第2節 大洋州地域
1.大洋州地域の内外情勢
(1)豪州
(イ)内政
83年3月に成立したホーク労働党政権は第2年目に入っても国内経済の回復,穏健かつ現実的な政策運営,ホーク首相の高い個人的人気等を背景におおむね安定的に推移したが,右期間中,同政権にとり大きな試練は7月の党全国大会(第36回)と12月の総選挙であった。
党全国大会では,ホーク首相率いる党内右派は中道左派と結束することにより多数を制し,現実路線の支持取付けに成功した。
さらに同首相は,右成功に自信を深め,労働党長期政権への道を開くべく,12月に総選挙を実施したが,野党側の善戦等もあり,勝利を収めたものの圧勝するには至らなかった。
(ロ)外交
2年目のホーク政権は,引き続き,ANZUS条約を軸とする対米関係,日本・中国・ASEAN諸国等アジア・太平洋地域との関係緊密化を重視する穏健かつ現実的な外交路線を積極的に展開するとともに,軍縮面での活動も積極的に推進した。
右路線は84年7月の党全国大会で追認され,なかんずく,隣国インドネシアとの関係では,関係緊密化への基盤が名実ともに整うこととなった。
米国との関係では,85年1月のニュー・ジーランドの核艦船寄港拒否を背景に,同2月ホーク首相が訪米し,ANZUS枠内での米豪協力関係の維持,軍縮推進の必要性等が確認された。
ソ連,東欧諸国との関係については,84年5~6月のヘイドン外相のソ連・ハンガリー訪問,また,85年3月のカーピッツア=ソ連外務次官の訪豪等を通じ対話が促進された。
また,ホーク政権が,84年8月の南太平洋フォーラム会議に提出した南太平洋非核地帯宣言案が全会一致で承認され,その条約案作りを積極的に推進した。
(ハ)経済
83年後半以降回復基調にあった豪州経済は,84年も回復過程をたどり,実質GDP成長率は83/84年度で5.3%,84年7~9月期には対前年度同期比で4.3%と順調に推移した。物価も比較的安定した動きを示し,消費者物価上昇率(CPI)は83/84年度で6.9%と前年度11.5%から大幅な改善を示した。失業率も年初の9%台から8.5%に低下した。
こうした情勢下,ホーク政権は景気回復と物価抑制の同時達成を基本目標とし,やや拡大的な財政政策,物価所得政策,通貨量M3のコントロール等を引き続き実施した。ただし財政赤字については,経済界の懸念にも配慮し,84/85年度予算では,13億ドルの所得税減税を行う一方,83/84年度実績の79億6,000万ドルから67億5,000万ドルに圧縮した。
賃金問題については,労働党政権成立後に復帰した賃金インデクセーション方式の下で,4月に83年後半のCPIに見合う4.1%の賃上げが行われたが,84年上半期にはCPIが0.2%低下したため10月に予定されていた賃上げは行われなかった。
金融面については自由化への推進が積極的に行われ,40のマーチャント・バンクに対する外国為替業免許の付与,外国銀行の参入についてのガイドライン発表等が行われた。外銀参入については85年2月我が国の3行を含む16行の新規参入が認められた。
産業面では,豪州経済の活性化のために産業再編成が推進された。すなわち,自動車輸入数量割当に代わる関税割当の導入,及びその段階的廃止を主たる内容とする政策,カラーテレビ等の電子消費財について保護措置の段階的削減策の発表等が行われた。
貿易面についても,貿易の再活性化,輸出先の産業構造の変化に対応した輸出拡大の観点から,対日市場アクセス・ミッションの交流等が活発に行われた。
国際収支は,経常収支の赤字を資本収支の黒字でカバーするという形で推移したが,84年下半期貿易収支が大幅に悪化した。
(2)ニュー・ジーランド(NZ)
(イ)内政
84年7月の総選挙でこれまでのマルドゥーン国民党政権に代わり8年7か月振りにロンギ新党首率いる労働党政権が誕生した。議会において安定多数を占めた同政権は,自由民主主義の維持,国民生活の安定向上等を基本とし,国民的合意を重視した政治の推進により経済界をはじめ国民各層より幅広い安定した支持を得て,まずは順調な滑り出しを見せている。
(ロ)外交
ロンギ政権は同国が西側諸国の一員であるとの立場を維持しつつも,反核の姿勢を強調する独自の外交路線を推進した。同政権によるNZへの米核艦船寄港拒否(85年1月)に端を発し,米国との関係が緊張したが,双方とも基本的立場を変える様子を見せておらず,問題は長期化の様相を呈している。また,ロンギ首相は軍縮や南太平洋非核地帯構想にも積極的な姿勢を示している。対外貿易・経済の分野においては伝統的な西欧市場の確保に努める一方,我が国,米国,豪州などとの貿易・経済関係の一層の緊密化を図り,さらに,ソ連,中国,中近東,ASEAN諸国,中南米諸国などの市場開拓に努力を払った。NZは,また,南太平洋島嶼国との政治・経済関係を引き続き強化させている。
