第8節 アフリカ地域

1.アフリカ地域の内外情勢

(1)概観

(イ)84年アフリカにおいては,チャード問題,南部アフリカ問題等政治問題で若干の平和的解決の動きが見られたが,大きな変化はなかった。一方,経済面では,83年後半以降の干魃は,低成長,累積債務等の経済困難に苦しむアフリカ諸国を容赦なく襲い,農業を基幹産業とするこれら諸国の困難を一層深刻なものとしている。この被害は,これまで恒常的に干魃の被害を受けてきたサヘル地域にとどまらず,東アフリカ及び南部アフリカをも含むほぼアフリカ全域に及んでいる。かかる窮状は国際的に大きな注目を集め,国連諸機関をはじめ,我が国を含む先進諸国は,食糧援助等によりアフリカ諸国の支援を活発化している。

(ロ)南部アフリカでは,84年2月に南アとアンゴラがアンゴラ南部からの南ア軍の撤退を監視する合同委員会を設立し,3月には南アとモザンビークが不可侵善隣協定を締結する等,南アと周辺諸国の間で緊張緩和の動きが見られた。他方,ナミビア問題については,5月に南ア,SWAPO(南西アフリカ人民組織)及びMPC(ナミビア域内のSWAPOを除く6政党により構成される多党会議)の各代表による三者会談が,また,7月には南アのナミビア行政長官とSWAPO議長による会談が持たれ,域内関係者による協議が行われたが物別れに終わった。ナミビア問題はアンゴラ駐留キューバ兵の撤退問題を巡って依然膠着状態にある。

(ハ)チャードでは,83年8月以来戦況は膠着状態にあったが,84年フランス,リビアはチャードからの同時完全撤退に合意し撤退を開始した(リビア軍はチャードに残留している模様)。しかし,10月ブラザビルで開催されたチャード和平準備会議では,チャード政府の代表権を巡り出席したチャード国内会派の意見が対立し,和平交渉は失敗に終わった。

(2)域内協力関係

(イ)第20回OAU首脳会議は11月アディス・アベバで開催された。首脳会議冒頭,モロッコは,西サハラ問題を巡り対立するポリサリオ代表(RASD)の今次首脳会議への参加に抗議しOAUから脱退を表明,またザイールはモロッコを支持し今次首脳会議への出席を取りやめた。しかし,会議自体は継続され,「アフリカの危機的経済情勢に関する宣言」等が採択された。

(ロ)このほか,第7回西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の首脳会議が11月にトーゴのロメで,12月には,第1回中部アフリカ諸国経済共同体(CEEAC)首脳会議がコンゴのブラザビルで,また第19回中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)首脳会議が中央アフリカのバンギでそれぞれ開催された。第7回南部アフリカ開発調整会議(SADCC)は,85年1月にスワジランドのムババネで首脳会議を開催した。

(3)東部アフリカ

(イ)エティオピア

内政面では,84年9月・革命10周年を盛大に祝うとともに労働者党(党書記長はメンギスツ議長)を結成し,民政移管への歩みを始めた。

経済面では,労働者党創設大会の場で経済開発10か年計画が採択され,政権の安定化を背景に国内開発への意欲を示したが,北部では干魃被害が深刻化した。84年から85年にかけて世界各国より干魃被害に対する緊急援助が寄せられた。

ソマリアとのオガデン紛争は膠着状態にある。エリトリア及びテイグレでは反政府ゲリラの活動が散発的に続いた。

(ロ)ソマリア

内政・経済面では,近隣諸国からの難民流入問題を抱え,インフレ,外貨不足,食糧不足等経済的困難に苦しんだが,各国及び国際機関からの援助を受け,84年4月と85年1月の2度にわたる通貨切下げを行うなど経済の安定に努めた。85年3月にはパリ・クラブが開催され,ソマリアとその債権国の間でリスケが合意された。

