7.南西アジア地域
(1)南西アジア地域の内外情勢
(イ)概要
ラジーブ・ガンジー=インド首相が南西アジア域内諸国との関係改善に積極的姿勢を示し,また,近隣諸国側にもインドとの友好関係実現への高い期待が存在したことから,85年を通してインドとほかの域内国との関係改善の兆候が顕著に見られた。本地域の平和と安定のためには,インド・パキスタン間の安定した関係が不可欠であるが,ガンジー=インド首相とハック=パキスタン大統領はガンジー首相就任後,85年末までに6回会談し,信頼関係を築くとともに,12月の会談では,両国の原子力施設相互不攻撃等が合意された。
12月には,バングラデシュにおいて,本地域諸国の初めての首脳会議が開催され,域内国の経済社会協力を進めるための南アジア地域協力連合(SAARC)が成立した。
(ロ)インド
(a)内政
85年には全22州中9州が野党系政権となるなど地域主義の台頭が見られた。また,86年1月に予定されていた「パンジャブ合意」を実施できなかったことなどにより,パンジャブ州におけるシク教徒過激派のテロ活動が活発化し,パンジャブ情勢は依然として大きな政治課題となっている。
(b)外交
ガンジー首相は85年半ば以降外交面でも積極的な活動を行い,5月のソ連訪問に引き続き6月に米国,フランス等を,さらに11月には我が国を訪問するなど9回の外遊(訪問国数14か国)を行ったが,同首相は近隣諸国との関係改善にも積極的な姿勢を示した。
特に印パ関係改善のためハック=パキスタン大統領とは同首相就任以降85年末までに6回会談をもった。
また,85年1月にデリーで核軍縮に関する6か国首脳会議が開催されたほか,スリ・ランカ,韓国等の首脳がインドを訪問している。
(c)経済
84年度のインド経済は,穀物生産の豊作,鉱工業生産5.7%増,原油自給率の上昇,物価の安定,外貨準備高の安定等おおむね順調に推移した。さらに84年度を終了年とする第6次5か年計画は目標どおりの年平均5.2%の成長を達成した。
経済自由化路線は,ラジーブ・ガンジー政権においても積極的に押し進められているが,インド経済は依然として多くの構造的問題を抱えている。
(ハ)パキスタン
(a)内政
85年は,約8年半にわたり施行されてきた戒厳令が撤廃され,民政移管の年となった。
4月には,ジュネジョ首相を首班とする内閣が発足した。さらに,12月には戒厳令が撤廃され,民政移管が達成された。
86年に入り,ジュネジョ首相は,1月にパキスタン回教徒連盟総裁に就任し,内閣の改造を行った。
(b)外交
85年末までにハック大統領がガンジー=インド首相と6回も会談したほか,7月にはデリーで2年振りの外相級合同委員会が開催された。
特に,85年12月の印パ首脳会談においては,相互の原子力施設の不攻撃,ガンジー=インド首相の86年前半におけるパキスタン訪問等が合意された。しかし,86年1月以降,インド国内のパンジャブ問題の深刻化が,関係正常化への動きを鈍くしている。
他方,アフガニスタン問題に関し,パキスタン政府とアフガニスタンとの間で国連を通じる間接交渉が3回行われた。
上記以外に,ハック大統領は,ビルマ,韓国,米国(国連特別総会出席)等を歴訪した。
(c)経済
84年度(84年7月より85年6月)には,綿花生産の大豊作などにより,農業生産が大幅回復(対前年度比9.9%増)し,また,石油,ガスの新規開発が進み,鉱工業生産が好調を維持(同8.8%増)したため,GDPは8.4%増を達成した。
貿易面では原綿,綿製品の輸出の落ち込みなどから84年度の輸出は25億ドル(同9.5%減),輸入は59億2,000万ドル(同1.0%減)となり,貿易赤字は過去最高となった。海外出稼ぎ労働者による送金が24億4,000万ドルに減少し,経常収支は16億1,000万ドルの赤字となった。
(ニ)バングラデシュ
(a)内政
エルシャド大統領は85年3月の国民投票で圧倒的な支持を得たことを背景に,エルシャド大統領支持の人民党に反政府政党一部勢力を吸収して新党国民党を発足させ,総選挙実施に向け政権基盤を強化した。総選挙は,自由,公正な選挙実施等を要求する反政府政党の反対にあい,3度延期されてきたが,86年3月,同大統領は総選挙を4月6日に実施する旨発表した。その後右は5月7日に延期された。
(b)外交
85年にはエルシャド大統領は我が国を国賓として訪問した。他方,中国,韓国,マレイシア等を公式訪問し,86年に入ってから西独,中国の首脳がバングラデシュを訪れている。
