第7節 中近東地域

1.中近東地域の内外情勢

(1)中東和平を巡る動き

(イ)83年5月に勃発したPLOの内紛により軍事的敗北を喫したアラファト議長は,同年末ムバラク=エジプト大統領と急拠会談を行う一方,翌年2月にはフセイン=ジョルダン国王との会談を再開すること等により政治的巻き返しを図った。

(ロ)4月下旬からはアラファト派と中間派との間で和解会議が開かれ,9月15日までにパレスチナ民族評議会(PNC)を開催することを含むいわゆる「アデン合意」が成立したが,これに対し反アラファト派が反発の姿勢を深め,特にPNCの開催を巡りPLO内各派の対立が続いた。

(ハ)7月末にはソ連が中東和平提案を発表し,国連の下での国際会議開催を提唱した。一方,9月にはイスラエルでシャミール政権に代わりペレス労働党党首を首班とする労働党・リクード連立政権が成立した。

(ニ)その後9月末には,ジョルダンとエジプトが,また11月末にはイラクと米国がそれぞれ外交関係を再開した。

(ホ)かかる状況下,アラファト議長は11月下旬,反アラファト派及び中立派の参加が得られないまま,アンマンでPNCの開催に踏み切り,アラファト指導体制の再確立を図るとともに,ジョルダン及びエジプトとの関係強化の方針を強調した。

(ヘ)その後PLOとジョルダンとの間で共同行動の可能性につき協議が続けられたが,85年2月11日には,安保理決議を含む国連諸決議に基づき全占領地よりの撤退と引き換えに包括的和平を達成すること,安保理常任理事国及びジョルダン,PLOを含むすべての関係当事国の参加する国際会議を開催すること等を骨子とするフセイン・アラファト合意が成立した。

(ト)一方,ムバラク大統領は2月25日,(i)まず米国がジョルダン・パレスチナ合同代表団との対話を始め,(ii)炊いでジョ・パ合同代表団とイスラエル代表団との対話を行い,(iii)最後に国際会議を開催することを骨子とするいわゆる「ムバラク提案」を明らかにするとともに,3月12日にはレーガン大統領と会談を行い,ジョ・パ代表団との対話開始の必要性を説いた。これに対し,当初米国側は明確な態度を示さなかったと言われるが,その後4月13日よりマーフィー米国国務次官補が中東諸国を歴訪し,和平プロセスの新たな進展を模索した。

(2)レバノン情勢

(イ)84年3月12日からの国民和解会議,4月19日のジュマイエル大統領とアサド=シリア大統領との会談を経て,4月30日カラミ元首相を首班とする各派指導者を取り込んだ形での挙国一致内閣が成立し,治安問題,イスラエル軍撤退問題,政治改革問題に取り組んでいくこととなった。

(ロ)治安問題については,同内閣は各民兵のベイルート撤退,レバノン南部への政府軍展開を骨子とした治安計画を7月,11月の二度にわたって決定した。特に7月の治安計画決定直後には治安は若干改善の兆しを見せ,空港や港が再開されたが,9月20日には東ベイルートの米国大使館爆破事件が発生し,またその後も外国人の誘拐や民兵間の銃撃戦が発生しており,85年に入り再び治安は悪化した。また政府軍の展開についても,その予定地域にはドルーズ派の地盤であるアレイ・シュフ地区が含まれていたことから,同派の強い反対を受け,順調に進展しなかった。

(ハ)一方,イスラエル・レバノン撤兵協定が84年3月に廃棄された後,11月より国連の傘の下,イスラエル・レバノン両政府間でイスラエル軍の撤兵問題に関し直接交渉が始まったが,イスラエル北辺の安全保障措置について意見が対立し,実質的進展が見られなかったため,85年1月14日イスラエル政府は,レバノンに駐留しているイスラエル軍を三段階に分けて撤退させる計画を決定した。同計画に従い1月20日より第一段階(西部戦線)の撤退が開始され,2月16日に完了した。続いて3月3日閣議において第二段階(東部戦線)の実施を命ずることが決定され,撤退が開始された。

