第7節 中近東地域
1. 中近東地域の内外情勢
(1) レバノン情勢
(イ) 82年6月PLO掃討のためレバノンに侵攻したイスラエル軍の撤退交渉が,米国の調停の下に進められ,83年5月17日には,イスラエル,レバノン撤兵協定が調印された。しかし,シリアは,同協定に強く反発し,自国軍をレバノン東部に駐留させ続けたため,同時撤退を主張するイスラエルと対立し,同協定は実施に移されなかった。
(ロ) しかし,その後イスラエルは,テロ行為等による自国軍の死傷者の増大,駐留経費負担増等に対する国内世論の高まりを背景に,7月20日アワリ川までの部分撤退を決定した。
この部分撤退決定に前後して,部分撤退により軍事的空白地帯となるベイルート南郊の支配権を巡って,キリスト教徒右派及び政府軍と,イスラム教徒ドルーズ派,シーア派を中心とする左派連合との間で戦闘が激化した。さらにイスラエル軍が部分撤退をした9月3,4日以降,戦闘はベイルート市内にも広がった。
これらの戦闘では,全般にイスラム教徒左派が優位に立ったが,政府軍も善戦した。その後米国,サウディ・アラビアの調停により9月25日停戦合意が成立した。
(ハ) その後も10月23日,ベイルート駐留多国籍軍の米・仏軍司令部・宿舎テロ事件(死者299名)が発生するなど,依然として治安状態は改善されなかったが,一方では上記停戦合意を踏まえて政治解決への努力も行われ,10月31日,レバノンの各派指導者が一堂に会し,国民和解会議が開催された。会議ではイスラエル・レバノン協定の取扱いについてはジュマイエル大統領がイスラエル軍の撤退実現のため,外交努力を行うことで合意が成立し,これを受けて同大統領は11月30日訪米したが,イスラエル軍撤退問題についての進展は見られなかった。
(ニ) 米国はその間シリア軍陣地爆撃(12月4日)等シリアに対する圧力を次第に強める一方,83年末ごろからサウディ・アラビアの協力を得てシリア,イスラエル及びレバノン各派の間でレバノンにおける停戦及び国内安定化のための調停活動を行った。しかし,この調停は,シリア及びイスラム教徒左派の反対に遭って,84年1月末には行き詰まり,再びイスラム教徒左派と政府軍等の間で武力抗争が激化し,2月5日にはこうした事態を収拾できなかったワッザン・レバノン内閣が総辞職した。イスラム教徒左派は更に西ベイルートを総攻撃し,同地域を制圧,政府軍は大打撃を受けた(2月6,7日)。また戦闘激化で平和維持任務遂行が困難となった多国籍軍も順次撤退を始めた(2月8日)。
(ホ) こうして軍事的・政治的に苦しい立場に立たされたジュマイエル大統領は,3月5日遂に反政府勢力の主張するイスラエル・レバノン協定の廃棄を正式に受け入れた。
これにより,レバノン問題の焦点は,キリスト教優位の権力配分が固定化している国内政治改革に移ることとなり,3月12日からローザンヌで再度国民和解会議が開かれることとなり,レバノン各派の利害調整が図られることとなった。
(2) 中東和平を巡る動き
(イ) 82年9月,米国のレーガン提案,続いてフェズ提案が発表され,同年10月には,フセイン・ジョルダン国王とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長との会談が行われた。こうした和平気運の高まりの中で,2月,パレスチナ民族評議会(PNC)が開催されたが,同評議会は,レーガン提案を和平問題解決の正しい基礎とみなすことを拒否し,フセイン国王がパレスチナ人を代弁することは認めないとの決議を採択した。
このためレーガン提案に沿ったフセイン・アラファト交渉を巡る情勢は再び厳しいものとなったが,3月末,会談は再開された。
(ロ) 一時は,両者問で和平交渉参加につき最終合意がまとまりかけたと伝えられたが,PLO執行委員会がこれを拒否したため,4月10日,フセイン国王は,ジョルダンがPLOとの交渉を断念するとともに独自にも和平交渉に参加しない旨表明した。ここに至りレーガン提案を基礎とした和平への動きは頓挫した。