また,インドとの間の懸案であるガンジス川配水問題につき合意が見られ,了解覚書が署名された(11月)。さらにエルシャド大統領は,85年12月には南アジア地域協力の初の首脳会議をダッカにおいて主催するなど活発な外交を展開した。
(c)経済
84年度の名目GDP成長率は3.9%,食糧穀物生産は洪水被害にもかかわらずほぼ目標に達した。輸出は,縫製品輸出等の伸びにより最高額となったが,洪水の被害を補填するための食糧輸入の実施,海外からの送金減少等により貿易収支は17億ドル,経常収支は13億ドルの赤字となった。
(ホ)スリ・ランカ
(a)内政
スリ・ランカの独立以来の長年の懸案であるシンハラ・タミル民族問題が再燃し,スリ・ランカ政府はその対処に苦慮している。
85年6月に至り,インド政府の仲介の努力もあり,スリ・ランカ政府とタミル過激派側との間での停戦協定が成立し,また,7月には,ブータンにおいて政治交渉がもたれたが,自治権拡大に関するスリ・ランカ政府とタミル過激派の間の主張には隔たりが大きく,政治的解決の見通しはたっていない。
(b)外交
85年のスリ・ランカ外交はシンハラ・タミル民族問題に深く係わるインドとの関係を中心に展開したが,特に,6月のインドでのジャヤワルダナ大統領とガンジー=インド首相との会談を機に,インドは,シンハラ・タミル問題に積極的に関与するに至った。
同大統領はパキスタン等を訪問し,他方,英国等の首脳がスリ・ランカを訪れている。
(c)経済
85年2月以降の紅茶価格の急落により,貿易収支が再び悪化した。さらに,北部・東部を中心としたテロ活動による観光客の大幅減少(85年1~10月累計では,前年同期比22.2%減),海外からの送金収入の頭打ちもあり,外貨準備高は85年8月末で約6億8,800万ドルに減少した。
(へ)ネパール
(a)内政
85年前半は,反体制派勢力による国王親政体制に反対する不服従運動が活発に行われ,6月連続爆破テロ事件が発生した。国王による現体制維持の表明,治安活動の強化等により同事件以来おもてだった反政府的動きはない。
86年3月,総選挙(5月12日実施予定)までのりザール暫定内閣が成立した。
(b)外交
85年においては国王は我が国(科学万博賓客)を始め豪州等を訪問するなど積極的な訪問外交を推進した。また86年3月末の時点で「ネパール平和地帯」提案に対する支持国は70か国に達した。
(c)経済
85年度のGDP成長率は3・5%に落ち込むものと予想されるなど経済は低調で,政府は11月に平価切り下げを実施し,さらに12月には,財政再建,輸出振興,農工業生産の増大を目指す経済調整策を発表した。
(ト)モルディヴ
モルディヴは85年7月に英連邦に正式加盟するとともに同年9月には首都マレにおいて英連邦蔵相会議を主催した。ガユーム大統領はサウディ・アラビア等を訪問した。
85年の経済は,その主力産業である漁業及び観光が,84年に比し好転したため改善された。
(チ)ブータン
国王親政体制の下に近代化,民主化路線が推進され,政情は安定している。85年には,政府の組織変更により国王の指導体制が強化された。また,対外面においては,積極的に門戸開放政策を推進し,86年3月末までに我が国を含め合計12か国と外交関係を持つに至っている。
我が国と南西アジア諸国は,伝統的に友好関係を維持してきているが,この1年もこの良好な関係を緊密化する動きが見られた。
インドとの関係では,10月中曽根内閣総理大臣が,国連総会に出席のため訪米した際にラジープ・ガンジー首相と会談を行ったほか,11月ラジーブ・ガンジー首相が我が国を公賓として訪問した。同訪日の際,我が国は300億円の対印特別円借款供与の意図表明を行ったほか,インドの経済開発のための産業協力を約束した。さらに,目印科学技術協力協定が締結されるなど,85年は21世紀に向けての目印新時代の幕明けとなった。
パキスタンとの関係では,85年3月,第2回日・パ合同委員会が開催されたほか,国連総会出席のため訪米した際(10月)に中曽根内閣総理大臣がハック大統領と会談した。
バングラデシュとの関係では,85年6月にエルシャド大統領が国賓として我が国を訪問し,中曽根内閣総理大臣との会談を行った。
スリ・ランカからはプレマダーサ首相が85年4月に,また,ネパールからはビレンドラ国王が85年9月に各々科学万博賓客として訪日した際,それぞれ中曽根内閣総理大臣との間で意見交換を行った。
ブータンとの関係では,86年3月ツェリン外相が,同国の外相として初めて我が国を公式訪問(外務省賓客)し,同訪日時に我が国とブータンとの外交関係が設定(86年3月28日)された。
<要人往来>
<貿易関係>
<民間投資>
<経済協力(政府開発援助)>