第一段階撤退実施前後より,シーア派による対イスラエル軍テロが多発し,イスラエルもこれに対する取り締まりを強化したため,レバノン南部における両者間の対立が先鋭化した。

(ニ)また,政治体制の改革問題の協議のため9月に設置された憲法委員会等の諸委員会は何ら実質的活動を行わなかった。

(3)イラン・イラク紛争と湾岸情勢

(イ)84年のイラン・イラク紛争は,2月及び10月にイラン側が攻勢をかけ,3月末以降イ・イ双方による船舶攻撃が継続されたが,全般的には,従来からの膠着状況に変化が見られなかった。

イラン側は,2月中旬より北部・中部で攻撃を開始し,引き続き南部戦線のファッケ及びバスラ近郊で大規模な進攻作戦を展開したが,人海戦術に依存したこともあり,イラク側の堅固な防衛体制により,結果的に大量の人的被害を被った。イラン・イラク双方の都市攻撃も激化し,民間人にも多数の犠牲者が出たほか,IJPCプラントも被弾した。また,3月には,国連の現地調査が行われ,イラン領内における化学兵器の使用が確認された(我が国はこれを遺憾とする外務大臣談話を発表)。

6月5日のイラク軍によるバーネ攻撃を発端として,6月上旬には,一時鎮静化していた相互都市攻撃が行われ,事態の悪化が憂慮されたが,9日デクエヤル国連事務総長がイラン・イラク両国に文民区域相互不攻撃を提案,翌日両国はこの提案を受諾し,12日以降実施に移された。その後,10月中旬イラン軍は中部戦線で中規模の地上攻勢を行い,自国内の被占領地を回復しつつ進攻したが,その後イラク軍が反撃に出てイラン側拠点の幾つかを奪回した。

ペルシャ湾においては,2月のイラン側陸上攻勢と軌を一にして,イラクがカーグ島封鎖を宣言,以後カーグ島向けタンカーへの攻撃を本格化した。これに対しイラン側もクウェイト向けのタンカー等に報復攻撃を加えたため,5~6月をピークに緊張が高まった。以降11月までは,徐々に平静化したが,12月に至り再び双方の船舶攻撃が激化した。

(ロ)85年に入り,イラクは従来の専守防衛策から戦術転換を図り,1月末頃から小規模,限定的攻撃を行っていたが,3月4日アフワズ及びブシェールを航空機にて攻撃した。イランは,この攻撃を84年6月の文民区域相互不攻撃合意違反であるとして非難,同攻撃に対する報復としてバスラを砲撃し,以後4月7~9日のデクエヤル国連事務総長のイラン,イラク訪問まで,イ・イ双方による激しい相互都市攻撃が続けられ,双方の首都を含めイラン側約50都市,イラク側約30都市が攻撃を受けた。3月11日には,イラン軍が歩兵主体の戦力をもって,チグリス河東岸地域に侵攻,一部は西岸に進出したが,14日頃からイラク軍が反攻を開始し,18日頃までには侵入したイラン軍をほとんど撃退した。

84年12月に激化した船舶攻撃は,85年1月も頻度が高かったが,2月以降継続されているものの,緊張の度は下がった。

(ハ)このような情勢の下,湾岸協力理事会(GCC)は,イラン機によるクウェイト,サウディ籍船への攻撃を契機として,84年5月17日,GCC緊急外相会議を招集し,かかる攻撃を非難するとともに,国連安保理でも,タンカー攻撃に関する決議を成立させた(同31日)。さらに,11月の第5回首脳会議の前後,紛争調停を試みたが成果は挙がらなかった。

また,9月の国防相・外相会議で「防衛政策ペーパー」を採択,上記首脳会議でGCC共同防衛軍の創設を決定した。

(4)アフガニスタン情勢

ソ連軍(11万名強)のアフガニスタン駐留は84年も依然継続しており,アフガニスタン各地でソ連軍・カルマル政権側と反体制勢力との戦闘が続いた。また,パキスタン及びイランは大量のアフガニスタン難民を受入れ,大きな困難に直面する状態が続いている。

