2. 国際情勢の主要動向

(1) 米中関係・中ソ関係

(イ) 83年前半の米中関係は,2月シュルツ国務長官が訪中し,関係改善のための雰囲気づくりを行ったが,台湾を含む二国間の諸問題を巡り,両国の間には不協和音が続いた。

このような米中関係にも83年中ころから変化が見られた。その理由の一つとして,5月にボルドリッジ商務長官訪中の際,対中高度技術移転規制緩和に関する大統領決定を伝達したこと(米政府の正式発表は6月)が指摘できよう。米中関係好転の結果,9月ワインバーガー国防長官の訪中,10月呉外交部長の訪米があり,ワインバーガー国防長官訪中の際には,米中首脳の相互訪問発表が行われた。

84年1月の趙総理訪米に際し,米中双方は立場の相違を認めつつも両国関係発展の持つ意義を確認し合ったものと言える。右訪問の具体的成果としては,米中産業技術協力協定調印,科学技術協定更新等が挙げられる。

中国の現指導部が,米国との立場の相違にもかかわらず,米中関係を発展させようとしているのは,国内経済建設を最優先として進めるに当たり,米国の協力(技術移転のほか,資源開発,貿易等)に期待し,米国が果たし得る戦略上の役割も認識しているためと見られ,内外情勢の激変がない限り,中国は対米関係を大きく後退させることは避けたいと考えていると見るのが一般的であろう。

(ロ) 83年の中ソ関係においては,82年10月に再開された関係改善を目的とする外務次官級会談が継続され,3月には第2次,10月には第3次,84年3月には第4次の会談がそれぞれ北京とモスクワにて交互に開催されたほか,実務面では82年に引き続き貿易量の拡大,留学生相互交換枠の拡大,スポーツ交流,文化交流等のほか,観光団の相互訪問,各種専門家間の交流が行われたことに見られるごとく,徐々にではあるが関係拡大傾向が認められた。

84年2月には故アンドロポフ書記長葬儀参列のため,万里副首相が訪ソし(注:82年11月のブレジネフ書記長葬儀の際は黄華前外相が参加),アリエフ第一副首相との会談に際し,中国側の対ソ関係改善への希望が表明された。また,チェルネンコ書記長は3月のソ連邦最高会議選挙演説において,就任後初めて対中関係に言及し,「我々は対中関係正常化の一貫した支持者である」旨述べ,従来の対中積極姿勢の継続を明らかにした。

しかし,上記4度にわたる外務次官級会談においては,中国側提示のいわゆる「三条件」(中ソ国境ソ連軍の削減及びモンゴル駐留ソ連軍の撤退,アフガニスタンからのソ連軍撤退,ヴィエトナムのカンボディア侵略に対する支援の停止)等を巡り,依然として中ソ間に基本的立場の相違があったものと見られる。

また,中越国境紛争の激化,レーガン米大統領訪中に象徴される米中関係の進展等の動きが見られる中で,84年5月に予定されていたアルヒーポフ第一副首相の訪中の延期が突然発表されるなど,中ソ関係の複雑性をうかがわせる動きも見られた。

(2) アジア(大洋州を含む)情勢

(イ) 韓国においては,5~9月にかけ政府の威信にかかわる事件(各種不正事件,金泳三断食闘争等)が相次ぎ,また大韓航空機撃墜事件(9月)及びビルマのラングーンにおける爆弾テロ事件(10月)は国民に衝撃を与えた。全斗煥大統領は10月大幅な内閣改造を行うとともに,政治活動被規制者の部分的解除(83年2月及び84年2月)等政治環境の改善の措置をとった。

韓国は共産圏及び非同盟諸国との関係改善に積極的に努力し,中国民航機ハイジャック事件処理(5月),中韓スポーツ交流等の成果を得たが,他方,大韓航空機撃墜事件等によって水を差された面(10月,IPU総会への共産圏諸国の参加取止め,全大統領のアジア・大洋州訪問中止等)もあった。また11月レーガン大統領が訪韓し,米国の韓国に対する支援を再確認した。

北朝鮮では,金正日後継体制作りの動きが内外両面で顕著であったが,政権内部の不安定性をうかがわせる動きも見られた。また経済面では,84年1月の金日成の新年の辞でも経済建設の具体的成果について83年同様ほとんど言及はなかった。

対外面では,北朝鮮は中ソ両国との関係の維持を基本としつつも,中国との緊密な関係が要人往来等の面で目立った。他方,北朝鮮は83年後半,ラングーン事件で,ビルマ等の諸国から外交関係を断絶されるなどその国際的イメージが相当失墜した。