(ハ) このような動きの中で,アラファト議長ら穏健派に対し不満を高めていたPLO内の強硬派が,ファタハ部隊内の親シリア派と言われるアブ・ムーサ大佐を中心に武装蜂起した。内紛は反アラファト派優位のうちに展開し,アラファト派は10月上旬までにレバノンのベッカー高原から追い払われた。11月上旬には反アラファト派が総攻撃を開始したため,レバノン第2の都市トリポリに包囲されたアラファト派は,遂に12月20日同地からの退去を余儀なくされ,PLO内紛は,一応アラファト派の軍事的敗北という形で決着した。
(ニ) この直後,アラファト議長は,レバノン退去後断交中のエジプトに立ち寄り,12月22日には急速ムバラク大統領と会談した。これはPLOが今後穏健な政治勢力として活動していくという政策転換を示唆したものとして注目された。米国はこの会談に対して直ちに歓迎の意を表明した。
(ホ) 84年1月,モロッコで開かれたイスラム諸国首脳会議でエジプトの同会議復帰が決定され,エジプトのアラブ復帰への第一歩として注目された。また同月,ジョルダンでは10年ぶりに西岸出身の議員を含めて議会が召集され,西岸パレスチナ人に対する同国の接触が試みられた。こうした状況の下で,2月にはレーガン大統領,ムバラク大統領,フセイン国王の三者会談が開かれたほかフセイン・アラファト会談が10か月ぶりに再開された。しかし,この三者会談によって,必ずしも和平への気運が盛り上がったとは言えず,またフセイン・アラファト会談でもジョルダン・パレスチナ関係の強化が強調され対話の継続について合意されたにとどまり,和平交渉に向けての実質的な進展を見るには至らず,レーガン提案の再活性化は図られなかった。
(3) イラン・イラク紛争と湾岸情勢
(イ) 83年のイラン・イラク紛争は,2月,4月,7~8月,10~11月陸上でイラン側の攻勢に端を発する戦闘が行われたが,概して年前半は比較的平穏に推移したのに対し,秋以降フランスによるシュペール・エタンダール戦闘爆撃機の対イラク供与問題を巡りペルシャ湾におげる緊張が高まったのが特色である。
イラン側は,83年も持久戦で対イラク戦に臨み,陸上で失地回復等をねらい断続的に攻勢をかけた。イラン軍は,2月及び4月に南部戦線のメイサン地区で攻勢に出,続いて7月には北部のハジ・オムラン地区で新たに戦端を開き,戦闘を北部地域に拡大した。さらに,10月にも北部戦線ペンジュウィン地区で攻勢を開始した。これに対し,イラク軍は一部で相当苦戦し,領土の一部をイラン側に占拠される結果となったが,最終的にイラン側進攻阻止に成功し,以後陸上での戦闘は膠着状態に陥った。この間,イラク側は,イラン軍攻勢への報復として航空機及びミサイルによる都市・経済施設への攻撃を断行した。
他方,海上では,従来同様イラク軍のバンダルホメイニ(ペルシャ湾北部に位置するイランの港湾)向け船舶への攻撃が頻発した。また,10月,フランスがイラクにシュペール・エタンダール5機を供与したことから,イラン・イラク間の緊張がにわかに高まった。イラン側は,当初同機がイラクに引き渡されればホルムズ海峡を封鎖とすると警告し,仏・イラク側を牽制したが,引渡しを阻止し得なかった。他方,イラクもこの間イランの重要石油施設をいつでも攻撃できるなど繰り返し表明し,イラン側に停戦圧力を掛けるべく心理戦を展開した。このため一時期緊張が高まったが,その後・イラン側は「石油積出しが不可能になればホルムズ海峡を封鎖する」と発言をトーン・ダウンし,他方イラク側も83年中はイランの出方を見極めようとしたため,緊張が一挙に爆発するといった事態には至らなかった。
このような状況の中で,10月31日国連安保理でペルシャ湾における安全航行確保等を内容とした決議540号が採択された。
(ロ) 84年に入ってからイラン・イラク紛争は段階的にエスカレートしてきている。2月にはイラン側が北部・中部で攻撃を開始し,引き続き南部戦線のファッケ付近及びバスラ近郊で大規模な進攻作戦を展開した。イラク側の防衛体制が堅固であったため,人海戦術に依存したイラン軍は各個撃破され,イラク領の一部(マジュヌーン島)を奪取し得たものの,結果的に大量の人的損傷を被った。この間イラン・イラク両国による都市攻撃が激化し,民間人にも多数の犠牲者が出たほか,IJPCプラントも被弾した。また3月には,国連の現地調査の結果イラン領内における化学兵器の使用が確認された(我が国は右を遺憾とする外務大臣談話を発表)。