外交面では,西側,アラブ穏健派諸国との友好関係維持に努めた。バーレ大統領は10月にア首連を訪問したほか,7月にはケニアのモイ大統領の訪問を受けた。

(ハ)ケニア

内政面では,モイ大統領はモイ体制を強化する一方,12月の独立記念日には83年に失脚したジョンジョ元憲法相の恩赦を発表する等,反モイ勢力に対しても配慮を示した。

外交面では,モイ大統領はスーダン,タンザニア,ソマリア,エティオピア,ザンビアを訪問したほか,エジプト,ウガンダ,ア首連,ザンビアの各国から大統領等の元首の訪問を受け,精力的に首脳外交を展開した。特にモイ大統領のソマリア訪問はケニア首脳として初めてのものであり,両国間の関係改善を内外に印象づけるものとなった。

経済面では,84年前半はコーヒー,紅茶の国際価格の上昇により外貨準備も増加したが,4,5月の大雨期に降雨に恵まれず,農業生産は大きな打撃を受けた。政府は各国からの緊急援助と食糧輸入により深刻な食糧不足を回避したが・その結果外貨準備の減少と財政圧迫がもたらされた。

(ニ)マラウイ

バンダ大統領の統治下に政治・経済両面で安定した政局を維持した。

外交面では,親南ア,親西欧の現実主義的基本路線を維持した。10月にはモザンビークのマシエル大統領の訪問を受けた。

経済面では,農業生産の好調を反映して,GDP実質成長率は前年に続き4%台を維持し,回復基調を順調に維持した。

(ホ)タンザニア

内政面では,84年4月ソコイネ首相が事故死し,ザンジバル島出身のサリム外相(当時)が首相に就任した。ニエレレ大統領は85年秋に予定されている大統領選への不出馬を表明した。

外交面では,84年11月ニエレレ大統領がOAU議長に選出され,アフリカにおけるその政治的影響力の大きさを内外に示した。同大統領は85年3月には英国,オランダ,ユーゴースラヴィアを訪問した。

経済面では,農業生産の不振,国際収支の悪化等困難が続いた。IMFの融資を得るための交渉は継続されたが,タンザニア側はIMF諸勧告を受け入れず,合意に至らなかった。

(ヘ)ウガンダ

内政面では,オボテ大統領は国民融和策を推進したが,反政府ゲリラ活動に悩まされた。

外交面では,西側諸国との友好関係維持に努めたが,国内の治安及び人権問題に関する米国務省エイブラムス次官補の発言を巡って米国との関係が一時ぎくしゃくした。軍事面では北朝鮮との関係強化が注目された。オボテ大統領は,4月ケニアを訪問し,12月にはザンビアのカウンダ大統領の訪問を受けた。

経済面では,東南部地方の干魃,インフレの高騰,工業部門での回復の遅れが見られたが,改訂復興計画の下で緩やかながらも着実な経済の回復が見られ,特に農業部門での回復が著しく,国際収支も黒字に転じた。同国の改訂復興計画に基づく経済政策は,84年1月に開催されたCG会議で世銀,IMFをはじめとする西側援助国の賛同を得た。

(ト)セイシェル

内政面では,84年6月行われた大統領選でルネ現大統領が圧倒的多数で再選された。一方,同月親西側と言われたフェラリ外相が辞任し,その後ルネ大統領が外相を兼任している。

経済面では,世界不況のあおりを受けて低迷を続けていた国内経済は,主要産業の観光等へ力を注いだ結果,84年に至り明るい兆しが見え始めた。

(チ)マダガスカル

大統領2期目に入ったラチラカ政権は,若干の小事件はありながら,一応安定を見せている。外交的には,全方位外交,非同盟を基軸としながらも,援助獲得のため西側への傾斜を強め,現実的,実際的な政策に変わりつつある。

経済面でも,経済活動全般にわたっていた過度な政府介入を徐々に弱めている。

(リ)コモロ

9月の大統領選挙では,アブダラ大統領が対立候補なく再選された。しかし,同大統領の政治基盤はさほど強くはなく,85年3月,同大統領訪仏中にクーデター未遂事件が発生した。