84年に入り北朝鮮は,米韓両国との三者会談の提案(1月)及び南北オリンピック統一チーム結成提案(3月)を行うなど対外関係修復の動きを見せたが,韓国はラングーン事件について北朝鮮に納得し得る措置を求め,南北対話の実質的再開には結び付かなかった。

(ロ) カンボディア問題に関しては,83年も82年に引き続き膠着状態が続いた。ASEAN側は,9月の5か国外相共同アピール等において問題解決の糸口を探るための努力を続けたものの,ヴィエトナム軍の撤退とカンボディアの民族自決という原則は譲らず,また,ヴィエトナム側も外交攻勢をかける一方で,カンボディアの既成事実化を引き続き進めた。83年末から84年にかけての乾期においては,例年に比べ在カンボディア越軍の乾期攻勢が大幅に遅れ(例年は大体1月のところ,84年は3月末に開始),その間,ヴィエトナムの外交攻勢(外相のインドネシア・豪州訪問等)と民主カンボディア側の活発な抗越ゲリラ活動が行われた。

中越関係,ソ越関係は,83年も基本的には変化がなかった。ヴィエトナムは,79年末から中断されている中越会談の再開等の提案を行ったが,中国が在カンボディア越軍の撤退を関係正常化の前提としていることもあり,両国間の対話は依然再開されていない。また,ソ越間では,レ・ズアン書記長の訪ソ,アリエフ政治局員の訪越等,ハイレベルでの交流が見られた。

ASEAN各国では,様々な動きが見られたが,特に8月のアキノ暗殺事件以降のフィリピンの政治情勢は世界の注目を集めた。一時期はマニラを中心に,マルコス大統領の退陣及び民主化を要求する反政府集会・デモが頻発した。これに対し,マルコス政権は,アキノ事件調査委員会の中立化,選挙法の改正等を通じ,譲歩の姿勢を見せた。また,84年5月には,国民議会議員選挙が実施され,野党の大幅な躍進をもたらしたが,与党は最終的に過半数を維持した。

(ハ) 南西アジアにおいては,83年前半にインドとパキスタンの関係改善の動きが印パ合同委員会の開催(6月)となって結実したほか,南アジア地域協力が第1回外相会議によって正式に発足(8月)するなど地域の安定にとり好ましい動きが見られた。他方後半には,各国で内政上の困難(スリ・ランカの騒擾事件,パキスタンのシンド州を中心とする反政府運動,インドのパンジャブ州シーク教徒の自治権拡大運動等)が見られ,これらを巡り,インドと近隣諸国の関係に不協和音が顕在化した。

インドは3月ニューデリーで第7回非同盟首脳会議を主催するなど,非同盟の盟主として活発な外交を展開した。しかし,域外大国との関係で,印ソ対パ中という枠組みに,米国がパキスタンを支援強化,対印関係改善という形で参画するという近年の構図に大きな変化はなかった。

(ニ) 豪州では3月総選挙が行われ,7年余ぶりに労働党が政権を握った。ホーク新政権の基本政策は,現実主義,国民的合意の強調,継続性の尊重の3点にある。外交面では近隣のアジア・太平洋地域諸国(同地域の一員との認識を鮮明化)及び日米等主要先進国との関係重視とともに外交自主性を見せ,例えばインドシナ問題については,ヴィエトナムとの対話促進路線を強調するなど独自の側面を示した。

(3) 米州情勢

(イ) 83年に入り,米国の景気は回復し始めたが,内政面では深刻な財政赤字の問題や環境問題,社会福祉問題等,対外面では対ソ関係(対ソ政策を巡る米欧関係を含む),中東問題,中米問題等がレーガン政権の大きな課題であった。レーガン大統領に対する支持率は,83年に入って上昇傾向を見せ,大韓航空機撃墜事件への対応ぶり,グレナダ派兵等が支持率を更に高めた。このような背景の下で,84年1月レーガン大統領は大統領選再出馬を表明した。他方民主党側ではモンデール前副大統領,グレン,ハート両上院議員等が立候補したが,84年7月の党大会でモンデール,フェラーロのコンビが同党の正副大統領候補に決定した。

(ロ) カナダでは,6月進歩保守党(野党第1党)党首にマルローニが就任した。他方84年2月トルドー首相(与党自由党)の辞意表明の後,6月ターナー元蔵相が自由党党首並びに新首相に就任し,9月総選挙実施の旨を発表した。

