第5節 西欧地域

1.西欧地域の内外情勢

(1)概観

(イ)84年は,主要西欧諸国において大きな国内選挙はなく,西欧は総じて安定した政治情勢であった。しかし,英国では,石炭ストが大きく問題であったほか,フランスにおいては,85年3月の県会議員選挙で与党である社会党及び共産党が敗北し,保守陣営の優位が明らかになる等不安定要因も見られた。なお,86年3月にはフランスにおいて総選挙が行われるが,同選挙の結果いかんによっては,フランスの国内政局が不安定化することが予想され,これが欧州の政治情勢にいかなる影響を及ぼすかが注目される。

(ロ)84年の西欧経済情勢は,総体的に着実な回復基調を示しているが,西欧主要国の経済指標には依然跛行性が見られ,物価上昇率は83年に比べれば軒並み若干低下したが,西独を除いては依然高い水準にあるほか,経常収支も西独を除き赤字である。また,景気の回復にもかかわらず失業率悪化の傾向にあり,産業の構造調整及び経済社会の硬直性の打破が西欧各国の重要な課題である。

(2)欧州における東西関係

(イ)北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)

83年がINFの年と言われたのに対し,84年は通常戦力強化に焦点があてられた一年であった。

ワルシャワ条約機構軍に比し,通常戦力面で劣勢にあるとの認識は,従来からNATO諸国内に一致して存在していたが,この一年間においては,欧州内の装備協力の促進,増援軍支援設備や弾薬備蓄の整備等による継戦能力の強化,さらには戦術面の改善等通常戦力強化のための努力が重点的に行われた。

一方,米INFの欧州配備問題に関しては,84年6月オランダが自国への巡航ミサイル(GLCM)配備開始の最終決定を85年11月まで延期する旨の議会決議を行ったが,ベルギーは,85年3月,予定どおり巡航ミサイルの配備を開始した。また,西独,英国,イタリア各国における配備も計画どおり進捗していると言われており,INFに関するNATOの結束は維持されている。

(ロ)欧州安全保障協力会議(CSCE:Conference on Security and Coope-ration in Europe)(アルバニアを除く全欧州諸国及び米国,カナダの35か国が参加)

83年9月のマドリッド・フォローアップ会議結論文書に基づき,欧州軍縮会議が84年1月から開催されたほか,東西の文化交流促進を図るため85年10月に予定されている「欧州文化フォーラム」の準備会議が,84年11月にブタペストで開催される等CSCEの活動も活発に行われた。

(ハ)欧州軍縮会議(CDE:Conference on Confidence and Security-Building Measures in Europe)(参加国はCSCEと同じ,開催地:ストックホルム)

欧州軍縮会議は,84年1月から開始され,85年3月までに5回の会期を終了した。欧州軍縮会議は,第一段階で,信頼醸成措置につき,第二段階で軍縮につき協議することになっており,第一段階の成果は,86年11月のウイーン・フォローアップ会議に報告される予定である。

会議開始以来東側諸国,西側諸国及び中立非同盟諸国から信頼醸成措置に関する提案が出されたが,西側が信頼醸成措置の具体化に重点を置いているのに対し,東側は政治宣言的措置に重点を置いており,かかる両者の基本的立場の乖離は,会議の具体的進展を阻んでいる。

しかしながら,85年1月の米ソ外相会談に次ぐ米ソ軍備管理・軍縮交渉の開始等の国際環境の変化,84年末に設定された2つの作業部会が有効に機能していること及び86年11月のウイーン・フォローアップ会議に第1段階の政策を報告する必要があること等の各種要因が作用して,85年1月の第5会期以来,会議は活性化の傾向にある。

(ニ)中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR:Mutual and Balanced Forces Reduction)(オブザーバーを含め西側12か国,東側7か国が参加,開催地:ウイーン)

中欧相互均衡兵力削減交渉は,84年3月から85年3月にかけて第32会期から第35会期までの4回開催された。

同交渉においては,73年10月の第1回交渉以来兵力データの交換及び兵力の削減要領に関する基本的意見の対立が残っており,第32会期において西側が兵力デ一夕に関し,また,第35会期においては東側が兵力削減要領に関しそれぞれ譲歩する提案を行ったものの,交渉の実質的進展は見られず,今後とも難航が予想される。

(3)各国情勢

(イ)ドイツ連邦共和国(西独)