(ヌ)モーリシァス

ジャダノート首相はその指導力を強化しており,84年の内政は比較的平穏に推移した。

外交面では,84年1月にリビア公館員全員の国外退去を命じて注目を集めた。前年に引き続き経済関係を重視する外交を展開,西側への傾斜を強めた。

(ハ)ジブティ

グーレッド大統領の政治基盤は安定しているが,国内にこれと言った産業がなく,干魃の影響等もあり,次第に財政運営に困難をきたしている。

(4)中部アフリカ

(イ)ザイール

84年は,前年より推進されている「財政引締め政策」の効果が徐々に現われ始めた。この波に乗ってモブツ大統領は秋に予定されていた大統領選挙を7月に繰り上げて行うという強気の政策を打ち出し,国内の遊説も精力的に行い3選を果たした。これでモブツ大統領は政権の掌握と安定に自信を強めた。しかし,反政府グループの根絶はできず,不安定要因の残存は否めない。

なお,ザイールは対外政策にも意を用い,非同盟路線に沿って西欧側との親交に努めている。

(ロ)ルワンダ

ハビヤリマナ大統領は84年を通じ行政の効率化,緊縮財政等堅実な政策を展開,政情は安定している。

高い人口増加率に対処するため,政府は食糧増産に力をいれているが,6,8月の悪天候のため食糧不足に陥っている。

(ハ)ブルンディ

8月に同国初の大統領選挙が行われ,バガザ大統領が再選された。

現政権は財政赤字の増大,対外債務の増大等経済問題に対処するため緊縮財政をとった。他方,異常気象のため食糧不足に陥り,伝統的に食糧自給国であったブルンディは,8月には初めて食糧援助要請の対外アピールを発することとなった。

(ニ)コンゴー

7月末第3回コンゴー労働党大会が開催され,サスンゲソ大統領が再選(任期5年)された。その際,大統領自ら軍を統括する等,大統領の権限が大幅に強化された。

経済面では,82年からの5か年計画を実施中であるが,石油生産及び石油価格の伸び悩みにより,投資計画が43%カットされる等,右計画の修正を余儀なくされている。

(ホ)ガボン

84年を通じ,内政は極めて平穏裡に終始した。

外交面では,フランスとの関係正常化のため,モーロワ仏首相(当時)が3月末から4月初めにかけてガボンを訪問,10月にはボンゴ大統領の訪仏等が行われた。そのほか,9月から11月にかけて,西独,スイス,オランダ,日本,韓国へのボンゴ大統領の訪問が行われる等,内政の安定を背景として活発な外交を展開した。

(ヘ)赤道ギニア

現政権の民主化路線が国民に徐々に浸透してきたこともあり,内政は一応平穏裡に推移した。

外交面では,中部アフリカ諸国中央銀行加盟即ちフラン圏加盟により,フランス及び近隣仏語圏諸国との関係が強化された。

(ト)カメルーン

独立後22年政情は安定していたが,アヒジョからビヤ政権への移行を契機に新旧勢力の確執が4月大統領警備隊のクーデター未遂となって表面化し内外を憂慮させた。ビヤ大統領はこれを収拾し,開発計画の積極的推進に乗り出している。

経済面では,従来からの農本主義を堅持し,近年の石油生産に助けられて,健全経営を続けた。また投資法を改正して国内企業振興,外資導入,合弁企業奨励でその活性化を図っている。

外交的にも,従来からの親西側路線を維持している。

(チ)中央アフリカ

コリンバ政権は,国内に不安定要因もあるが,政情は一応の安定を見せ,国内再建に努めている。

経済面では,ボカサの失政から脱却できず,干魃,チャード難民流入の圧迫がこれに加わっており,多方面に援助を求めている。

外交面は,非同盟,全方位を軸としつつも,親西側政策を持続している。

(リ)チャード

チャード内戦は83年8月より戦況が膠着状態となり,両軍が北緯16度線をもってチャードをほぼ南北に分断する形で対侍していた。

84年9月17日,フランス,リビアはチャードからの同時完全撤退に合意したが,最終的にはリビアは撤退しなかった模様である。

他方,チャード国内各派代表が参加したブラザビルにおけるチャード和平準備会議が10月20日より開催されたが,チャード政府の代表権問題を巡り意見が対立し,和平交渉は失敗した。

