第8節 アフリカ地域
1.アフリカ地域の内外情勢
(1)概観
(イ)ナミビア独立問題は,国連及び関係国などによる問題解決のための動きが見られたが,根本的な解決を見るには至らず,また,西サハラ問題及びチャード問題は,アフリカ統一機構(OAU:Organization of African Unity)を分裂の危機に陥れた。
(ロ)8月にはそれまで比較的安定していたケニアにおいてクーデター未遂事件が発生し,11月には上ヴォルタでクーデターによる政変があった。他方,カメルーンでは政権交替が禅譲により行われたことが特記される。また,チャードでは6月に反政府軍が首都を制圧し,新政権を樹立した。
(ハ)アフリカ諸国の経済は,世界経済の停滞の影響もあり引き続き低迷し,農業不振・食糧不足,成長の減速,失業,インフレ高進,産品輸出の伸び悩み,貿易赤字,債務累積等の著しい経済困難に直面している。このような中で,12月から83年1月にかけては,ジンバブエ,ザンビア,ケニアが相次いで平価切下げを行った。また,原油価格引下げの影響によりナイジェリア,ガボン等は緊縮財政を実施し,特に前者の不法移民労働者の追放措置(83年1月)は国際的な注目を浴びた。
(2)域内協力関係
(イ)82年において,OAUは創設以来最大の危機に直面した。8月にリビアの首都トリポリで開催される予定であった第19回OAU首脳会議は,サハラ・アラブ民主共和国(RASD)の出席問題を巡る各国間の対立により,会議開催に必要な定足数を満たすことができず流会となった。11月に再開予定であった同会議もチャード代表権問題を巡り紛糾し,結局流会となった。首脳会議は83年6月にアディス・アベバにおいて開催される予定であるが,今後のアフリカ諸国間の結束と協力の観点から動向が注目される。
(ロ)従来の地域協力機関(南部アフリカ開発調整会議,東南部アフリカ特恵貿易地域など)においては,その活動を拡大強化しようとの動きが見られた。
(3)東部アフリカ
(イ)エティオピア
革命後8年を経てメンギスツ政権は安定度を強めた。エティオピア労働者党設立準備委員会(COPWE)の組織作りも前年に引き続き進められ,1月にはCOPWE第2回大会において,第3回大会開催時に党を設立する旨の決議が採択された。他方政府は1月からエリトリア解放戦線に対する軍事攻勢をかけるとともに,同地方の経済開発運動を進めた。
経済面では81年の主穀物生育期の降雨量が十分ではなかったため,13州にわたって食糧不足の状況が見られた。近年の経済困難を打開し,経済開発を軌道に乗せるべく,経済開発10か年計画の作成と共に外資導入に関する法律の制定が企画されていたが,83年1月,「合弁企業設置法」が制定された。
外交面では,メンギスツ議長が10月にソ連を訪問するなどソ連等社会主義諸国との友好関係を維持するとともに,西側諸国とも一定の関係を維持した。
(ロ)ジブティ
5月の独立後2度目の国民議会総選挙の後,6月に内閣改造が行われた。総選挙の結果,アプティドン現大統領の体制が支持され,内政は安定的に推移した。
(ハ)ソマリア
内政面では前年に引き続きインフレ,外貨不足,難民問題及び食糧不足等に悩んだが,経済不振を乗り切るための施策も出され,82年は農業開発を中心とする5か年経済開発計画(82~86年,総額約23億ドル)が開始されたほか,政府は国営企業の見直し,金融引締め等を実施した。
外交面では,西側諸国との友好関係の維持に努めたが,エティオピアとの関係は依然として改善されず,7月,国境付近で発生した武力衝突事件に,エティオピア軍が介入したかどうかを巡って,両国関係が険悪化した。
(ニ)ケニア
内政面では,8月1日独立後初のクーデター未遂事件が発生し,また,ケニア・アフリカ人国民連合(KANU)一党制の法制化,失業,インフレ等の問題に直面しつつも,モイ大統領は部族間のバランスに配慮しつつ,一応国内の安定を維持した。
