8.その他
(1)モンゴル
(a)内政・外交
8月臨時党大会及び臨時人民大会議が開催され,ツェデンバルは病気のため党書記長及び人民大会議幹部会議長(元首)の職を解任され,32年にわたる政権の幕を閉じた。バトムンフ首相が後任書記長に就任し,12月人民大会議幹部会議長をも兼任した。バトムンフの後任首相にはソドノムが就任した。
バトムンフ新書記長は10月訪ソし,故チェルネンコ書記長と会見,従来同様緊密な両国関係の維持を確認した。
中国との関係においては,7月モンゴル・中国国境を共同確認するなど,引き続き実務面での若干の改善が見られた。
(b)経済
南西部諸州の大降雪,寒気のため,1歳未満の家畜死亡が増大し,牧畜は不振であった。農業は好成績であり,穀物収穫は58万6,200トンで史上第2位を記録,農牧業総生産は前年比5%増(計画9%増)であった。
工業は前年比8.3%(計画7.8%増)の伸びであった。
国民所得は前年比4.4%増(計画6.0%増)であった。
(c)我が国との関係
85年2月セレーテル人民教育大臣を団長とする議会代表団が,国会(参議院)の招待で公式訪問した。
カシミヤ工場関係技術研修生5名を受け入れた。また,引き続き語学教師,留学生の交換が行われた。
<要人往来>
<貿易関係>
(2)香港
(a)政情
82年9月,サッチャー英国首相訪中後,香港の将来の地位について,中英間において「香港の繁栄と安定を維持する」との共通の目的の下に交渉が開始され,迂余曲折を経た後84年4月のハウ外相の訪中により,英国政府は,1997年に,香港の全域の主権及び統治権を中国に一括返還するとの立場を公式に表明し(4月20日,ハウ外相ステートメント),香港の原則に係わる問題は,決着をみるに至った。その後も中英双方は鋭意交渉を重ねた結果,交渉は第22回会談(9月5~6日)をもって最終的に妥結し,9月26日,北京において中英双方の代表団長により中英合意文書(共同宣言,3つの付属文書及び覚書により構成)(資料編参照)に仮調印が行われ,さらに,12月19日にはサッチャー英首相と趙首相との間で正式に署名された。また,85年6月30日までに北京において批准書の交換が行われる旨明らかにされている。
本件合意内容は,従来より中国側が表明してきた「港人治港」構想の下に,外交・防衛の両分野を除けば高度の自治を香港に付与(香港を「特別行政区」とし,現行の経済,法律,社会制度,生活様式等を97年以降も維持し,これを50年間変えないとの方針が根幹)することを基本とし,97年以降の香港に対する具体的政策をかなり詳細かつ明確に記述しており,香港住民に対する周到な配慮を反映した内容となっている。
また,香港の主権移行を円滑に行うための措置として,合意発効と同時に中英合同連絡委員会が設置されることになっている。
同委員会は,97年以降も2000年まで存続される。
中国は,1990年までに,全国人民代表大会の審議,批准を経た後,これら合意内容を盛り込んだ「香港特別行政区基本法」を公布する旨明らかにしている。
今次合意内容に対しては,香港住民の大勢は,歓迎の意向を表明し,比較的冷静な反応を見せている。また,同地の主要紙の論調も一部には香港の将来に対する悲観的見方も見られるが,概して冷静かつ現実的な論調振りとなっており,今後,同合意内容が着実に実施されることが期待されている。
(b)経済
香港経済は,将来に対する不安感等により不動産,製造業部門は低迷していた。しかし,中英合意達成の84年9月前後より,香港ドルが安定した通貨としての認識が定着してきており,株価も過去2か年以上にわたっていた低迷期を脱し,ほぼ一本調子で上昇している。また,不動産市況も回復傾向を示している。
この間輸出は,83年後半より極めて好調に推移してきており,85年2月に香港政庁より発表された経済成長率は,84年実績見込みで,実質9.6%と高い成長を示している。香港経済は,今後とも引き続き輸出依存型の回復過程を持続するものと見られる。
中国との間では,貿易の大幅増大,特に,中国への輸出の急増,対中投資の活発化など経済関係の緊密化が著しくなっている。
(c)我が国との関係
在留邦人は,短期滞在者を含めると,1日当り平均約13,000人と推定されており,日系企業数は約850社を数える。
香港の貿易に占める日本のシェアは,輸入は中国に次いで第2位で全輸入額の23.6%となっており,我が国にとって香港は重要な輸出市場ともなっている。
香港の対日貿易インバランスは,依然縮小されておらず,香港側は,機会あるごとに香港製品の対日輸出拡大を要請している。
<貿易関係>
<民間投資>