第3節 北米地域

1. 北米地域の内外情勢

(1) 米国

(イ) 内政

(a) 政治社会情勢一般

(i)  将来への楽観と自信

レーガン大統領は84年の年頭教書で,今や「米国は,よみがえった」と強調し,米国は従来よりも安全で強力である旨述べ,米国の現状と将来に対し極めて明るい見方を打ち出した。かかる自信は,ただレーガン政権のみならず一般国民の間でも広く見られるようになったことが,83年及び84年初頭の米国社会の一つの大きな特徴であった。こうした状況を背景に,例えば84年3月のギャラップ世論調査では,1年後の生活がよくなると答えた者が54%を示し,同数値は76年以来最高のものとされる。このような楽観と自信をもたらした大きな要因の一つが,83年に入ってからの景気回復であった。したがってレーガン大統領への支持率も83年に入ってから高まりを見せ,同年12月には54%と過去2年間での最高を記録した。アイゼンハワー大統領

以来,歴代の大統領の支持率は就任3年目に入ると低下するのが通例であったが,レーガン大統領の場合は,逆に支持率が上昇することとなった。

(ii) レーガン政権の課題

レーガン政権にとり,83年は必ずしも平坦な道のりばかりではなかった。外交分野では,大韓航空機撃墜事件(9月)を契機とした米ソ関係の冷却化,中東・中米問題等困難な課題を抱えることとなった。また内政面では,深刻な財政赤字,環境行政での企業寄り姿勢等を批判され,環境保護庁長官辞任(3月)へと発展した「スーパーファンド・スキャンダル」,80年大統領選挙でレーガン陣営がカーター陣営から公開討論準備資料を不正入手していたのではないかとの疑惑(6月発端)が持たれた「ディベイト・ゲート」事件が大きく取沙汰されたほか,ワット内務長官の辞任(9月)やクラーク国家安全保障問題担当大統領補佐官の内務長官への転出(10月)を巡っての政府・共和党内での反目のうわさ等の問題があった。また,84年大統領選挙を控えた年であっただけに,民主党側などからのレーガン政権への風当たりも強まり,レーガン政権は,富裕階層に奉仕し,一般国民や低所得者層には冷たいとの批判や駐レバノン米海兵隊襲撃事件,グレナダ侵攻等を機に高まった戦争介入への危機感が取り上げられた。大統領選挙を控え,レーガン政権がこれら課題や批判にどうこたえていくかが注目される。

(iii) 社会問題等

83年は,大統領選挙への動きとの関連もあって,婦人・黒人勢力の動きが活発であった。例えば,ケンタッキー州で全米初の女性知事誕生(11月)・全国婦人機構の民主党モンデール大統領候補支持決定(12月),シカゴ及びフィラデルフィア等での初の黒人市長誕生,ジャクソン黒人大統領候補(公民権運動指導者)の出馬(11月)等の動きがあった。

(b) 84年大統領選挙への動き

83年には,84年11月の大統領選挙に向け民主党から8名が立候補した。2月に,クランストン上院議員,ハート上院議員,モンデール前副大統領,アスキュー前フロリダ州知事,4月にホリングス上院議員,グレン上院議員,9月にマクガバン前上院議員,11月にジャクソン牧師・黒人公民権運動指導者がそれぞれ名乗り出た。

一方共和党側では,84年1月29日,レーガン大統領が出馬声明を発表し,他の有力共和党大統領候補の出馬はなかった。したがって,今回の各党大統領候補指名戦レースは,共和党では事実上レーガン候補が指名されることが確実視されているため,専ら民主党側の争いに関心が集まった。民主党の大統領候補指名戦レースは,84年2月20日のアイオワ州党集会を皮切りに始まった。事前の大方の予想では,83年に早々とAFL-CIO,全国教育者協会等の支持を取り付け,労組や多くの民主党指導層からの支持があるモンデール候補が独走する可能性があるとの見方もされていたが,「若さ」・「ニューアイデア」を売物とするハート候補が善戦し,両候補の間で激しい首位争いが展開された。84年4月現在,モンデール候補がハート候補の追撃をかわし,優勢な立場に立っている。