経済面では,降雨に恵まれたため主要輸出品のコーヒー,紅茶の生産が伸び,輸出も増大したが,82年も依然として国際収支難,財政難,インフレ,更には8月のクーデター未遂事件による経済的損失が加わり,苦しい経済運営を余儀なくされ,12月には15%の通貨切下げを実施した。また,日本を含む西側援助国によるケニア救済のための多国間協議が11月及び83年1月に開催された。
外交面では81年に引き続き活発な動きが見られ,モイ大統領は6月,8月にOAU首脳会議が流会となったため,暫定議長としての役割を果たすとともに4月には国賓として来日し,また6月から7月にかけてはブルンディ,ルワンダ及びザイールをそれぞれ歴訪した。また8月に韓国の全大統領,11月にプッシュ米副大統領がケニアを訪問した。
(ホ)タンザニア
82年を通じての経済困難は内政面に悪影響を与え,2月にはタンザニア航空史上初のハイジャック事件が発生した。さらに83年1月には,政府転覆計画が発覚し,軍関係者を含む20数名が逮捕された。
また,83年2月には大幅な内閣改造が行われた。経済困難に対応するため,1月の革命党(CCM)臨時全国大会では国家経済再建計画(NESP)が採択され,3月には平価の10%切下げが実施された。さらに6月には,NESPを補足するものとして3か年計画の構造調整計画(SAP)が発表された。
10月には,77年のCCM党発足以来の第2同党全国大会が行われ,ニエレレ大統領は国民の勤労意欲の高揚等を訴えた。
(へ)ウガンダ
2月の反政府分子の兵舎襲撃事件後は,英連邦諸国の協力もあり,徐々に治安は回復の兆しを見せ,内政は比較的安定的に推移した。
経済面では81年に引き続き経済再建に重点が置かれ,4月に「復興2か年計画」,6月に農産物の政府買入れ価格引上げ,公社の廃止などを含む予算が発表され,8月にはIMFの1億2,500万ドルのスタンド・バイ・クレジットを原資に外貨交換の「第2の窓口」を開設した。このようなオボテ政権の経済政策は徐々に功を奏し始め,インフレの鎮静とコーヒー,綿花などの輸出作物の生産増となり,経済再建は一応軌道に乗り始めた。
外交面では,オボテ大統領は9月イタリアを訪問した。ムワンガ副大統領が7月,タンザニア,ザンビアを,また,11月ブレジネフ葬儀のためソ連を訪問した。
(ト)セイシェル
8月,軍内部の不満分子による放送局占拠事件が発生したが数日後に鎮圧された。
11月には主要閣僚の交替を含む内閣改造が行われ,従来の8省が6省に削減された。
経済面では,国内総生産の20%近くを占める観光産業が81年に引き続き不振であったが,これは主として世界的な景気の低迷による観光客の減少が原因であったと見られる。しかし82年後半に至って,かなり赤字幅の縮小を見た。
(チ)マダガスカル
11月,大統領選挙が実施され,ラチラカ大統領とマダガスカル独立国民運動党(MONIMA)党主モンジャ・ジャオナとの一騎打ちの形となったが,ラチラカ大統領が現職の強みを発揮して,大差で再選された。
経済面では,財政・国際収支困難打開のため,IMFとの間のスタンド・バイ取極の締結及びマダガスカル・フランの15%平価切下げが行われた。
(リ)モーリシァス
6月の総選挙において,68年の独立以来政権を担当してきた労働党に代わり,左翼連合政権が誕生した。
同政権は,外交政策として非同盟中立,ディエゴ・ガルシアを含む英領チャゴス諸島の返還要求等を掲げている。
内政面では,連合政権内の紛争により閣僚が集団辞任するなど,同政権は大きな危機に直面した。
(4)中部アフリカ
(イ)ザイール
政権担当17年目に入ったモブツ大統領は,党支配体制の強化に努め,11月には新内閣を発足させ政権の安定を内外に誇示し,82年を「政治の年」と名付けた。