他方,イラン側陸上攻勢と軌を一にして,イラク軍はカーグ島封鎖を宣言,以後カーグ島向けタンカーへの攻撃を本格化した。これに対しイラン側もクウェイト等向けのタンカーに報復攻撃を加えたため,ペルシャ湾における緊張が高まった(84年6月10日までに計12隻のタンカーに被害)。
この間6月10日にはイラン,イラク両国が国連事務総長の提案を受け入れ,12日以降都市に対する相互不攻撃の合意が実施に移された。これは部分的とはいえ紛争拡大に歯止めを掛けるものであり,評価し得る。
(ハ) このような情勢の下,湾岸協力理事会(GCC)諸国は,ノールーズ油田原油流出問題を契機として,5月から6月にかけ,新たに紛争調停を試みたが,両紛争当事国の主張の差が極めて大きく,具体的成果は挙げ得なかった。しかし,GCC諸国は,今後もイ・イ紛争終結のための努力を続けていくと見られ,11月カタルで開催された第4回GCC首脳会議の最終コミュニケでも,10月31日の安保理決議540を支持し,イランの同決議受諾を要望するとともに,クウェイト及びアラブ首長国連邦による調停工作を再開する用意がある旨表明した。
また10月,第1回GCC軍事演習「半島の盾」が,イランのホルムズ海峡封鎖警告の中で,アブダビにおいて2週間にわたり行われた。同演習は,小規模とはいえGCC6か国の軍隊だけで共同演習を実施したこと自体GCCの防衛意識の高まりの反映と解され,注目される。
(4) アフガニスタン情勢
ソ連軍(10万名強)のアフガニスタン駐留は83年も依然継続しており,アフガニスタン各地でソ連軍・カルマル政権側と反体制勢力との戦闘が続いた。また,パキスタンは大量のアフガニスタン難民を受け入れ,大きな困難に直面する状態が続いている。
本問題の解決については,コルドベス国連事務次長が83年1~2月及び84年4月にパキスタン,アフガニスタン,イランを訪問し話合いを続けたほか,83年4月及び6月にジュネーヴにおいて国連の仲介の下でアフガニスタン・パキスタン間の間接対話が行われたが,見るべき成果は挙げ得なかった。
我が国は,ソ連の軍事介入は国際法及び国際正義に反するものであり,直ちにソ連軍の全面撤退が行われ,アフガニスタン国民が内政不干渉,自決権尊重の原則に基づき自らの手で国内問題の解決を図り得るようにすべきであるとの立場を機会あるたびに表明してきている。また11月の国連総会でも,我が国は,ソ連軍の全面撤退等を骨子とする総会決議を支持した。
なお,パキスタンへ流入したアフガン難民は300万人近くにも達したと言われているが,我が国は,国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)及び世界食糧計画(WFP)を通じて83年度に約1,700万ドルの援助を行った。
(5) 各国の情勢
(イ) エジプト
(a) 就任2年目を迎えたムバラク大統領は,82年に続いて治安維持,国内経済諸問題の解決を通じ国内情勢の安定化に努めた。すなわち,10月には,サダト暗殺事件に際して布告した治安関係2法は廃止したものの緊急事態法の適用の1年間延長を決め,引き続き過激派対策には断固たる態度で臨むことを示した。同時にムバラク大統領は野党,政府批判勢力,宗教関係者との対話を通じて社会緊張の緩和に努めるとともに言論の自由の拡大,多数政党制の推進など民主主義促進の姿勢を示した。特に84年5月の人民議会総選挙に向けて穏健な中産階級を背景とした新ワフド党の活動が顕著であり,サダト時代に解散を命じられた同党の活動再開につき政府当局は,その合法性を改めて承認した(84年1月)。
経済面では,83年は新経済5か年計画の初年度に当たり,政府発表によれば諸目標の達成率は98.8%であり,この数字で見る限り順調な出足であると言える。しかし国際収支の改善等にはある程度の成果を挙げ得たものの財政赤字は60億ドルに上っており,また依然物価上昇率は賃金上昇率を上回るなど経済的には厳しい環境にある。
