第5節 西欧地域

1. 西欧地域の内外情勢

(1) 概観

(イ) 83年,西独(3月),英国,イタリア(各6月)等において総選挙が行われた。西独のコール政権,英国のサッチャー政権はいずれも圧勝し,安定した政治運営の基盤を得た。イタリアでは,クラクシ社会党書記長を首班とする内閣が誕生したが,連立政権を構成する政党の組合せに変更はない。フランスのミッテラン政権と相まって西欧は総じて安定した政治情勢にあった。南欧では,ギリシア・スペイン等の社会主義政権に続き,ポルトガルで社会党のソアレスを首班とする政権が誕生(6月)したが,総じて各国とも現実主義的政策を指向し,西側の協調を重視する姿勢を示している。

(ロ) 83年の西欧経済情勢は,総体として緩やかな回復を示したが,主要国の経済には跛行性が見られた。いち早くインフレ鎮静化に成功した西独,

英国等といまインフレ傾向の続くフランス,イタリアとの間には格差が見られ,このような情勢の下で,景気回復期にある英国・西独に比し,フランス,イタリアでは,政府は経済再建のため依然引締政策を余儀なくされた。景気の回復傾向にもかかわらず,失業は依然深刻(83年の失業率はEC全体で10.6%)であり,各国で内政上の課題となっている。

(ハ) 東西関係,特に米国の中距離核戦力(INF)の配備問題は,西欧を巡る外交問題の大きな焦点であった。INF配備を控えた時点での反核平和運動の盛り上がりにもかかわらず,英国,西独,イタリアの各政府は米INFを自国に配備するとの既定の方針を実行した。これに対し,11月下旬以降ソ連は一連の軍備管理交渉を中断したが,西欧諸国は軍備管理問題で毅然たる態度をとる一方で,ソ連との対話の維持にも努めている。各国の反核平和運動も総じて鎮静化の方向に向かった。

(2) 欧州における東西関係

(イ) 北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)83年は,NATOにとってINFに明けINFに暮れた1年であった。

10月下句の反核週間を頂点として欧州各地では反核平和運動が盛り上がったが,ミサイルの年内配備開始に向けての準備上の期限(83年11月中旬)に至ってもINF交渉で具体的成果が得られなかったため,79年の二重決定に従い,英国,西独,イタリアが米国製パーシングII及び巡航ミサイルの配備を開始した。INF配備開始に至るまでの間,NATOは米欧離間を意図したと見られるソ連の平和攻勢にさらされたが,常設理事会(常駐代表レベル),特別協議グループ(SCG)を中心としてNATO内部において,頻繁に情報を交換し交渉方針を協議する等各国の意思疎通を図りつつ,同盟としての団結を堅持した。

(ロ) 欧州安全保障協力会議(CSCE:Conference on Security and C00P-eration in Europe)

80年11月に開始されたCSCEマドリッド・フォローアップ会議は,83年9月全参加35か国(アルバニアを除く全欧州諸国及び米国,カナダ)の合意により結論文書を採択した。欧州軍縮会議,人的接触に関する専門家会議等の開催が定められ,東西対話の枠組みを持続した点が主たる成果とされる。しかし,結論文書採択の翌日開催された外相会議は直前に発生した大韓航空機撃墜事件により,東西間の激しい非難応酬の場に一変した。

(ハ) 欧州軍縮会議(CDE:Conference on Confidence and Security-Bui-ldmg Measures and Disarmament in Europe)

欧州軍縮会議は,84年1月からストックホルムで開始され,第1段階として「信頼醸成措置」を討議し,第2段階で「軍縮」に移行する。西側は信頼醸成措置の具体化に重点を置いているのに対し,東側は核兵器先制不使用,武力不行使等の政治宣言的な協定成立を目指しており,相互の基本的な立場に隔りが見られる。なお,第1段階の会議成果は86年11月のCSCEウィーン・フォローアップ会議に報告される予定である。