外交面では,5月にイスラエルと外交関係を回復したが,アラブ諸国は,これを厳しく批判した。11月には首都キンシャサにおいて第9回フランス・アフリカ首脳会議の開催を引き受け,仏系のみならず一部の英系及びポルトガル系アフリカ37か国の参加を得て外交的成果を収めた。
経済面では,国際経済の低迷,とりわけ,ザイールの外貨獲得源である銅の国際価格の慢性的低迷による外貨不足,財政赤字の拡大,インフレの高進による経済の悪化は改善されなかった。なお,81年6月のIMFの拡大信用供与は81年11月に凍結されたままであり,82年の対外累積債務は41億ドルと言われている。
(ロ)コンゴー
ンゲソ大統領は,東側諸国との外交関係を維持しつつ,同時に外交関係の多角化にも意を用いている。
経済面では,石油生産による収入の増大を梃子にして,農業及び社会資本部門の開発,振興に重点を置いた第1次経済5か年計画を開始している。
(ハ)ガボン
82年はボンゴ大統領にとって,反政府進歩グループの動きを封じつつ,政情を沈静化させ,政権の安定度を増した年であった。
外交面では同大統領は,アンゴラ,コンゴー,ザイール,カメルーン等を歴訪し,二国間外交関係の強化に努めた。
経済面では,政府の借入金の軽減及び生産増大を目標とした中期開発計画は,最終年である82年にはおおむねその目標を達成したとされている。
しかし,民間部門の活力の利用が懸案とされ,83年予算の編成に当たっては,企業負担の軽減,金融面の再編成,生産分野への投資奨励,インフレ対策等を重点事項とした。
また,主要輸出品たる石油の生産は減少の一途をたどっているため,ポスト・オイル政策として,国内社会資本整備のためトランス・ガボン鉄道建設工事を推進し,83年1月第1期工事を完成した。目下第2期工事に着工し87年の完成を予定している。
(ニ)中央アフリカ
81年9月の軍事クーデターにより政権を掌握したコリンバ元首は,その後政局収拾を進めてきたが,3月パタセ元首相によるクーデター未遂事件に直面した。しかし,その後コリンバ元首は右反政府一派を抑え,軍事政権強化の地歩を固めた。
外交面では,9月,リビアとの外交関係を再開した。
(ホ)カメルーン
独立以来22年間政権の座にあったアヒジョ大統領は,11月突如辞任を表明し,後任大統領には,ビア首相が任命された。辞任の理由は,健康上のものとされている。新大統領は,就任後小規模な内閣改造を行ったが,基本的には前大統領の路線を継承していく旨表明し,政情は安定を保っている。
経済は,近年石油の生産開始により余力を生じつつあるが,産業の基盤はあくまでも農業に置いており,81年末に採択された81~86年開発5か年計画においても,約2兆円(邦価換算)を農業開発に当てている。
(ヘ)チャード
81年末からリビアに代わってOAU平和維持軍が派遣されていたが,6月ハブレ元国防相軍が首都を制圧し,ウェディ大統領政権に代わって,10月ハブレ大統領政権が成立した。
新政権は,内戦により疲弊した民生及び国内経済の復興を急務としている。なお,83年3月リビアによるチャード内政干渉問題を検討するための安保理緊急会合が開催された。
(5)西部アフリカ
(イ)ナイジェリア
政権担当3年目のシャガリ政権は,経済状況の悪化,10月から11月にかけての宗教暴動の勃発等政局運営上困難な事態に直面したが,いずれも同政権の基盤を揺るがすには至らず,一応安定的に推移した。
82年の内政は,与野党とも83年年央に予定された大統領選挙等一連の選挙に向けての体制固めに取り組み,とりわけ,大統領選については,与党ナイジェリア国民党(NPN)はいち早く現在の陣容で臨むことを決めるなど体制を整備した。これに対し,野党側は,反シャガリ連合結成の協議が成立し得なかった。
経済面では,4月導入された外貨支出抑制のための経済安定化措置にもかかわらず,長引く世界的な石油供給過剰のため産油量が大幅に落ち込み,外貨準備高の激減,対外債務の累増,対外取引未決済額の発生といった事態に直面した。このため,83年1月には別記経済安定化措置の強化及び不法滞在外国人の追放(約220万人),さらに2月に至り原油価格の大幅値下げ等を実施した。
