第2部

各説

第1章 各国の情勢及ぴ我が国とこれら諸国との関係

第1節 アジア地域

1.朝鮮半島

(1)朝鮮半島の情勢

(イ)韓国の政情

(a)内政

84年は,年初からの学園自律化措置の実施,政治活動被規制者の解除,全斗煥大統領の訪日等があり,全斗煥政権の手堅い内政外交政策の下で比較的平穏かつ順調に推移した。85年2月に実施された総選挙では,旧野党政治家が中心となって結成した新韓民主党が野党ブームに乗って野党第一党に進出した。他方,与党民正党は,現状維持の安定多数を確保した。総選挙後の結果を踏まえ内閣改造が行われた。

84年初から85年3月までの主な内政動向は次のとおり。

(i) 政治活動被規制者の解除

韓国政府は,84年2月25日及び同11月30日の2回にわたり,政活動被規制者に対する規制の解除を行った。この結果,未解除者は金鍾泌,金泳三,金大中等15名のみとなったが,総選挙後の85年3月6日には上記未解除者全員の規制が解除された。

(ii) 学園自律化措置

学園内の管理は各大学当局に任せるとの学園自律化措置が実施されたが,84年3月頃より学園民主化に関連して校内デモが各大学で頻発した。さらに,9月中旬以降年末までの間に授業及び試験のボイコット,校舎の占拠,与野党党舎での座り込み,街頭デモ等が見られた。

(iii) 総選挙

第12代国会議員選挙は,85年2月12日に実施された。選挙の結果,与党民正党は,金大中の米国からの帰国(2月8日)をも反映した主要都市での野党ブームの盛り上りにより,都市では苦戦したが,地方では組織・資金力を動員して善戦,148議席(議席総数276)を獲得して安定多数を確保した。他方,政治活動の規制を解除された旧野党政治家が中心となって創党(85年1月)した新韓民主党(李敏両総裁)は,主要都市で圧倒的な支持を得て67議席を獲得,民韓党を抑えて野党第一党に進出した。

(iv) 内閣改造等

上記選挙結果を踏まえ,2月18日内閣改造が行われ,国務総理に盧信永安全企画部長(元外務部長官)が起用され,また,与党民正党の代表委員には盧泰愚ソウル・オリンピック組織委員長が就任した(2月23日)。

(b)外交

(i) 首脳外交

84年においては,全斗煥大統領の訪日(9月)及びローマ法王の訪韓(5月)等により首脳外交が成果を収めた。さらに,スリランカ,ガンビア,ガボン,モルディヴ各大統領,ブルネイ国王,カタル首長,オーストラリア,ベルギー,ポルトガル,モーリシァス各首相等先進諸国,非同盟諸国等の首脳の訪韓が相次いだ。また,韓国からは,李源京外務部長官が欧州諸国を歴訪した。

(ii) 対米関係

83年11月のレーガン大統領訪韓の成果をも踏まえ,韓米関係は基本的に順調に推移したが,鉄鋼,カラーTV問題等経済分野では若干の摩擦が生じた。

なお,85年4月には,全斗煥大統領の2度目の訪米が行われ,米韓関係の結束が確認された。

(iii) 社会主義諸国との関係

84年中の韓中間の交流に関しては,特にスポーツ交流の面で進展があった。中国及び韓国で開催された国際スポーツ競技に韓中双方のチームが初めてそれぞれ相手国に入国した。

他方,韓国政府は,83年の中国民航機ハイジャック事件犯人6名を,第一審判決後刑の執行を停止して国外(台湾)に追放処分とした(8月)。

韓ソ間のスポーツ交流,国際会議出席等非政治的分野における交流は,83年9月の大韓航空機事件以来中断していたが,84年中頃より交流再開の動きが見られ始め,同年8月にはモスクワで開催された国際会議(世界地質図編纂委員会及びESCAPの鉄道電化に関するセミナー)に韓国関係者が参加した。