(b) ムバラク大統領は,対米協調,対イスラエル平和という基本路線を維持しつつも,イスラエルとの関係は「冷たい平和」にとどめアラブ諸国との関係改善を図りキャンプ・デーヴィッド合意以後の孤立からの脱却に努めるとともに,非同盟諸国,アフリカ諸国をはじめとする各国との交流を活発にして国際的発言力の増大に努めた。すなわち,エジプトは,イラク,ジョルダン及びモロッコと接触し,これらの国と実質的関係を改善し(10月アリ副首相のイラク,ジョルダン訪問,12月ムバラク大統領のモロッコ訪問),他方スーダンとの間では統合憲章に治った第1回統合最高評議会を開催した(10月)。
また,12月,大統領は,アラファト議長と会談しPLOとの関係改善を図るとともにエジプトの中東和平におげる影響力の増大を図った。
また,エジプトは84年1月,イスラム諸国会議機構への復帰を実現した。
対ソ関係では,4月に文化科学協力協定が調印され,12月には通商拡大についての合意が行われるなど実務面での改善が図られたが,ソ連大使の復帰には至らなかった。
(ロ) シリア
(a) 82年2月のハマ事件以後反政府運動は鎮静化したものの,83年11月のアサド大統領の病気入院を契機に政府内部における権力闘争の表面化が伝えられた。また,建設相,情報相等現役閣僚の死亡が相次いだ。かかる状況を背景に,84年3月にはアサド大統領の負担軽減等の理由で内閣改造及び副大統領制の導入が行われた。
(b) 外交面では,5月に勃発したPLO内紛で反アラファト派を支援し,12月にはアラファト派をトリポリから退去せしめた。またレバノン問題に関してもイスラエル・レバノン協定に反対し,84年3月にはジュマイエル政権が同協定を廃棄するに至った。このような状況の下でレバノン駐留多国籍軍はシリアが主張していたとおり撤退することとなった。その間12月にはレバノンを舞台とする米国との武力衝突が発生したが,シリアはその後も米国との政治対話に応じる姿勢を示している。
一方ソ連との関係は,ソ連によるSAM-5,SS-21等の武器供与など軍事面を中心に緊密の度を加えている。
(c) 83年も莫大な軍事費等に起因する慢性的な歳入欠陥を湾岸産油国等からの経済援助で補う形の財政運営が行われた。また,貿易協定,観光協定に基づきイランとの経済関係が強化されたことが注目される。
(ハ) ジョルダン
(a) ジョルダンは,国内に人口の過半数を超えるパレスチナ人を抱えており,内政上もパレスチナ人に対する配慮が払われている。PLOとの対話再開を控えた84年1月には,10年近く活動を停止していた国会を再開して西岸パレスチナ人への接触を試みるとともに,内閣を改造してパレスチナ人閣僚を増やすなどの措置をとり,パレスチナ問題解決に向けて国内体制固めを行った。
(b) 産油国・工業国の不況の影響を受けるなど厳しい経済環境にあるにもかかわらず,実質経済成長は,他の中東諸国や発展途上国に比べて比較的良い実績を示し,82年を若干下回る程度で収まりそうである。また,中央政府予算は,アラブ産油国からの経済援助が低迷したことから前年に続いて緊縮予算となっている。
(ニ) リビア
(a) 内政面では,カダフィ大佐が「グリーン・ブック」(カダフィ大佐の自著で直接民主主義国家の確立を目指したもの)精神の一層の宣布により体制の安定を図っている。
(b) 外交面では,(i)対モロッコ関係の好転と対アルジェリア関係の沈滞,(ii)湾岸アラブ諸国への接近,(iii) PLO反アラファト派支援強化,(iv)第19回OAU首脳会議からの退場と対エティオピア関係の一時的後退,(v)対米関係の一層の悪化,(vi)ソ連との友好協力条約締結に関する基本的合意成立,(vii)対東欧軍事関係の緊密化が注目された。
(c) 唯一の外貨獲得源たる石油収入が82年の74億ドルから83年は118億ドルに増加した。生産量は年間を通じ100~110万B/Dを維持した。しかし,外貨準備高の漸減(年初72億ドル→年末54億ドル),対外債務残高の漸増等により経済全体の縮小傾向は80年以降依然として続いている。
(ホ) スーダン
(a) 4月に国民投票により再選されたニメイリ大統領は,6月には重要な国内制度の変革とも言える南部州の再分割を行い,9月にはイスラム法(シャリア法)の適用を断行し々これに反発して非イスラム教徒の多い南部では,10月以降,外国企業等に対するゲリラ襲撃事件が頻発し始めており,改善の兆しの見られない経済状況と共にニメイリ政権の大きな課題となっている。
