第4節 中南米地域
1. 中南米地域の内外情勢
(1) 全般
(イ) 83年の中南米情勢の焦点は,エル・サルヴァドル,ニカラグァを巡る中米情勢とグレナダ問題,経済面では,対外累積債務問題であった。
(ロ) 中米情勢は,83年に入りますます流動化し混迷の度を深めたが,他方では問題の平和的解決への動きも見られる。
(a) エル・サルヴァドルでは,軍事情勢は基本的には依然膠着状態にある。83年を通じ内政面では目立った動きはなかったが,84年の3月には待望の大統領選挙が実施された。同選挙ではいずれの候補者も過半数を得ることができず,5月に決戦投票が行われる予定となっている。いずれにせよ,5月には77年以来初めて国民の直接投票により大統領が選出されることとなり,同国政治の民主化にとって極めて重要な意味を有するものである。
(b) ニカラグァでは,サンディニスタ政権の支配強化と左傾化が進み,79年の革命の公約である複数政党制,混合経済体制,非同盟路線は形骸化しつつあり,このような状況の下で82年末から反政府ゲリラが南北両国境方面を中心に活動を強めている。
他方,中米問題を重視する米国のレーガン大統領は,4月上下両院合同会議で演説し,中米の米国にとっての戦略的重要性を訴え,ソ連,キューバの中米への介入に警鐘を鳴らし,中米に対する米国の軍事・経済援助の強化の必要性を強調した。7月に至って米国は,ホンデュラスで同国と軍事演習(海軍艦船も参加)を実施するなどした。
このような背景の下,84年2月に至り,ニカラグァ政府は大統領選挙と国会(一院)議員の選挙を同年11月に行う旨発表した。同国における大統領選挙は,79年の反ソモサ革命後初めてのものであり,同国の今後の動向を占う上で重要と考えられる。
(c) 中米情勢の緊張の高まりを背景にメキシコ,パナマ,コロンビア,ヴェネズェラの4か国大統領は,1月パナマの太平洋側の沖合にあるコンタドーラ島に会し(コンタドーラ・グループと呼ばれる),話合いによる中米問題の解決の必要性を認識し,そのため共同して努力することで一致した。以後同グループは,中米5か国(グァテマラ,コスタ・リカ,エル・サルヴァドル,ニカラグァ,ホンデュラス)も加えて活発な活動を行ってきており・5回の外相会議を経て,各種提案を集大成した「目的文書」(83年9月),今後の条約作成に向けての作業手順を定めた「規範文書」(84年1月)を作成し,現在はこれら文書を踏まえ,中米和平条約草案の作成段階に入っている。しかし,関係国の利害関係が複雑であることもあって,今後の作業には相当の迂余曲折が予想される。
(d) なお,レーガン大統領は,6月ストーン元上院議員を中米問題に関する大統領特使に任命した。同特使は84年3月辞任するまでの間,中米5か国等を精力的に訪問し,特にエル・サルヴァドルのゲリラと直接接触を行うなどの動きを見せた。
さらに米国は,中米問題に関するイニシアティブとして超党派委員会(通称「キッシンジャー委員会」)を設置(7月)した。同委員会は約半年にわたり,長期的視野に立った米国の対中米政策の在り方を検討した結果,84年1月報告書を提出し,米政府は,同報告書を踏まえて,「中米民主化・平和・開発イニシアティブ法案」を議会に提出している。
(ハ) グレナダでは,79年3月に無血クーデターにより社会主義政権を樹立したビショップ首相が,83年10月19日,与党の反首相急進派と軍部によるクーデターにより,3名の閣僚と共に殺害された。これに端を発する同国の国内的混乱が東カリブ海地域に及ぼす影響に危機感を持った東カリブ海諸国機構(OECS)加盟国は,共同派兵の要請を受けた米国,ジャマイカ及びバルバドスと共に多国籍軍を組織し,10月25日グレナダに派兵した。この派兵は国際的にも大きな反響を呼んだが,その後国内情勢の落ち着きとともに12月末までに米軍は撤退した。その間,同国のスターン総督は,諮問評議会と称する政府を樹立し,11月,1年以内に総選挙を実施し新政権に権限を委譲する旨発表した。
(2) 経済情勢