(c)韓国の経済

60年代から70年代にかけて高度成長を続けた韓国経済は,79年の第2次石油危機以降外資依存体質,エネルギー多消費型,インフレ体質等の構造的問題が表面化し,80年には卸売物価上昇率38.9%,経済成長率マイナス5.2%を記録した。

しかし,その後政府の経済政策等が奏効し,82年以降卸売物価上昇率は大幅に下落・安定しており,84年も0.7%と引き続き安定を示した。経済成長率も81年にはプラスに転じ,その後高成長を達成し,84年も7.6%(暫定)と高成長を維持した。

また輸出は,84年には米国,日本向けを中心に伸び対前年比19.6%増の292億ドルに達した。一方,輸入は対前年比16.9%増の306億ドルであったため経常収支は前年よりも2億4,000万ドル改善され,13億6,000万ドルとなった。

対外債務についても78~82年の間は,年間50~60億ドルの増加を見たが,83年,84年と約30億ドル水準の増加にとどまり,政府の債務抑制策が奏効している。なお対外債務残高は84年末時点で431億ドルとなっている。

(ロ)北朝鮮の情勢

(a)内政

金日成主席を中心とする指導体制が堅持されており,84年も主体思想を基本指針として,社会主義制度の強化を図る三大革命(思想,技術,文化)路線を推進する動きが引き続き展開された。

また,金日成主席の子息金正日労働党秘書が,各種行事に金日成に次ぐ序列で出席したほか,自ら党・行政の各分野にわたり指導しており,平壌放送も同人を金日成主席の「唯一の後継者」と位置付けるなど,金正日後継体制造りが本格化していると見られる。

(b)外交

(i) 北朝鮮は,非同盟外交に積極的に取り組んできており,84年も,朴成哲副主席,李鐘玉副主席,姜成山総理,金永南副総理・外交部長らの政府・党の要人が中近東,アフリカ,中南米諸国等を訪問したほか,アフリカ諸国などから要人が北朝鮮を訪問した。

(ii) 北朝鮮は,ビルマ・ラングーンでの爆弾テロ事件(83年10月)によって,ビルマをはじめとする諸外国から外交関係断絶等の措置を受けたが,その後その失墜した対外関係の修復のため活発な外交活動を展開した。

(iii) 中国及びソ連との関係では,北朝鮮は中ソ両国との間でバランスの保持に留意している。中国との間では,5月に胡ヨウ邦総書記が訪朝し,8月に姜成山総理,11月に金日成主席が各々訪中した。他方,ソ連とは,5月に金日成主席が23年ぶりにソ連を公式訪問したほか,85年3月チェルネンコ書記長の葬儀に姜成山総理を団長とする朝鮮労働党・政府代表団が訪ソしたのをはじめ各種レベルの人的往来が行われた。

(c)経済情勢

(i) 85年の金日成主席の「新年の辞」は,例年の「新年の辞」に比べると経済建設問題に関する言及が少なく,かつ,具体的な生産実績では,穀物生産1,000万トン達成を発表したのみであった。また,84年末に終了した第2次経済7か年計画自体についても何等の言及もなかったが,その後2月になって,北朝鮮中央統計局は同計画が84年末現在で完遂されたと発表し,工業総生産高は計画目標どおり2.2倍,年平均工業生産成長率は12.2%(計画目標12.1%)に達したと述べた。

(ii) 北朝鮮は,84年1月の最高人民会議第7期第3回会議で対外経済関係拡大の方針を打ち出し,9月に諸外国の企業等との合弁法を制定した。

(ハ)南北関係

(a)南北対話

北朝鮮は,84年1月韓国及び米国に対し「三者会談」を提案したが,韓国は,平和統一問題はあくまで南北当事者間の対話により解決されるべきとの立場より,この提案を拒否し,また,米国も韓国の立場を支持した。

