3.地域情勢の動向
(1)アジア・大洋州情勢
(イ)韓国では,大統領選出方法に関する改憲問題を巡り,政府・与党と野党・反政府勢力との対立が表面化した。野党第1党の新韓民主党は,86年2月,大統領直選制を求め「1千万人署名運動」を開始し,各地で支部結成大会を開催した。この中で仁川(5月)では反米色を鮮明にした学生と新韓民主党との意見対立も表面化した。外交面では,全斗煥大統領の2度目の訪米(85年4月),初の欧州(英国,西独,フランス,ベルギー)歴訪(86年4月),また86年5月には英,加両国首相が訪韓するなど,活発な首脳外交を展開した。なお85年の経済成長率は,5.1%にとどまったが,86年に入り輸出の伸長が見られた。
北朝鮮では,依然経済の不振が看取された。85年10月以降,4度にわたり経済関係閣僚等の更迭が実施され,第3次7か年計画に向けた準備が進められた。他方,金正日後継体制造りが一層本格化した。また外交面では,金日成主席の訪ソ(84年5月)以来,ソ朝緊密化が進展し,85年8月の朝鮮解放40周年祝賀行事へはソ連党・政府及び軍代表団等が参加し,86年2月にはシェヴァルナッゼ外相がソ連外相として初めて訪朝し,85年4月以来3度目のソ朝共同コミュニケを発出した。
南北対話は,赤十字会談,経済会談に次いで,85年7月から国会会談予備接触が,10月からは88年ソウル・オリンピックの開催方法討議のためスポーツ会談が,それぞれ行われた。また,9月には分断後初めて南北赤十字故郷訪問団及び芸術団のソウル・平壌相互訪問が実現した。しかし,86年1月,北朝鮮は,「チーム・スピリット86」実施の発表に対し,南北諸対話を中断する旨通告した。
(ロ)中国では引き続き85年もトウ小平・胡ヨウ邦・趙紫陽を中心とする指導部により,「四つの現代化」を目指し,経済建設を最優先課題とする諸政策が進められた。
9月の党全国代表会議とその前後に開催された党中央委員会全体会議において,党中央人事の若返りを実施し,現行政策の継続を確認した。また,85年秋頃より再び「不正の風」是正が強調され,厳しい処罰がなされた。
86年春,第7次5か年計画(86~90年)が正式に承認され,対内経済活性化と対外開放の基本方針を堅持し,経済体制改革を推進する旨を明らかにした。また,軍事面では85年6月に軍の近代化の一環として,2年間に兵員100万人を削減することが決定された。さらに,対外的には「独立自主」の基本方針の下,引き続き積極的な外交活動が展開された。
(ハ)カンボディア情勢は,85年も政治解決への糸口が見出せなかった。ASEAN側は,ヴィエトナム軍の撤退とカンボディア人の民族自決を柱とする「包括的政治解決」を追求する姿勢を維持した。そして関係当事国の対話の糸口を見出すべく,7月のASEAN外相会議において,民主カンボディア連合政府とヴィエトナム(「ヘン・サムリン政権」の代表もヴィエトナム代表の一部として参加可)との「間接対話」の提案を行った。これに対し,ヴィエトナム側は,8月のインドシナ三国外相会議において,「1990年までのヴィエトナム軍の完全撤退」を表明するなど,種々の外交政策を行ったが,ASEANの「間接対話」提案については,これを事実上拒否し,さらに86年3月の民主カンボディア連合政府による「8項目」提案に対しても,直ちに拒否声明を発表するなど,カンボディア情勢の既成事実化を追求する同国の基本的立場に実質的変化は見られなかった。
中越間では,依然として国境地帯で緊張が続いており,関係改善につながる動きは見られなかった。
フィリピンにおいては,86年2月,20年間にわたるマルコス政権が崩壊し,アキノ新政権が誕生した。アキノ元上院議員暗殺事件(83年)以降,同国の政治・経済情勢は悪化しつつあったが,マルコス大統領は,大統領選挙を86年2月に繰り上げ実施して,事態乗り切りを図った。しかし,選挙の際不正が行われたとして,反対派の反発がみられ,かかる状況下,一部国軍によるマルコス大統領の退陣を求める動きが起こり野党側及び多数の民衆がこれに同調したことから,マルコス氏は米国に出国し,アキノ新政権が誕生した。3月にアキノ大統領は,暫定憲法を公布するとともに新憲法制定等に向けての政治日程を明らかにしたが,経済再建,共産主義勢力への対処等,課題は大きい。
