第6節 ソ連・東欧地域

1. ソ連・東欧地域の内外情勢

(1) ソ連

(イ) 内政

(a) この1年の最大の出来事は,アンドロポフ書記長が就任後わずか1年3か月で死去し,この後を受けてチェルネンコ書記長の率いる新政権が誕生したことであった。

(b) アンドロポフ書記長については就任の当初から健康問題が取沙汰されていたものの,就任後約9か月間は内政・外交両面にわたり精力的に活動した。その後83年3月中旬を最後に姿を見せず,特に11月の革命記念日行事及び12月の党中央委総会,最高会議にも出席せず,その間数回にわたりアンドロポフ声明やプラウダ・インタビューの形でその健在ぶりを示しつつ,健康回復のうわさを流していたが,結局84年2月9日に死去した。

(c) 他方,チェルネンコ政治局員は,アンドロポフと書記長のポストを争って敗れ,一時公式行事から姿を消し,83年4月のレーニン生誕記念集会及び5月のメーデーにも姿を見せず病気説や失脚説が流れたものの,6月中央委総会の基調報告を行って健在ぶりを示し,その後アンドロポフが公の席から姿を消して以来,党・国家の重要行事を主宰し,No.2としての地位を固めた。

(d) アンドロポフの死後,チェルネンコが葬儀委員長となり,結局急激な変化を嫌う既成勢力を背景とするチェルネンコが2月13日党中央委臨時総会において書記長に選出された。

(e) チェルネンコ新政権は,その内外政策において従来の基本路線の継承を宣言しており,人事更新,規律強化及び経済実験等の諸分野でアンドロポフ路線を続ける一方,指導部と国民の連帯の強化,イデオロギー重視等の点でチェルネンコ色を出す努力がうかがわれる。

(f) ただし,チェルネンコ政権については,アンドロポフ時代に形成されたゴルバチョフをはじめとする若手幹部グループ,軍部及びKGB諸勢力と党官僚勢力とのバランスに依存している現状から見て,72歳の高齢と健康状態の不安とを併せ考えれば,今後自己の権力基盤を確固たるものとするには相当の困難が伴なおう。

(g) チェルネンコ政権の内政の最大の課題は,引き続き経済の建直しであり,そのための社会の活性化のための努力が継続されようが,いずれも根の深い問題だけに早急な成果を期待することは難しいと考えられる。

(ロ) 外交

アンドロポフ政権はその発足に当たり,対外路線の一貫性,ブレジネフ「平和外交」の継承という原則的立場を強調した。83年のソ連外交は軍備管理問題を中心とする米ソ関係の再構築を最優先課題として進められた。しかし,前政権末期以来の外交上の手詰まりを打開するに至らず,むしろソ連を取り巻く国際情勢は政権発足当時に比べ一段と厳しさを加えた。84年2月,アンドロポフ書記長は死去し諸懸案はチェルネンコ新書記長に引き継がれることとなったが,同書記長は政策の継続性を訴え,原則的に従来の外交路線の踏襲を明らかにしている。

(a) 対米・対西欧関係

ソ連の外交努力の大半は対米関係の調整に注がれたが,米ソ関係改善は基本問題である安全保障問題(軍備管理問題)と密接に絡みあって極めて困難なものであった。83年初夏以降,INF交渉,STARTの停滞にもかかわらず米側からのアプローチにより極めて限定的ながら米ソ実務関係に動きが見られたが,ソ連軍用機による大韓航空機撃墜事件(9月1日)のため再び両国関係は後退した。

ソ連はINF問題を契機として西欧に東西対話を求める声が高まったのに乗じ西欧諸国,特に西独に対する働き掛けを強めたが,米国INFの西欧配備を阻止し得ず,11月INF交渉を中断した。次いで12月,START及びMBFRという米ソ・東西間軍備管理交渉を無期延期とした。その後84年3月,MBFR交渉が再開されたが,INF交渉については米INF欧州配備以前の状態に戻ることを交渉再開の前提とする立場を変えていない。