(ニ) 中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR:Mutual and Balanced Force Reductions)

この交渉は,中欧における束西の通常戦力の相互の削減を目的として73年10月ウィーンで開始された。参加国はオブザーバーを含め西側12か国,東側7か国である。西側のINF配備開始後の12月15日,東側は次期第32回交渉の開始日の設定を拒否したが,欧州軍縮会議の機会を利用した米ソ外相会談で84年3月の再開が合意された。

しかし,兵力データと査察・検証措置につき,双方の主張の対立は続いており,10年を経ても交渉の著しい進展は見られず,今後も交渉は難航が予想される。

(3) 欧州統合

(イ) 欧州政治協力(EPC:European Political Cooperation)

欧州共同体(EC)は欧州の政治的,経済的統合を究極的目標として発足しながら,経済面での統合が進展しているのに対し,政治統合への歩みが遅れをとっているのは否めない。しかし,欧州内外の国際情勢が激動する中でEC各国がこれら国際問題の対処に共同歩調をとるよう努めるケースが多くなってきている。

EPCの考えは,そもそもECの設立の基礎となったローマ条約に規定された機構ではなく,首脳・外相間の合意に基づくものである。EPCは,従来防衛問題,仏英の安保理事会における役割,ベルリン問題,マグレブ問題等外交上最も重要な部分は対象外とされていたが,6月のシュトゥットガルトにおける欧州理事会ではあらゆる外交政策上の重要問題について協議すること,安全保障の政治的,経済的側面についても今後協議していくことが合意された。

欧州の統合を巡っては,欧州が統一された暁の憲法に相当するヨーロッパ・ユニオン設立条約案が欧州議会に提出され,84年2月の欧州議会において正式に採択された。各国による条約批准に至るまでの道のりは長いと見られるが,EPCを通ずる政治協力と相まって,欧州統合への歩みをより着実に前進させる原動力となっている。

(ロ) 経済統合

68年に関税同盟を結成したECは,経済通貨同盟への脱皮を目標に共通農業政策,共通通商政策,欧州通貨制度,共通産業政策等を通じて欧州の経済統合を推進してきた。これら諸政策中,共通農業政策の一環としてECは農産物の統一価格を妥当な水準に維持するため,余剰生産物を買入機関が買い支える制度をとっているが,こうした保護によりほとんどの主要農産品が過剰生産傾向にあり,価格支持のための支出が年々増大している。現在EC予算支出の約65%(83年度)が農業関係関連予算のために使用されているが,このためEC財源は年々圧迫され,84年度は共通農業政策の改革に伴う支出増もあることから約27億ECU(欧州通貨単位:1ECU=0.83U.S.ドル,84年第1四半期平均)の予算不足が見込まれている。先端技術開発のための投資増大の必要性が増し,また,スペイン,ポルトガルという農業国の加盟を目前に控えたECにおいては,かかる農業関係支出の肥大化傾向に歯止めをかけ,財政を再建することが急務となっている。

他方,英国はその産業構造上,ECの農業関係支出による受益が少なく,「受益」と「負担」がアンバランスであるとしてEC加盟当初からこの状況の改善を要求していた。ECはこの財政再建問題と対英還付金問題は不可分なものであると認識し,EC委員会が様々な提案を行ったが,根本的な解決をもたらさず,80年,81年につき一定額を英国に払い戻すという暫定的措置にとどまった。

83年に至り,6月のシュトゥットガルト欧州理事会での討議を経て12月のアテネ欧州理事会で,本問題を首脳レベルで一挙に解決しようと試みられたが,英仏の対立等により成果を挙げ得なかった。84年前半のEC議長国となったフランスのミッテラン大統領は精力的な活動を展開し,加盟各国との二国間首脳会談を次々と行い,これを中心に調整が進められた。