本問題の解決については,コルドベス国連事務次長が4月にパキスタン,アフガニスタン,イランを訪問し話合いを続けたほか,8月にジュネーヴにおいて国連の仲介の下でカルマル政権・パキスタン間の間接対話が行われたが,見るべき成果は挙げ得なかった。

我が国は,ソ連の軍事介入は国際法及び国際正義に反するものであり,アフガニスタン問題の解決には,(イ)ソ連軍の全面撤退,(ロ)アフガニスタンの政治的な独立及び非同盟としての立場の回復,(ハ)アフガニスタン国民の自決権の尊重,(ニ)難民の安全かつ名誉ある帰還の4条件が満たされる必要があるとの立場を機会あるたびに表明してきている。

なお,パキスタンへ流入したアフガン難民は約250万人にも達したと言われているが,我が国は,国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)及び世界食糧計画(WFP)を通じて84年度に約1,640万ドルの援助を行った。

(5)各国の情勢

(イ)エジプト

(a)就任3年目に入ったムバラク大統領は,引き続き民主主義の促進を標傍し,84年5月人民議会選挙を実施した。この選挙で,1月に合法化されたばかりの新ワフド党が議席の13%を占めた結果,与党国民民主党との間で二大政党制が成立した。また,その後7月に行われた内閣改造及び11月の国民民主党の党人事を通じ,ムバラク大統領は,自己の権力基盤の強化を図った。

他方,84年を通じ,国内の過激派には目立った動きは見られなかったが,政府による治安対策は維持され,10月には非常事態法の18か月延長が決定された。

他方,ムバラク大統領にとっての最大の課題である国内経済問題については,経常収支,財政赤字の面で,依然厳しい状況が続いている。なお,9月には生活必需品に対する政府補助金の削減等に反対し,カフル・エル・ダワールの工場労働者が騒擾事件を引き起こした。

(b)84年を通じ,エジプトは,対外的には一方で対米協調,対イスラエル和平(ただし,イスラエルとの間では依然として「冷たい平和」の関係にとどまった)を基本路線としつつ,他方で,9月ジョルダンと外交関係を再開する等,アラブ諸国との関係改善を図った。

また,ソ連との間では7月に大使を交換したが,実質的な対ソ関係の改善は見られなかった。

(ロ)シリア

(a)内政面では,83年11月以降一時,表面化した権力闘争は,アサド大統領の健康回復とともに鎮静化の方向をたどった。また,85年2月には同大統領が国民投票の結果三選を果たした。

(b)中東和平問題では,国際会議方式の支持を明確にする一方,アラファト・フセイン合意,ムバラク提案等の動きを拒否する姿勢を堅持した。レバノンにおいては,引き続きその影響力を行使し,各派間の調停等を行った。

(c)経済面では,84年も莫大な軍事費等に起因する財政赤字を湾岸産油国からの経済援助で補う形の苦しい財政運営が行われた。また,慢性的貿易赤字を背景に外貨不足が深刻化した。なお,8月にシリア北東部のデル・ゾールで新油田が発見され,今後,シリア経済に大きな影響を与えるものとして注目された。

(ハ)ジョルダン

(a)ジョルダンの最重要外交課題は,パレスチナ問題の解決にあり,これは同国の内政とも密接に関連している。

84年1月には議会を再開し,パレスチナ人の有力者である西岸住民代表の政治参加を制度的に復活させることによって,パレスチナ問題解決への積極姿勢を示した。

(b)また,フセイン国王は3月頃より次第に米国の中東政策を批判し始め,ソ連を含む国際会議の開催を提唱した。9月にはエジプトとの外交関係を再開した。

(c)さらに11月には第17回パレスチナ民族評議会のホスト国となり,中東問題の解決に向けてのPLOとの共同行動を進める意欲を示した。

(ニ)リビア

(a)84年5月反体制派によるクーデター未遂事件が発生し,その後反体制派に対する取締りが一層強化された。

(b)4月ロンドンでリビア人民事務所からの発砲事件を契機として,英国はリビアとの外交関係を断絶し,リビアは孤立化を深めた。しかし,8月のモロッコとの連合協定,9月のフランスとのチャードからの両国軍撤退の合意,85年2月の英国人人質解放等により漸次西側との関係改善の兆しが見られた。