(イ) 83年は,中南米の多くの国がIMFの貸付条件に基づく厳しい経済調整政策を行った結果,国際収支面で大幅な輸入削減による貿易収支の黒字化,財政面では赤字削減等大きな成果を挙げた。しかし,こうした政策は国内生産の低下をもたらすとともに国民に耐乏生活を強いる結果となり,インフレの騰勢,失業の増大等と相まって多くの国で都市部において,スト・暴動が発生するなど国内的な政治・社会問題化を伴うものであった。
一方,このような中南米諸国の経済困難は,同地域のみならず世界経済全体にも大きな影響を与えており,日・米・ECの対中南米貿易は,軒並み悪化した(同地域向け輸出は,我が国対前年比30%減,米国25%減)。
債務救済問題では,IMFの指導的役割による民間銀行,債権国政府の協調体制が出来上り,債務繰延べ,新規融資供与等の必要な措置が順次講じられている。他方,中南米諸国も「キト宣言」を採択し,懸念されていた債務国カルテル等の緊急手段によってではなく,債務国・債権国双方の努力の積重ねを通じて問題の解決を図る姿勢を打ち出したことは,大きな意義を持つ。
主要債務国について見ると,メキシコはいち早く危機的状況を回避し国際金融界から高い評価を受けているが,ブラジルは,貿易収支改善と財政赤字削減面では成果を挙げたものの,大統領選挙を84年秋に控え厳しい引締政策は,国内に強い反発を生じている。なお,アルゼンティン,ヴェネズエラでは,83年は大統領選挙の年であり,前政権は抜本的政策をとり得ず,問題の処理は現政権にゆだねられることとなった。
(ロ) 83年の中南米地域の平均GDP成長率は,国連ラ米経済委員会(ECLA)の資料によれば,戦後最悪の-3.3%に低下し,82年の-1.0%に引き続きマイナス成長となった。
主要国の大半がマイナス成長を記録し,中でもボリヴィア(-6.0%),ウルグァイ(-5.5%),ブラジル(-5.0%),メキシコ(-4.0%)等のマイナス成長が著しく,特にペルーは,-12%と最も深刻な景気後退に見舞われた。アルゼンティンでは,穀物の豊作を背景とした農牧,製造業部門の好況等により,82年のマイナス成長から脱し,+2.0%であった。なお,一人当たりのGDPについてもラ米全体で911ドルと対前年比5.6%低下した。
(ハ) インフレ問題は,多くの国で通貨切下げの影響もあり,過去3年間高進してきており,82年,地域全体の平均物価上昇率は,86%から83年には130%と未曾有の水準に達した(ECLA資料)。インフレが特に加速された国は,アルゼンティン(400%以上),ブラジル(200%以上),ペルー(120%以上),メキシコ(約90%)等であった。
(ニ) 貿易収支は,ラ米全体で輸出額が-1.3%と若干の減少にとどまったが,輸入額は厳しい輸入抑制策と国内経済の冷え込みのため対前年比-28.6%と大幅に減少した。このため貿易収支は,82年の黒字97億ドルから83年は黒字312億ドルヘと大幅な改善が見られた。経常収支については,83年の利払い及び利潤送金が340億ドル(対前年比-7.6%)と減少したため,貿易収支の大幅な黒字と相まって,経常収支赤字幅も85億ドルとなり,対前年比-76.8%とかなりの改善を見た。
資本収支については,対外債務累積問題等の影響により,前年同様,ラ米諸国への外国資本の流入が減少し,その結果,総合収支は,40億ドルの赤字になった(ECLA資料)。
(3) 主要国の動向
(イ) メキシコ
(a) 内政面では,82年12月未曾有の経済危機の中で政権を引き継いだデラマドリ政権は,同危機の克服を施策の最重点とし厳しい経済引締政策を実施した。実質賃金水準の低下,経済の停滞等のため一般犯罪の増加,反政府デモ等が見られたが,政府は道義刷新,大衆協議等清潔イメージ,対話重視姿勢を示し,経済政策面での成功もあり,社会的・政治的不安には至らなかった。
(b) 外交面では,経済危機克服最優先策を反映し国際的経済金融協力取付けが重視され対米関係が優先的に考慮されたが,他方,コンタドーラ・グループの一員として中米和平を探求したほか,首脳レベルの訪問等でラ米諸国との連帯強化を図った。
(c) 経済面で,特に財政,対外部門改善に重点が置かれ,国内総生産に対する財政赤字は8.4%(82年17.9%),貿易黒字138億ドル,経常黒字56億ドルを達成した。また外国民間銀行から50億ドルの新規融資を得たほか,626億ドルの対外公的債務のうち84年末までに期限到来分230億ドルが繰り延べられた。生産活動は停滞(-4.7%),インフレも低下傾向ながら80.8%となった。石油は生産267万B/D,輸出は154万B/Dであった。