(ロ) 外交

(a) 外交面では,INFミサイルの欧州配備着手や財政赤字の中での国防力増強,あるいはグレナダヘの派兵等,全体として政権発足以来の信条である「力による平和」を推進する姿勢が貫かれた。そして,84年1月の年頭教書でも,「米国は,よみがえった」と述べて,過去3年間における力と威信の回復の成果を自負している。

しかし,一方,個々の案件への対応では,例えば,大韓航空機撃墜事件の際の抑制された対処ぶりや対中関係の促進等,実務的な姿勢も見られた。

(b) 対ソ関係では,83年春ごろから米ソ二国間の実務案件の処理を主眼とする対話が行われ,若干の明るい動きとして注目を集めた。しかし,こうした気運も大韓航空機撃墜事件で一気に後退し,以後は,恒例の国連総会時の米ソ外相会談の中止,軍備管理諸交渉(INF交渉,START,MBFR)の中断等,82年にも増して厳しい雰囲気の内に推移した。こうした雰囲気は,84年に入って,欧州軍縮会議の機会の米ソ外相会談の実現やMBFRの再開,ソ連指導部の交替という新たな動きの中でも,基本的には変化していない。なお,84年は,米国の大統領選挙の年であり,米ソ双方で選挙の動向を見極めつつ,複雑な駆け引きが展開されるものと見られている。

(c) 同盟国との関係では,ウィリアムズバーグ・サミットやINFミサイルの欧州配備等を通じて,西側同盟の結束が確認された。

(d) 対中東政策,特にレバノン情勢への対応は対ソ政策と共に83年の米国外交にとって最も困難な懸案であった。レーガン政権は,シュルツ国務長官の尽力で,5月,イスラエルとレバノンの間の撤兵協定署名にこぎ付けた。しかし,シリアの反発で協定実施に至らぬままイスラエル軍の部分撤退,レバノン内各派の衝突激化,そして10月の米仏多国籍軍テロ事件へと事態が悪化し,それに伴って米国内,特に議会内に米軍(海兵隊)の撤退を求める声も強まった。

こうしたことから,レーガン政権としても,海兵隊の艦船への再配置(84年2月),さらには,その全面撤退(同3月発表)のやむなきに至り,また,前述の撤兵協定も84年3月,レバノン側に破棄されるなど,困難な対応を余儀なくされた年であった。

(e) アジアについては,レーガン大統領の日韓両国訪問に象徴されるように,アジア重視の姿勢が目立った。

また,中国との問には,台湾問題や二国間問題では引き続き摩擦が見られたものの,両国要人の活発な往来(2月シュルツ国務長官,5月ボールドリッジ商務長官,9月ワインバーガー国防長官,10月呉外相,84年1月越総理)や対中技術移転の規制緩和等,全体としては関係改善が見られた。

(f) 中米については,83年4月,レーガン大統領の上下両院合同会議における演説を通じ,(あ)民主主義,改革,人権,(い)経済開発,(う)対話の維持,及び(え)これらを保護するための安全保障上の防壁という政策目標が明らかにされた。そして中米問題に関する超党派委員会の設置(キッシンジャー委員長),ストーン特使による域内対話の促進,コンタドーラ・グループの和平努力支持等の非軍事的努力と共にホンデュラスとの合同軍事演習やグレナダヘの派兵等,「力による平和」を打ち出す措置もとられた。

(ハ) 経済情勢

83年の米国経済は,実質GNP成長率3.3%を記録し,予想を上回る成長となった。こうした米国経済の堅調な拡大は,まず個人消費と住宅投資の拡大に端を発し,年後半は設備投資の拡大が加わり本格的景気拡大過程をたどったもので,ちなみに83年の住宅着工数は170万戸(82年は106万戸),また乗用車販売台数も916万台(82年は798万台)といずれも前年比大幅増を記録した。一方,生産面でも,鉱工業生産は前年比6.5%増(82年は同8.2%減),また,製造業設備稼動率も83年1月の70.0%から12月には79.4%にまで上昇した。