北朝鮮の提議により4月から5月までの間3回にわたり南北スポーツ会談が開かれたが,ビルマ爆弾テロ事件を巡る非難の応酬等に終始し,実りある進展は見られなかった。

しかし,9月初の韓国水害に対する北朝鮮の救援物資引渡しを契機として11月中旬には第1回南北経済会談(15日)及び赤十字予備会談(20日)が相次いで開催された。南北双方政府の次官級を首席代表とする経済会談では,南北間の交易及び経済協力問題に関するそれぞれの提案がなされ,直通電話の設置等若干の技術的事項につき合意を見た。また,赤十字予備会談では,73年以来中断されていた南北赤十字本会談の再開が合意された。

しかし,その後ソ連人亡命者をめぐる板門店銃撃事件やチーム・スピリット85を理由とする北朝鮮側の対話延期通告により対話は中断されていたが,85年4月対話の再開が合意され,5月17日第2回経済会談,同28日及び29日には第8回南北赤十字本会談が開催された。また,北朝鮮側は,上記会談に加え南北国会会談も提案(4月)しており,韓国側の対応が注目されている。

(b)軍事情勢

大規模な軍事力が対峙している朝鮮半島では引き続き緊張状態が持続しているが,84年は,前年に比較して平穏であった。

この間,北朝鮮は,装備の近代化等により軍事力を強化する等の動きを示した。

これに対して,米韓両国は,韓国の第2次戦力増強5か年計画(82~86年)及び米国の対韓軍事援助の継続等により,全体的継戦能力を強化した。

一方,信頼醸成のため,米韓両国は,チーム・スピリット85に際し北朝鮮側に演習の事前通報及び参観招請を行った。

11月には,ソ連人亡命者を巡って双方に死傷者の出る板門店銃撃事件が発生したが,これは朝鮮半島の緊張を象徴する出来事であった。

(2)我が国と韓国との関係

(イ)概観

65年の日韓国交正常化以来,日韓関係は着実な発展を見てきており,両国間で広範な分野にわたって交流と協力が行われている。

83年1月の中曽根総理大臣訪韓以来両国間の国民的基盤に基づく交流を更に活発化させようとの気運が盛り上がりをみせていたが,84年にはその延長線上にあって数次にわたって外相会談が行われたのをはじめ,9月には全斗煥大統領の歴史的訪日が実現し,両国間の友好協力関係は一層強固なものとなった。また数次にわたる政府レベルの協議を通じ,在日韓国人待遇問題,貿易問題,産業技術協力問題等両国間の諸問題につき緊密な話し合いの機会がもたれた。

(ロ)全斗煥大統領訪日

全斗煥大統領は,84年9月6日より3日間,夫人と共に韓国の元首としては初めて日本を公式訪問した。83年の中曽根総理大臣訪韓とあいまって両国首脳相互訪問が実現したことは両国にとって歴史的な出来事であった。

全大統領は滞日中,天皇陛下と会見し,また,2度にわたり中曽根総理大臣と会見し,両国関係及び国際情勢等につき幅広い意見交換を行った。8日には両首脳による共同声明が発表された(資料編参照)。

(ハ)在日韓国人の待遇問題

在日韓国人については,その歴史的背景等にかんがみ,社会保障等の分野で従来より可能な限りの待遇改善が行われてきており,韓国側は,かかるわが国の措置を評価しつつも,指紋問題を含め一層の努力を要望している。

(ニ)通商関係

日韓貿易は79年の総額96億ドルをピークにその後停滞していたが,83年から韓国の景気回復等を背景に増大し,84年には日本の輸出が72億ドル,輸入が42億ドルと総額で初めて100億ドルを突破した。

また,国交正常化以来日本側の出超が続いており,韓国側は対日貿易不均衡問題としてこれを重視しているが,84年9月の共同声明において両国間の貿易を拡大均衡の方向で発展させることが望ましいことにつき意見が一致したことを受け,84年11月にソウルで開催された日韓貿易会議において政府間協議を行う一方,輸入等促進ミッション派遣(84年10月),韓国から輸入実績のある品目の関税引下げ等を含む対外経済対策の発表(84年12月)等の具体的施策が講じられた。