(ロ) パナマ
83年は84年の大統領選を控えて政治面での動きが活発化するとともに,経済困難がパナマ内政上の大きな課題となってきた年であった。
(a) 内政面では,4月に憲法の一部改正(国警軍の国政への参加を認める第2条の見直し等)が国民投票の82%の支持を得て実現し,また,8月にはパナマの国政に大きな影響力を及ぼす国警軍司令官の交代(パレーデス将軍からノリエガ将軍へ),さらに84年の大統領選挙を控え,9月に有力候補と目されていたパレーデス将軍の立候補断念,その後,立候補者を巡って与野党間の駆け引きが活発化する中で,2月にはエスプリエーリャ大統領が辞任し,イリユエカ副大統領が大統領に昇格する等政局は流動的であった。
(b) 外交面では,特に,隣接している中米地域の和平問題について,コンタドーラ・グループの一員として中米和平のための外相会議を数回にわたりパナマ市で開催し,9月には中米和平交渉の基礎となる「目的文書」の署名が実現する等積極的に取り組んでいる。
(c) 世界経済の不振により,コロン・フリーゾーン,パナマ運河の活動は停滞し,経済成長率1%前後と全般的に低調であった。特に,対米公的債務残高はGDPの70%以上を占めるに至り,このため現政権は本問題への対処を最優先課題とし,歳出の削減措置,自動車輸入税等の歳入増加政策をとっている。いずれにせよ,今後も経済困難の克服が現政権の最重要課題となろう。
(ハ) コロンビア
(a) 施政2年目を迎えたベタンクール政権は,「社会福祉の向上」,「国内治安の回復」を基軸とし,特にM-19,FARC等の極左グループ問題には,「平和と対話」をスローガンに積極的に取り組んできたが,現在までのところ,大きな成果を挙げていない。
(b) 外交面では,3月に非同盟首脳会議に正式参加するなど自主外交路線を志向する一方,中米和平問題についても,コンタドーラ・グループの一員として積極的な外交を展開している。
(c) 世界経済の不振の影響もあり,83年の経済成長率は,1.5%前後と見られ低調であったが,いまだ債務繰延問題等は生じておらず,中南米諸国の中では目立った存在である。
(ニ) ヴェネズエラ
(a) 83年12月総選挙が行われ,大統領選挙では,野党の民主行動党のルシンチ候補が,与党のキリスト教社会党カルデラ候補に圧勝,国会議員選挙でも民主行動党が上下両院ともに過半数を獲得し大勝した。
総選挙を巡り与野党間の対立は厳しかったが総選挙は順調に行われ,民主主義が定着したことが示された。
(b) 外交面では,引き続きラ米統合の措置,民主主義支援及び石油をテコとする新国際経済秩序の樹立等を中心とした政策がとられた。隣国ガイアナとの領土問題は,ガイアナ政府が同問題を国連事務総長に付託することに同意したことにより多少の進展を見た。
(c) 未曾有の経済危機に対し,三重為替相場制及び為替管理の実施に続き価格凍結,価格管理,輸入管理,予算の削減等の措置がとられた。その結果政府の発表によると,83年の国際収支は黒字を記録したが,実質GDP成長率は-2~3%となった。対外債務については,ヴェネズエラ政府がIMF勧告の受諾を拒否したため債権銀行団と何らの合意にも達しなかった。
(ホ) キューバ
(a) 内政面では,特に目立った動きはなくカストロを頂点とする集団指導体制に変化はない。なお,引き続く対米関係の緊張に伴い,革命防衛意識の高揚,民兵の訓練,地域防衛軍の質的向上に力が入れられている。
(b) 外交面では,米国・キューバ両国の対決姿勢は基本的に変わらず,主として中米情勢,キューバ軍のアンゴラ駐留問題を巡り緊張が続いた。しかし10月末のグレナダ事件によって示された米国の厳しい姿勢が今後キューバの中米問題等に対する態度にどのような影響を及ぼすかが注目される。
他方,アンゴラ駐留キューバ軍の撤退問題は,アンゴラと南アとの和平交渉が妥結するに及んで注目されたが,キューバは,ナミビアからの南ア軍の撤退を条件とするとの従来の立場を変えていない。