(ニ)南西アジアでは,ガンジー=インド首相の内外両面にわたる積極的な施策が顕著であった。ガンジー首相は,84年末の総選挙で築いた強力な政治的基盤を背景として,内政上の懸案であったパンジャブ問題(同州シク教徒の自治権拡大運動,7月に覚書に合意)及びアッサム問題(同州原住民と流入民の対立,8月に合意)に取り組んだ(ただし,パンジャブ州では,覚書内容の実施を巡り,依然緊張が存在)。経済面では,80年以来の経済自由化政策を一層推進した。外交面では,対ソ重視に変化はない(ガンジー首相は最初の訪問先として5月訪ソ,10月国連総会出席の帰途モスクワに立ち寄り)ものの,ガンジー首相の訪米(6月),国連総会の際の印米首脳会談(10月)を始め,米国との関係密接化の動きが看取された。
パキスタンでは,12月に8年半振りに戒厳令が撤廃され,民政への移管が実現された。印パ関係は,数次にわたる首脳会談等関係改善の動きが見られ,特に12月には両首脳間で原子力施設の相互不攻撃が合意された。
またアフガニスタン問題に関して,国連の仲介により,パキスタン・アフガニスタン間接会合(6月,8月,12月,ジュネーヴ)が行われたが,問題解決の鍵である撤兵問題については実質的な進展は見られていない。
スリ・ランカのシンハラ・タミル民族紛争は,年央,インドの仲介もあり一時沈静化を見たが,必ずしも安定してはいない。
南アジア地域協力(域内7か国参加)については,12月にダッカで初の首脳会議が開催され,南アジア地域協力連合(SAARC)が発足した。
(ホ)豪州のホーク労働党政権は,MXミサイル実験対米協力問題(2月),税制サミットの不調(7月)等の困難を乗り切った。他方,野党自由党では,ハワード前蔵相が党首に就任した(9月)。対外面では,日米等先進工業国及び近隣のアジア・太平洋諸国との関係重視を堅持している。
ニュー・ジーランドでは,米艦船入港拒否(2月)以来,米国との間の不協和音が続いており,12月には非核法案が議会に提出された。
南太平洋地域では,8月,第16回南太平洋フォーラムにおいて南太平洋非核地帯条約が採択されたほか,同月,ソ連がキリバスとの間で漁業協定を締結するとの動きが見られた。
(2)米州情勢
(イ)米国のレーガン政権は,経済回復に支えられ,また国防力増強等により,「力と威信の回復」に成功した第1期目の実績を踏まえ,第2期に入ってもその路線を継続する姿勢をみせている。アキレ・ラウロ号事件の処理(10月),米ソ首脳会談の開催(11月)等は,レーガン大統領の国内での威信を高めた。他方,対ニカラグァ反政府勢力援助問題,予算・貿易問題等を巡る動きは,第2期レーガン政権の議会運営の難しさを示した。特にグラム・ラドマン・ホリングス法(12月成立)の下で,財政赤字を削減しつつ,国防力増強を図り得るのかが注目されている。なおレーガン大統領の支持率は,ほぼ60%を超える高水準(世論調査)を維持している。
(ロ)カナダでは,マルルーニー進歩保守党政権が,連邦・州首相会議,国民経済サミット等を通じ,対話路線を鮮明にするとともに,規制緩和等を通じ,経済再活性化に取り組んだ。また対外面では,対米関係を重視し,北米防空システムの近代化に合意し(3月),また米加自由貿易交渉の開始に踏み切った。
(ハ)中米情勢は,85年も依然として厳しい状況の下に推移した。
メキシコ,パナマ,コロンビア,ヴェネズエラからなるコンタドーラ・グループは,85年も中米問題の平和的解決のための努力を継続し,10月に中米5か国(グァテマラ,ホンデュラス,エル・サルヴァドル,ニカラグァ,コスタ・リカ)に対し,「中米和平協力協定最終案」を提示した。しかしニカラグァが署名に難色を示したことなどにより,調停は難航している。
米国は,5月に対ニカラグァ経済制裁措置を発表し,7月には,ニカラグァ反政府勢力(コントラ)に対する人道援助(2,700万ドル)の実施が議会で承認された。レーガン大統領は,86年に入り,ニカラグァ反政府勢力に対する新たな援助の承認を議会に求めている。
(ニ)85年の中南米諸国の経済は,原油等一次産品価格の低下,世界景気の停滞等により,84年に見られた改善傾向に陰りが生じた。中南米諸国の累積債務は3,680億ドル(85年末)に達し,主要債務国(カルタヘナ・グループ)は,84年6月以降4回にわたりラ米債務国会議を開催し,債権国との政治対話,高金利の是正,資金流入の増大等を訴えた。
85年から86年にかけて,ウルグァイ,ブラジル及びグァテマラがそれぞれ民政移管を果たし,中南米諸国における民主化の動きに進展が見られた。