(c)経済面では石油収入が減少し,このため新規の開発プロジェクトの多くが延期又は中止され外国人の海外送金規制も強化された。

(ホ)スーダン

(a)83年のイスラム法導入は,南部キリスト教徒住民の反発を招き,2月には南部と紅海を結ぶ石油パイプラインの建設工事が中止される等南部では混乱が続いた。

(b)また,4月の国籍不明機によるオムドルマン爆撃事件等を契機に,ニメイリ大統領は突如非常事態を宣言した。

(c)一方,同国の慢性的経済困難が,秋頃よりの干魃による食糧不足及びエティオピアからの膨大な難民の流入等により深刻化したため,国内の経済社会状況はさらに悪化した。

(d)かかる状況は,85年に入っても一向に改善されず,遂に3月末には首都において騒擾事件が起き,これを契機に4月6日ダハブ軍司令官を中心とするクーデターが発生,同9日には同司令官を議長とする暫定軍事評議会が全権を掌握した。

(e)なお,同司令官は非同盟主義,国際法の尊重,隣国との善隣関係の維持等を中心とする外交政策を今後とも堅持する旨表明した。

(ヘ)トルコ

(a)83年12月の民政移行後も国内治安は平静に推移したが,夏には東部国境でクルド反乱が発生し,大規模な鎮圧策が展開された。

(b)ギリシャとの関係は,サイプラス問題等を巡り,冷却したまま改善は見られなかったが,近隣イスラム諸国,ソ連等との積極的な経済外交が展開された。

(c)また,経済の自由化政策を積極的に推進した結果,84年の経済は5.7%の成長率を達成した。さらに国際収支の面でも輸出の伸長,資本収支の好転を反映して,赤字幅は約9億ドルにとどまったが,他方同年の物価上昇率は49.7%に達し,インフレの抑制は今後の大きな政策課題となっている。

(ト)イスラエル

(a)84年7月23日,レバノン撤兵問題,高インフレ・国際収支悪化等内外の課題を抱える中,3年振りに総選挙が実施された結果,労働党が僅差で第一党となり,9月13日労働党ペレス党首を首班とし,2大政党(労働党,リクード)に7小党を加えた挙国一致内閣が成立した。同内閣では任期50か月のうち前半25か月はペレス労働党党首が首相,リクードのシャミール前首相は外相を勤め,後半はこの両者が交代するという異例の「首相交代」制がとられることとなった。

(b)同内閣は,二大政党の立場の相異を抱えながらも,85年1月14日にはペレス首相を中心とする労働党閣僚主導で三段階によるレバノン撤兵を決定し,また中東和平問題についても,ジョルダンに「国連安保理決議242を基礎として」和平交渉を行うことを呼び掛け,和平への積極姿勢を示すとともに,エジプトとはタバ交渉を再開する等,関係改善に努めている。

(c)経済は,選挙前の放漫政策でインフレが高進したが,83年10月に実施した為替切下げが効を奏し,84年貿易赤字は25億ドルと対前年比約30%近く減少した。また新内閣は,財政赤字縮小策を打ち出すとともに,84年11月及び85年2月の2回にわたり政府,労働組合,生産者三者間でパッケージディールと呼ばれる賃金・物価・補助金に関する合意を成立させ,インフレ抑制等経済困難克服に努めている。

(チ)アルジェリア

(a)84年1月の大統領選挙で再選されたシャドリ大統領は,同年を通じ内閣の改造,地方行政区画の整備等を行い,その政治基盤を固めるとともに,人口抑制策,教育の再建,私企業の育成,農業の重視等民生の向上に重点を置いた諸政策を実施した。

