第7節 中近東地域

1.中近東地域の内外情勢

(1)中東和平を巡る動き

(イ)キャンプ・デービッド合意に基づく和平過程の中,エジプト・イスラエル両国は,82年に入り,両国間の平和条約に基づくシナイ半島の完全返還が4月25日に実現したことにより,所期の目標を達成した。イスラエル軍撤退に伴い,シナイ半島には安全確保のためにシナイ半島多国籍軍・監視団(MFO:Multilateral Forces and Observers)が展開した。

他方,キャンプ・デービッド合意の他の柱であるパレスチナ自治交渉は,ヘイグ国務長官の中東諸国歴訪等米国の調停努力にもかかわらず,自治に対するイスラエルとエジプトの基本的立場の違いは大きく,進展はなかった。

(ロ)一方,イスラエル・レバノン国境を中心としてイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO:Palestine Liberation Organization)との緊張が高まり,81年米国のハビブ特使の調停により成立した両者間の停戦合意にもかかわらず,「停戦違反」と,これに対する「報復」が繰り返された。イスラエルは,この状況に対しいら立ちを深めていたが,特に,シナイ半島の全面返還,パレスチナ自治交渉の停滞という事態の下で,6月6日,PLOの停戦違反への報復としてレバノンヘの侵攻を開始し,侵入後1週間で,ほぼベイルート・ダマスカス街道のライン以南を占拠した。米国のハビブ特使の調停もあり,8月21日PLOはベイルートからの撤退を開始し,これに伴い,イスラエル軍のレバノン侵攻は一旦停止することとなった。

(ハ)かかる新たな状況を背景に,レーガン米国大統領は9月1日中東和平に関する新提案を発表した(レーガン提案)(資料編参照)。同提案は,イスラエルによる被占領地(西岸・ガザ地区)とジョルダンとの連携により,パレスチナ問題の解決を図ろうとするものである。

これに対応し,アラブ諸国は9月9日アラブ首脳会議(モロッコのフェズ)においてアラブとして初めて統一和平提案(フェズ提案)(資料編参照)を採択した。同提案は,パレスチナ独立国家樹立等については従来の主張を崩していないが,レーガン提案を正面から否定はしていない。

こうして,米国及びアラブ側から各々和平提案が出されたことで和平への気運が高まった。

(ニ)これらの中東和平の新しい動きを背景に,フセイン国王とアラファトPLO議長は10月に会談し,ジョルダンと西岸・ガザ地区との連携問題,及びジョルダンによる対米交渉委任問題を協議した。

(ホ)アラファト議長は,フセイン国王との協議を踏まえ,レーガン提案に基づく和平交渉に参加すべきかにつきPLO内部の意見調整に努めたが,強硬派等を説得することができなかった。その結果83年2月14日からアルジェで開かれたパレスチナ民族評議会(PNC)では,(i)フェズ提案を中東和平の最低限の基礎としつつ,レーガン提案を紛争解決の基礎とみなすことは拒否し,(ii)パレスチナ国家とジョルダン王国との連合国家構想を支持しつつも,フセイン国王に対してパレスチナ人を代弁して交渉に参加することは認めなかった(資料編参照)。その後もフセイン・アラファト両者間で本件に関し調整が行われたが,ジョルダンヘの対米交渉権委譲問題を中心に調整は決裂に終わり,4月10日ジョルダン政府はその旨の声明を発表し交渉は行き詰まった。

(へ)他方,イスラエルは一貫して西岸・ガザ地区の入植政策を強化し,占領の既成事実化が進められた。また83年2月8日にパレスチナ難民虐殺調査委員会の報告が発表され,シャロン国防相の責任が追求されたのみでなく,ベギン内閣の存続が危ぶまれる事態になったが,結果的にはシャロンは国防相を辞任し無任所相として閣内留任という形で決着し,ベギン内閣も存続することとなったため,イスラエルの強硬な政策が柔軟化する見込みはなくなった。