(ヌ)サントメ・プリンシペ

干魃による食糧不足等,経済的には大きな問題を抱えているものの,内政は平穏裡に推移した。

(5)西部アフリカ

(イ)ナイジェリア

83年12月31日,4年余続いたシャガリ文民政権の腐敗と経済運営の失敗を理由に軍部によるクーデターが発生し,ブハリ陸軍少将を首班とする連邦軍事政権が樹立された。

爾来,ブハリ政権は,綱紀粛正キャンペーン等を強力に推進している。他方,経済の各部門にメスを入れ,緊縮予算の作成,政府関係プロジェクトの見直し,輸入規制・外貨節約等を図る一方・基幹産業の育成,「ナ」経済の大宗を占める石油の生産枠拡大を通ずる外貨獲得を図る等,経済再建に全力を傾注している。これらの経済再建のための諸施策はこれまでかなりの成果を挙げてはいるものの,厳しい輸入規制による輸入原材料の不足,製造業を中心とする操短,閉鎖が見られ,失業問題に加え,インフレも高進している。

なお現政権は,対IMF融資交渉を継続するとともに,対外債務(短期貿易債務)の繰延べを要請した。

(ロ)ガーナ

ローリングス政権は,行政能力に乏しい将校を徐々に政府より退任せしめ,経験能力を有する穏健な人物を配置している。

また,政権発足当初は,ソ連,リビア等東側諸国との関係強化を図り,東側寄りの外交を展開していたが,深刻な経済困難を乗り切るためには西側諸国の経済援助が不可欠であるとして,西側重視の外交姿勢を強めている。83年11月及び84年12月,世銀主催の対「ガーナ」援助国会議が開催され,西側主要国及び国際機関の援助を取り付けたほか,セディー貨の大幅切下げによる輸出促進策を推進する等,経済再建に努力を傾注している。

(ハ)象牙海岸

内政はウフェ・ボワニ大統領の指導の下,優れて安定している。経済面では,近年,基幹産業たるコーヒー,ココア等の国際市場価格の低迷による財政の悪化や対外累積債務等に悩まされていたが,84年,天候の回復に伴うコーヒー,ココアの収量増や債務繰延べ措置の効果もあり,一息ついた状況にある。

対外的には,フランスを中心とした西側寄りの穏健かつ現実的な外交政策を継続している。

(ニ)リベリア

内政面では,新憲法草案の採択・人民救済評議会の解散及び暫定国民議会の発足・政治活動禁止令の解除等・民政移管に向け大きく前進した年であった。

外交面では,非同盟主義を軸に近隣諸国及び米国を中心とする西側諸国との友好関係維持に努めている。

(ホ)シエラ・レオーネ

内政は,スティーヴンス大統領の下で一応安定化の傾向にある。

外交面では,特に中国との関係緊密化が図られたことが注目された。

(ヘ)ギニア

58年10月の独立以来同国を指導してきたセクー・トゥーレ大統領が,84年3月に急死した。その直後軍事クーデターが発生し,ランサナ・コンテ大佐を議長とする国家再建軍事委員会が組織され,同大佐が大統領に就任した。

新政権は,国内的には幾つかの国営企業を廃止する等,経済の自由化を推進することにより国家再建を目指している。対外的には,非同盟を標擁してはいるが,西側との経済協力を重視し,西側への傾斜を強めつつある。

(ト)ギニア・ビサオ

ヴィエイラ国家評議会議長は,内閣及び党より親ソ的分子を一掃し,権力の集中化と政権の安定に努めている。対外的には,非同盟主義を標傍しつつ,旧宗主国のポルトガル,フランス等西側諸国との関係強化を進めている。