(ハ) 中米においては,エル・サルヴァドル,ニカラグァ等を巡り,情勢が依然流動的な中で,83年1月コンタドーラ・グループ(メキシコ,パナマ,コロンビア,ヴェネズエラ)が,対話交渉を通じる中米問題の解決を目指し,域内諸国による和平努力を開始した。その後外相レベル会議(更に中米5か国参加)を重ねた後,9月に「目的文書」(各種提案を集大成)及び84年1月に「規範」文書(条約作成への作業手順を定める)の作成に漕ぎ付けたが,和平の実質問題については,関係国の利害関係も複雑であり,今後の展開には紆余曲折が予想される。

他方,レーガン大統領は左翼勢力の進出に対して軍事援助増額,合同軍事演習実施,グレナダ派兵(11月)等を行う一方,ストーン大統領特使を派遣し各国と対話を行うなど硬軟両様の政策をとった。また84年1月には「キッシンジャー委員会(超党派)」の勧告を受け,「中米民主化・平和・開発イニシアチブ法案」を議会に提出した。

(ニ) 南米諸国では,83年も失業,インフレ,累積債務等の経済問題が依然深刻であり,このことが円滑な施政を妨げ,政治・社会面の不安定化要因となった。殊に,ブラジルでは政府の経済引締政策のうち,特に賃金調整につき野党・労働者に強い反発が見られ,一時,ストライキや暴動が発生した。しかし年末には,野党側の意見もある程度反映することで賃金調整が可決された。アルゼンティンでは,フォークランド紛争責任問題から軍事政権が政権委譲を強いられていた中で,経済問題を巡る国民の不満から,民政移管が早まり,12月にアルフォンシン政権が成立した。

(4) 中近東・アフリカ情勢

(イ) 米国の調停により5月イスラエル・レバノン撤兵協定が調印されたが,シリアの反対とレバノン国内の動揺から実施されないまま推移し,レバノン情勢が深刻化する中で,イスラム教徒を中心とする左派勢力の圧力により,84年3月ジュマイエル大統領は,同協定の破棄を受け入れた。この間イスラエルは,駐留継続による人的損耗,経済的負担の増大による国内世論の高まりから9月上旬アワリ川ライン(レバノン南部)まで部分撤退した。

イスラエルの部分撤退前後からキリスト教徒を中心とする右派勢力及び政府軍と左派勢力との抗争が激化したが,サウディ・アラビアの調停により9月25日停戦合意が成立した。しかし,事態の目立った改善は見られず,米国をはじめとする多国籍軍派遣国がレバノン沖に艦船を集結させるなど,情勢が緊張した。

他方,停戦合意を踏まえて政治解決への動きも見え始め,10月末第1回国民和解会議が開かれたが,具体的な成果は得られなかった。84年2月に入り,ワッザン内閣の退陣並びに左派勢力による西ベイルート制圧以降,多国籍軍の撤収等もあり,情勢は左派勢力優位の下に推移している。

3月にはイスラエル・レバノン協定の破棄を踏まえて第2回国民和解会議が開催されたが,各派の利害対立は根深く,依然政治解決への障害は多い。

(ロ) 82年9月に発表されたレーガン提案,フェズ提案を受けて,フセイン・アラファト会談が始められたが,パレスチナ民族評議会(2月)及びPLO執行委の同意が得られず,4月にはジョルダン側が,PLOとの交渉を断念する旨発表した。

レーガン提案に基づく和平の動きが停滞した中で,5月上旬ファタハ内部の反アラファト派勢力が武装蜂起し,83年末にはレバノン北部のトリポリにアラファト派勢力を追い詰め,同地を退去させた。

軍事的敗北を喫したアラファト議長は,12月にアラブ穏健派エジプトのムバラク大統領と会談し政治的巻返しを図った。84年1月西岸代表をも含めたジョルダン議会の再開,エジプトのイスラム会議機構への復帰決定,84年2月のムバラク大統領,フセイン国王訪米を踏まえて同月末にはフセイン・アラファト会談が再開されたが,中東和平への実質的進展は見られなかった。

(ハ) イラン・イラク紛争については,83年は陸上戦闘は膠着状態のまま推移したが,秋以降イラクのシュペール・エタンダール機の導入に対して,イランがホルムズ海峡の封鎖を示唆して反発したことからペルシャ湾情勢が緊張した。

