5.インドシナ地域
(1)インドシナ三国の内外情勢
(イ)ヴィエトナム
(a)内政
85年も引き続きレ・ズアン党書記長,チュオン・チン国家評議会議長(元首)及びファム・ヴァン・ドン閣僚評議会議長(首相)の三者による集団指導体制が維持された。また第9同党中央委総会(85年12月)で第6回党大会を86年末に開催することが決定され,今後同大会に向けて,高齢化した最高指導部の交替が行われるかどうかが注目されている。
(b)外交
(i) ラオス,カンボディア(「ヘン・サムリン政権」)との「特別な関係」とソ連との協力関係を重視する外交基本姿勢が貫かれた。特にソ連との関係では,85年6月レ・ズアン書記長の訪ソの際,86年より始まる第4次5か年計画に対するソ連の援助を取り付けた点が注目された。
(ii) カンボディア問題では,民主カンボディア三派の拠点の攻略(84年11月~85年3月)という軍事的成果を背景にカンボディア問題解決に関連する諸提案を発表し,中でも8月には1990年までのカンボディアからのヴィエトナム軍の全面撤退を明らかにする(第11回インドシナ三国外相会議コミュニケ)等種々の外交攻勢を行ったが,「ヘン・サムリン政権」の存続とポル・ポット派の排除を求めるヴィエトナムの基本姿勢に変化は見られなかった。
(iii) 中国・ヴィエトナム(「中越」と略す)間では依然国境地帯で緊張が続いており,ヴィエトナムは機会ある毎に中国に対し関係改善を呼びかけているが,中国はヴィエトナム軍がカンボディアから撤退することが関係正常化の前提であるとしており,関係改善へ向けての進展は見られなかった。
(iv) 米国との間では,ヴィエトナム戦争中の行方不明米兵(MIA)捜索問題で具体的進展が見られた。すなわち,ヴィエトナム戦争終結後初めて米軍機墜落現場での米・越共同発掘作業が実施された(11月)ほか,86年1月国務省高官を含むハイレベルミッシヨン(団長:アーミテージ国防次官補)が訪越し,向こう2年間で同問題を解決することを目指して双方が協力することに合意した。他方,関係正常化については,米国はカンボディア問題が解決されない限り応じられないとの態度を明らかにしている。
(c)経済
(i) 85年は第3次経済5か年計画(81~85年)の最終年であるとともに次期5か年計画の準備の年と位置づけ,生産目標も低めに設定し着実な目標達成を目指したが,所期の成果はあがらなかった。すなわち,食糧(1,820万トン。籾換算),電力,鉄鋼,肥料,セメント,石炭,砂糖等の主要産品の生産は前年比増となったものの,いずれも生産目標には達しなかった。85年の重点政策とされた輸出についても,実績は前年を僅かに上回った程度と見られ,計画目標には遠く及ばず,極端な外貨不足の状況に改善の兆候は見出せなかった。76年の南北ヴィエトナム統一以来続けられている南部地域の社会主義改造は,85年末までに農業では農地の85.5彩,農家の87.2%につき集団化を終了,商工業も公私合営等の過渡的形態による運用が行われている。
(ii) 経済運営面では,6月の第8同党中央委総会決議に基づき配給制度の廃止(8月)と通貨改革(9月)を断行した。配給制度の廃止により国庫補助に支えられた極端な二重価格制度を解消し企業の独立採算制実施を促すことが期待され,また,通貨については1/10のデノミを実施し,直ちに新紙幣を発行,同時に対ドル・レートをデノミ前換算で1ドル=12ドンから150ドンヘの切下げを実施した。しかし,生活必需物資の絶対的不足が継続している状況下で,かつ,諸準備も整わないままこれらの経済改革が実施されたため,急激なインフレを惹起するなど国民生活が大混乱に陥った。このため政府は,給与生活者の生活を確保するため12月には急拠配給制度を復活させるとともに,同月開催された国会でヴォー・ヴァン・キェット党政治局員兼副首相は,経済改革に伴う混乱について実施方法に欠陥があったとして政府の責任を率直に認めて厳しく自己批判し,次いで86年1月には今次経済改革の直接の責任者といわれるチャン・フォン副首相が解任された。
(ロ)カンボディア
(a)国内情勢