(b) 対東欧関係

ソ連はワルシャワ条約政治諮問委員会会議(1月・プラハ),ソ連・東欧首脳会議(6月,モスクワ)及び外相会議(10月,ソフィア)を通じて軍備管理・軍縮に関する一連の提案を繰り返し,ソ連・東欧の政治的一体性を誇示しつつ西側に対する平和攻勢を重ねた。しかし,米国INFの欧州配備が開始されるに及んで東独及びチェッコスロヴァキアに作戦・戦術ミサイルを配備する等の対抗措置を講ずるとともに,ワルシャワ条約諸国の意思統一に努めた。なお,コメコン首脳会議の開催についてはチーホノフ首相が第37回コメコン総会(10月,東ベルリン)の際,首脳会議の準備が完了したと述べた。

(c) 対アジア関係

中国に対してはブレジネフ時代末期以来の関係改善路線を踏襲し,83年3月,9月及び84年3月に外務次官級の政治協議を実施した。中国側の要求する「三つの障害」の除去という基本的問題については譲歩の姿勢を見せていないが,貿易,人的交流等については拡大の傾向にある。また,ソ連は引き続きインドとの良好関係維持に努め84年3月ウスチーノフ国防相が訪印した。

(d) 対中東関係

アフガニスタン問題に関するソ連の立場には変化は見られない。シリアに対する軍事的・政治的支援態勢を整え,アリエフ第一副首相が訪問した(84年3月)。3月,リビアと友好協力条約締結につき原則的合意に達し,9月,南イエメン首相が訪ソした。イランとの関係は円滑を欠いたまま推移している。

(e) その他の地域

中南米では引き続きキューバ,ニカラグァとの関係強化に努め,アフリカからはマシエル=モザンビーク大統領(3月),メンギスト=エチオピア軍事評議会議長(84年3月)の訪ソが行われた。

(ハ) 経済

(a) 83年はアンドロポフ政権の最初にして最後の年であったが,同政権はおおむね前政権の経済政策を踏襲しつつ,経済の構造的,制度的諸欠陥を除去するため,生活や職場等の環境整備を図るとともに労働規律の厳格化,監督の強化等の引締措置をとり,他方,農業請負作業班,工業ブリガーダ制の導入,新経済管理・運営システム(計画立案,生産活動等における企業の自由裁量権の拡大)の実験等の生産現場の自主性をある程度認めた措置をとるなど,硬軟両様の施策を講じてきた。

(b) このような経済施策の下に,83年の鉱工業生産は計画3.2%増(うち生産財生産3.1%増,消費財生産3.5%増)に対し,実績4.0%増(同上3.9%増,4.3%増)と計画を大幅に上回る成績を示し,79年以来の計画未達成の状態から脱した。

農業総生産は5.0%増の伸びを示し,計画10.5%増には及ばなかったものの,79年以来のマイナス成長を初めて脱した82年に引き続きプラス成長を維持した。

この結果,3.1%増と前年実績2.6%増を上回ったものの計画3.3%増には及ばなかった。

(c) このように83年の経済実績が比較的良好であった背景にはアンドロポフ政権の規律引締め等の諸措置による面もある程度あろうが,不振であった82年の実績に対比した伸びであること,83年の冬が比較的に温暖であったことなどの諸事情があることを見逃し得ない。

石油,石炭,鉄鋼,農業等の基幹産業部門の長期的不振傾向は依然解消されておらず,経済政策の柱である新技術の導入,エネルギーその他の資源の節約,物品引渡し契約の遵守,生産施設建設期間の短縮,建設費の上昇抑制,経済管理・運営システムの改善等の基本的な問題はまだ十分な解決を得ていないと見られる。

(d) なお,チェルネンコ新政権は基本的には前政権の経済政策を踏襲していくとの方針を打ち出している。

(2) 東欧地域

アンドロポフ政権時代にはその健康上の問題もあり,東欧諸国のソ連に対する相対的発言力が若干高まったと考え得る兆候もあったが,ソ連・東欧諸国を律する基本的枠組みに変更はなく,チェルネンコ政権誕生後もこうした枠組みは維持されよう。