(a)キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と自由民主党(FDP)の連立から成るコール政権は,83年末に米・中距離核ミサイルの西独内配備を決定し同問題を巡る国論二分の危機を乗り切った。84年には,フリック社不正献金事件でラムスドルフ経済相及びバルツェル連邦議会議長が辞任し,これにより一時政府に対する信頼の低下が見られたほか,連邦議会の法案審議過程で連立与党間に足並みの乱れが散見されコール首相の指導力が問われる場面もあったが,国内政局はおおむね安定的に推移した。しかし,地方選挙や欧州議会選挙においては連立与党であるFDPの退潮及び緑の党の躍進傾向が顕著に現われ,西独内政のはらむ流動的要素として注目された。

(b)84年には,コール政権は,社会福祉の見直しを中心とする経済政策に本格的に取組み,懸案であった国内経済の再建に成果を挙げた。経済成長率は,5・6月の金属・印刷産業における長期ストライキにもかかわらず,前年を大きく上回る2.6%を達成,その主動力となった輸出は前年比20%増で経常収支は150億マルクの黒字となった。物価上昇は2.4%と過去15年来最も低い水準を記録し,財政赤字も縮小に向かっている。

他方,最大の課題である失業問題の解決については,84年も若干の改善を見たにとどまり,失業率は依然9.0%の高水準を推移し社会問題化している。このため,コール政権のほかの経済面における実績も必ずしも国民全般の高い評価につながらない嫌いがあり,今後失業問題の解決にどれだけ成果を挙げ得るかが,西独政局の行方を左右する重大な要因になると見られている。

(c)コール政権は発足当初から前政権との外交政策の継続性を強調し,米国との関係緊密化を中心とする西側同盟諸国との強固な関係に立脚しつつ,ソ連・東欧諸国との対話路線の維持発展に努めている。中でも米国との協力関係はシュミット前政権以上に重視し,84年もコール首相が3月及び11月の2度にわたり訪米している。また西欧としての独自の利益を守るため,フランスと協力しつつ西欧連合(WEU)の再活性化に努めるなど,欧州統合を積極的に推進している点が注目される。他方,対ソ関係では84年2月のアンドロポフ書記長死去の際コール首相が訪ソし,また,ゲンシャー外相も5月に訪ソしたほか,国連総会出席の機会などを利用してソ連指導部と重ねて対話の機会を維持してきている。しかしソ連は83年11月のINF西独内配備決定後西独に対し態度を硬化させ,報復主義批判キャンペーンを繰り広げたため,コール政権の対ソ・対東欧対話外交は一時行き詰りを見せ,ジフコフ議長(ブルガリア)訪独,ゲンシャー外相のポーランド訪問等予定されていた要人交流も相次ぎ延期となった。84年特に注目されたのは両独の接近振りであった。7月に西独の対東独9億5,000万マルク新規融資が成立し,引き続きホネカー議長(東独)の9月西独訪問可能性が取沙汰されて世界の関心を集めたが,これも,ソ連の圧力があってか結局無期延期となった。84年末に米ソ間に対話の兆しが見えたことに伴って,西独の東方外交も再び活動の余地を得たやに見受けられる。

(ロ)フランス

(a)84年のフランス内政は,81年5月の大統領選挙に際してのミッテラン大統領の公約の一つであるカトリック系私立学校を公立学校に編入するという「私学改革法案」を巡って大きく揺れ動いた。同法案は5月に国民議会を通過し,元老院に送付されたが,これに対し,野党である保守陣営及び私学関係者は,同法案は教育の自由に対する国家の重大な介入であるとして激しく政府を非難し,この結果,ミッテラン大統領は同法案の撤回を余儀なくされた。この責任をとって,モロワ内閣は7月に総辞職をし,ファビウス内閣が成立したが,同内閣は,経済緊縮政策,産業再編合理化政策の継続を提唱したため,景気拡大策による失業問題の解決を優先させることを主張する共産党と対立し,共産党は,ミッテラン政権成立以来内閣に送り込んでいた4人の閣僚を引き上げる事態となり,社共連合は事実上崩壊した。さらに,6月の欧州議会選挙,85年3月の県議会選挙において左翼陣営は保守陣営に敗北する等この1年間は,ミッテラン政権にとって,試練の年であったと言える。

(b)ミッテラン政権は,84年3月,自動車,石炭,造船等の構造的不況産業の再編合理化政策を打ち出したが,それに反対する労働者ストライキが鉄鋼業を中心に発生した。総じて,84年の経済情勢は,政府の経済引締め政策が効を奏し,貿易収支は223億フランの赤字(83年423億フランの赤字)となり赤字幅が大幅に縮小し,インフレ率も7.4%(83年9.6%)と沈静化しつつあるが,失業者数は増加し続け,84年末には240万人に達した。今後,産業再編合理化政策を推進しつつ,失業問題をどのように解決していくかがフランス経済の大きな課題となっている。