こうして84年3月,最終的な決着を図るべくブラッセルにおいて欧州理事会が開催され,牛乳の過剰生産問題,国境調整金の撤廃,自主財源拡大問題等,財政再建の諸方策につき実質的合意が見られた。しかし,最大の懸案である対英還付金問題については,額,期間について英国と他の9か国との間でもう一歩のところで合意が得られず,問題の一括解決を見ないままに終った。このため加盟各国には失望感が広がったが,84年3月31日の農相理事会で,農業問題に関してはほぼ決着し,残るは対英還付金問題のみとなった。

(4) 各国情勢

(イ) ドイツ連邦共和国(西独)

(a) 83年3月,コール政権成立後初の総選挙が行われ,キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と自由民主党(FDP)の与党連合は野党との議席差58をもって圧勝した。コール政権は連邦参議院における3分の2を占める優位をも背景に比較的楽な議会運営を行い得る立場になった。

コール首相はこのような国民の支持に自信を深め,政権発足当初からの懸案に立ち向かった。そのうちの一つが西独内への中距離核ミサイル配備を巡る安全保障問題であった。配備反対派は反核・平和運動を大規模に展開し,国論は二分するかの観を呈した。これに対しコール首相は精力的に国民に理解を求めつつ,議会において集中審議を求め,その結果に基づき配備開始を行った。反核・平和運動はこれにより配備阻止という直接の目標を失って下火となり,コール首相は当面の政治危機を乗り切った。

(b) コール政権のもう一つの課題は西独経済を不況から脱出させることであった。経済政策の主要点は不要不急の社会保障費支出の切り詰め及び民間投資の活性化のための環境作りであった。これらの政策は漸時効果を見せつつあり,83年に入り景気は先ず内需の回復から始まり,次いで夏期からの外需好調に支えられ上昇気運に転じた。この結果,経済成長率は83年には過去2年続いたマイナスを脱し,予測を越えるプラス1.3%を達成した。

物価動向も前年に引き続き鎮静化の傾向を見せ,83年平均消費者物価上昇率は3%となった。対外経済では,外需の増大が夏以降にずれ込んだため貿易収支の黒字幅が前年よりも減少したが,貿易外収支の赤字幅も縮小したため,経常収支は101億マルクの黒字となった。西独経済はこのように経済安定法の定める成長,雇用確保,物価安定及び対外均衡という4目標のうち3面について改善を見たが,残る雇用確保については,むしろ前年よりも悪い結果となった(83年平均226万人,失業率9.1%)。景気の回復が労働市場に効果を及ぼすまでにはある程度のタイム・ラグがあり,雇用改善までには尚日時を要すると見られる。

(c)コール政権は発足当初から前政権との外交政策の継続性を強調してきた。事実,両政権間には基本政策上の大きな相違は見られないが,コール政権はソ連・東欧との対話・協調関係の維持に努めつつも,米国等西側諸国との関係強化により大きな比重を置いた。米国との協調関係は,ドイツ民族の米国移民300周年記念行事を通し,両国の歴史的一体性が強調され,またゲンシャー外相(1月),コール首相(4月)の訪米及び米国からのブッシュ副大統領(1月),シュルツ国務長官(12月)の訪独等を通じて一段と強化された。

他方,対ソ関係ではコール首相の訪ソ(7月),ウィーンにおける独ソ外相会談(9月)等によって対話が維持された。83年の西独の外交課題は米ソ間のINF交渉妥結を導くための側面援助であったが,西独は米ソ双方に対し首脳会談を開催するよう申し入れた。