ポーランド情勢は鎮静化しつつあるものの,ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構加盟国は,米国のINFの西欧配備への対抗措置として,ドイツ民主共和国及びチェッコスロヴァキアに戦術核ミサイルの配備を決定するなど,対米・西欧関係の緊張は高まっている。

経済面では,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリアにおいて天候不順により農業生産が不振であったにもかかわらず,東欧諸国全体としてはポーランド経済の回復に支えられ,前年のマイナス成長から83年には3.4%の成長に転じた。なお,東欧諸国の金融危機は一応峠を越したものと思われるが,対外累積債務は,83年末現在,依然として530億ドルに上ると見られている。

(イ) ワルシャワ条約(WP)諸国

(a) ドイツ民主共和国(東独)

(i)  83年を通じてルター生誕500年祭にちなんだ各種行事及びINF西欧配備阻止の「平和集会」が特記されるが,全体として平穏に推移した。84年には建国35周年を迎える。

(ii)  経済面では,経済成長が計画(4.2%)を上回る実績(4.4%)を残し,82年の不振を挽回した観がある。貿易の伸びもほぼ目標を達成し,対外債務は引き続き減少した。特に両独間交易が順調に拡大した。

(iii)  外交・軍事面では,ソ連・東欧諸国との連帯・協力関係の維持・拡大に努める一方で,西側諸国とも「政治対話」を通じて東西関係の雰囲気改善に努力が払われた。すなわち,10月にはソ連の戦術ミサイル配備を発表するとともにベルリンでコメコン総会・ワルシャワ条約機構臨時国防相会議が開催され,他方84年1,2月には,トルドー=カナダ首相,シェイソン仏外相,バート米国務次官補等の西側要人が同国を訪問した。なお,西独との関係では,経済面を中心とする実務関係が徐々に進展した。

(b) ポーランド

(i)  内政

82年12月31日に戒厳令が停止され,国内情勢は次第に平静化の方向に向かった。6月16日から23日までローマ法王が2度目の訪問を行い,全国各地で記念ミサを行った。法王訪問により国内正常化を内外に印象付けた政府当局は,翌7月22日戒厳令を全面解除した。戒厳令解除と同時に種々の法改正が行われ,治安の維持を図りつつ,特赦法の施行により一部政治犯が釈放された。さらに11月にはヤルゼルスキ首相は兼任していた国防相を辞任,国家防衛委議長に就任し現政権の軍事的色彩の除去に努めた。84年3月には党全国会議が開催され党再建の進捗ぶりが内外に示された。

(ii)  外交

ホネカー東独書記長(8月),カーダール=ハンガリー第一書記(10月),フサーク=チェッコ書記長(11月)が相次ぎ来訪した。対西側関係は,83年に引き続き大きな進展は見られなかったが,パリにおける対ポ債務繰延交渉が開催されるなど少しずつ雰囲気が改善された。

(iii)  経済

83年の経済は全般的に回復基調で,国民所得も4年ぶりにプラスとなった。対西側債務は83年末で約264億ドルである。

(c) チェッコスロヴァキア

(i)  国内政情は,表面上さしたる波乱もなく安定しているが,ここ数年来の経済の停滞の影響を受け国民の生活水準が低下している。また,10月ソ連の戦術ミサイルの配備作業開始が発表されたが,これに対する国民の不安を表す投書が党機関紙に掲載された。

シュトロウガル首相は,手術を受け春から夏にかけ公式の場に姿を見せなかったが,その後通常の職務に復帰している。

(ii)  経済は,2年続いたマイナス成長(81年-0.1%,82年-0.3%)を脱し,83年は2.2%増となったが,これは,厳しい消費財の輸入抑制策及び輸出産業中心の国内の資源配分など国民の生活を犠牲にした結果によるものであり,前途は多難である。

(iii)  外交面では,1月WP政治諮問委,2月同国防相会議,4月同外相会議をプラハで開催するなど東側諸国の一致団結を果たすべく努めた。なお米ソ関係悪化を反映し,対西側(特に米国)非難を厳しく行った。また,戦後初の外相のイタリア訪問のほか24年ぶりにチェッコスロヴァキア・中国外相会談が実現した。