(3)西欧情勢
西欧の政治情勢は総じて比較的安定的に推移した。その中にあって,86年3月の仏国民議会(下院)選挙において野党保守連合(共和国連合,仏民主連合)が勝利し,シラク共和国連合総裁が首相に就任し,仏第5共和制史上初めて保革共存政権(コアビタシオン)が成立したのが注目された。英国,西独,イタリアでは各国それぞれの問題に直面しつつもサッチャー,コール,クラクシ各政権ほこれを乗り切った。他方,85年にはギリシャ(6月),ノールウェー及びスウェーデン(9月),ポルトガル(10月),ベルギー(10月)等で総選挙が行われ,いずれも与党が勝利した。さらに86年2月ポルトガル大統領選挙が行われ,野党社会党出身のソアレス候補が大統領に当選した。また同3月にはスペインでゴンサレス社会党政権によりNATO残留国民投票が行われ,残留投票が多数を占めた。なお,2月にパルメ=スウェーデン首相が暗殺されカールソン首相が就任した。
85年の欧州主要国の景気は全体として穏やかな上昇傾向を続け,物価上昇率は鈍化した。しかし失業率は依然高い(ギリシャを除くEC9か国平均失業率,約11.1%,85年12月末)。
またスペイン,ポルトガルが,86年1月,ECに正式加盟し,加盟国は12か国となった。
(4)ソ連・東欧情勢
(イ)ゴルバチョフ書記長(85年3月書記長就任)は,政治局,書記局,閣僚,地方における人事異動を活発に行い,短期間に自己の権力基盤の強化を図った。主要な人事異動としては,チーホノフ首相の解任とルイシコフ政治局員の首相就任,ライバルとされていたロマノフ政治局員兼書記,グリシン政治局員の解任,リガチョフ,ザイコフ両書記の政治局員兼任があげられる。
ゴルバチョフ書記長は,内政上の最重要課題として経済活性化に取り組んでおり,今後の15年間(1986~2000年)で,国民所得の倍増(年率で4.7%増)目標を掲げた。そして,首相を始めとする政府・党の経済関係者の人事異動,(自己)批判キャンペーン等による規律強化,経済管理機構改善,科学技術進歩促進等の諸施策をとり,かかる諸施策は,第27回ソ連共産党大会(86年2~3月)でも確認された。なお,ゴルバチョフ書記長は,中央計画経済制度の長所を活かすことを,経済改革の本質としており,現在のところソ連経済制度の基本的枠組みが変更される兆しはない。
外交面でも,外相,外交担当書記,在外大使等,活発な人事異動が行われた。ゴルバチョフ書記長は,米ソ首脳会談(11月)に応じるなど,米ソ関係に重要な関心を払っており,党大会演説でも米ソ関係に多大な部分を充てている。同時に,ゴルバチョフ書記長は,米ソ首脳会談に先立って訪仏し(10月),また,シェヴァルナッゼ外相訪日(86年1月)等にうかがわれるように,西欧,日本,中国等周辺諸国との関係改善を求める姿勢を示した。
(ロ)東欧諸国については,ゴルバチョフ書記長就任後,ソ連との首脳間相互訪問,ワルシャワ条約延長決定(85年4月)及びワルシャワ条約諸国首脳会議の数度にわたる開催等を通じてソ連・東欧諸国圏内の結束強化が図られた。
東欧各国は80年代後半の政治・経済運営の基本方針の策定を行うべく,ソ連党大会と相前後して党大会を開催した(ハンガリー(第13回)85年3月。チェッコ(第17回)86年3月。ブルガリア(第13回)4月。東独(第11回)4月。ルーマニア(第13回)は84年開催済)。その結果,各国とも書記長の交替はなかったが,特に経済活性化に向けて多様な方途が模索された。
なお,ポーランドでは,戒厳令実施(81年)後初めての国会選挙が実施され(85年10月),また,ハンガリーでは戦後初めて全選挙区で複数立候補制による総選挙が実施された(85年6月)。
他方,85年は東欧諸国にとって経済5か年計画の最終年にあたったが,経済活動は全体として早ばつ,対西側輸出の伸び悩みなどもあり,84年をやや下回り83年以降の回復基調にブレーキがかかった。
なお,ユーゴーでは経済改善が依然として最大の課題である。アルバニアでは85年4月にホッジャ党第一書記が死去し,後任にアリア人民議会幹部会議長が就任した。
(5)中近東・アフリカ情勢
(イ)中束和平を巡る情勢は依然厳しい。85年2月のいわゆる「フセイン・アラファト合意」以降,関係当事者の間では種々の動きが見られた。しかし10月に,イスラエル軍によるテュニスPLO本部爆撃,パレスチナ・ゲリラによる伊客船アキレ・ラウロ号乗っ取り事件等の発生もあり,英・ジョルダン・パレスチナ対話も取り消されるなど,2月からの一連の和平プロセスは頓挫した形となった。