なお,ソ連とは極めて緊密な関係にあるが,特に経済面の対ソ依存は更に増大している。
(c) キューバ政府の経済年次報告によると83年は前年比約5%の経済成長を達成(当初の計画は2.5%)したとしているが,砂糖をはじめ生産分野は一般的に停滞を示した。また,西側との貿易は外貨不足のため西側からの輸入が抑制された。
(へ) カリブ諸国
(a) カリブ諸国は,グレナダを除きおおむね国内政治的には,引き続き比較的安定的に推移した。82年,不安定化の見られたスリナムにおいては,軍による国内引締政策により治安の安定は一応達せられたが,年末のストライキに端を発し,内閣が総辞職するなど流動的要素を多分に秘めている。
(b) 経済面では,一次産品,観光資源に大きく依存するこれら諸国経済は,世界経済の低迷,特に砂糖などの主要輸出品目の国際市況の低迷が続き,失業率の増大,外貨ポジション悪化等厳しい経済情勢下に置かれた。
(ト) 中米諸国
(a) ホンデュラスでは,82年1月に誕生したスワン政権が軍の支持を得て民主主義体制の地歩を固めつつあるが,ニカラグァとの関係悪化により米国との結び付きを強めつつあると見られている。
(b) グァテマラではリオス大統領が,8月,政変により大統領の座を追われ,メヒア国防相が国家主席に就任した。メヒア政権は,基本的にリオス政権の路線を引き継いでおり,84年7月1日に制憲議会選挙,8月末日までに同議会召集等の日程を掲げ,民政移管の準備を進めている。
(c) コスタ・リカでは,前政権から引き継いだ疲弊した経済の再建を最大の課題として取り組み,為替と物価の安定には成果を挙げたが,回復までは程遠い観がある。外交面では,11月に中立宣言を行ったのが注目された。
(チ) ブラジル
(a) 軍事革命政権5代目のフィゲイレード大統領は,就任以来漸進的民主化政策を進めてきた。しかし,インフレの高進,失業の増加等経済状況の悪化のため,5月にはサンパウロで暴動事件が発生し,また,その後食料品店等襲撃事件が散発するなど社会情勢の悪化が見られた。10月にはIMFとの合意によるインフレ抑制のための賃金抑制を目的とする大統領令が国会で否決されたが,大統領令の国会による否決は初めての例として注目された。政府は妥協案を提出するとともに首都に緊急措置令を発し,辛うじて賃金抑制令を成立させたが,政府主導の民主化政策の先行きを懸念する向きも見られた。
85年大統領選挙に向けて,現行間接選挙制度下の選挙人団の過半数を占める与党内では,与党候補指名の獲得を目指し党内有力者の動きが顕著となった。一方野党の展開した直接選挙要求運動は,国民の間に大きな盛り上がりを見せ,リォ・デ・ジャネイロ及びサン・パウロでは多数の市民の参加を得た大集会が開かれた。
(b) フィゲイレード政権は,現実主義に基づく多角的自主外交を基本方針としている。中米問題については,従来,距離を置いた立場をとっていたが,4月コンタドーラ・グループ支持を明確にした点が注目された。また,隣国スリナムとは,5月アリブクス首相訪伯の際軍事援助を含む協力を合意した。ニカラグァへ向かう武器積載リビア機を差し押えた事件により,リビアとの関係が一時緊張したが,ブラジル政府は交渉により平和裏に問題を解決した。米国との関係は82年のレーガン大統領訪問後順調に推移し,84年2月シュルツ国務長官訪問の際には科学技術協定,軍事産業協力に関するメモランダム等が署名された。また,83年11月フィゲイレード大統領は工業製品の輸出先として重要なナイジェリア,セネガル等アフリカ5か国を歴訪した。
(c) 83年の経済は約4%のマイナス成長と落ち込んだ。IMFとの合意に基づく政府の引締政策にもかかわらずインフレ率は211%を記録した。82年末の累積債務は833億ドル(84年4月現在推定900億ドル強)と世界最大の債務額を抱えるブラジルの対外債務問題は82年9月以降一層深刻化した。83年2月には国際民間銀行団及びIMFによる支援措置が合意されたが,引締政策・インフレ抑制政策の成果が挙がらず,5月,IMFが融資を一時停止したため再び資金繰りが困難となった。IMFとの交渉の結果,11月IMFがブラジルの新経済再建計画を承認し,融資が再開された。また,パリ・クラブでも主要債権国との間に84年末までの公的債務の繰延べが合意され,国際民間銀行団とは65億ドルの新規融資と54億ドルの債務繰延べ等の合意が成立し,84年末までの資金の手当の目途は立ちつつある。貿易収支は政府の輸出促進・輸入抑制策により約65億ドルの黒字を達成した。