(c)外交面では,ミッテラン政権は,第三世界,南北問題重視の従来の外交政策を堅持する一方で,東西関係においては,西側の一員として大西洋同盟の維持強化の姿勢を打ち出している。同時に,欧州防衛の強化を目指し,独仏防衛協力を強化する一方,西欧連合(WEU)再活性化のため積極的イニシアティブを発揮している。対ソ関係では,6月にミッテラン大統領が訪ソしたが,SS-20の配備問題,アフガン問題,ポーランド問題で毅然とした態度を取る一方,ソ連との西欧における特権的対話のパイプは堅持するとの立場を維持した。

(ハ)英国

(a)過去1年,サッチャー政権にとって国内政局は容易ならざるものであったと思われる。内政上の争点は,経済政策・石炭スト(85年3月終結),GCHQ(無線傍受機関)職員の非組合化等の労働問題,地方自治体の在り方等であったが,サッチャー政権はインフレ抑制,公共支出削減,地方財政健全化,国営企業の民営化,労使関係の改善等を通ずる経済・社会体質の改革という従来の路線に基づく政策の推進を図った。

他方,労働党はキノック新党首の新鮮なイメージを売り込み,5月,6月の統一地方選挙,欧州議会選挙で善戦したが,保守党の圧倒的多数という数の壁もあって政府を攻めあぐねた感は否めない。依然として左右の党内路線争いの根は深く,特に石炭ストヘの対応を巡って左右の対立が露呈した。

また,社民・自由連合は,統一地方選挙では大幅な議席増を果たしたものの,欧州議会選挙では一議席も取れずに終わった。ただし,昨今は保守党,労働党が共に支持率を下げている分だけ支持率を増加させてきている。

(b)84年の英国経済は,成長率(2.5%程度),インフレ率(5%前後)で一応の実績を収め,経常収支も何とか黒字を確保する等,欧州経済の中ではまずまずの成績を示した。しかしながら,成長率,インフレ率ともここ1~2年足踏みの観があり,失業者数は戦後最高(約313万人,失業率13.0%)を記録した。他方,貿易収支が急速に悪化したことに加え,石油価格の先行き懸念,石炭ストの長期化への不安等からポンドが急速に低下した。

(c)外交面では,東西関係については,7月のハウ外相訪ソ及び12月のゴルバチョフ政治局員(現書記長)の訪英がソ連との対話の促進という意味で注目された。サッチャー首相は同人との会談を踏まえて,12月及び85年2月レーガン大統領と会談,来るべき米ソ軍備管理交渉,SDI等について協議した。

また,EC予算に係る対英還付金問題が一応解決され,英国は政治,安全保障,経済,科学技術等の面での欧州協力推進という姿勢を打ち出した。

香港については,1997年をもって中国に返還されることとなり,このための共同声明(資料編参照)が12月19日調印された。

(ニ)イタリア

(a)84年,クラクシ内閣は,秘密結社事件に関与した疑いのもたれたロンゴ予算相の辞任及び石油金融の疑獄事件に関わった疑いのアンドレオッティ外相に対する辞職決議案の議会提出等83年に内閣が成立して以来最大の危機を迎えたが,クラクシ首相はこの危機を巧みに乗り切り,かえって自己の政権を強化した。

(b)84年のイタリア経済は,前年同様,失業,インフレ,貿易収支の赤字という三重苦に悩まされた。しかし,クラクシ内閣は,議会及び労働組合の強い反対にもかかわらず,インフレ抑制策,税制改革を断行し,経済の回復に努力した結果,成長率は,前年,前々年のマイナス成長から3%のプラス成長に転じ,鉱工業生産も回復基調を示したのに加え,インフレ(10.6%)についても,依然高い水準にあるものの顕著な鎮静化傾向を示した。

これに反し,失業率は,依然10.4%という高水準にとどまっており,貿易収支は,巨額の赤字となっているが,これは景気回復に伴う石油等一次産品の輸入増と対ドル為替レートの悪化に伴うものである。

(c)米国,NATO,ECとの協調を外交の基軸とするとともに,中近東諸国を重視し,同地域に対する積極的な外交を展開するとの路線は84年においても継続された。ソ連,東欧諸国に対しては,サハロフ問題に関し対ソ申し入れを行う等基本的にハード・ラインをとってきているが,84年においてはこれら諸国との関係改善のための努力が行われるとともに,実務関係が進展した。

(ホ)北欧・アイルランド

スウェーデンでは,パルメ社民党政権は84年1月より実施に移された「従業員ファンド」(企業株式取得を通じた従業員による企業経営参加)を巡り保守中道政党より強い批判を受け,内政は波乱含みに推移した。