(2)湾岸,イラン及びアフガニスタン情勢

(イ)ソ連軍のアフガニスタン駐留,イラン・イラク紛争という不安定要因が継続する中で,湾岸6か国(アラブ首長国連邦,カタル,クウェイト,バハレーン,サウディ・アラビア,オマーン)から成る湾岸協力理事会(GCC)は11月第3回首脳会議を開催し,さらに83年3月には経済協定の一部を実施に移すなど,徐々に協力関係の強化を進めた。しかし他方,国際石油需給の緩和によりこれら湾岸産油諸国の石油収入は減少しており,特に83年に入ってからは経済開発計画実施ペースを遅らせるなどの措置がとられ始めている。

また従来ソ連の影響力が強い南イエメンが対周辺諸国及び西側諸国接近の動きを顕著にし,10月にはオマーンと関係正常化につき合意するなど,注目される動きを見せた。

(ロ)戦火の拡大後2年目を迎えたイラン・イラク紛争は6月イラク側が占領地からの撤退を宣言し,7月イラン軍が南部バスラ正面に進攻したことにより大きな戦局の転換を見せた。その後イラン側は数次にわたり攻勢をかけたが,戦況は基本的に膠着状態のまま推移している。またイラク側は8月にペルシャ湾北部の立入禁止海域を拡大するとともに,イラン最大の原油積出港であるカーグ島に間歇的に攻撃を加えた。

本件紛争に関しては80年9月の戦火拡大以来イスラム諸国会議等により調停工作が行われてきたが,いずれも功を奏しておらず,国連においても7月,10月安保理が,また10月には国連総会が停戦を呼び掛けたが,イラン側はこれらをすべて拒否した。

この間,イラクのフセイン政権は戦時下でも積極的な国内開発を進めるとともに,6月革命評議会及び内閣の改造を行って政権の基盤強化に努めた。しかし武力紛争による石油施設の破壊等から原油輸出量は大幅に低下し,石油収入の減少により湾岸諸国からの財政的支援も先細りが予想される等,イラクの経済的困難は大きくなっている。

他方イランのイスラム共和党政権は国内反対諸勢力の排除を進め体制の強化に努めるとともに,12月にはホメイニ師の後継者を選出する専門家会議の構成員の選挙を行い,83年に入ってからは革命諸機関の行き過ぎを是正し国民の支持拡大をねらった措置を打ち出している。また原油輸出の増大により経済状態も好転している。

(ハ)ソ連軍(10万名強)のアフガニスタン駐留は依然として継続し,アフガニスタン各地でソ連軍・カルマル政権側と反政府勢力との戦闘が続いた。

また,パキスタンは大量のアフガニスタン難民を受け入れ,大きな困難に直面する状態が続いた。

本問題の解決については,コルドベス国連事務次長が4月及び83年1月にパキスタン,アフガニスタン,イランを訪問し,また6月及び83年4月ジュネーヴにおいて国連の仲介下でアフガニスタン・パキスタン間の間接対話が行われた。また7月にはモスクワにおいて米ソ間で本問題に関する会合が開かれたが,特段の成果はなかった模様である。

(3)各国の情勢

(イ)エジプト

(a)内政面では,ムバラク大統領は,サダト大統領暗殺事件(1981年10月)後の事態収拾による国内情勢の安定に努めた。すなわちイスラム原理主義者等の一部過激派及び汚職腐敗行為の取締り強化並びに国内経済諸問題の解決を最優先課題とした。具体的には,サダト大統領暗殺者の裁判処刑が行われ,アシュート事件に関与し政府転覆を企てたと言われるイスラム過激派「ジハード」の一味300名の裁判が行われた(3月~)。他方,11月には故サダト大統領の実弟一族らを不正蓄財で逮捕し,83年3月にはこれに関与した現職閣僚2名を更迭する等,サダト前政権と一線を画する姿勢をも示した。

国内経済諸問題の解決については,1月及び9月の2度の内閣改造における経済閣僚の人事刷新を経て83年1月には「新経済5か年計画(82/83~86/87)」が策定された。この計画では,74年以降の門戸開放政策の結果生じたインフレの高進,慢性的財政赤字等を是正することを目標とし,生産部門への投資拡大,国際収支改善,民間部門の拡大などの施策を掲げている。しかし,82年のエジプト経済は,石油収入の伸び悩みに起因する外貨収入不足に悩み,経済諸問題の抜本的解決は今後の新5か年計画に基づく経済運営の課題として残された。