この背景としては,物価の安定,82年の当初レベルから見て金利の相対的低下,所得税減税の効果,就業者数の拡大と個人所得の増大,これに伴う潜在的消費者需要の開花などの諸要因が指摘される。

例えば失業率は82年5月に戦後最高記録を突破してからも悪化を続け,同年12月には10.6%とピークに達したが,83年1月には10.2%に急減し(ただし,軍人を含めるなどの統計作成方法に変更があり,従来の方法では10.4%),その後も,景気回復に伴い緩やかな低下を続け,12月には8.1%(旧方法で8.2%)にまで低下した。一方,物価も安定的に推移し,消費者物価は年平均3.2%(前年比),年間上昇率(12月対比)も3.8%と72年以降最低の水準を記録した。また卸売物価も年平均1.7%(前年比)とほぼ横ばいに近い水準で推移し,年間上昇率は0.6%と64年以降最低の水準となった。こうした物価の安定の要因としては,エネルギー価格の安定及び賃金上昇率の落ち着きと労働生産性の回復等が指摘され,ちなみに83年の賃金上昇率は5.2%,労働生産性の伸びは2.6%,賃金コスト上昇率は2.5%の増加にとどまっている。

金利は,82年後半に大幅な低下を示したが,83年は一進一退をたどり,傾向としては若干の上昇を見た。公定歩合及び短期プライム・レートは不変(それぞれ,8.5%,11%)であったが,短期金利の代表的指標であるフェデラル・ファンド・レートを例にとると1月の8.68%から12月の9.47%(いずれも月中平均)に,また長期金利では,10年物の財務省証券を例に取ると1月の10.46%から12月の11.83%へと各々上昇を見ている。

こうした金利上昇の原因としては,財政赤字,景気拡大に伴う民間資金需要増等が挙げられる。通貨供給量は83年後半以降極めて安定的に推移しているが,新金融商品の登場など変化が著しい面もあり,政策の重点は従来のM1からM2・M3に移行している。

一方,貿易は,輸出が1~7月期の大幅落込みを反映して前年比5.5%減の2,005億ドル(FAS)にとどまった反面,輸入は4月以降堅調な増勢をたどったことから同5.9%増の2,699億ドル(CIF)を記録し,この結果,貿易収支赤字幅は694億ドルと史上最大に拡大した(82年は427億ドル)。こうした赤字幅拡大の要因としては,(あ)米国経済の拡大による輸入需要の増大,(い)ドル高の価格効果が輸出入両面に現れたこと,(う)主要先進国の景気回復の遅れによる米国の輸出の伸び悩み,(え)中南米諸国における累積債務に絡む輸入制限による同地域への輸出激減等が指摘される。なお,米国の貿易赤字は,84年一層の拡大が見込まれており,商務省では1,100億ドルと予測している。

米国経済の拡大は,84年も引き続き持続するとの見方で大方の観測は一致しており,政府の経済見通しでは,実質GNP成長率4.5%(第4四半期対比),消費者物価上昇率4.5%,失業率7.7%が見込まれている。一言で言えばインフレなき持続的成長が可能との見通しであり,84年第1四半期の成長率は8.3%と予想を上回る成長を記録し,84年3月の設備稼動率は80%を超える水準にまで上昇を見ている。また,これに伴い雇用面での改善も順調に進展しており,84年3月の失業率は7.7%,失業者数も900万人にまで低下している。

しかし,米国経済は順調な景気拡大を示してはいるが,大幅な財政赤字,高金利,ドル高及び貿易収支の赤字等困難な問題を内包したままであり,また,経済動向そのものの先行きについても,84年後半以降については景気過熱,インフレを懸念する向きもあり,さらに,これに対処せんとして引締政策がとられる場合には,高金利に一層の拍車が掛かり,経済自体が失速しかねない状況にある点注意を要する。