(d) ハンガリー

(i) 国内では,カーダール政権が国民の信頼と支持を受け安定を維持した。国会及び地方議員の複数候補の義務化が決定され,国民の意志が国政に一層反映されるよう図られた。また,党・政府の外交担当者が交代した(ヴァールコニ外相,スールシュ党書記,ホルン党外交部長各々就任)。

(ii)  経済面では,対外バランスの改善を最優先課題とし,輸入,投資及び消費の抑制が継続された。83年の経済成長は,0.5%増と横ばいであった。特に,83年夏の干ばつによる影響で農業生産は3%のマイナス成長となり農産物輸出の減少につながった。

(iii)  扮外交面では,ソ連との相互信頼関係の維持に努めたほか,カーダール党第一書記のポーランド,チェッコスロヴァキア,東独への訪問等があった。また,対西側諸国とは,積極的な外交を展開した。とりわけ9月のブッシュ米副大統領及び84年2月のサッチャー英首相の訪問は,東西の注目を集めた。

(e) ルーマニア

(i)  内政面ではクーデター未遂事件,鉱山労働者のサボタージュ等の噂が流れたが,一般に治安状況は良く,また,人事異動も従来に比較して少なく,基本的に安定している。

(ii)  外交面では,シェイソン仏外相(4月),ゲンシャー西独外相(5月及び8月),胡ヨウ邦中国総書記(5月),ブッシュ米副大統領(9月)の訪問が注目されたほか,中東に対する外交も活発に展開し,基本的には自主外交路線は維持されたが,グロムイコ=ソ連外相の訪問(84年1月)の前後からINF問題に対する立場をソ連寄りに変更させてきている。

(iii)  経済面では各企業の自己ファイナンス,自主管理,新賃金制度等を骨子とする新経済メカニズムの導入が強調されたが,経済実績は計画値をおおむね下回り,経済は依然として困難な状況にある。他方,対外債務問題は,輸入抑制による貿易黒字の獲得,西側債権国との第2次債務繰延べの合意等により改善に向かっている。

(f) ブルガリア

(i)  内政は安定している。84年1月に政府・党の首脳を含む大規模な人事異動及び機構改革が行われたが,これは経済運営の効率化・活性化にその主眼を置いたものである。

(ii)  経済面ではブルガリアは経済の効率化に努めているが,83年の天候不順のため農業生産が芳しくなく,同年の主要経済計画は達成されなかった。また,82年1月から実施されていた「新経済メカニズム」は一部修正されて継続されているが,その成果が注目される。

(iii)  外交面では,ブルガリアはチェルネンコ政権成立後も対ソ協調路線を堅持していくものと考えられる。また,バルカン非核地帯化構想実現にも積極的な姿勢を示している。

(ロ) その他の諸国

(a) ユーゴースラヴィア

(i)  かつてチトーの片腕と言われたバカリッチ連邦幹部会副議長の死去(1月)により名実共にポスト・チトー時代に入った。

主要ポストの1年持回り制をとるこの国独自の「集団輪番指導体制」は,特段の問題もなく引き続き円滑に機能している。コソヴォのアルバニア系住民問題はほぼ鎮静化しており・内政は基本的に安定している。

(ii)  経済面では,経済安定化計画の実施,西側諸国による経済支援により,前年に比しハードカレンシー地域に対する輸出が大きく伸び,経常収支の大幅な改善を達成したが,国内的にはインフレの高進,エネルギー不足等により国民生活にも影響が出ており,いまだに困難な状況が続いている。

(iii)  当国は,外交の基本である非同盟・独立路線を一貫して維持しており,84年の初めにはシュピーリャック連邦幹部会議長の訪米及びジャルコヴィッチ同副議長の訪ソ等西側,東側,非同盟諸国を問わず活発な訪問・招待外交を展開している。

(b) アルバニア

アルバニアは,依然として米・ソに対する非難を繰り返し,バルカン協力の動きにも冷淡な対応を示すなど,83年も外交路線に際立った変化は見られなかった。

ただ,近隣諸国との貿易関係強化に力を入れ,とりわけイタリアとの関係が強まった。また,中国とも78年以来途絶えていた貿易関係が再開された。

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