(b)外交面では,非同盟中立,アラブ連帯を基本としつつも,西欧,米国との関係を含む対外関係の多角化を図っている。他方8月西サハラ問題でアルジェリアと対立するモロッコがリビアと連合国家条約を締結したことにより,アルジェリアとモロッコとの対立はさらに深刻化した。

(c)84年12月に85~89年の第四次5か年計画が人民議会で承認されたが,同計画では石油,天然ガスの輸出収入に過度に依存することなく,国内生産の拡大を図ることが目指されており,その間投資総額は5,500億DA,5年間の年平均国内総生産の増加率は6.6%を見込んでいる。

(リ)チュニジア

(a)83年末に起きた食糧暴動の収拾の後は,政情は比較的安定的に推移した。

(b)外交面では,フランスを中心とする西欧諸国との伝統的友好関係を保つとともに,アルジェリアとの友好関係を基軸としたマグレブ諸国統一に向けて努力を続けている。

(c)また,貿易収支改善のために輸出産業の振興に力を入れるとともに,国内的には南北経済格差の是正に力を入れている。

(ヌ)モロッコ

(a)84年1月には前年来の一連の物価値上げに不満をもつ民衆による暴動事件が発生したものの,その後政情は平穏に推移し,9月には総選挙が実施された。その結果,保守新党である立憲同盟が第一党となったが,各政党の処遇・入閣問題を巡る対立により組閣は遅れ,ようやく85年4月,大半の閣僚が留任する形で第2次ラムラニ内閣が成立した。

(b)西サハラ問題を巡りポリサリオとの直接交渉を拒否する同国は,アフリカにおいて孤立を深めており,8月にはリビアと国家連合条約を締結して外交的巻き返しを図ったものの,11月にはOAUからの脱退を余儀なくされるに至った。

(c)経済面では,IMFの勧告に従い,経済再建に努力したものの,累積債務問題は依然解消されないため,85年もパリクラブに対し債務繰り延べを要請せざるを得ない状況となっている。

(ル)アフガニスタン

(a)現在も11万余のソ連軍が駐留しているが,依然,全国各地でカルマル・ソ連軍と反体制ゲリラ側の戦闘が続いている。

(b)カルマル政権は対ゲリラ戦という困難に加え,政権内部にもカルマルの属する主流派パルチャム派と,タラキ,アミンの流れを汲むハルク派の派閥抗争という問題を抱えている。

(c)カルマル政権は非同盟主義を標傍しているものの,実際にはあらゆる面でソ連及び東欧諸国への傾斜を強めている。

(ヲ)イラン

(a)ホメイニ師後継者問題,土地・貿易の国有化問題,イラクとの紛争等の問題を抱えつつも,イスラム共和党(IRP)を中心とするイスラム共和国体制の基盤作りは進んでいる。しかし,体制内では,主に,経済施策を中心として,意見の相違が表面化している傾向が看取される。

(b)一貫して「東西不偏」の外交政策を追求している。国際的孤立を避けるための努力が見られ,西側諸国とは関係改善の兆しが見られたが,対米関係は依然として改善されていない。ソ連との関係では経済合同委の原則的再開が発表されたところ,両国関係の今後の推移が注目される。

(c)84年の石油輸出は,イ・イ紛争におけるタンカー攻撃の影響により,年平均で160~170万B/Dの水準であったと推定され,総じて低調であった。国内的にはインフレ傾向,失業,民生物資の配給制,輸入港における滞貨等の問題の解決が課題となっている。革命後初めて立案され,83年8月議会に上程された経済開発5か年計画は84年3月から実体的に施行されているが,議会の承認はいまだ得られていない。

(d)我が国との間では,活発な人的交流が行われ,1月の中島外務審議官のイラン訪問,4月のヴェラヤティ外相の訪日,同月のバンキー計画・予算庁長官の訪日,6月の波多野中近東アフリカ局長のイラン訪問,7月のアジジ外交委員長の訪日,8月のアルデビリ外務次官の訪日がなされた。しかし,経済関係は,対イラン輸出約17億ドル,イランからの輸入約29億ドル(往復で約46億ドル)と前年の往復約70億ドルに比し大幅の減少となった。