(2) カナダ

(イ) 内政

トルドー政権の任期は85年3月までであったが,従来の慣行から84年中の議会解散が一般に予想されていた。こうした状況の下で,主要政党では総選挙に向け党首交替等の動きがあった。

80年2月の総選挙以来リーダーシップ問題がくすぶり続けた野党第1党の進歩保守党は,83年6月の党大会でモントリオールの実業家マルローニを党首に選出した。同党首は党首選後,党内融和と結束を図りつつ総選挙に向けての党態勢作りを着々と進め,世論調査で83年を通じて与党をリードする結果となった。

一方,与党自由党ではトルドー首相の去就が大きな関心を集めた。殊に10月以来,同首相が軍縮外交を積極的に推進してきたことから,去就は同首相自身の決断待ち次第と見られていたが,84年2月29日,同首相は新党首が決まり次第辞任するとの意向を表明するに至った。この結果,6月に党首選出大会が開催されることとなり,ターナー元蔵相,クレチェン=エネルギー鉱山資源相らが立候補した。

(ロ) 外交

(a) トルドー首相は,悪化する東西関係の現状を憂慮し,停滞している軍縮交渉を推進するためには,政治的活力が必要だとして,10月のゲルフ大学での演説を皮切りに具体的軍縮提案を掲げて積極的軍縮外交を展開した。訪問先は欧州NATO諸国をはじめ日本,インド(英連邦首脳会議出席),中国,米国,国連,東欧3国及び最終的にはソ連に及んだが,84年2月9日の時点で一連の歴訪外交を議会に報告し,その中で欧州軍縮会議への外相の参加等,束西緊張の緩和に進展の徴候が見られるとの評価を行った。

(b) 対米関係では,外相レベル協議の頻繁な開催や両国における組織の強化を通じ,良好な関係維持に向け努力がなされた。カナダは,また,米国を含むNATO諸国との協力の観点から,2月にカナダ領内における米国兵器の実験に関する取極に署名し,これに基づき7月米巡航ミサイルの発射実験に合意,84年3月には第1回目の実験が行われた。

(c) さらに,カナダは太平洋国家としての立場からアジア・太平洋諸国との関係を重視し,1月のトルドー首相のASEAN諸国訪問に引き続きリーガン国際貿易担当相が同地域を訪問し,これら諸国との関係を積極的に促進させてきている。また,同国はアジア・太平洋基金の設立準備を進めている。

(ハ) 経済情勢

82年の実質GNP成長率-4.8%と厳しい不況にあったカナダ経済は,83年に入り着実な回復を示し,実質GNP成長率3%を記録した。これは主に米国の景気回復に伴う好調な対米輸出・個人消費・住宅建設増・在庫積増しによるものであった。ただし,民間設備投資はなお不振で,82年以上の落ち込みを示した。

82年から低下傾向にあった消費者物価は,83年に入り更に低下し,83年平均5.8%と82年(平均10.8%)に比べ一層安定的に推移した。

しかし,82年12月に12.8%と大恐慌以来の高率を記録した失業率は,83年に入り経済の着実な回復が見られたにもかかわらず,年間平均11.9%となった。失業率は12月も11.1%で,84年も二ケタの高率で推移するものと見込まれている。

高失業率と並ぶ重大な問題となっている財政赤字は,4月19日行われたラロンド大蔵大臣の財政演説では,312億加ドル(歳入586億加ドル,歳出898億加ドル)と82年度の247億加ドルから更に増大が予想されたが,83年度の赤字幅は最終的には315億加ドルを記録した。ただし,右財政演説によれば,財政赤字は84年度以降,徐々に減少するとされている。

貿易収支は181億加ドルの黒字(輸出913億加ドル,輸入732億加ドル)であった。黒字の80%(144億加ドル)は対米貿易によるものである。また,貿易外収支は165億加ドルの赤字で,経常収支は,82年の30億加ドルから16億加ドルヘと減少した。

 目次へ