(ハ)経済
84年のNZ経済は,83/84年度後半からの前国民党政権による景気刺激策,さらには84年7月に誕生したロンギ労働党政権による20%の為替切下げ策等により,国内個人消費の駆け込み的伸長とこれに伴う在庫投資の増大を招き,予想以上の景気回復を実現した。83/84年度の実質GDP成長率は2.7%であったのに対し,84/85年度には5%前後に達するものと見込まれている。
こうした中で特に注目されるのは,労働党政権が経済再建に向けて,大幅な経済政策の転換を行い,これまでの対立的・介入的スタイルから自由市場原理に基づき,コンセンサスと効率性を重視する経済政策を押し進めていることである。
84年11月8日に発表された予算案においては,財政赤字の削減と産業の自由化・効率化に向けて,大幅な税制改正や各種公共料金の引き上げ,補助金の撤廃等の方策が打ち出された。しかしながら,こうした路線は労働党の支持基盤である労働組合側からの反発を招くとともに,為替切下げを始めとする経済政策は金利の高騰とインフレ再燃を招いている。
83/84年度後半から回復した景気も85年以降は落ち込むものと予想されており,失業及び生活水準の大幅な改善は難しい状況にある。
(3)バプア・二ュ一ギニア(PNG)
(イ)内政
3年目を迎えた第2次ソマレ政権は,野党側の弱体振りもあり,前半は比較的平穏に過ぎたものの,後半はウィンティ副首相との確執を中心とした党内問題が一挙に吹き出た形となり,12月には大幅な内閣改造が行われた。
また,ソマレ政権にとって治安対策とラバウル火山爆発に備えた諸対策は大きな内政上の問題であった。
(ロ)外交
ソマレ政権は,PNGの伝統的政策である「普遍的外交」を維持しつつ,対豪関係を基軸とした外交政策を展開した。また,アジア及び南太平洋諸国との関係強化にも積極的姿勢を示した。対インドネシア関係は,84年2月イリアン・ジャヤから多数の不法越境者の流入事件が起こり,近年良好化しつつある両国関係に再び困難な問題を提供した。この問題は,その後4月に両国外相会談が行われ,越境者の秩序ある帰還の保証等を盛り込んだ共同声明が発表されることにより,事態は解決の方向に向かいつつある。
(イ)経済
一次産品の輸出は,他の一次産品輸出国の天候不順等により一次産品の供給が逼迫したため急速に好転し,経済回復に大きく寄与した。しかし,この回復傾向も経済全般に均零するに至らず緊縮財政が踏襲された。歳入の主柱であるブーゲンビル鉱山(銅)は,品位の低下及び国際価格の低迷のため収益が低下し,また,新たに金,銅の採掘を目指すオクテディ鉱山は,政府と開発企業との間に開発方針につき見解が対立し,政府から閉鎖命令が出されたが,なお双方で協議が続けられている。
(4)フィジー
(イ)内政
マラ首相が安定した政権運営を行い,内政面で特別な動きはなく全般的には平穏に推移した。しかしながら,政府の所得政策に対し,労働者の利益擁護を目的とする労働党の結成の動きが伝えられており,今後の動向が注目される。
(ロ)外交
84年の対外政策も,英連邦諸国及び米国,日本,アジア諸国等広く各国との友好関係拡大及び南太平洋地域の域内協力の促進を軸として進められた。特に,11月にはマラ首相が南太平洋島嶼国首脳としては初めて米国を公式訪問し,フィジーと米国との関係強化が図られた。
(ハ)経済
フィジー経済の中枢である砂糖と観光の2大産業は,前年のサイクロンの被害から立ち直り,砂糖生産及び観光客数とも記録的水準に達した。このためGDP成長率は前年比8%の伸びとなった。消費者物価上昇率は6.1%で前年に引き続き下降しインフレ鎮静化傾向を示した。しかし,個人消費は横ばい,海外からの投資は低レベルで景気が上昇期に入ったとは見られない。85年初頭再びサイクロンが2度にわたり襲来し,大きな被害をもたらした。貿易収支は,輸出が伸び輸入が減少したので赤字は縮小(83年2億7,400万ドル―84年1億7,500万ドル)し,国際収支は大幅な観光収入増のためほぼ均衡した。
(5)南太平洋地域
PNG,フィジー以外の南太平洋諸国ではソロモン諸島で総選挙が行われ,ピーター・ケニロレアが首相に返り咲いた。また,各国とも厳しい経済状況の下で国造りの努力を進めた。
地域協力の動きとして8月に第15回南太平洋フォーラム(SPF:South Pacific Forum)会議が,また,10月に第24回南太平洋委員会(SPC:South Pacific Commission)会議が,それぞれトゥヴァル及びニュー・カレドニアで開催された。SPF会議では,南太平洋非核地帯構想等が討議され,同構想の条約化のための作業部会が設置された。