(ワ)イラク

(a)クルド地域での不穏な事件(9,10月),バグダッド市内爆破事件(12月)は発生したが,第2回国民議会選挙(10月)での与党バース党の勝利などフセイン政権は安定的に推移した。

(b)イ・イ紛争については,イラクがタンカー攻撃を本格化(3月~)し,他方国連事務総長提案の文民地域不攻撃を受諾(6月)する等の動きはあったが,全体としては依然膠着状況が続いた。

(c)二国間関係では,サウディ・アラビア,クウェイト,ジョルダン,エジプト等との良好な関係が続いた。また,米国との国交回復(11月)が実現したほか,軍事経済援助を通じてのフランス及びソ連との関係も緊密化した。

(d)戦争継続と統制経済生産基盤拡大の戦略プロジェクト実施の戦時経済にある。

(e)84年原油生産量は日産100~125万B/D,トルコ経由パイプラインの拡張により,前年に比し石油収入が約20億ドル増加した。

(f)84年分債権繰延ベを外国企業と合意した。新規信用供与を取付けサウディ経由パイプライン等大型プロジェクトが発注され,経済に明るい兆しが現われた。

(カ)サウディ・アラビア

(a)3年目を迎えたファハド政権は,内政面では,引き続き伝統的ラインに沿ったコンセンサスを重んじる慎重な政策運営を行う一方,国王自ら有力部族代表や宗教界長老との接触,国民との対話の積極的推進等により,政権は安定的に推移した。

(b)外交面では,レバノン問題については,自らの直接的関与を控えて当事者間の交渉を見守るとの姿勢を示し,イラン・イラク紛争については第三者による仲介努力を側面支援する等,サウディ本来の慎重な外交に終始した。

(c)石油収入の落込みが続く中,4月に発表された84/85年度予算は2年連続の赤字予算となり,決算ベースでも約130億ドルの赤字となったが,右は在外資産の取崩しにより補填された模様である。85年3月には歳入・歳出ともに2,000億リアル(約554億ドル)の85/86年度予算が発表された。

85年3月総額1兆リアルの第4次5か年計画予算が発表されたが,その中で大型建設部門の目標成長率は2.8%のマイナスとなっている。

(ヨ)クウェイト

(a)83年12月の連続爆破事件の教訓から政府は治安強化策を実施してきたが,以後の内政は比較的平穏に推移した。85年2月には独立以来6回目の総選挙が行われ,3月には新内閣が成立した。

(b)11月に第5回湾岸協力理事会(GCC)首脳会議を主催したほか,緊急アラブ外相会議出席,タンカー攻撃に関する安保理審議への参加等,GCCの活動で中心的役割を演じた。なお,アラブ外相会議7人委員会の代表としてサバ一八外相が訪日している。

(c)平均原油生産量は約100万B/Dを維持するにとどまった。また,株式市場問題の後遺症,イ・イ紛争の長期化,湾岸諸国経済の停滞もあり,クウェイト経済は全般に停滞基調にあった。また3年連続の緊縮型赤字予算を余儀なくされ,公共料金値上げ,補助金削減等が行われた。

(タ)アラブ首長国連邦

(a)内政面では,特に重大な事件もなく極めて安定的に推移した。5月,6月の2度にわたり連邦最高評議会が開催され,連邦化問題,国内問題等が検討された。

(b)84年外交において注目されるのは,11月の中国との外交関係樹立である。イラン・イラク紛争については,引き続き早期解決を求める姿勢を示している。また,パレスチナ問題に関しては穏健派主導のPLOを支持しており,11月のアンマンでのPNC会議に際しては,PNC支持を明らかにするとともにオブザーバー派遣を行った。