現政権は,83年,経済開発4か年計画(83~86年)を策定,84年5月UNDP支援の下に対ギニア・ビサオ国際会議(リスボン)を開催する等,経済困難を乗り切るための努力を払っている。

(チ)セネガル

83年大統領選挙で示された国民の信任を背景としてディウフ大統領は,独自の政策を推進しつつあるが,世界不況の後遺症に加えて干魃の影響を受けた農産品の収穫の減少もあり,財政及び国際収支の赤字,対外債務増等,厳しい経済情勢下にある。この状況も一因となって,国民の不満,大学紛争,閣内不協和音,南部地方分離独立運動等が顕在化しており,民主主義が定着し,安定している中にあって不安定要因となっている。このため,ディウフ大統領は,内閣の改造等を行うとともに84年3月から4月には新農業政策を策定する等経済困難の克服に乗り出している。

外交面では,OAU内穏健派のリーダーシップをとりアフリカ諸国との善隣に努め,フランスを中心とする親西側路線を堅持する一方で,東側諸国との関係改善にも努力している。

(リ)ガンビア

国内的には80年7月のクーデター未遂事件後,緊急事態宣言下にあるが,内政は徐々に安定化に向かっている。隣国セネガルとのセネガンビア国家連合は82年発足したが,その統合は徐々に具体化しつつある。

(ヌ)モーリタニア

84年12月政変によりタヤ現政権が成立した。

経済面は,干魃,飢謹,流民,インフレ等の問題山積に加えて,鉄鉱石市況の低迷で,国際収支の悪化に苦しんでいる。

(ル)マリ

トラオレ政権は,その強大な権力を背景に一応安定を見せているが,干魃・飢謹・流民等の問題の解決と,経済困難からの脱却が急務となっている。このため,同国は,欧米諸国,国際機関との対話を進めるとともに,市場メカニズムを尊重し農業再建を図る方向を打ち出している。

(ヲ)ニジェール

クンチェ大統領の軍事政権は,11年目を迎え,行政体制も徐々に整備されてきており,安定した政権を保っている。

経済面では,国家財政の要であるウランの国際価格の低迷に加えて,84年は記録的な干魃の被害を被り経済に大きな打撃を受けた。このため,ニジェールは,国を挙げて経済再建に取り組んでおり,クンチェ大統領自身,84年11月,ローマのFAO理事会に出席し,ニジェール及びサヘル諸国に対する食糧援助要請を行うなど積極的姿勢を示している。

(ワ)ブルキナ・ファン

8月4日サンカラ元首は,政権獲得一周年を記念し,国名を上ヴォルタ共和国からブルキナ・ファンに変更するとともに国旗,国歌も変更した。

5月クーデター未遂事件が発生,8月内閣改造が行われた。

(カ)トーゴ

エヤデマ大統領の下,内政は安定的に推移し,9月には内閣の一部改造が行われた。85年度予算は前年度比6.64%増になった。閉鎖されていたガーナとの国境が6月に再開された。

(ヨ)ベナン

7月ケレクー大統領が再選され,内閣改造が行われた。

(6)南部アフリカ

(イ)南アフリカ

内政面では,84年8月,前年の憲法改正に基づき,カラード(混血)及びアジア系(インド系)住民の選挙が行われ,9月には新憲法体制が発足し,初代大統領にボータ前首相が就任した。黒人居住区では,8月末以降暴動が頻発し,政府は軍隊を繰り出して鎮圧に当たったが,85年に入っても暴動は治まらず,多数の死傷者を出した。

南アの反アパルトヘイト運動家デズモンド・ツツ司教は84年ノーベル平和賞を受賞した。ボータ大統領は85年1月25日新議会における演説で,黒人との対話の場を持ち,都市居住黒人の地位の改善の検討を約し,注目された。