(b)外交面では,ムバラク大統領は基本的には対米協調,対イスラエル和平及びキャンプ・デービッド路線の継続を基軸とする外交政策を維持し,4月にはシナイ半島の全面返還を実現しつつも,サダト時代よりも非同盟路線をより明確に打ち出した。

6月に始まったイスラエルのレバノン侵攻により,パレスチナ自治交渉再開の見通しが困難となる中で,エジプトは,イスラエルの侵攻を非難するとともに9月の米国レーガン提案に対してはこれを積極的に評価し,以後レーガン提案を基礎とした和平進展のための側面的な努力を行った。

対アラブ関係においては,83年3月の非同盟首脳会議に際してムバラク大統領が,アラブ6か国首脳との個別会談を実現し,これら諸国との実質的な関係改善を果たした。また,スーダンとの間においては,10月エジプト・スーダン統合憲章に調印し段階的な国家統合を図ることに合意した。

非同盟外交の推進を打ち出したムバラク大統領は,81年9月以来冷却化している対ソ関係については,一部ソ連技術者の復帰要請を行うなど関係改善に留意しつつ,9月にユーゴースラヴィア,11月にインド訪問を行い,83年3月の第7回非同盟首脳会議に出席し,非同盟における地位回復を実現した。

(ロ)シリア

(a)内政面では,2月に二つの反政府事件が発生した。一つは3日から約1か月続いたシリア北部のハマ市におけるモスレム同胞団を中心とする大規模な騒擾事件であり,政府側は戦車,ヘリコプター等を動員して鎮圧を行った。また18日にはダマスカス市内で情報省やバース党系新聞社のあるビルが爆破されるという事件が起こった。しかし,シリア政府が徹底した警戒体制を敷いたこともあって,その後大きな事件は発生していない。

経済面では,82年が第5次5か年計画の初年度に当たったこともあって政府投資支出が大幅に増加し,財政赤字は30億ドルを超えたが,この赤字は主として湾岸産油国の援助によって賄われた。国際収支面では主要輸出品たる原油及び燐鉱石の輸出が落ち込み,外貨準備は81年央の9億ドル台から82年央には1億ドル台へと激減した。

(b)外交面では,6月からのイスラエルのレバノン侵攻に際してシリア軍はイスラエル軍に惨敗を喫し,PLOに対する支援が一時消極化した。

このためアラブ強硬派としての発言力も一時的に低下し,9月のアラブ首脳会議ではイスラエルの生存権を黙示的に承認したとされるフェズ提案を支持した。一方レーガン提案に対しては消極的態度を示している。

ソ連との関係では,イスラエル軍のレバノン侵攻においてソ連製武器に対する信頼感が低下したこともあり,ソ連は対シリア武器供与に力を入れ,83年初にはソ連製SAM-5地対空ミサイルが配備された。

シリアは,イラン・イラク紛争ではイランを支持しており,4月には対イラク国境及びパイプラインを閉鎖した。

(ハ)ジョルダン

(a)9月のアラブ首脳会議を受けて,フセイン国王は,同会議に基づき設置された7か国委員会代表団を率いて中東和平問題につき意見交換のため,安保理常任理事国(フランス,ソ連,中国及び83年になり英国)を歴訪した。

他方,9月に発表されたレーガン提案については,フセイン国王はこれを積極的に評価し同提案をベースとして和平交渉に参加する意思のあることを表明した。これに従い,10月アラファトPLO議長と会談し,同議長から対米交渉の委任を取り付けようとしたが同議長はこれを拒否した。12月フセイン国王は訪米したが,かかるPLOとの協議を背景に同国王は,和平交渉参加について米国に約束するに至らなかった。

83年2月のPNCは,前記のとおり,フセイン国王に対し,パレスチナ人を代弁して交渉を行う権限の授与は行わなかった。

4月シナイ半島完全返還に際し,フセイン国王はムバラク=エジプト大統領あてに祝電を発出,また12月には78年以来初めてガリ=エジプト外相の訪問を受けるなど,ジョルダン・エジプト関係は改善の方向にある。