(ホ)産業技術協力問題

84年9月の共同声明において両国間の産業技術協力の拡大が望ましいことが再確認され,政府次元での技術協力を促進していくこと及び民間部門の交流と協力の増進のための環境整備に関し協議を継続することとなった。この関連で韓国の技術者の日本企業内での研修計画が84年11月から開始され両国関係者の間で高い評価を得ている。

また,日本の民間直接投資が韓国に対する産業技術の移転に大きな役割を果たしているとの観点から,貿易会議等の場において投資環境の問題についても意見交換が行われた。

(ヘ)科学技術大臣会談及び科学技術協力協定締結交渉

84年7月には第6回科学技術大臣会談が7年振りにソウルで開催され,科学技術協力の一層の促進を確認した。

また,12月には全斗煥大統領訪日の際の合意に基づき,科学技術協力協定締結のための第1回交渉が東京で開催された。

(ト)日韓大陸棚共同開発

大陸棚共同開発区域では,物理探査の結果を踏まえ,これまで4か所で試掘が実施されたが,いずれも商業化可能量の石油・天然ガスを発見するに至っていない。85年3月には第5回日韓大陸棚共同委員会が開催され,共同開発を円滑に実施して行くための技術的事項等につき協議が行われた。

(チ)漁業問題

西日本及び山陰沖水域における韓国漁船の操業問題について,政府は機会あるごとに韓国漁船による領海・漁業専管水域侵犯操業の根絶と日韓漁業協定合意議事録の尊重等を強く働きかけてきている。韓国政府としてもほぼ常時問題水域に漁業指導船を派遣するなど対策を講じているが,韓国漁船による違反操業の根絶には至っていない。84年3月及び85年1月にはそれぞれ第18回及び第19回日韓漁業共同委員会が開催され,これら問題についても話し合われた。

北海道周辺水域の韓国漁船操業問題については,80年11月から83年10月までの自主規制措置に続き,83年11月から3年間にわたる新たな自主規制措置が実施されている。また,我が国は,韓国側の要請に応じ韓国済州島沖南西水域での底引網漁業につき新たな自主規制措置を同様の期間実施している。

(リ)竹島問題

我が国は,韓国による竹島の不法占拠に対し,従来から繰返し抗議しており,10月の海上保安庁巡視船の調査結果に基づき抗議を行ったほか,各種会議の機会にも,この問題を韓国側に提起している。

<要人往来>

<貿易関係>

<民間投資>

<経済協力(政府開発援助)>

(3)我が国と北朝鮮との関係

我が国と北朝鮮との間には外交関係はないが,貿易,経済,文化などの分野では民間交流が行われている。84年における主な動きは次のとおり。

(イ)漁業関係

北朝鮮周辺水域における我が国漁船の漁業活動については,日朝民間関係者間の民間漁業暫定合意が82年6月30日に失効して以来操業は中断されていたが,関係者の努力により84年10月15日に86年12月31日まで有効な従来とほぼ同様の合意が成立し,操業が再開されるに至った。他方7月から8月にかけて我が国漁船計6隻が北朝鮮に掌捕・連行され,日本人船長1名が北朝鮮による銃撃により死亡する事件が発生した。

(ロ)人的交流

(a)84年中の邦人の北朝鮮への渡航者数は,798名である。渡航目的のうち最も多いのは商用であり,このほか親善交流,親族訪問等があった。

(b)他方,同期間中の北朝鮮からの入国者数は167名であり,入国目的の大部分は商用であった。

(c)さらに同期間中の在日朝鮮人に対する北朝鮮向け再入国許可数は5,645件であり,渡航用務の主なものは,親族訪問,学術・文化・スポーツ,商用であった。

(ハ)貿易

84年は,前年に比べ我が国の北朝鮮からの輸入は増加したが,輸出が大幅に減少したため,総額では,4億ドルと79年以来最低となった。

<要人往来>

<貿易関係>

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