(ロ) フランス

(a) ミッテラン政権は,81年発足以来,地方分権化,企業・銀行の国有化,法定最低賃金の引上げ,社会保障給付の増額,税制改革などの社会的不公平是正のための諸政策を推進するとともにフランス経済の再活性化を図るため景気刺激策を講じた。しかし,失業問題の解決を第1の政策目標として実施した景気拡大策は,雇用機会の創出をもたらさず,逆にインフレの高進,貿易赤字の拡大を招くなど,経済状況が悪化したため国民の政府に対する不信は高まった。3月の統一市町村選挙で与党社会党は,野党保守派の伸長に対し,後退を余儀なくされ,81年の国民議会議員選挙時の「明白な左翼の優位」に変化が見られた。そのため83年10月に開催された社会党大会において,左翼の退潮傾向に歯止めを掛けるべく社会党の活性化等を骨子とした,全党一致の運動方針案が採択された。

(b) 82年半ば以降,ミッテラン政権は経済政策を当初の景気拡大策から,インフレ抑制と国際収支均衡を目的とした緊縮政策へと転じた。さらに83年3月には,経済緊縮政策第2弾(財政支出の削減,貯蓄奨励,公共料金引上げ,税収増加,為替管理強化等)を発表し,国内需要の抑制,貿易収支の回復,インフレの抑制を目的とした本格的な引締政策を実施した。この結果,83年のフランス経済は,実質経済成長率-0.3%,消費者物価上昇率9.6%,貿易収支赤字423億フランとなり,成長率こそマイナスとなったものの,82年に比べ僅かに回復の兆しを示した。

83年から84年にかけて,最大の課題は,困難な経済情勢を乗り切るため緊縮経済政策を堅持し続けることであったが,政府の緊縮政策及び産業再編成政策に反対するストライキ等の反政府運動が全国各地で起き始めた。今後,労使協調を実現すべく労働組合との関係をどのように改善していくかが,反政府運動を鎮静化させる鍵となっている。

(c) 外交面では,第三世界,南北問題を重視する従来の外交政策を堅持する一方で東西関係においては,西側の忠実な一員として大西洋同盟の支持という姿勢を打ち出している。対米関係では,中米情勢認識,米の高金利,財政赤字等,対第三世界政策及び東西経済関係等について意見の違いが見られたが,欧州の安全保障,大西洋同盟の維持・強化という点では両国の利害が一致していることから,その関係は基本的には良好であったと言える。対ソ関係は,ミッテラン政権発足以来冷却化していたが,83年末から84年初めにかけて仏運輸相の訪ソ,両国外相会談の開催等仏ソ対話の頻度が多くなる動きが見られた。

(ハ) 英国

(a) サッチャー首相は,フォークランド人気の余勢とインフレ鎮静化等の有利な事情を背景として,5月下院を解散,6月総選挙を実施した。この結果保守党が大勝し(総議席650のうち397を獲得),サッチャー政権の基盤は一段と強化され,政権第2期目においても引締政策をはじめ従来の諸政策が引き続き堅持されている。

しかし,総選挙後,有力閣僚のパーキンソン貿易産業相のスキャンダル発覚に伴う辞任,グレナダ問題を巡り取沙汰された英米間の不協和音,サッチャー首相子息の事業に係る疑惑等内閣の安定性に影を落とす事件が発生したが,サッチャー政権の基盤を揺るがす程の大きな問題には至らなかった。他方,3月に発表された税負担逓減の路線を呈示した84年度予算は一般に好感をもって迎えられ,上述の不安要因を払拭する効果も見られた。

党内左右両派の対立を抱える労働党は,急進的な政策(EC脱退,一方的核軍縮等)を掲げたこともあって総選挙に惨敗したが,83年秋の党大会で執行部を刷新(新党首にキソック,新副党首にハタスリー),その後党政策の明確化を避けるなどの戦術をとりながら党勢の建直しを図っており,最近では同党支持率の上昇傾向が見られる。社民・自由連合は協力体制を進めているものの,かつて程の支持は得られず,総選挙でも議席数を減らした。ジェンキンズ社民党党首は総選挙後辞任し代わってオーエン元外相が党首に就任した。