(b)内政的には安定しているが,国民の過半数がパレスチナ人であることから,ジョルダンの中東和平への動きは,慎重なものとなっている。経済面においては世界的不況,国際的な石油需給の緩和による湾岸産油国の経済低迷の影響を受け,82年の経済成長はかなり低下した。また湾岸からの経済援助も大幅に削減され,財政状況は厳しいものとなった。

(ニ)レバノン

(a)81年末から南レバノンにおいて,イスラエル・PLO間の緊張が高まっていたが,6月,イスラエルはレバノンに大規模な侵攻を行い,レバノンの南半分を占領した。更にイスラエルは,主要幹部を含むPLO及びイスラム教左派をベイルートに封じ込め,これら勢力のせん滅をも辞さないとの姿勢を示した。しかしながら,米国ハビブ特使らの調停努力もあり,8月に至りPLOは,撤退監視のため米・仏・伊3国から成る多国籍軍がベイルートに展開した後,国外に撤退した。その後9月には,バシール・ジュマイエル次期大統領が暗殺され,またパレスチナ難民キャンプで大量虐殺事件が発生し,これを受けて再度多国籍軍がベイルートに展開した。

9月21日には,新大統領にアミン・ジュマイエルが,ほぼ全国民的支持を受け選出された。同大統領は強力なレバノン政府の確立,国内復興等を目指している。国内復興については,復興計画検討のため2度にわたり世銀調査団がレバノンを訪問し,また,米・仏・伊等西側諸国による二国間援助も活発化している。

国内治安については,83年に入り国内各宗派間の対立・衝突が激化してきており,ベイルート市内で爆弾テロの多発化が見られる。

(b)12月末からレバノン,イスラエル,米国3国の代表により,イスラエル軍の撤退,南レバノンにおける安全保障圏の設定及びイスラエル・レバノン間の関係正常化等に関する交渉が行われており,83年3月には,米国により,イスラエル・レバノン両国外相らが招致され,本件につきレーガン大統領らと協議を行ったが,双方に意見の相違があり交渉は難航している。

(ホ)リビア

(a)内政面では大きな変化はなかった。カダフィ大佐は機会あるごとに「米帝国主義,植民地主義及びシオニズムと対決すべし」との急進的姿勢を示す一方,国民に対しては「グリーン・ブック」(カダフィの自著で第三世界理論を説いたもの)精神の徹底と直接民主主義の確立の必要性を説きつつ,その支配体制の強化に励んでいる。

(b)外交面では,トリポリにおける第19回OAU(アフリカ統一機構)首脳会議の2度にわたる流会(8月及び11月),アラブ首脳会議へのリビアの不参加は中近東アフリカ地域におけるリビアの孤立化を浮き彫りにした。

対米関係正常化も全く進展がなかった。他方,東欧諸国,中国,北朝鮮との関係は堅実で,また西欧諸国とは経済関係を中心に一応正常な関係が維持された。

(c)経済面では,石油需給緩和の影響で80年220億ドルの石油収入が,81年147億ドル,82年74億ドルに急減した。産油量は82年末以降若干回復傾向を示してはいるものの,81年に始まった経済社会開発5か年計画の大幅縮小を余儀なくされている。

(ヘ)スーダン

(a)内政面では,深刻な国際収支困難から砂糖,ガソリンなど生活基本物資の値上がりが顕著となり,1月に学生デモが発生し,一時不穏な情勢となったが,ニメイリ大統領は強力な指導力を発揮し,第一副大統領の解任,スーダン社会主義連合の機構改革,軍幹部の解任等の一連の措置をとり,事態は鎮静化した。

(b)外交面では,米国等西側諸国との友好関係を強化しており,11月には米国と共同軍事演習を行った。また,エジプトとの関係は,共同軍事演習の実施(6月),統合憲章の締結(10月)等両国関係が一層緊密化した。他方,リビアとの関係は冷却化しており,特に83年2月リビアによるニメイリ政権転覆計画があったとして両国間の緊張が高まったが,米国の牽制行動(AWACSのエジプト派遣,ニミッツのリビア沖移動)により一応事態は収拾した。

