第6節 ソ連・東欧地域

1.ソ連・東欧地域の内外情勢

(1)ソ連

(イ)内政

(a)85年3月,チェルネンコ書記長が就任後わずか13か月で死去し,ゴルバチョフ新政権が誕生した。

(b)チェルネンコ書記長については,84年2月就任の当初から健康問題が取沙汰されていた。チェルネンコ書記長は,84年7月中旬の夏休み及び12月末以後それぞれ2か月間公衆の前に姿を見せず,85年1月中旬のワルシャワ条約(WP)首脳会議の延期,2月22日ロシヤ共和国最高会議選挙集会への欠席等があり・その健康状態が深刻であると見られていたが,ソ連側の発表では,85年3月10日,肺気腫が原因の心肺不全と慢性肝炎の併発により,73歳で死去した。

(c)チェルネンコ政権下のソ連の内政を振り返ってみると,基本的にはそれ以前の政策の継承であったと言える。チェルネンコ書記長が自らの政策として努力した跡が窺われるのは,イデオロギー政策であり,規律強化・愛国心高揚・ブルジョア文化の排撃等のキャンペーンが展開され,また次の第27回党大会を目ざして,党綱領及び党規約の改正にも自らのイニシアティブを発揮した。

(d)ゴルバチョフ政治局員兼書記は,84年2月のチェルネンコ政権の成立とともに党内ナンバー2の地位に就いたと見られており,イデオロギー,農業,党組織及び経済計画の広範かつ重要な分野を管掌した。84年12月には全ソ・イデオロギー会議においてソ連内政・外交全般にわたる長大な演説を行い,また,同月,英国を訪問した。こうした経緯から,ゴルバチョフ政治局員は,従来から最も有力な書記長候補と一般に目されていたが,他方,党・国家官僚組織の既得権益を代表すると目されている老齢グループあるいは若い世代の他の指導者の動きに注目すべきとする見方もあり後任書記長人事が世界の関心を呼んだが,結局,死亡発表(11日14時)後異例の早さで,3月11日18時すぎ,党中央委臨時総会において,ゴルバチョフが新書記長に選出された旨発表された。

(e)ゴルバチョフ政権は,その内外政策において従来の基本路線の継承を宣言しており,人事更新,規律強化及び経済実験等の諸分野でアンドロポフ路線を継承しつつ,最大の課題である経済の建直しを図るため漸進的改革を目指すものと見られる。

(f)ゴルバチョフ新書記長は54歳で政治局員の最年少であり,アンドロポフ,チェルネンコのごとき前任の老齢指導者の場合と異なり・時間をかけて徐々に自己の基盤を固めてから本格的な政策にとりかかる余裕があるとみられている。その過程において,社会の改革志向の中堅指導層の支持を期待し得る反面,既成勢力と旧来の生活スタイルに安住している大衆からの消極的抵抗をいかに克服するかの問題をつねにかかえることになると予想する向きもあり,今後のゴルバチョフ書記長の手腕が注目されている。

(ロ)外交

チェルネンコ政権は,デタントの再構築の必要という課題を引き継いだ。この課題に対し,ソ連は初め軍備管理問題について強硬な姿勢をとることにより米国及び西欧等自由民主主義国に圧力をかけ,米欧分断,西側各国の政府と世論の分断を通じ,米国の譲歩を求めていくとの方針をとったが,この戦術は奏功しないことが84年夏には明らかになった。そのためもあり84年9月グロムイコ外相訪米後ソ側は「対話」路線に転換することとなった。

85年3月,ゴルバチョフ新書記長は就任演説において「最近の中央委諸総会にて作成された戦略路線は従来通り不変である」旨述べ,基本的対外路線には変更がないことを明らかにした。

(a)対米・対西欧関係

84年の対米・西欧外交は,軍備管理・軍縮交渉の中断に伴う厳しい関係の中で,レーガン大統領の反ソ・反共的姿勢を強く非難し,INF撤去なくして交渉なしとの形で話し合いを拒否し,西欧配備INF撤去への欧米世論への働きかけを強めることにより,米国の政策変更への圧力を強めんとした。

しかし,ロンドン・サミットでは西側の結束が示され,西側の共通の政策として対ソ「対話」推進の方針が打ち出された。その前後にソ連を訪問した西欧各国首脳(ゲンシャー西独外相,ミッテラン仏大統領,ハウ英外相)はいずれも米国のINF配備を強く擁護した。他方,ソ連が期待をかけた反核平和運動も,結局のところ決定的盛り上りを欠いたままで下火となった。

かかる情勢の下で,チェルネンコ政権としても方針の転換を余儀なくされ,84年9月のグロムイコ外相訪米以来,ソ連の西側に対する対話を中心とした「平和攻勢」路線に移行した。