(b) 外交面では,引き続き米国等西側諸国との友好関係の強化を図り,11月にはニメイリ大統領は,イタリア,フランス及び米国を訪問した。また,エジプトとの関係は一層緊密化する一方,リビアとはチャード紛争等により対立が続いた。特に南部ゲリラ問題を巡り,リビア,エティオピアとの関係は急速に悪化した。
(ヘ) トルコ
(a) 11月総選挙が実施され3年余ぶりに民政に復帰した。12月にはオザール祖国党内閣が成立し,治安面も平静に推移しているが,全土に戒厳令が施行されたままとなった。
(b) 外交の基本路線たる全方位外交が一段と積極的に展開された。サイプラス問題とエーゲ海大陸棚問題を巡ってギリシャとの関係が低調であったことを除き,全般的に良好な対外関係が維持された。
(c) 経済面では,年後半から若干陰りが出始めたため,83年の成長率は3.2%にとどまり,82年の4.3%に遠く及ばなかった。
他方物価上昇率は年初目標25%を大幅に突破して42%を記録し,インフレ再燃の懸念が出ている。国際収支は,輸入が82年比5億ドル増の92億ドルとなったのに対し,輸出が前年とほぼ同額にとどまったこと,海外労働者送金も82年の22億ドルから15億ドルに減少したこと等により経常収支の赤字幅は,82年の106億ドルから83年は162億ドルに増大した。
(ト) イスラエル
(a) 政権の交代並びに早期総選挙の決定が行われ,政局は流動的である。
9月,ベギン首相が辞任し,10月に就任したシャミール新首相(外相を兼任)はベギン内閣の閣僚をそのまま引き継ぎ,ベギン路線の継承を宣言した(ただし内閣成立直後に蔵相のみ交代)。
その後84年3月には経済困難克服策を巡り議会に3議席を有する小政党のタミが連立政権から離脱したため,シャミール首相は1年余の任期を残して早期総選挙に追い込まれた(84年7月に実施)。
(b) 外交面では,対レバノン政策の行き詰まりと対米関係の改善が特筆される。5月にレバノンとの間で関係正常化及びレバノン南部の安全保障措置を含む協定を締結したが,シリアがこれに強く反発したためレバノン情勢は紛糾した。結局,84年3月レバノン政府は,同協定を破棄するに至った。これによりイスラエル軍のレバノン撤退は結局実現せず,厳しい財政困難の中で南レバノン駐留が続けられている。
イスラエル軍のレバノンからの撤兵問題を巡って冷却化していた対米関係は,11月のシャミール首相訪米に際し,「米・イスラエル合同政治・軍事会議」が設置されるなど大幅に改善された。
(c) インフレをはじめとする経済困難が更に深刻化し,政権の安定を脅かすに至った。11月就任したコーヘン・オルガド蔵相は,各省予算の一律9%削減等厳しい引締めを行ったが,各種補助金の削減等は物価の反騰を招き,83年190%を記録したインフレは,84年に入り年率300%にも達する勢いとなっている。
(チ) アルジェリア
(a) シャドリ大統領は堅実な民生向上政策を推進し,民衆の支持を獲得して着実に政権の基盤を固めている。84年1月に行われた大統領選挙においてもシャドリ大統領は,国民の圧倒的支持を得て再選された。
(b) 外交面では,非同盟中立,アラブ連帯の基本政策の下に,対外関係の多角化を図ってきた。特に,9月にはブッシュ米副大統領がアルジェリアを訪問し,11月にはシャドリ大統領が独立後のアルジェリア元首として初めてフランス及びイタリアを公式訪問し,対米,対西欧関係の緊密化が進んできている。
(c) 経済は,原油価格の引下げという厳しい環境にもかかわらず,実質7.2%という着実な成長を遂げた。これは炭化水素輸出の多様化政策,民生の向上を指向する堅実な社会経済政策が徐々に功を奏した結果である。
(リ) チュニジア
(a) 国民融和,政治の民主化等の政策により政情は比較的安定的に推移していたが,年末には,パン等の値上げを契機として各地で食料暴動が起こり,その責任問題からギガ内相が更迭された。
(b) フランスをはじめとする西欧諸国との伝統的友好協力関係を発展させるとともに,アルジェリアを中心として近隣諸国との関係の緊密化を図りマグレブ諸国統一に向けて積極的な外交を展開した。また中東問題に対しては総じて穏健かつ現実的立場をとっている。