(b) サッチャー政権は79年5月の発足当初から一貫して活力ある英国経済の再建を主要目標として掲げ,その下で引締め的金融・財政政策及び市場競争力強化を図る施策を推進してきているが,82年頃から次第にその効果が現われ始め,83年に入って英国経済は好転の兆しを見せ始めた。80年,81年とマイナス成長であった国内総生産は82年には実質23%増とプラスに転じ,83年には実質3%増が達成された。また,物価上昇率は,5%台で推移し落ち着きを見せている。しかし雇用情勢は依然として厳しく,失業率は12%台(失業者数約300万人)という高率が続いている。

(c) 83年の最重要外交案件はINF配備問題であった。英国はNATOを中心とする西側協議体制の中で引き続き重要な役割を果たすとともに,INFの国内配備開始を余り混乱もなく実施に移した。このほかの主な動きとしては,香港問題を巡る中英交渉に進展が見られたこと,米のグレナダ派兵を巡って対英協議の不十分さから一時は対米同盟関係に波紋が投げかけられたが,結局は対米不信感の鎮静化が図られたこと等が挙げられる。なお,従来対ソ強硬論者として知られるサッチャー首相が83年中ごろから対ソ対話の必要性につき言及するようになってきていることは注目に値いする(それを裏付けるかのように,サッチャー首相は84年2月に初の共産圏訪問としてハンガリー訪問を行い,さらにアンドロポフ前書記長の葬儀にも出席しチェルネンコ書記長と会談した)。

(ニ) イタリア

(a) 83年のイタリア政局は繰り上げ総選挙,初の社会党首班クラクシ内閣の誕生と目まぐるしい動きを示したが,総選挙結果は全体として国会の勢力関係に大きな変化をもたらさなかった。また,5党連立中道左派のクラクシ内閣は歴代内閣の内外政策を踏襲しており,新要素は見られない。しかし社会党首班内閣の誕生により,社会党と議会第2党の共産党との溝が深まり,議会運営が困難になりつつあるが,目下のところ現内閣は,安定的に推移している。

(b) 83年のイタリア経済は,前年に続き失業,インフレ,貿易赤字という三重苦に悩まされた。そして実質国内総生産は1.2%のマイナス成長となり,特に鉱工業生産が不振で(-3.2%),これを反映し失業率は10%(約240万人)を超した。この不況は80年後半から続いており戦後最長となっている。しかし,83年末からインフレの鎮静化,貿易収支の改善等が見られ,ようやく景気に薄日がさしてきた模様である。

(c) 米国,NATO,ECとの協調を外交の基軸とするとともに,中近東諸国を重視する活発な外交を社会党首班内閣においても展開した。INF配備については,11月下院で配備支持確認決議案が可決され,12月にはミサイル・システム機械が搬入された。

(ホ) 北欧,アイルランド

パルメ首相率いる社民党政権のスウェーデンでは,長い間の政治上の案件であった「従業員ファンド」(企業株式取得を通じた従業員による企業経営参加)が,保守・中道の反対にもかかわらず84年1月から実施に移された。

ノールウェーでは,6月,保守党・キリスト教人民党及び中央党によるヴィロック連立内閣が成立し,同国の深刻な経済危機克服のための経済政策を推進することとなった。

デンマークでは,84年度予算案を巡ってシュルター首相により議会が解散され,84年1月総選挙が行われたが,非社会主義政党と社会主義政党の議席には基本的に変化がなく引き続き保守中道政党が政権を担当することとなった。

フィンランドでも3月に4年ごとの通常総選挙が行われたが,非社会主義政党と社会主義政党の議席に基本的な変化なく,5月再びソルサ首相率いる中道左派多数連立政権が成立した。同政権は赤字財政の改善,インフレ,失業率の抑制等,経済の建直しを最重要課題として政策運営を行った。