84年に入り,イランの陸上攻勢に対抗してイラクはカーグ島周辺での船舶攻撃を強めた。これに報復する形で5月にはイランがアラブ向けタンターに対し報復攻撃を開始したため,湾岸情勢は一層緊迫化した。情勢悪化を懸念した湾岸協力理事会(GCC)諸国は,抑制されたトーンではあるが,イランの船舶攻撃を非難するとともに,イラク支持の立場を表明した。欧米諸国による懸念表明,安保理決議の採択等もあり,84年6月に入って船舶攻撃は一時鎮静化した。

一方,国連事務総長の提案により84年6月両国は都市攻撃の停止に合意し,実施に移した。

(ニ) アフガニスタン国内には,10万人強のソ連軍が駐留しているにもかかわらず,各地で反体制ゲリラの抵抗は根強く,不安定な情勢のまま推移した。政治解決に向けて国連が仲介(4月及び6月ジュネーヴでアフガニスタン・パキスタン間接協議)を行ったが,まだ最終的合意を得るには至っていない。

(ホ) 6月アディス・アベバで第19回アフリカ統一機構首脳会議(リビアを除く49か国参加)が開催され,西サハラ問題での住民投票実施等に関し決議を採択したが,同問題及びチャド問題について,根本的な解決策を見出すには至らなかった。

チャドでは,リビアに支援されたウェディ前大統領が,6月攻勢に転じ,北部の要衝を制圧した。これに対しハブレ政権は,フランスからの武器援助,米国からの緊急軍事援助等を受けて巻返しを図った。戦況は膠着状態となり,ハブレ政権が南部を,ウェディ前大統領が北部を事実上それぞれ分割統治する形となった。

ナミビア独立問題は,83年もアンゴラからのキューバ兵撤退問題を巡って事態は依然膠着状態にあるが,米国の積極的な後押しもあって,84年2月,南アとアンゴラとの対話が実現し,ついで3月南ア・モザンビーク間で不可侵条約が締結された。また83年11月南アフリカでは,カラード(混血)とアジア人の政治的権利を認める憲法改正案が承認された。

(5) 国際経済の動向

(イ) 先進国経済は,83年に入り国による跛行性はあるものの,米国を中心に第2次石油危機後の3年間にわたる不況から漸く抜け出し,回復過程に入った(OECD加盟国実質GNP対前年比2.4%増)。しかし米国の経済回復にも高金利,財政赤字,貿易赤字の問題が存在し,また多くの欧州諸国では,失業問題が依然深刻である。

世界貿易も改善の兆し(83年,量ベースで対前年比2%増)が見られたが,地域別・産業別の跛行性があるほか,失業問題等もあって保護主義的動き(米下院ローカル・コンテント法案可決,ECのDAD〔デジタル・オーディオ・ディスク〕関税引上げ等)は根強いものがあった。これら財政赤字,失業,保護主義等の問題の根底には,先進国の経済社会が構造的硬直性に直面していることが挙げられる。

(ロ) 先進諸国の景気回復は,韓国,台湾等の一部途上国や地域に波及しつつあるが,途上国の大多数には,依然その波及効果が及ばず,輸出所得低下,交易条件の悪化等の経済的困難に直面している。このような情況下に第6回UNCTAD総会(6月,ベオグラード)が「開発と世界経済の回復」をテーマとして開催され,深化する南北間の相互依存関係が確認された。またGN(国連包括交渉)についても,第7回非同盟首脳会議(3月,ニューデリー)で二段階提案が出され,その後,非公式ながら国連の場で同提案の明確化につき南北間の協議が続けられた。

開発途上国の累積債務額は83年末に8,100億ドル(短期を含む)とされており,世界経済にとって潜在的不安定要因となっている。これに対し,IMFを中心に債務国及び債権国政府,民間銀行,世銀等国際金融機関の国際協調による問題解決の努力が続けられ,またIMFの資金拡充の措置(8次増資,GAB〔一般借入取極〕改組拡大等)がとられた。

(ハ) 国際石油市場では,83年に入り需要が一段と減少し,値下げ圧力が高まる中で,OPEC側は3月に臨時総会(ロンドン)を開き,結成以来初めて基準原油価格を引き下げ(34ドル/B→29ドル/B),また生産上限枠(1,750万B/D)及び国別生産割当を設定した。しかし先進諸国におけるエネルギー消費の節約,代替エネルギー開発の進展等により,需給は緩和基調で推移し,自由世界の石油供給に占めるOPECのシェアも83年には41.8%に低下した。

一方,先進工業諸国の間では,イラン・イラク紛争の激化を契機に,IEAを中心に備蓄取崩しに焦点を当てた緊急時対策の検討が開始された。

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