(c) 経済面では,長びく世界的不況にもかかわらず,多くの部門で生産の回復が見られたが,雇用・国際収支の面では改善が得られず,依然厳しい環境に置かれている。特にパン等に対する補助金を支出している一般補償基金の赤字解消問題は,当面,同国財政の最大の課題となろう。
(ヌ) モロッコ
(a) 内政面では,西サハラ問題と経済状況の悪化に伴う国民生活の圧迫が問題となっている。このような状況に対処するためハッサン国王は,8月に予定されていた総選挙を延期するとともに,10月,6大政党党首を交えたラムラニ挙国一致内閣を発足させた。
(b) 外交面では,西側諸国及びアラブ穏健諸国と引き続き友好関係を維持するとともに,アルジェリア,リビアとも元首会談を行うなど関係改善に努力した。しかし西サハラ問題を巡るモロッコの,ポリサリオとの直接交渉を拒否する頑固な態度に対し,OAU諸国内では新たにサハラ・アラブ共和国(RASD)を承認する動きが見え始めており,今後苦しい対応を迫られよう。
(c) 経常収支の悪化等に伴い,対外累積債務が83年央で118億ドルに達し,10月・パリ・クラブに対する債務繰延べ要請に追い込まれた。
(ル) アフガニスタン
(a) 現在も10万余のソ連軍が駐留しているが,依然,全国各地でカルマル・ソ連軍と反体制ゲリラ側の戦闘が続いている。
(b) カルマル政権は対ゲリラ戦という困難に加え,政権内部にもカルマルの属する主流派パルチャム派と,タラキ,アミンの流れを汲むハルク派の派閥抗争という問題を抱えている。
(c) カルマル政権は非同盟主義を標傍しているものの,実際にはあらゆる面でソ連及び東欧諸国への傾斜を強めている。7月にはモンゴルとの間に友好協力条約,領事条約,貿易支払協定を締結した。
(ヲ) イラン
(a) シーア派イスラム宗教界が革命政権の中枢を占め,その強力な指導力の下に革命を遂行しているが,83年には,この過程が一層の進展を見せた。しかし,革命政権は,ホメイニ師後継者問題,土地・貿易の国有化問題,イラクとの紛争等の問題を抱えでおり,これらの問題の帰趨を今後とも注視する必要がある。
イラクとの戦闘では,2月,4月,7~8月,10~11月にイラン側の攻勢が行われたものの,イラク側の反撃により,多大な人的損耗を被り,膠着した戦況を打開するまでには至っていない。イランが攻勢に出るごとにイラクは報復としてミサイル等による都市攻撃を行い,また,イラク空軍による船舶攻撃を続けているが,イランの主要原油積出し施設たるカーグ島からの積出しには,重大な支障は生じていない。
(b) イランと米,英,仏との関係は依然として改善されていない。特に,イラクに対し武器供与に踏み切ったフランスとは関係縮小の措置がとられた。また,ソ連との関係もツーデ党に対する弾圧もあり冷却したままとなっているが,84年6月以降イラン・ソ連関係改善への動きもあり,今後注目を要する。
(c) 83年の石油輸出は,年初のOPEC総会を巡る混乱はあったものの全体として前年に引き続き190万B/Dの高水準で推移した。この石油収入を背景にイラン経済の回復基調は維持されたが,インフレ傾向・失業,民生物資の配給制,輸入港における大量の滞貨といった多くの問題は解消されなかった。
また,革命後初めて立案され,3月から実施された経済開発5か年計画も,戦争の長期化・膠着化に伴い,総投資額が当初の1,650億ドルから1,470億ドルに,目標成長率が9%から4.8%にそれぞれ引き下げられた。
(d) 我が国との関係は,人的交流の面で6月のアルデビリ外務次官の訪日,8月の安倍外務大臣のイラン訪問,10月のタヘリ環境庁長官の訪日が行われたほか,貿易・経済交流の面でも貿易額が前年に比し倍増(約70億ドル)するなど,良好でかつ上向きな関係にある。
(ワ) イラク
(a) 3月から4月にかけて,反体制派による爆発事件が頻発したが,国内情勢は全般的に平静に推移した。