85年1月のグロムイコ・シュルツ会談により,米ソはジュネーヴにおける軍備管理・軍縮交渉のテーブルに着くこととなった。

また,ゴルバチョフ政治局員の訪英(84年12月),グロムイコ外相のイタリア,スペイン訪問(85年2―3月),シチェルビッキー政治局員の訪米(3月),ゲンシャー西独外相の訪ソ(3月),ジミャーニン書記の西独訪問(3月),デュマ仏外相の訪ソ(3月)は,ソ連の「対話」への移行の線上でとらえるべきものであり,ゴルバチョフ新政権によっても右路線は継続されるであろう。

(b)対東欧関係

ロンドン・サミットにおいて西側諸国の結束が示されたのに対抗して,ソ連は,84年6月コメコン首脳会議を開催して東側の団結強化を図った。しかし,84年秋には,ホネカー(東独),ジフコフ(ブルガリア)両国家元首の西独訪問計画をソ連が阻止する動きが見られたこと等,ソ連・東欧諸国間の不協和音を感じさせる動きがあった。

なお,東欧ブロックの支柱であるワルシャワ条約は85年6月の期限切れ以前に延長措置がとられるものと思われる。

(c)対アジア関係

中国に対しては,チェルネンコ時代においても,82年3月のブレジネフ・タシケント演説に端を発する関係改善路線を踏襲し,84年3月,10月に外務次官級の政治協議が実施された。中国側の要求する3条件に対しては譲歩の姿勢を見せていない。しかし,延期されていたアルヒポフ第1副首相の訪中が84年12月に実現したことや85年3月の中国全人代代表団の訪ソに見られるごとく,貿易,人的交流は引き続き拡大の傾向にある。

ソ朝関係においては,84年6月金日成主席の訪ソが23年振りに実現し,さらにカーピッツァ外務次官が11月訪朝し,ソ朝間国境条約にイニシャルしたこと等,ソ朝関係に一定の進展が見られた。

インドとの関係では,ラジブ新政権との間に安定した友好関係の維持を目指しており,85年3月ゴルバチョフ書記長はラジブ首相と会談したほか,5月には同首相の訪ソが予定されている。

フィリピンとの関係では,チェルネンコ葬儀に参列したイメルダ・マルコス大統領夫人とゴルバチョフ書記長が会談を行い,またフィリピン訪問招請を受諾するなどASEANへの関心を示した。

(d)対中東関係

ソ連は84年7月に,基本的にはアラブ首脳会議のフェズ提案と大差のない国際会議方式による中東和平提案を打ち出した。

また,エジプトとの大使交換の再開,対クウェイト,ジョルダン軍事援助等により,いわゆる穏健派アラブ諸国への接近に意を用いた。

アフガニスタン問題に関するソ連の立場には変化は見られない。

(e)その他の地域

中南米では,84年10月キューバにおいて初のコメコン総会を開催し,また同国との間で新しい経済協力協定を結ぶ等関係強化に努めた。アフリカ諸国との関係は一般に低調であり,エチオピアとの友好協力関係の強化に力を注ぎ,党レベルにおいても交流を深める等の努力が目立つ程度である。

(ハ)経済

(a)84年はおおむねチェルネンコ政権の1年であったが,同政権はアンドロポフ前政権の経済政策,すなわち経済効率の向上のため先進技術の導入促進,諸資源,原材料の節約,労働生産性の向上,経済システムの改善等を図るとの方針を基本的に踏襲し,その具体的施策についても前政権同様労働規律の引締め,生産現場の自主性の拡大,新経済管理・運営システム(計画立案,生産活動における企業の自由裁量の拡大等)の実験等の諸措置を引き続き実施した。

(b)このような経済施策の下に,84年の鉱工業生産は計画3.8%増(うち生産財生産3.7%増,消費財生産4.0%増)に対し,実績4.2%増(同上生1%増,4.3%増)と計画を上回る成績を示したが,農業総生産は計画6.4%増には遠く及ばず,ゼロ成長にとどまった。この結果,国民所得の伸びは2.6%と計画(3.1%)未達成となり,前年実績をも下回る結果に終わった。

(c)84年の鉱工業生産が比較的良好であった背景には,アンドロポフ政権以来の労働規律の引締め等の即効策による面もある程度あると見られるが,石油,石炭,鉄鍋等の主要鉱工業部門の長期的不振傾向は依然解消されておらず,また農業生産も引き続き停滞状態にある。

このような不振の要因としては天候不順が挙げられているが,より基本的には労働人口の伸びの鈍化・エネルギーをはじめ諸資源・原材料の生産地の遠隔化,農業の生産基盤の脆弱性等の長期・構造的要因によるものであり,さらには新技術の導入の立遅れ,労働意欲の減退,原材料,資源,資金等の無駄使い等,計画経済体制そのものに根差す諸欠陥に原因が求められよう。上記の諸施策はまさにこのような諸困難,諸欠陥の除去を目指したものと言えようが,現在のところ十分な効果を挙げ得ていないと見られる。

(d)なお,ゴルバチョフ新政権も基本的には上記の経済政策を踏襲していくとの方針を明らかにしている。

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