その後86年2月にアンマンでフセイン・アラファト間でPLOによる国連安保理決議242,338受諾を条件にPLOの国際会議出席を認めるとの構想を巡り協議が行われたが,結局合意を見るに至らず,同月19日,フセイン国王はフセイン・アラファト合意は,依然有効としつつも,PLOが信頼性と一貫性を回復するまでPLO指導部との政治的調整は行い得なくなった旨宣言した。
(ロ)イラン・イラク紛争は,膠着状態にあったが,85年3月初旬のイラク軍のイラン経済施設攻撃を機に,相互都市攻撃にまで発展,一時戦火は両国の首都にまで及んだ(6月中旬には沈静化)。
8月にイラク軍は,イランの原油輸出拠点であるカーグ島への爆撃を開始し,その後も従来からのタンカー攻撃に加え同島攻撃を繰り返してきている。これに対しイラン側は,イラク向け物資積載船の臨検・拿捕に加え,86年に入ってヘリコプターによるタンカー攻撃をも行っている。
86年2月,イラン軍は南部・北部戦線において攻撃をかけ,南部では,イラク港湾都市ファオを占領した。
(ハ)レバノンについては,85年1月,ペレス=イスラエル首相が南レバノンからの三段階撤退を発表し,6月にはイスラエル軍はほぼ撤退を完了した。
他方,南レバノンではイスラエル軍撤退後の軍事的空白地帯を巡り,各派間の争いが激化した。また,シドン内戦(4月),パレスチナ・キャンプでの抗争(5月)等の結果,シーア派の勢力伸長が顕著となり,特にTWA機乗っ取り事件(6月)では,シーア派政治組織アマルの存在が注目された。
12月には,シリア主導により,キリスト教マロン派民兵組織「レバニーズ・フォース」,アマル及びPSP(進歩社会党,ドルーズ派)の三者間で国民和解に向けての合意が成立した。しかし,ジェマイエル大統領を中心とするキリスト教系グループの反対により,和解の動きも暗礁に乗りあげたままとなっている。
(ニ)リビア問題では86年1月,米国は,ローマ及びウィーン両空港同時テロ事件(85年12月)にリビアが関与しているとして,直接貿易の全面停止等を内容とする対リビア制裁措置を発表し,西側同盟国にも同調を要請した。
地に打撃を与えた。さらに同4月には,西ベルリンでディスコ爆破事件が発生し,同事件等一連のテロ活動にリビア関与の証拠があるとする米国は,自衛の措置であるとして,トリポリ及びベンガジを爆撃した。またEC諸国も,外交官数削減等の対リビア措置を決定した。
(ホ)アフリカ諸国は,83年以来早ばつにより深刻な食糧危機に陥っていたが,各国からの緊急食糧援助,順調な降雨等により,一部地域(アンゴラ,ボツワナ,エティオピア,モザンビーク及びスーダン)を除き食糧供給状況が改善しつつある。しかし大半の国が構造的食糧不足の状況下にあり,穀物輸入への依存を余儀なくされている。また食糧の輸送,貯蔵等の問題もあり,さらに累積債務の問題等もあって,アフリカ諸国の経済危機は依然深刻である。かかる経済困難を背景に,内政が不安定化した国もあり,クーデターによる政変も発生した(ウガンダ,ナイジェリア,レソト,スーダン)。
アフリカ諸国においても,経済諸問題の克服が最大の課題となっており7月の第21回OAU首脳会議においても討議が経済問題に集中して行われ,経済危機及び食糧・農業問題の解決に向けて,各国がとるべき具体的措置を提示したアディス・アベバ宣言等が採択された。
南アでは,85年に入って,黒人居住区における暴動が一層頻発化し,これに対し,7月,南ア政府が非常事態宣言を布告(86年3月撤廃)したため,暴動と弾圧が繰り返される緊迫した状況となった。アパルトヘイトに対する国際的非難が高まり,多くの国が対南ア制裁措置を強化した。かかる状況下で南アの経済情勢も混迷を深め,9月,ボータ政権は対外債務支払いを停止した。さらに,同政権は,86年1月,内政改革案を発表するなどの措置をとったが,不安定な状態が続いた。
6月,ナミビアでは,南アの支持の下,MPC(多党会議)暫定政権が発足したが,国際社会の承認を得られず,安保理でも非難を浴びた。南アは,86年3月,同8月までにアンゴラ駐留キューバ兵の撤退についての合意成立を条件にナミビア独立の手順を決めた安保理決議435号を実施する旨発表した。