5.インドシナ地域

(1)インドシナ3国の内外情勢

(イ)ヴィエトナム

(a)内政

(i) 84年もレ・ズアン党書記長を頂点とし,チュオン・チン国家評議会議長及びファム・ヴァン・ドン首相を加えた三者による集団指導体制が維持された。

(ii) 経済困難の克服と南部の社会主義化は依然として内政の最大の課題となっている。しかし,84年も経済は低迷し,また,南部の農業集団化も所期の目標達成にはいまだ相当の時間を要するものと見られる。

(b)外交

(i) ラオス,カンボディア(「ヘン・サムリン政権」)との「特別な関係」とソ連との協力関係の強化を最重視する外交基本姿勢が貫かれ,レ・ズアン書記長(6月),タック外相(11月)が訪ソし,ドルギフ=ソ連政治局員候補が来越(11月)するなどソ越間にはハイレベルの交流が行われた。

(ii) カンボディア問題は,前年に引き続き越外交の主要課題であった。国連を中心にヴィエトナム軍の撤退及びカンボディアの民族自決を柱とする「包括的政治解決」を追求するASEANに対し,ヴィエトナムは,累次のインドシナ外相会議(1月,7月及び85年1月)で種々の提案を行うとともにタック外相がインドネシア・豪州(3月)及び日本(10月)等西側諸国を訪問し,活発な外交活動を展開した。しかしながらヴィエトナムは「ヘン・サムリン政権」の存在自体は譲らず,ヴィエトナム軍の撤退の条件としてポル・ポト派の排除を要求する等基本的姿勢に変化は見られず,問題解決の見通しは立っていない。他方,カンボディア駐留ヴィエトナム軍は,11月初旬タイ・カンボディア国境地帯で大規模攻勢を開始し,85年3月までに民主カンボディア三派の本拠地をすべて攻略し,カンボディア情勢の既成事実化を追求した。

(iii) 中越間では依然国境地域で緊張関係が続いており,4~5月及び85年2月以降主として砲撃による比較的大規模な戦闘が行われた。中国は,関係改善のための話合いの前提として,ヴィエトナム軍のカンボディアからの全面撤退を求めており,改善へ向けての動きは見られなかった。

(iv) 米国との間では,ヴィエトナム戦争中の行方不明米兵(MIA)問題がアーミテージ国防次官補(2月),チルドレス国家安全保障会議スタッフ(85年3月)の訪越により一定の進展を見せたが,関係正常化については,米国は,MIA問題とカンボディア問題が解決されない限り応じられないとの態度を明らかにしている。

(c)経済

(i) 経済困難の克服のため経済インセンティブをより重視した新経済政策を継続し,一定の成果を上げたが,外貨事情悪化による原材料・資本財の不足,硬直した官僚制度の悪弊等の諸問題が依然として経済発展を妨げている要因として挙げられている。

(ii) 84年の食糧生産は籾換算で1,787万トン(計画目標1,800万トン)となり,第3次経済5か年計画(1981~85年)に沿って比較的順調に増産を見た。他方,鉱工業生産では基幹産業の石炭・セメント等の不振が目立った。特に石炭(無煙炭)は伝統的に西側への輸出主力産品であり,政府投資も重点的に行われたにもかかわらず生産は前年比16%減,計画目標の僅か81%にとどまった。輸出総額の伸び率は前年比3%増(計画目標は22%増)にとどまり,外国からの援助・借款の減少とあいまって極端な外貨不足の状況が続いた。

(iii) 経済成長は,79,80年の2年連続してマイナス成長の後,81年よりプラスに転じたが84年は過去4年間で最低の伸び率となった。

(ロ)カンボディア

(a)国内情勢

(i) 民主カンボディアは82年7月の民主カンボディア連合政府の結成により,それまで独自の抗越活動を続けてきたクメール・ルージュ,シハヌーク派及びソン・サン派の三派勢力が抗越の大義の下に結束し,84年もヴィエトナム軍の撤退及び民族自決に基づくカンボディア問題の政治解決を求めてカンボディア駐留ヴィエトナム軍とヴィエトナムにより擁立された「ヘン・サムリン政権」に対する抵抗活動を続けた。同政府は軍事的にも徐々に活動範囲を広げてきたが11月タイ・カンボディア国境地帯で開始されたヴィエトナム軍の大規模攻勢により主要拠点を軒並み失った結果,これまで以上にゲリラ戦をより重視した抵抗活動を続けている。