アイルランドでは,82年12月にフィネ・ゲール党と労働党のフィッツジェラルド連立政権が成立し,下院における久しぶりの安定勢力を背景に財政再建策等を意欲的に推進した(9月に訪日したヒラリー大統領は,12月に再任された)。

(ヘ) ベルギー・オランダ

ベルギーでは81年12月成立した第5次マルテンス内閣がフラマン人とワロン人との間の対立,経済財政策に対する労組の反発,INF配備問題などに当面しつつも近年としては稀な2年以上に及ぶ政権を維持している。

特に経済財政再建問題ではマルテンス首相は一貫して緊縮財政政策をとり,12月には一層の緊縮財政と投資刺激をねらった84年度予算を成立せしめ,84年3月には3年間にわたる具体的緊縮措置(公共支出の削減,賃

金抑制による企業競争力維持,鉄鋼産業の再編促進等)を発表しており,その成行きが注目されている。またINF配備問題では国内に反核ムードはあるものの,政府は配備計画は予定どおり進めるが,事態の推移を見守り検討を続けるとしている。

オランダでは,ルベルス内閣が財政再建と経済活性化問題,INF配備問題の処理に当たり野党からの反発のみならず与党内の意見の相違に直面し困難な政局運営に当たっている。すなわち福祉の後退を余儀なくする大幅財政赤字削減は野党及び労組から強い反発を招き,抜本的財政再建,経済活性化措置をとり得ず,また失業率は83年には15%に達している。

INF配備問題ではルベルス首相は議会の最終決定の期限を83年12月

から84年6月に延期し,自党キリスト教民主同盟内の配備慎重派の説得に当たるとともに,配備拒否の場合には連立からの脱退も辞さないとする自由民主党との調整に政治生命を懸けている。

(ト) 中欧

オーストリアでは4月の下院総選挙において社会党が議席の過半数獲得に失敗したためクライスキー首相は引責辞職し,シノヴァッツ前副首相兼教育文化相を首班とする社会・自由両党の連立政権が樹立した。

スイスでは10月に連邦下院の総選挙と上院の一部改選が行われたが,現有勢力の変更はほとんど生じず,内外政は,おおむね安定的に推移した。

(チ) 南欧

スペインでは,82年12月に成立したゴンサレス社会労働党新政権が83年を通じ,社会・教育改革,深刻な経済問題及びEC加盟等の外交上の課題に意欲的な取り組みを見せた。社会主義政権下での急激な政策転換が懸念されたが,同政権は現実的穏健な路線をとり,懸案となっていた米西友好・防衛・協力協定も5月改訂延長された。

ポルトガルでは,4月に総選挙が行われ,社会党と社会民主党連立のソアレス政権が6月に成立した。同政権は最大の課題である深刻な経済問題を克服すべく厳しい緊縮政策を実施している。

ギリシャでは,パパンドレウ全ギリシャ社会主義党政権が2年目を迎え,死刑廃止,家族法改正等社会主義的変革を意義付ける諸施策を実施した。

また,懸案となっていた対米基地協定も12月更改された。

サイプラスでは,2月に行われた大統領選挙においてキプリアヌー大統領が再選され,引き続き5年間政権を担当することとなった。また,11月15日,サイプラス北部のトルコ系住民側は同地域を「北サイプラス・トルコ共和国」の名の下に一方的独立宣言を行ったが,同18日国連安保理は独立宣言撤回を求める決議案を採択した。

(リ) ヴァチカン

ヴァチカンにおいては,即位5年を迎えた83年において法王は高潔な司牧者としてのイメージを更に高める一方,対内的には特別聖年の各種行事,世界司教会会議の開催,また・対外的には84年1月米国と外交関係の樹立,2月イタリアと新政教条約の締結等に見られるごとく,内外政面においても強力な指導力を発揮した。また人道的見地から国際情勢に対して行う発言と,中米,ポーランド等歴訪の際に見られる果敢な行動力は普遍教会の首長にふさわしい評価を得ている。

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