。
85年後半に入ってからは,政府の指導力に対する信頼度が上昇したことなどを背景に,設備投資,住宅投資,個人消費等底固い動きを続け,また,通貨切下げの影響が一巡したこともあり,インフレも鎮静化の傾向を示した。国際収支(経常収支)は,輸出拡大に支えられ大幅に改善した。しかしながら,85/86(4~3月)年度の実質経済成長率は,前年度に比し減少しゼロ成長(前年度6%)が予想されている。
85年においても,労働党政権は,NZドルのフロート制移行(3月),外国為替規制の廃止(10月),NZ国内における銀行業務自由化方針の公表(11月),NZ国内で製造されていない工業品等につき原則ゼロの関税率の導入(12月)等自由主義的な経済政策を推進した。
85年6月に公表された85/86(4~3月)年度予算案では,財政赤字が前年度に比べ更に縮小され,対GDP比が2.9%(前年度7.1%)となった。
(3)パプア・ニューギニア(PNG)
(イ)内政
85年は,PNG独立10周年に当たる年であったが,そのうちの8年間の政権を担当してきたソマレ首相は,野党側から提出された不信任案攻勢(85年に入って3回)に直面し,11月遂に不信任案が可決され,かつてソマレ政権の副首相であったウィンティを首班とする5党連立内閣に政権の座を譲ることとなった。
また,治安問題が大きな問題となり,ソマレ政権は85年6月に非常事態宣言を発し,治安問題の解決に努めた。
(ロ)外交
85年を通じてPNG外交政策に基本的変化はなく,普遍外交に立脚しつつ実体的には対豪関係を基軸として南太平洋域内諸国及びASEAN諸国との友好関係を図るとともに,日本,米国及び西欧諸国との関係強化を図るとの政策がとられた。
新しく誕生したウィンティ政権は,12月,中国大使館開設を発表,また,イリヤンジャヤ越境民問題解決のため国連難民高等弁務官(UNHCR)に援助要請を決定した。
(ハ)経済
85年後半からの一次産品価格の低落もあり,PNG財政は極めて逼迫,85年末の財政赤字は1億2,800万キナ,GDPの5.5%に達し,また,公的債務残高も85年末で対GDP比43%に達した。
今後,PNG経済に大きな影響力をもたらすオクテディ鉱山は,PNG政府と会社側との折衝により,銅の長期生産が決定され,また,農業分野では,特にパーム・オイル,ココア,木材について民間投資の伸びが見られた。
(4)フィジー
(イ)内政
フィジーは,長期安定政権を維持するマラ首相の下で政治的に安定している。85年においては7月に労働党が結成され内政上の動きとして注目された。同党は結成後のスヴァ市議会選挙において第一党の地位を獲得し,その後の下院補欠選挙においても善戦したのに対し,野党国民連邦党(NFP)は内部抗争が深刻化し,党首交替が行われるなど,従来の与党同盟党(AP),野党NFPという二大政党による図式が大きく変化する兆しが現われた。
(ロ)外交
フィジーの外交は英連邦とりわけ豪州,NZとの関係を中心としつつも,米国,日本その他のアジア諸国等との関係強化にも意を用いている。
特に85年においては,在米(ワシントン)大使館の開設,シュルツ米国務長官のフィジー訪問等により,対米関係の一層の強化が見られ,また,中国との間では,胡総書記,マラ首相の相互訪問もあり両国関係の発展が見られた。
(ハ)経済
85年のフィジー経済は,1~3月に4度来襲したサイクロンの被害により,主要産業たる砂糖及び観光が84年のレベルを下回り,GDP成長率は84年比2.2%減となった。また,貿易収支も輸出が84年比3.9%減少したのに対し,輸入は2.5%増加したため,赤字幅は拡大した。しかしながら,サイクロンの被害に対する海外からの保険金収入によって総合収支は記録的な黒字となった。消費者物価上昇率は85年も前半の5.3%から4.4%へと下降し,インフレ鎮静化傾向が続いている。
(5)南太平洋地域
西サモアのトフィラウ首相は,予算案審議否決を契機に85年12月辞任,ヴァアイ・コロネが首相に返り咲いた。トゥヴァルにおいては,9月に総選挙が行われ,トマシ・プアプア首相が引き続き政権を維持することとなった。
キリバスはソ連との間に8月,ソ連漁船の200海里水域内での操業を認める協定を締結し,注目を集めた。
また,クック諸島で開催された第16回南太平洋フォーラム(SPF:SouthPacificForum)会議において,南太平洋非核地帯条約が採択された。