外交面では,チャード問題,西サハラ問題,OAU首脳会議の開催問題等を巡り,アフリカ中心主義の立場から引き続き活発な外交活動を行った。
(ロ)ガーナ
政権担当以来1年間,ローリングス元空軍大尉を首班とする暫定国家防衛評議会(PNDC)政権は,経済的困難の深刻化を招き,国民の間に動揺が見られた。この結果,PNDCの有力者の辞任,追放及び数回にわたるクーデター未遂事件等が発生した。
さらに,83年1月のナイジェリアの不法滞在外国人追放令に基づく約100万人の自国民の帰還により新たな政治的・経済的な負担が加わった。
他方,83年2月に至り,IMFとの間で3億ドルのスタンド・バイ・クレジットに関する原則的合意に至るなど,経済再建の努力が見られた。
(ハ)象牙海岸
経済面では,インフレ圧力の下に失業者の増大・金利の高騰を見,ココア・コーヒー市況の低迷と相まって大きな困難を抱えた。実質成長率は81年の1.4%から更に下降し,ゼロ成長に等しい0.6%の成長となった。
外交面では,従来,台湾と国交関係があったが,83年3月,中国と外交関係を樹立する旨の共同コミュニケが調印された。
(ニ)リベリア
ドウ元首は85年の民政移管を掲げ民心の掌握に努め,また行政府自体の機能が活発化してきており,政情は安定化の傾向を示した。
外交面では,ドウ元首はギニアをはじめ近隣アフリカ諸国及び伝統的に緊密な関係にある米国や英,仏等を訪問し,同国の信用回復に努めている。
(ホ)ギニア
独立以来その座にあるセクー・トゥーレ大統領は5月に4選を果たし,更に4年の任期を得た。
外交面では,同大統領は米国訪問(非公式,6月)のほか,9月には数年来の懸案であったフランス公式訪問を行った。
経済は依然低迷しているが,民間商業活動の自由を導入するなど,政策の転換が見られた。
(へ)ギニア・ビサオ
政権担当2年目に入ったヴィエイラ革命評議会議長は,5月の内閣改造を通じてソ連離れの陣容を敷き,旧宗主国ポルトガル及びフランスとの関係強化に乗り出した。しかし,経済的困難の深刻化,クーデター未遂事件の発生等不安定要素も見られた。
(ト)ニジェール
6月に内閣改造を行い,83年1月に首相ポストを新設するなど政府内の充実に努めた。
外交面では,83年3月に1年2か月ぶりにリビアとの外交関係を再開したことが特筆される。
経済面では,同国の主たる外貨獲得源であるウラン市況の低迷と債務支払いの増大により景気が後退した。また,ナイジェリアから追放された約15万人の帰還者を一度に抱えることになり,失業,食糧問題等が深刻化した。
(チ)セネガル
2月に発足したセネガンビア国家連合は,通貨の統一という難問が残されてはいるものの,議定書の締結交渉,署名等は順調に行われた。更に初の連合閣議も開催され,国家連合は機構として着実に活動を開始した。
内政面では,ディウフ大統領は,前大統領の路線を引き継ぎながら,「継続の中の変化」をスローガンに一連の民主化政策を進めていた。また,経済情勢の好転という要因にも恵まれ,83年2月末に行われた総選挙において圧倒的勝利を収め,今後従来以上に種々の改革,特に経済面での大幅な合理化を進めることが期待されている。
外交面では,フランス中心の西側寄り外交路線に変化はないが,東側に近い近隣諸国との関係改善にも力を入れた点が注目される。
(リ)モーリタニア
7月に内閣の一部改造を行った。
(ヌ)カーボ・ヴェルデ
6月にギニア・ビサオとの外交関係を再開し,9月にはポルトガル語圏アフリカ5か国首脳会議の議長国としての重責を果たした。
また,ペレイラ大統領は5月に中国,北朝鮮を公式訪問し,12月にはブッシュ米副大統領を迎えた。さらに,同月自国において南アフリカ・アンゴラ直接会談の仲介の労をとるなど活発な外交活動を展開した。
