3.北米地域
(1)米国
(イ)戦後の日米関係は,占領国としての米国と被占領国としての日本の関係から始まった。この時期には,新しい日本国憲法が制定(47年)されるなど,戦後の我が国の基本的な枠組が形成された。51年のサン・フランシスコ平和条約署名に際し,我が国は,東西対立が激化する状況にあって,自由・民主主義という基本的な理念を共有する米国との間に安全保障条約を締結し,米国との緊密な協力の下に我が国の平和と安全を確保することを選択をした。
(ロ)52年の主権回復後,我が国は,各国との関係正常化と一連の戦後処理に取組んだ。米国との間では,53年の日米友好通商航海条約署名と奄美群島返還,60年の新日米安保条約の締結,68年の小笠原返還,72年の沖縄返還などが行われた。
(ハ)この間に,我が国は目覚ましい経済発展を遂げ,60年代の高度成長期には,我が国のGNPは449億ドルから1,962億ドルヘと増加した。日米貿易関係は65年以降,日本側の出超という貿易パターンに転ずるようになる。このような我が国の発展の背景の一つとして,日米安保条約の枠組により,我が国の基本的な平和と安全が確保されたことと,米国などの協力により我が国が,ガット・IMFを中心とする戦後の自由貿易・経済体制に円滑に参入し,その恩恵に浴し得たことがあったことは,忘れられてはならない。この時期に日米関係は「イコール・パートナー」(61年)と呼ばれるようになる。
(ニ)我が国が,さらに経済発展を遂げて,70年代には,自由世界第二のGNP,世界のGNPの約10%を占める経済大国となるに及んで,我が国がその地位に相応しい国際的な役割を演ずることに対する期待が高まり,我が国と米国の関係も,単に二国間の関係だけでなく,世界の政治・経済問題についてともに責任ある国として相携えて協力する「世界の中の日米関係あるいは日米協力」と呼ばれるようになる。
(ホ)83年のウィリアムズバーグ・サミットにおいて「サミット参加国の安全は不可分である」との政治声明に参加するとの決断を行ったことや,同年秋の大韓航空機撃墜事件に際しての行動も,米国をはじめとする西側民主主義諸国が共有する目標の追求へ向けての日本のコミットメントを示すものであり,これらの例は日米関係のグローバルな側面を如実に示している。
(ヘ)83年11月のレーガン大統領訪日は,世界の中の日米協力関係の重要性をうたい,両国首脳間の友好・信頼関係を一層強化する上で大きな意義を持った。両国間の個別経済案件については双方が満足する解決を得るためのフォローアップを行うべく,米側でブッシュ副大統領を長とするマネージメント・グループを設置する一方,我が国も経済対策閣僚会議を主宰する河本経済企画庁長官が中心となって対外経済問題の対応に当たりつつ,対外的には外務大臣が中心となり,全体の総覧は総理自身が行うという体制が整備された。この間に,安倍外務大臣は84年1月訪米し,米側要人と種々意見交換を行った結果,電電調達取極の3年延長等の成果とともに,ここ2,3か月間,懸案の解決と前進に向けて最善の努力を行うとの枠組が固まった。
その後5月には,ブッシュ副大統領が我が国による一連のフォローアップ努力を受け,インド,中東への訪問の一貫として訪日した。同副大統領は,何にもまして個別の懸案を超えた日米関係の重要性を十分認識している旨,また,日本政府が懸案解決に払った努力を高く評価する旨述べ,レーガン大統領訪日以来のフォローアップの過程は一区切りついたが,他方,ワイン,紙製品,木材等の関税引下げ,及び金融資本市場の自由化,円の国際化といった問題が残された。但し,ワイン,紙製品については同副大統領離日後まもなく関税を引下げる決定を行うとともに,さらに,5月下旬には「日米円・ドル委員会」報告書に盛られた金融資本市場自由化及び円の国際化に関する諸措置を決定した。
(ト)その後,米国では,引き続く好況のうちに11月6日に圧倒的人気を得てレーガン大統領が49州をおさえて再選された。
(チ)85年は,世界の平和にとり重要な米ソ関係に新たな動きもあり得る重要な年であり,さらには,日米関係は従来にもまして重要になってきているとの認識から,日米両国首脳は85年1月,ロス・アンジェルスで会談を行った。同会談後,中曽根総理が発表したプレス・リマークスは,日米両国が信頼,責任,友好の三つの柱の上に立ち,世界の平和と繁栄のために相携えて活力ある協力を進めるための枠組を両首脳が設定したことを確認するとともに,日本が米ソ間の軍備管理交渉に向けての大統領の努力を完全に支持することを明らかにしている。
また,同リマークスは,アジア・太平洋地域に見られるダイナミックな発展を一層促進することの重要性に着目している。また,このリマークスでは,84年9月に出された日米諮問委員会の報告が,貴重な貢献であり,双方による真剣な検討に値するものである旨両首脳の意見が一致を見たことにも触れている。
(リ)上記総理訪米に同行した安倍外務大臣は,その後,ハワイも訪問し,同地への邦人官約移民100周年を記念して行われる一連の行事の幕開けとなる午餐会に出席した。
(ヌ)また,上記の日米首脳会談に於いて,中曽根総理大臣は,レーガン大統領から,SDI(戦略防衛構想)は非核の防御兵器であり,究極的には核兵器の廃絶を目指すものとの説明を受け,米国のSDI研究について理解するとの立場を表明した。さらに,ボン・サミットの際の日米首脳会談において,中曽根総理大臣は,この我が国の基本的立場を再確認するとともに,SDIがソ連に対する一方的優位を追求するものではない等の五つの点をレーガン大統領との間に確認した(注)。なお,3月末にワインバーガー国防長官から安倍外務大臣宛の書簡を通じ,NATO諸国等に対すると同様に,我が国に対し,米国のSDI研究への参加の招請が行われた。
(注)中曽根総理大臣がレーガン大統領との間で確認した五つの点
(あ)ソ連に対する一方的優位を追求するものではない。
(い)西側全体の抑止力の一部として,その維持・強化に資する。
(う)攻撃核兵器の大幅削減を目指す。
(え)ABM条約に違反しない。
(お)開発・配備については,同盟国との協議,ソ連との交渉が先行すべきである。
(2)カナダ
(イ)我が国とカナダとの関係は,経済的相互補完関係にあることを基礎に,特に経済・貿易の分野において戦後著しい発展を遂げてきたが,近年に至り経済のみならず政治,経済協力,文化等の各分野においても関係を緊密化させており,今後とも成熟した先進民主主義国家同士として多様なレベルにおける関係が進展することが期待される。また日加両国は政治・経済理念を共有する西側の一員であり,国際社会において共通の目標を実現するうえでの重要なパートナーとなっている。軍備管理や南北問題,自由貿易体制の維持・強化といった共通の目的に向かって今後一層共働することが期待されている。
(ロ)84年においても,日加間において要人の往来や各種協議が盛んに行われた。すなわち,ターナー自由党政権のクレチェン外相兼副首相が7月に訪日し,安倍外務大臣との間で第4回外相定期協議を行ったほか,進歩保守党政権下のクラーク外相も12月に訪日し,安倍外務大臣ほかと新政権下の外交政策等につき意見交換を行った。また各州よりもレベック=ケベック州首相,ボーリー=マニトバ州首相が訪日した。事務レベルにおいても漁業(2月),国連(11月),科学技術(12月)等の協議が行われた。