(i) 民主カンボディアは82年7月の民主カンボディア連合政府の結成により,それまで独自の抗越活動を続けてきたクメール・ルージュ,シハヌーク派及びソン・サン派の三派勢力が抗越の大義の下に結束し,85年もヴィエトナム軍の撤退及び民族自決に基づくカンボディア問題の政治解決を求めてカンボディア駐留ヴィエトナム軍に対する抵抗活動を続けた。同政府は軍事的にも徐々に活動範囲を広げてきたが,84年11月から85年3月にかけてのヴィエトナム軍の大規模攻勢によりタイ・カンボディア国境地帯の主要拠点を失った後は,これまで以上にカンボディア国内でのゲリラ戦を重視した抵抗活動を続けている。
(ii) 他方,ヴィエトナムは約16万人と伝えられるヴィエトナム軍の強力な庇護とソ連・東欧諸国等からの経済支援の下に「ヘン・サムリン政権」の既成事実化を図ってきている。「ヘン・サムリン」側の支配地域では,ある程度復興が進んでいるものの,70年以前の平和な時代の経済水準には及ばないと伝えられており,依然,ソ連,東欧諸国等の援助及び国際機関からの援助に大きく依存している。
(b)外交
(i) 連合政府結成以来,民主カンボディアは,ASEAN諸国と協力し,シハヌーク大統領を中心にカンボディア問題の包括的政治解決に対する各国の支持獲得のための活発な外交活動を展開し,85年の国連総会でもヴィエトナム軍の撤退とカンボディアの民族自決を柱とする包括的政治解決を求めるカンボディア情勢に関する決議が84年を上回る圧倒的多数で採択された。なお,民主カンボディアの国連における代表権は84年に引き続き無投票で承認された。
(ii) 86年3月,民主カンボディア三派首脳は北京で閣議を開催し,(イ)ヴィエトナムとの間でのヴィエトナム軍の二段階撤退に関する合意,(ロ)民主カンボディア三派とヘン・サムリン派との間の交渉を通じた国民和解による四派連合政府の樹立等を含む8項目の政治解決案を提示した。
この提案は民主カンボディア連合政府が従来の国連諸決議及び81年のカンボディア国際会議宣言を踏まえつつ具体的な和平へのシナリオという形でとりまとめた初めての包括的政治解決案として注目すべきものであるが,ヴィエトナム側は直ちに拒否声明を発表した。
(ハ)ラオス
(a)内政
(i) 85年は,人民民主共和国成立10周年に当たる重要な節目として,過去の政治・経済面の業績を総括し,今後の国家建設の諸課題(初の憲法公布・第4回党大会開催,第2次経済・社会開発5か年計画の開始等をいずれも86年に予定)を提示した年であった。
(ii) 政情は安定的に推移し,治安も全般的には問題なく,地方での反政府活動も組織的な規模のものは見られなかった。
(b)外交
(i) ヴィエトナム,カンボディア(「ヘン・サムリン政権」)との「特別な関係」とソ連等社会主義諸国との協力関係の強化を柱とする外交姿勢に変化はなく,1月,8月の第10回,11回インドシナ三国外相会議への参加,チュオン・チン=ヴィエトナム党政治局員兼国家評議会議長の訪「ラ」(5月)・カイソーン党書記長兼首相の訪ソ(8月),リャボフ=ソ連副首相の訪「ラ」(12月)が行われた。しかし,中国とは依然として冷たい関係にあり,中国を「拡張主義者」と非難し続けた。
(ii) 歴史的にも経済的にも深いつながりを持つ隣国タイとの間では,84年5月に発生した国境地域の三村の領有権を巡る問題が未解決のままとなっており,ラオス側はタイ軍が依然ラオス領内に駐留していると主張しているが,両国とも本問題により決定的な国家間の対立を招く事態は避けたいとの意向を有していることもあり,当面,問題は沈静化している。
(iii) 米国に対しては,「米帝国主義」非難の基本姿勢は崩していないが,行方不明米兵(MIA)捜索問題に柔軟な姿勢を示し,米国もこれを歓迎,プーン副首相兼外相とアマコスト米国務次官,スリウォン副外相とウォルフォヴィッツ米国務次官補の会談がそれぞれ行われた。また我が国を始め,豪州,スウェーデン等とは経済協力を中心に良好な関係が継続した。
(c)経済
85年のラオス経済は,第1次経済・社会開発5か年計画の最終年として食糧の自給の一応の達成等の成果を見たが,財政赤字,都市部における消費物資の価格高騰等の問題が継続した。
ヴィエトナムとの間では,依然として未解決のカンボディア問題が関係発展を阻害しており,関係は全体としては停滞したまま推移した。
カンボディアとの間では,我が国は引き続き民主カンボディア連合政府を支持しており,また,難民に対しては,国際機関等を通ずる人道援助を継続した。
ラオスとの間では,経済協力等を通じ友好関係が維持・強化され,また,9月には国連において,プーン副首相兼外相と安倍外務大臣が会談した。
<要人往来>
<貿易関係>
<民間投資>
<経済協力(政府開発援助)>