(ル)上ヴォルタ
11月,軍事クーデターによりゼルボ前政権を打倒したウエドラオゴ軍医少佐は,国民救済評議会議長に就任し,新内閣を組織・発足させた。83年3月前政権を支持する軍隊によるクーデター未遂事件が発生した。
(ヲ)赤道ギニア
ヌゲマ政権は,新憲法制定による民主化路線の基礎固めを行い,また4月の援助国会議開催により,経済社会開発の方向付けを明らかにした。
外交面では,ヌゲマ大統領はスペイン,フランス,カメルーン等を訪問し,友好関係の増進に努めた。
(ワ)シエラ・レオーネ
5月,総選挙が行われ新内閣発足以来,政情の安定化に努めている。
外交面では非同盟の立場から比較的穏健な外交を展開している。
(6)南部アフリカ
(イ)南アフリカ
内政面においては,7月にボータ首相が発表したカラード(混血),アジア人に政治的権利を付与することを主な内容とする国内改革構想を中心に各種の動きが見られた。本構想については,3月に国民党内の右派が脱党したこともあり,国民党内の承認は得られたものの,野党をはじめ,カラード,インド人の間では意見の分裂が見られた。また11月の補欠選挙において,国民党はおおむね現状を維持し,本件構想推進に自信を深めた。
他方,81年に頻発した破壊・テロ活動は,82年においても随所で発生し,12月にはクーベルグ原子力発電所が爆破された。
81年後半から景気の下降局面に入った経済は,82年を通じて停滞し,国内総生産はほぼ実質ゼロ成長となった。また82年には,前年に悪化した国際収支及びインフレ対策に重点を置いた経済政策が展開され,ある程度の成果を収めた。なお11月には,国際収支の悪化に対処するため,IMFから約10億ドルの借入れを行った。
外交面では,81年に引き続いて強硬姿勢をとり,アンゴラ領への軍事侵攻を繰り返したのをはじめ,12月にはレソト領内のアフリカ民族会議(ANC)基地を攻撃した。ナミビア問題については,基本的に調停を行っている西側コンタクト・グループに歩調を合わせるとの動きを見せたものの,同時にナミビア問題とキューバ兵のアンゴラからの撤退問題の同時解決の主張を前面に押し出し,交渉は膠着状態に陥った。
(ロ)ジンバブエ
内政面では,ムガベ首相のジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU-PF党)の一党制指向傾向が顕著になった。2月にジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU党)系農場での武器隠匿事件があり,ムガベ首相は政府転覆計画関与のかどでヌコモ無任所相等ZAPU党出身4大臣を罷免した。
これに端を発して国軍内の元ジンバブエ人民革命軍(ヌコモ派)(ZIPRA)メンバー2,000名以上が国軍から離脱,政府反抗分子としてマタベレランド州を中心に騒擾活動を行い,12月には同州の治安は極度に悪化した。83年1月,第5旅団が同州に派遣され同年3月まで反抗分子掃討が行われた。その結果,治安は回復に向かった。右掃討が行われた際,身の危険を感じたヌコモZAPU党首は3月上旬ボツワナを経て英国に逃亡した。
経済面では干魃による農業不振,外貨不足による工業生産の低下,鉱産品輸出の伸び悩みによる貿易・経常収支の赤字幅の拡大が見られた。さらに,南アフリカによるとされるジンバブエ経済不安定化工作と,これによる石油危機の発生があり,82年の経済成長は前年を下回り実質約3.5%となった。政府は12月,輸出・雇用拡大のため20%の平価切下げを行った。
外交面では,ムガベ首相のEC諸国歴訪(5月)やポルトガル首相,米副大統領のジンバブエ訪問があり,西側諸国との関係緊密化が図られた。他方,東側から北朝鮮副主席,東独外相,エティオピアのメンギスツ議長の訪問も行われ,非同盟主義に立脚する積極的外交の展開もあった。また西アフリカの友好国,近隣諸国との政治経済関係強化の観点からムガベ首相のナイジェリア,ガーナ訪問(10月)やアンゴラ,ボツワナ,モザンビーク各大統領のジンバブエ訪問が行われた。