(リ) ペルー
83年は,ベラウンデ政権にとり内政・経済面で厳しい年となった。
(a) 1月にシュワルブ内閣が発足したが,経済政策を巡る閣内・与党内の意見の対立もあって政府は,困難な政局運営を余儀なくされた。アヤクチョ県を中心としていたテロ活動が一時期都市部にまで広がり,また国民の生活が苦しくなったことからストライキ,デモも頻発した。11月の統一地方選挙では与党人民行動党が大敗しアプラ党など野党が躍進した。
(b) 外交面では国連事務総長を輩出している国として国連外交にも力を入れ,10月には安全保障理事会の非常任理事国(任期84~85年)に選出された。
(c) 一次産品の国際市況の低迷による伝統産品の輸出不振,対外債務問題に起因する引締政策の維持及び干魃と豪雨の自然災害等もあり,ペルー経済は低迷し,経済成長率は-11.9%を記録した。インフレも125%と高進し都市部の失業問題も深刻化した。なお,83年は債権国に対し債務救済を要請し,対外公的債務の返済繰延措置を講じた。
(ヌ) アルゼンティン
(a) 83年の内政は,民政移管を中心に政局が展開した。10月の総選挙を経て,12月,急進党のアルフォンシンが大統領に就任,さしたる混乱もなく民政移管が実現した。新政権は文民政権の定着に努めている。なお,新政権は,軍政下で起きたフォークランド(マルビーナス)紛争,人権問題に関し旧政権関係者の責任を追求するとの姿勢を示している。
(b) 新政権下の外交では,ビーグル海峡問題を巡るチリとの交渉英国との関係正常化についての動きが見られた。
(c) 83年の経済成長率は,農業部門と一部工業部門の好況により,ようやくプラスに転じた(3%前後)。しかし,同国はインフレの激化(83年末,年率430%),対外累積債務(83年末,436億ドル),赤字財政(歳入が歳出の3分の1)等の問題に直面している。
(ル) チリ
(a) 内政面では,経済停滞の中で政府の経済政策に対する不満と早期民政移管を求める動きが相まって,5月から8月にかけて民主同盟の国民抗議運動がサンチャゴなどの都市部で展開された。政府は官民対話開始,非常事態令解除,亡命チリ人帰国リストの拡大,内務大臣への民間人の起用等を順次打ち出したこともあり,一時期高まった抗議運動もその後鎮静化した。
(b) 外交面では,レーガン政権発足以来緊密化した対米関係が12月の米国の対アルゼンティン武器売渡し決定でやや円滑さを欠いたかに見えるが,83年中を通じ域内及び域外諸国との関係改善努力が見られた。
(c) 83年の経済成長率は-1%であったが,前年の-14%に比し改善が見られた。インフレは23%,貿易黒字10億ドル等を記録し,一応同国経済は安定化に向かった。対外累積債務問題もIMF及びBIS融資合意,国際銀行団との債務繰延べ合意が逐次取り付けられ,小康を得ている。
(ヲ) ボリヴィア
(a) 82年10月の民政移管に伴い成立したシーレス政権の政治基盤の弱さと極度に悪化した経済状態,国民の不満,労組の賃上げ,物価凍結要求の下で政情は安定化するには至らなかった。
(b) ニカラグァ,キューバとの復交を行ったもののその後の外交上の進展は見られなかった。米国は民政移管によるシーレス政権成立当初は,これを歓迎したもののその後は,同政権の動向を慎重に見守っている。チリに対する「海への出口」要求問題に進展はない。
(c) 83年経済は,成長率約-14%を記録,3,000億ペソ近い財政赤字,328%のインフレ,国際収支赤字増大,対外累積債務等の困難に直面した。労組の圧力もあり,83年中3回にわたり最低賃金を引き上げたが,財政難から11月150%の平価切下げ,必需物資統制価格の大幅引上げを行い,国民の不満が更に高まった。対外累積債務額は83年末までのディスバース・ベースで43億ドルに達したが,83年初頭から国際銀行団との間で逐次繰延べを折衝している。