(b) イラン・イラク紛争の平和的解決に向けて種々模索がなされたが,実らなかった。二国間関係では,サウディ・アラビア,ジョルダンとの関係が緊密化したほか,外交関係は断絶されたままではあるが,エジプトとの関係が実質的に大きく進展した。また米国とも外交関係はないが,実務的関係はより緊密化した。従来イラク支援の姿勢を明確にしているフランスとの関係は,シュペール・エタンダール機供与等により更に強化され,また,ソ連との関係も武器供与再開により改善の方向に向かった。
(c) 経済面では,外貨事情が悪化し,引き続きサウディ・アラビア等から支援を受けたほか,83年債務につき外国民間企業から支払猶予を取り付けた。また,石油輸出を増大するためのパイプラン建設計画が浮上してきた。
(カ) サウディ・アラビア
(a) 内政面では,ファハド政権は,国内治安対策の一層の強化を図る一方,イスラム的伝統回帰を唱導,また国王自ら有力部族代表や宗教界長老との頻繁なる接触及び地方巡行による国民との対話を積極的に推進,これらが功を奏し2年目を迎えた現政権は安定的に推移した。
(b) 外交面では,特にレバノン問題に関し粘り強く調停活動を展開,9月には停戦合意成立に導くなど,問題解決に向け積極的な外交努力を行った。
またイラン・イラク紛争に対しては,引き続き域内の結束強化を図り,同紛争の解決のため種々の努力を行ったが成果は挙がらなかった。
(c) 石油収入が大幅に減少したことから,4月に発表された83/84年度予算では約100億ドルの赤字を計上,不足分は在外資産の取崩しで補填するとの方針が出された。
第3次5か年計画の主要開発プロジェクトについては,そのほとんどすべてが既に前倒し的に実施されてきているので,右財政赤字が開発計画の当初目標達成に影響を及ぼすことはないと見られる。
(ヨ) クウェイト
(a) 内政面では,特に議会を中心としてイスラム・ファンダメンタリズムの抬頭が看取され,憲法改正問題,株式市場問題を巡って議会と政府の対決が一層強まった。12月に発生した在クウェイト米国大使館等市内7か所での連続爆破事件は,クウェイト全土を震えさせた。当面は特に治安面を中心に開放体制の引締めが継続されるものと見られる。
(b) 従来の全方位外交からGCC域内協力強化の姿勢を示しつつも,GCC統一治安協定に留保付賛成の態度をとったように,GCCがサウディ・アラビア主導型となることを嫌うとの立場は崩していない。なお,イ・イ紛争調停のためアラブ首長国連邦外相と共にイラン・イラク両国へのシャトル外交(5月),イラク・パイプライン再開を期してのイラク・シリア間調停努力(5月),GCCドーハ・サミットの委任を受けたPLO内紛調停ミッションヘの参加(11月)等・GCCが実施した調停活動では常に積極的な役割を果たした。
(c) 83年平均原油生産量が90万B/D強にとどまり,前年度に引き続き緊縮型赤字予算を組むなど,株式市場問題の後遺症,イ・イ紛争の長期化,湾岸諸国経済の停滞等の要因もあり,全般に停滞基調で推移した。
しかし,石油関連投資収益の増大,石油の上流・下流部門への進出を通じての石油事業基盤の強化には努めており,在欧ガルフ・オイルの設備購入(2月ベネルックス,3月スカンディナビア)は注目された。
(タ) アラブ首長国連邦
(a) 内政面では,特に重大な事件もなく極めて安定的に推移した。開発計画のスロー・ダウン及び経済活動の低迷の影響を受けて,外国人労働者の失業増加に対しては,失職した外国人労働者を国外退去させる措置(6か月間の入国禁止)をとるなど社会不安の芽を摘むべく努めている。
(b) イラン・イラク紛争の早期解決に積極的努力を行った。外務担当国務相のイラン・イラク訪問(5月),ザーイド大統領のイラク,シリア訪問(10月)は右努力の現れであった。GCCへの協力にも積極姿勢を示した。
(c) 国際石油市場軟化による石油収入の減少は,当国経済に少なからぬ影響を与えた。すなわち,83年の連邦予算及びアブダビ予算の成立は大幅に遅れ,結局決定を見たのは年央となり,また,82年に続き赤字予算であった。このため,公務員給与の遅配,開発計画の縮小,対外援助額の減少(83年は1億5,000万ドル)といった事態が生じた。
(レ) オマーン
(a) 内政面では,ドファール地方の反政府活動が鎮静化したこともあり,カーブース政権は特にこれといった不安定要因もなく安定的に推移,また,国内開発の主要ポストたる商工相,社会労働相に新進テクノクラートを任命,諮問会議も定数増を図り全面的に改選するなど,国王中心の現体制の一層の強化が図られた。