(ト)トルコ

(a)内政面では,11月新憲法が制定され(国民投票結果91.4%支持),同憲法に基づきエブレン国家保安評議会議長が第7代大統領に就任した。

一方,治安面の著しい回復により8月には夜間外出禁止令の全面解除が実現するなど,83年10月に予定される民政移管に向けて着実な前進が見られた。

(b)外交面では,トルコ外交の基本路線である全方位外交が一段と積極的に推進された。この結果,トルコ軍政に批判的な一部北欧諸国を除いては全般的に良好な関係が保たれた。

(c)経済面では,81年に引き続き比較的順調な回復を示し,82年の成長率はほぼ前年並みの4.3%であった。

79年に始まったOECD対トルコ特別援助は,トルコ経済の回復にもかんがみ,82年を最終年とすることとなった。82年度援助額は我が国,米国,西独等主要援助国を中心に総額で約8億ドルであった。

(チ)イスラエル

(a)内政面ではベギン政権は,与野党議席差僅少のため引き続き苦しい議会運営を強いられたが,レバノン侵攻等の対外強硬策が一般大衆の支持を集めたこともあり・一応の安定を保った。83年2月・パレスチナ難民虐殺事件調査委員会報告書(国防相辞任勧告)によって惹起された「政府危機」も,シャロン国防相を辞任させるが無任所相として閣内に残留させるとの手段で乗り切った。しかし,3月の大統領選では野党労働党の候補が選出された。

(b)外交面ではキャンプ・デービッド合意は堅持するが,その他の面では力をもってでも自国の安全保障を追求するとの政策を維持した。すなわち4月キャンプ・デービッド合意に基づきシナイ半島をエジプトに返還したが,6月には大規模なレバノン侵攻作戦を開始,西ベイルートに立てこもるPLO主力戦闘部隊をレバノン外に撤退させ(8月末),西岸に対しては入植地建設を続行するなど支配力を強化し,直接的安全保障の観点からは成果を挙げてきたと言えよう。

しかし,かかる力の政策に加え,レーガン提案等を契機とする中東和平の気運にも背を向け,12月末に開始されたレバノンとの撤兵交渉も進展していないこと等から,米国との関係も冷却化し(対立関係に向かうとの兆候はない),その国際的孤立状況は一層深化した。

(c)経済面ではイスラエルはGNPの6割以上を国防費と対外債務返済に費やさざるを得ないという特異な事情にあり,通常の物差しでは計れない面がある。82年には経済成長率ゼロ,物価上昇率131.5%を記録した。

(リ)アルジェリア

(a)内政面では,シャドリ大統領は人事刷新等を通じ,自らに権限を集中する体制を確立し,その権力基盤を固めたと見られる反面,反政府活動と結びついたイスラム原理主義の動きが活発化しており,また,シャドリ政権が重視する民生の安定化も思うような成果が挙がっていない。

(b)外交面では,真の非同盟主義の名の下に,アルジェリアの経済・社会開発に最も寄与し得る対外関係を樹立するとの方向で関係の多様化を進めた結果,対米,対欧州関係が緊密化した反面,対ソ関係においては経済面における結びつきに力点が移行しつつある。

(c)経済面では,国際石油需給の緩和に伴う石油収入の減少により,第3次5か年計画における82年の投資実績は,目標の8割弱の達成率に終わっており,物価の高騰,失業率の増大,必需食料品の欠乏等の問題が生じている。

(ヌ)チュニジア

(a)内政面では,国民融和,政治の民主化,政府と労働組合との対話の確立等の政策が一応の軌道に乗り,政情はおおむね安定的に推移したが,依然としてブルギバ大統領の健康状態に関連した後継者問題が残っている。

(b)外交面では,フランスをはじめとする西欧諸国との伝統的友好協力関係を発展させるとともに,リビア及びアルジェリアとの関係改善を図っているほか,パレスチナ戦闘員のレバノン撤退に当たり,アラファト議長以下を受け入れ,また,9月のアラブ首脳会議にも積極的な貢献をする等中東問題に対し穏健かつ現実的な対応を示した。

(c)経済面では,第6次経済開発5か年計画が始まり,農業の振興,地方格差の是正,雇用の改善を目指している。しかしながら,世界的不況の影響を受け82年の実質経済成長率は1.5%の伸びにとどまり,物価の上昇,失業率の増大等厳しい環境に置かれている。