(c)経済面では,3年来のオイル・グラットに伴う石油収入の低迷傾向を反映して・連邦及びアブダビ首長国予算の赤字計上,歳出圧縮に起因する新規プロジェクトの削減等,全体的に不況色が強まった。

(レ)オマーン

(a)順調な経済実績に支えられたカーブース政権は,国王に対する国民の信望を背景に安定している。

(b)外交政策の基調は対米関係の重視とGCC諸国間域内協力である。米国との間では共同軍事演習の実施等親密な関係を維持しており,GCC諸国との関係では,GCC諸国首脳会議においてオマーンに対する軍事援助が再確認された。

(c)石油生産は年間を通じて日量40万バーレルをやや上回る水準を維持している。原油収入はインフラ施設等への活発な投資に利用されたが,投資資金不足のため上述のごとく4億ドル程度の借入れが行われた模様である。経済成長率は前年(5.04%)をやや上回ると予想される。

(ソ)カタル

(a)世界的な石油市況のグラットはカタル経済の先行きにも影響を及ぼしているが,ハリーファ首長の施政は広く国民の支持を得ており,体制は安定している。

(b)外交面では,独立以前より深いつながりを持つサウディ・アラビアをはじめとするGCC諸国との善隣友好関係の維持・強化に努めた。またハリーファ首長は,パキスタン,インド,韓国,日本のアジア4か国訪問を行ったほか,コモロ,ニュー・ジーランド,シンガポールとの外交関係を樹立し,諸外国との関係拡大を図った。

(c)政府は6月,BP及びCFPと開発協定を締結し,11月には新国策会社QALIGASを設立して液化天然ガスの開発生産に着手した。天然ガスの開発は石油以後の主要な収入源としてカタルが期待をかけているプロジェクトであり,今後の進展が注目される。

(ツ)バハレーン

(a)為政者アル・ハリーファ家(スンニー)は宗教的には少数派であり,人口の70%強を占めるシーア派対策が内政上の最大課題である。こうした背景もあり4,5月以来の相次ぐタンカー攻撃事件をきっかけに,出入国管理面で厳しい措置をとった。

(b)外交面ではサウディ・アラビアの外交政策と歩調を合わせており,特にサウディ・バハレーン間の橋梁完成後はますます両者の関係が緊密化することが予想される。

(c)経済面では,金融関係企業の誘致に力を注ぐ一方,GCC関連プロジェクトの自国への誘致に努力している。また株式取引所の設立準備が進んでおり,85年には取引が開始される見込みである。

(ネ)南イエメン(イエメン民主人民共和国)

(a)内政面ではアリ・ナーセル大統領のリーダーシップに変化はなく平穏に推移した。

(b)外交面では,基本的に従来のソ連寄り路線を維持しつつも,西側・湾岸諸国との関係改善に努めている。特にフランスは84年経済援助(空港近代化,テレビ局新設)を供与。83年の関係改善以来オマーンとは国境画定委員会,北イエメンとは各種の合同委員会を開催している。

(c)経済面では,外国・国際機関援助と海外出稼ぎ者からの送金依存体質は変わっておらず,主たる産業である漁業の不振から第二次5カ年計画(81~85年)の開発資金が慢性的に不足している。

(ナ)北イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a)積極的中立主義,非同盟,アラブ,イスラム世界との連帯の基本方針を掲げている。ユーゴ(2月),インド(10月),UAE(10月)各大統領の訪問があったほか,サナアにおいてイスラム諸国外相会議が開催(12月)された。

(b)小規模内閣改造(11月)はあるも,サーレハ政権は安定的に推移した。

(c)サーレハ大統領の訪ソとイエメン・ソ連友好協力条約(10月)調印。南北イエメン関係では,イエメン最高評議会が開催(2月アデン,12月サナア)された。サウディ・アラビアとの友好関係は変わっていない。

(d)東部ジュフで米国のハント社が商業規模(7,800B/D)の原油の生産を開始しており(7月),推定では今後30万B/Dに増産する可能性がある。原油生産で将来のイエメン経済は大きく好転する見込みである。

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