デンマークでは経済情勢が依然として厳しいところがら,シュルター保守中道政権は公共支出の削減,企業競争力の強化,中央行政の簡素化等経済の建て直しを引き続き最重要課題として政策運営を行った。

ノールウェーでは83年6月以降保守・中道による連立となったヴィロック政権は積極的に政策運営を行い,インフレの沈静化に成功し(84年6.2%),政権をさらに安定させた。

フィンランドでは,ソルサ社民中道連立政権は,82年央以降回復基調にある良好な経済情勢の下で内政外交とも極めて安定した政局運営を行った。

アイルランドでは,82年12月に成立したフィッツジェラルド政権(フィネ・ゲール党と労働党の連立政権)は,下院における安定勢力を背景に財政再建策等を意欲的に推進した。

(ヘ)ベルギー・オランダ

ベルギーでは第5次マルテンス内閣が,フラマン人とワロン人の言語対立,財政再建,INF配備問題などの難問を抱えつつも,ベルギーとしては近年異例の3年以上に及ぶ政権を維持した。財政再建については,緊縮政策に基づき財政・社会政策に関する二つの経済再建法案を84年12月及び85年1月に採択した。また,INF配備については,与党フラマン系キリスト教社会党の配備延期要請等の反対にもかかわらず,85年3月,予定どおり配備開始を決定した。

オランダでは,84年6月1日にルッベルス内閣が最大の懸案事項であるINF配備問題につき,その最終決定を85年11月1日まで延期するが,その時点での配備の枠組みを定める決定を行い,内閣崩壊の危機を回避した。財政再建問題については,世界経済の持ち直しを反映し,オランダ経済も輸出を中心に好転したことにより,85年度予算における緊縮財政政策も比較的スムースに議会の承認を得た。

(ト)中欧

オーストリアでは,社会・自由連立政権が成立2年目を迎え,シノヴァッツ首相は9月に内閣の一部改造を行う等,独自色を出すべく努めた。連立与党は一応の協調的国政運営振りをみせた。

スイスの内・外政は全体として引き続き安定的に推移した。10月には,史上初の女性閣僚(司法・警察大臣)が誕生した。

(チ)南欧

スペインでは,2年目を迎えた社会労働党政権が,経済,外交政策,社会・教育改革,テロ対策等につき,現実的な穏健路線をとり,着実に成果が現われ,85年6月には,EC加盟条約が調印された。他方,失業問題は一段と深刻化し,同政権の支持率を低下させる一要因となっている。

ポルトガルでは,ソアレス政権の連立与党である社会,社会民主両党の対立から政局が不安定となり,経済面でも,物価上昇,失業等深刻な問題が依然として存続している。他方,外交面では永年の懸案であったEC加盟の合意を成立させ,6月には加盟条約が調印された。

ギリシャでは,85年3月にパパンドレウ首相が保守系のカラマンリス大統領を辞任に追い込み,最高裁判事サルゼタキス氏を与党全ギリシャ社会主義党(PASOK)候補として擁立し,次期大統領に選出することに成功した。この結果PASOKと野党第一党新民主主義党(中道右派)の対決姿勢が高まっている。

サイプラスにおいては,トルコ系住民による北サイプラスの一方的独立,すなわち,いわゆる「北サイプラス・トルコ共和国」の既成事実化が進められ84年4月にはトルコとの間で大使交換が行われた。

一方,事態改善のため84年8月,国連事務総長は新たな仲介努力を開始し,この結果,85年1月,両系住民間の首脳会談が開催された(「国連における主要政治問題」参照)。

マルタでは,71年以来首相の座にあったミントフ首相が84年12月に辞任し,ミフスッド・ボニチ上席副首相が新首相に就任した。

(リ)ヴァチカン

84年,法王はラテン・アメリカ教会の一部が,左翼勢力と連帯してまでもおのおのの国の現実に即応した自主的な教会活動を展開しようとする傾向にあることを批判する一方,第3世界,特にラテン・アメリカやアフリカとの連帯,基本的人権の擁護,交渉による紛争解決等を訴えた。また,アジア・オセアニア諸国(韓国,パプア・ニューギニア,ソロモン,タイ),スイス,カナダを訪問する等積極的な海外司教活動を展開した。さらに,ヴァチカンは,1月の米国との外交関係樹立を皮切りに,ソロモン,セイシェル,セント・ルシア,サントメ・プリンシペとおのおの外交関係を開設し,同国の国際的地位は一段と向上した。イタリアとの関係では,2月に1927年のコンコルダート(政教条約)改訂に関する取極めに調印したほか,5月から6月にかけて,戦後初めてイタリア大統領と法王の相互公式訪問が実現する等画期的な年であったと言える。

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