(ル)モロッコ

(a)内政面では,モロッコ国民全体の悲願である西サハラ地域の回復を錦の御旗としての挙国一致体制が依然として続いており,国内情勢は総じて安定している。

(b)外交面では,フランスなど西欧諸国及びアラブ穏健諸国との関係を維持するとともに,経済・軍事面での米国との関係を強化した。西サハラ問題については,サハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(OAU)加盟を巡り,OAUの内部対立が表面化した。他方,83年2月アルジェリアとの間で,断交後初めて首脳会談が実現し,両国関係改善の動きが見られる。

(c)経済面では,82年に入って干魃が回復の兆しを見せ,農業生産がほぼ平年並みとなったが,依然として国際収支の赤字を抱え厳しい経済状況が続いた。

(ヲ)アフガニスタン

(a)現在も10万余のソ連軍が駐留しているが,依然,全国各地で政府・ソ連軍と反政府ゲリラ側の戦闘が続いている。

(b)内政面では,カルマル政権は対ゲリラ戦という困難に加え,政権内部にもカルマルの属する主流派パルチャム派と,タラキ,アミンの流れを汲むハルク派の派閥抗争という問題を抱えている。

(c)外交面では,カルマル政権は非同盟主義を標傍しているものの,実際にはあらゆる面でソ連及び東欧諸国への傾斜を強めている。ソ連との間では5月には領事条約,6月には国境条約を締結,また東独とも5月には友好協力条約を締結した。

(d)経済は,インフラストラクチャーの破壊,労働力の減少等から,悪化の一途をたどっている。

(ワ)イラン

(a)4年目を迎えたイラン・イスラム革命は,81年6月のバニサドル元大統領の追放に引き続いて反体制勢力の制圧にほぼ成功し,また,年央からツーデ党(共産党)関係者及び革命防衛隊等に潜伏している同党の支持者を公職追放若しくは逮捕するなど,イスラム共和党(IRP)を中心として安定・定着化の方向を示している。

また,従来懸案であったホメイニ師後継者問題については,12月10日,専門家会議構成員が選出されたことによって,同師の後継者を決定する機関が制度化されたことは,IRP体制の安定につながるものと見られる。

IRP政権は,革命諸機関による権力乱用の是正を目指したホメイニ師8項目声明(12月15日発出)等の一連の措置をとっている。これは,IRP政権が安定度を増し,自信を持ち始めたことを背景に,革命諸機関の行過ぎによる国民大衆の不満を慰撫し,IRP体制の支持基盤の拡大をねらったものと見られる。

イラクとの戦闘においては,5月のホラムシャハル奪回,7月のバスラ攻撃,10月の中北部地帯攻撃により,イランは占領地の大半を奪回した。しかし,兵器において優勢なイラク側の反撃により,戦況は膠着状態となっている。

(b)イラン政府は,引き続き「東にも西にも偏らない」外交政策を標傍しているが,米国大使館員人質事件に端を発する対イラン経済制裁措置の解除(81年1月)以降も米,英,仏,西独との関係は依然冷却したままである。他方ソ連とは前述のツーデ党に対する弾圧もあり冷却した関係となっている。

(c)経済面では,値引き販売等による原油輸出の好調(約150万B/D)により,国際収支及び国内経済が秋ごろから改善し,ガソリン・たばこ等の配給制の撤廃など国民生活の改善努力が見られる。

(d)我が国とイランとの関係は,7月に原油取引が再開されたこともあり,経済分野を中心に順調に発展した。

(カ)イラク

(a)内政面では,6月,第9回イラク・バース党地域大会による地域指導部員の改選,革命評議会メンバー数の削減と新メンバー選出,内閣改造等一連の人事異動により現政権の基盤強化が行われた。この体制固めは,5月下旬のイラン軍によるホラムシャハル奪回,6月初旬のイラク側のイラン領内占領地からの撤退宣言等を背景に行われたものであった。7月以降,イラン軍のイラク領内侵攻が始まったが,イラク軍により撃退され,その後戦況は国境付近で膠着状態にある。他方,国内シーア派,クルド族,共産党による反政府活動は若干の爆発事件を除いて表面化しておらず,内政はおおむね安定基調で推移した。