(ii) 他方「ヘン・サムリン政権」は,約16~18万人と見られるヴィエトナム軍の強力な庇護とソ連,東欧諸国等からの経済支援の下に同「政権」の既成事実化を図ってきている。「ヘン・サムリン」側の支配地域では,ある程度復興が進んでいるものの,84年は天候異変により農業不作が伝えられており,依然ソ連,東欧諸国等の援助及び国際機関からの人道援助に大きく依存している。

(b)外交

(i) 連合政府結成以来,民主カンボディアは,ASEAN諸国と協力し,シハヌーク大統領を中心にカンボディア問題の「包抱的政治解決」に対する各国の支持獲得のための活発な外交活動を展開し,84年の国連総会でもヴィエトナム軍の撤退とカンボディアの民族自決を柱とする「包抱的政治解決」を求めるカンボディア情勢決議が前年と同様圧倒的多数で採択された。なお,民主カンボディアの国連における代表権は83年に引き続き無投票で承認された。

(ii) また,シハヌーク大統領はかねてより,「ヘン・サムリン政権」も含めたカンボディア全当事者による国民和解を呼び掛けてきたが,この提案は84年7月のASEAN外相会議でASEAN諸国よりも支持された。しかし,ヴィエトナム及び「ヘン・サムリン政権」は,ポル・ポト派の排除を強く要求しており,国民和解実現への見通しはたっていない。

(ハ)ラオス

(a)内政

(i) 84年を通じ大きな動きは見られず全体としては安定的に推移した。政治面では党の基盤の一層の整備・強化が図られた。

(ii) 国防・治安面では,隣国タイとの国境問題の発生により国内の緊張感が高まったが,内政への影響は特に現われなかった。地方での反政府活動も組織的な規模に至っていない。しかし,経済困難による難民のタイヘの流出が急増した。

(b)外交

(i) ヴィエトナム,カンボディア(「ヘン・サムリン政権」)との「特別な関係」とソ連等社会主義諸国との協力関係の強化を柱とする外交姿勢に変化はなく,1月,7月の第8回,9回インドシナ三国外相会議のヴィエンチャンでの開催,カイソーン党書記長兼首相の訪ソ(6月),ドルギフ=ソ連政治局員候補の訪「ラ」(11月)が行われた。しかし,中国とは依然として冷たい関係にあり,中国を「拡張主義者」として非難し続けた。

(ii) 歴史的にも経済的にも深いつながりを持つ隣国タイとの間では,国境地域の三村の領有権を巡る紛争が5月に発生,以来両国関係は悪化した。ラオス側はタイ軍が依然ラオス領内に駐留しているとして非難しているが,両国とも本問題により決定的な国家間の対立を招く事態は避けたいとの意向を示した。

(iii) 米国に対しては,「米帝国主義」非難の基本姿勢は崩していないが,モンゴメリー下院議員,ソラーズ下院議員を夫々団長とする議員団受入れ(12月)等83年に続き行方不明米兵捜索問題に柔軟な姿勢を示し,米国も人道援助として世界食糧計画(WFP)を通ずる米の供与を行った。また我が国をはじめ,豪州,スウェーデン,フランス等とは経済協力を中心に良好な関係が継続した。

(c)経済

第一次社会・経済開発5か年計画の最重点項目である農業生産は,米作につき83年の実績(100万トン)を2割近く上回ったとされているが,洪水被害もあり米の不足状態は続いた。経済政策面では,従来より社会主義化が不充分な商業部門について国営管理化が図られたが,具体的な措置については試行錯誤を繰り返した。財政は恒常的に大幅赤字が継続した。

(2)我が国とインドシナ諸国との関係

ヴィエトナムとの間では,依然未解決のカンボディア問題が関係発展を阻害しており,10月にグエン・コー・タック外務大臣が訪日し6年ぶりに外相会談が実現したが,関係は全体としては停滞したまま推移した。

また,カンボディアとの間では,我が国は引き続き民主カンボディア連合政府を支持しており,5~6月に訪日したシハヌーク大統領と中曽根総理大臣が会談した。また,難民に対し国際機関を通ずる人道援助を継続した。ラオスとの間では,4月のスパン副外相の訪日により友好関係が引き続き維持強化され,我が国の経済協力は着実に増加した。

<要人往来>

<貿易関係>

<経済協力(政府開発援助)>

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