外交面では,アンゴラとの間でアンゴラ南部からの南ア軍の撤退を監視する合同監視委を設置し(84年2月,ルサカ合意),モザンビークとの間で不可侵善隣協定(3月,ヌコマチ協定)を締結する等,周辺諸国との間で緊張緩和の動きが見られた。また,ボータ首相は5月末から6月にかけてポルトガル,英国,西独,ベルギー,オーストリア等の西欧諸国を歴訪した。

(ロ)ジンバブエ

内政面では,ムガベ首相のジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU-PF党)は,8月に独立後初めての第2回全国党大会を開催し,一党制国家の樹立と社会主義路線推進の方針を打ち出した。10月ジンバブエ人民同盟(ZAPU党)も第6回党大会を行ったが,以後85年に実施される独立後初の総選挙に向けて政党間の対立・抗争が展開された。

外交面では,ムガベ首相は英国(7月)及び米国(9~10月)を訪問し,故ガンジー首相の葬儀参列のため訪印(11月)したほか,ポルトガル外相,ブルガリア首相,PLO議長,タンザニア大統領等の訪問を受ける等活発な訪問・招待外交が展開された。また,特にアフリカ特恵貿易地域(PTA)首脳会議(7,12月),フロントライン諸国首脳会議(4,9及び12月)に出席する等,地域的連携のために力を注いだ。

経済面では世界不況の影響と干魃による食糧不足,外貨不足による工業生産の低下などにより経済成長はマイナスとなったが,後半降雨に恵まれ農業生産の改善が期待されるほか,鉱業生産が安定化を示し,貿易収支も改善が見られた。

(ハ)モザンビーク

前年に引き続き干魃と洪水の被害が繰り返された。この自然災害と反政府ゲリラたるモザンビーク民族抵抗運動(MNR)による破壊活動のために,第4回FRELIMO大会で示された経済開発計画も奏功せず,経済的困窮を深めた。なお,9月にIMFと世銀,12月にロメ協定に加盟した。

外交面では,東側諸国との基本的友好関係を維持しつつ,西側諸国なかんずく米国との関係を一層深めた。

また・南アとの不可侵協定(ヌコマチ協定)が締結(3月)されたが,その後もMNRの動きは活発化し,停戦に向けての収束は見られなかった。

(ニ)ザンビア

内政面では,83年に5選なったカウンダ大統領のカリスマ及び巧妙な政策により,経済の一層の悪化にもかかわらず,国内政情は比較的平穏に推移した。

経済面では,インフレ率が82年12.5%から84年20%に上昇した。対外累積債務は83年末で37億ドルに上り,84年もパリ・クラブの開催を要請し,2年連続して援助国に対し返済繰延べを求めることとなった。

外交面では,84年2月に米,南ア,アンゴラの三者会談をルサカで開催したのに続き,4月の南ア,アンゴラ間交渉,5月の南ア,SWAPO,MPC(ナミビア多党会議)による三者会談のいずれにもルサカを開催地として提供した。

(ホ)アンゴラ

国内では引き続き反政府団体UNITA(アンゴラ完全独立民族同盟)の活動が活発であった。84年2月,南アとの合意によりアンゴラ南部からの南ア軍の撤退を監視する合同監視委員会を設置し,南ア軍は同委員会の監視下に段階的に撤退を行い,85年4月に至りナミビア側への撤退を完了した。

アンゴラ駐留キューバ兵の撤退条件を巡り,米国との間で交渉が継続された。

(ヘ)ナミビア

84年5月に南ア,SWAPO,MPC(ナミビア多党会議)の各代表による三者会談が,また,7月には南アのナミビア行政長官とSWAPO議長による会談が行われ,域内関係者による問題の解決が試行される一方,米国を仲介として南ア・アンゴラ間でアンゴラ駐留キューバ兵の削減案が検討されたが,合意を見るに至らなかった。また,85年4月MPCは暫定政府の樹立構想を発表し,南アはこれを受け入れる旨発表した。

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