(b)外交面では,第7回非同盟首脳会議のバグダッド開催は,イラン・イラク紛争の影響もありイラクが行った前広な開催断念宣言により中止された。近隣アラブ諸国との間では良好な関係が維持されたが,特にサウディ・アラビアとの関係が緊密化した。また,エジプトとの実質的関係改善も進展した。他方,ソ連との友好関係維持に努めるとともに経済関係を含む米国との実質的な関係進展が見られた。西側諸国とは従来経済関係を中心に緊密な関係にあるが,特にフランスとの関係が軍事面等で強化された。

(c)経済面では,イラン・イラク紛争の長期化による外貨事情の逼迫化が82年後半から表面化した。平価切下げ,外貨送金制限,輸入規制等の措置が講じられたが,4月のシリアによるシリア経由パイプライン閉鎖に起因する石油収入減少の影響は大きく,各種開発プロジェクトの代金支払い遅延が生じ始めた。

(ヨ)サウディ・アラビア

(a)内政面では,6月ハーリド国王が死去したがファハド新国王による新体制が順調に発足し,サウド王家の団結を内外に誇示することとなった。また,東部州石油地帯のシーア派住民対策,湾岸協力理事会(GCC)加盟諸国(クウェイトを除く)との治安協定締結,国内宗教戒律・治安対策強化等国内諸政策が一応軌道に乗り,基本的には豊富な財政資金により内政は一応安定的に推移している。なお,原油価格切下げ,産油量の低水準が今後相当期間継続しても,莫大な在外資産運用益,一部元金取崩しで十分対応可能と考えられる。

(b)外交面では,イスラエルによるレバノン侵攻,イラン・イラク紛争におけるイラン軍の攻勢と,その後の膠着化等同国を取り巻く情勢は極めて厳しいものがあったが,アラブ世界における穏健的指導者としての役割を果たすべく外交努力を重ね,特に9月のアラブ首脳会議においては,アラブの団結を一応達成し,いわゆるファハド8項目提案をほぼそのまま採択させることに成功するなど81年に引き続き積極的な外交姿勢を示した。

(c)経済面では,第3次5か年計画のちょうど半ばに当たり,生産分野の拡充,サウディ人の人材育成,石油モノカルチュア経済からの脱却等の基本目標に沿った経済政策が実施された。しかしながら,世界的石油需要緩和に伴う石油減産による石油収入減少の結果,82年度予算達成のためには在外資産の一部取崩しをせざるを得ない見込みであり,今後,上記開発プロジェクトについても若干の見直しが行われることも予想される。

(タ)クウェイト

(a)内政面では,8月アルマナク私設株式市場が総額900億ドルという巨額の不渡り先付小切手を出し事実上崩壊,政府要人や有力王族が多数本事件に関与していたことから,政府としても事態を重視,仲裁委員会を設けるなどして問題解決を図ってきているが,今なお完全な解決には至っていない。しかし,本問題は所詮は多数の個人投資家による投機ブームの過熱によるものであるので,今後内政面で大きな影響が出ることはないであろう。なお,議会は株式市場問題憲法改正問題を巡り活発な動きを見せた。

(b)外交面では,湾岸の勢力均衡を考慮,GCC結束強化に積極姿勢を示しつつも,GCCがサウディ・アラビア主導型となることを嫌い,GCC治安協力協定締結には唯一反対している。

パレスチナ問題については,7か国委員会参加を辞退するなど表立った動きは差し控え,むしろ南北イエメンの融和及びオマーン,南イエメン関係正常化への調停といった域内安定化への動きに大きく貢献した。

(c)経済面では,世界的石油需要の低迷を受け,また強気の石油販売政策がたたり,石油収入は激減,82~83年度予算は初の赤字となった。

一方,海外投資残高は800億ドルにも達し,83年度末には投資収益が石油収入を上回るものと見られており,金融立国への足掛かりを更に一歩強めた。

また石油下流部門への海外投資にも積極的であり,欧州ガルフ石油販売網買取りなどの動きが目立った。

(レ)アラブ首長国連邦

(a)内政面ではザーイド大統領及びラーシド副大統領を中心としたアブダビ・ドバイ主導型連邦体制が既に確立されたものとなっており,政情は安定的に推移した。

(b)外交面では,2月にサウディ・アラビアとの間で治安協力協定を締結するなど,対サウディ・アラビア外交を基軸としたGCC体制強化に積極姿勢を示した。また南イエメン・オマーン関係の正常化にも努力,域内安定化に一役買った。