(ハ)モザンビーク
内政面では,モザンビーク民族抵抗運動(MNR)による破壊活動が継続しており,政府はこれへの対応に全力を挙げるとともに,MNRの背後にはモザンビーク国内の不安定化をねらう南アフリカの支援があると非難した。また,東北部を中心とする諸州において深刻な干魃により約400万人が被害を受けており,政府は83年1月,各国に緊急食糧援助を要請した。
外交面では,マシェル大統領が,5月にキューバ,83年3月にソ連,東独を訪問し,引き続き東側諸国と良好な関係を維持するとともに,他方で81年に引き続き対西側接近外交が展開された。4月には,ポルトガルとの間に西側諸国との間では初めての軍事協力に関する議定書が署名され,また6月にはピント=ポルトガル首相がモザンビークを訪問した。さらに,米国は10月,国連におけるシュルツ米国務長官,チサノ=モザンビーク外相との会談を契機として,12月及び83年1月にそれぞれ国務省高官をモザンビークに派遣するなど,関係拡大を図る動きを見せた。
(ニ)ザンビア
内政面では,1月,党・政府組織及び防衛・保安機関の強化を図るためとして内閣の一部改造を含む大幅な人事異動が行われた。1年後の83年1月には,ムソコトワネ蔵相など一部経済閣僚が更迭されたほか,協同組合省が新設され,ザンビア鉱工業公社(ZIMCO)に労働組合代表を入れるなどの機構改革が行われた。
経済面では82年においても,世界的な不況によって大きな打撃を受け,82年末になり好転してきたものの,銅価格の低迷による外貨不足から生産活動が低下し,農業生産も干ばつのため低水準に推移した。83年1月には,クワチャ貨が対SDR20%切り下げられた。
外交面では,引き続き南部アフリカ地域において,指導的役割を果たし,カウンダ大統領は,4月ナミビア独立問題を含む南部アフリカ問題解決の可能性につき,南アフリカのボータ首相と会談を行い,また9月には,ルサカでフロントライン諸国首脳会議を開催した。また,83年1月には趙紫陽中国首相を迎え,カウンダ大統領は,英,仏,米等6か国を3週間にわたり歴訪した。
(ホ)アンゴラ
82年においても,南アフリカ軍による南西アフリカ人民組織(SWAPO)追撃のためのアンゴラ領侵攻が繰り返され,国内でもアンゴラ完全独立民族同盟(UNITA)による反政府活動のため,引き続き国内情勢は不安定的に推移した。また,83年1月にはアンゴラ解放人民運動(MPLA)党幹部の一部急進派が粛清された。
経済面では,石油生産が独立以前の水準に達しているが,その収入は軍事費に吸収されており,その他の分野では,人材不足,社会資本の不備,資金不足等から低迷を続けた。
外交面では,引き続きソ連等東側諸国との友好関係を維持するとともに,西側に対してもより柔軟な姿勢をとる動きが見られた。また12月,カーボ・ヴェルデにおいて,南アフリカ政府と閣僚レベルで初めての直接交渉が行われ,更に83年2月に第2回会合が行われた。83年1月に中国との外交関係を樹立した。
(ヘ)ナミビア
ナミビアの早期独立達成のため西側コンタクト・グループ(英,米,仏,西独,カナダ)が関係諸国と活発に交渉を進め,7月には独立ナミビアの憲法に含まれるべき基本原則(選挙制度に関するものを除く)について合意を見たが,アンゴラからのキューバ兵撤退問題を巡って関係国間の合意が見られず,その後の進展なく膠着状態にある。
一方,83年1月閣僚評議会は,ダーク・マッジ議長の辞任に伴い総辞職し,南アフリカがナミビアの直接統治を復活することになった。また,同2月,ホフ行政長官が任期切れとなり,南アフリカ大統領評議会連絡委員長ファン・ニーケルクがナミビア行政長官に就任した。