(b) 10月,南イエメンとの外交関係設定を正式発表,これにより国境付近の緊張は大きく緩和されたものの,イラン首脳のホルムズ海峡封鎖を示唆する発言を受け,同海峡を巡る情勢が緊迫,政府はGCC諸国に対オマーン軍事援助を要請するなど,域内結束強化の姿勢をより明確に打ち出した。
また,4月にはカーブース国王が米国を訪問,レーガン大統領との会談を通じ,米・オマーン関係の一層の強化が図られた。
(c) 石油価格の下落により石油収入が減少,国内開発投資への影響が危惧されたが,石油の増産と,開発プロジェクトの優先度見直し及び政府支出の抑制により,在外資産を大きく取り崩すこともなく,うまくこれを切り抜け国内経済は一応の安定と進展を見た。
(ソ) カタル
(a) ハリーファ首長の施政は広く国民の支持を得ており,体制は安定している。7月に武器隠匿事件が発生したが,体制転覆をねらったものではなかったと見られる。景気後退が続く中で,失職した外国人が大量に国外に流出したと報じられているが,政府は,これをを機会に国内におけるカタル人の比率を高めることを意図していると見られている。
(b) 外交面では,独立以前より深いつながりを持つサウディ・アラビアをはじめとするGCC諸国との善隣友好関係の維持,強化に努めた。11月には,第4回GCCサミットをドーハで開催した。
(c) 経済面では,世界的な石油供給過剰の影響を受け,石油収入が激減したため(82年40億8,400万ドル,83年推定で26億8,400万ドル)プロジェクトの延期ないし中止を行った。また,プロジェクト代金の原油決済方式をとり始めたと見られている。収入増加努力の一環としてGCC経済統合協定の枠内で関税率を現在の最低2.5%から4%に引き上げることが検討されたが,実施に至らなかった。推定埋蔵量300兆立方フィートと言われるノースフイールド・ガス田開発についてはLNG輸出開始目標を1992年とすることが発表され(2月),開発パートナーとしてBP及びCFPの2社が選定された。
(ツ) バハレーン
(a) アル・ハリーファ家バハレーン統治200年目を迎え,政情は平穏に推移した。為政者アル・ハリーファ家(スンニー)は宗教的には少数派であり,人口の約75%を占めるシーア派対策が内政上の最大課題である点は変わっていない。
(b) 外交面では,サウディ・アラビアの外交政策と歩調を合わせている。
表向き親米を強く唱えることは避けているが,米国との関係はますます強まる傾向が看取される。
(c) 経済面では,金融関係企業の誘致に力を注ぐ一方,GCC関連プロジェクトの自国への誘致に努力した。経済社会投資4か年計画(1983~86年)は実行率が低い(50%程度)ため2年間延長する旨発表した(2月)。
(ネ) 南イエメン(イエメン民主人民共和国)
(a) 内政面では,大きな動きはなく,平穏に推移した。
(b) 外交面では,基本的には従来のソ連寄りの路線を堅持しつつも,西側・湾岸諸国との関係改善に努めた。特に,10月,オマーンとの関係が正常化された。北イエメンとの関係は,8月に第1回イエメン最高評議会が開催される等良好に推移した。
(c) 経済面では,81年から第2次5か年計画(総投資額約15億ドル)が開始されたが,資金不足の状況は解消されなかった。
(ナ) イエメン(イエメン・アラブ共和国)
(a) 83年5月,5年の任期を終えたサーレハ大統領は再び大統領に選出され第2期目に入った。11月,親西欧的なアブドルガニー首相を首班とする内閣が成立した。
(b) 外交面では,当国に対する最大の援助供与国であるサウディ・アラビアとの友好関係が維持された。また南イエメンとの関係改善も推進され,8月には第1回南北イエメン最高評議会(元首レベル)が開催された。西欧諸国との関係は前年に引き続き良好で,特に西独との関係が緊密化した。ソ連との関係には格別の進展は見られなかった。
(c) 経済面では,財政赤字,国際収支の悪化が続き,農業部門も不振であった。当国の第1の外貨収入である海外労働者からの送金も,産油国の経済開発活動の鈍化等を背景として減少傾向にある。