イラン・イラク紛争に対しては,イラクに資金援助を行う一方,イランとも良好な関係を有している。イランからは,3月にアジジ外務次官,4月にヴェラヤティ外相がア首連を訪問した。

(c)経済面では,82年は,2月の商業代理店法の実施及び10月の新会社法発表という形で,ア首連国民保護経済政策が明確に打ち出された年であった。

一方,現下の世界的石油需要の低迷を受け石油収入は急減,82年度予算は連邦発足以来初の赤字となった。

(ソ)オマーン

(a)内政面では,10月南イエメンとの間で善隣相互内政不干渉を原則とする協定が成立し,長年の対立関係は一応正常化に向けて動き出したことにより,南部ドファール地方の情勢も安定化し,さらに,1月から活動を開始した国家諮問会議も一般に好感をもって迎えられており,カブース政権は安定的に推移した。

(b)外交面では,アフガニスタン問題,イラン・イラク紛争等が膠着化したことにより,オマーンを取り巻く国際環境に特に目立った動きは見られなかったが,湾岸の安全保障との関連で,米国をはじめとする西側との軍事経済関係は引き続き強化されるとともに,GCC諸国との治安・軍事面をはじめとする幅広い協力関係が推進された。

(c)経済面では,第2次開発5か年計画の第2年目にあたり,当初計画が着実に推進されたが,下半期以来の石油収入の減少が今後とも続けば上記5か年計画の手直しの必要も出てこよう。

(ツ)カタル

(a)2月に即位10年を迎えたハリーファ首長の施政は広く国民の支持を得ており,体制は安定している。ただ,外国人労働者が人口の半数以上を占めるため,政府はこれら労働者を通じて外部から攪乱撹乱工作がなされることを警戒しており,同政府は2月にサウディ・アラビアと治安協定を締結するなどして治安の維持強化に努めた。

(b)外交面では,隣国サウディ・アラビアとの関係を最重要視しており,8月にハマド皇太子が同国を訪問した。また,GCCの各種会議を通じ積極的に湾岸諸国との善隣友好関係の増進に努めた。

(c)世界的な石油供給過剰の状況下,同国の石油収入も減少したが,既に基本的な重工業化が達成されているため財政運営は深刻な事態には至っていない。

埋蔵量300兆立方フィート(8兆5,000億m3)と言われる世界一の埋蔵量を誇るノースフイールド・ガス田開発計画は,プロジェクト実施のためのパートナー選定等,ようやく開発計画の骨格が出来上がった。

(ネ)バハレーン

(a)内政面では,従来以上にイラン系シーア派住民による反政府活動取締りに意を尽くし,政情は平穏に推移した。

(b)外交面では,クーデター未遂事件後直ちにサウディ・アラビアとの間で治安協力協定を締結,サウディ・アラビア追従姿勢を一層明確に打ち出した。

(c)経済面ではオフショア・バンキング(offshore-banking)が急成長,市場規模は500億ドルにも達している。

一方,国内開発の面では,経済多様化政策としての工業化が一段落したこともあり,開発の照準が生活環境の改善に向けられ,社会生活基盤の整備及び教育・福祉の充実を主内容とした経済社会投資4か年計画が開始された。

(ナ)イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a)内政面では,政府は民主国民戦線(NDF)の反政府活動を鎮静し,NDF支配地域の治安を回復するとともに全国人民会議の招集,国民憲章の採択等一連の措置により国内統一,中央集権化に努めた。政情は全般的に平穏を保ち,安定化の方向で推移した。

(b)外交面では,当国に対する最大の援助供与国であるサウディ・アラビアとの関係強化に努めた。また南イエメンとの関係改善も推進され,8月には南北イエメン両国元首によるレバノン問題に関する共同調停,12月には第1回南北イエメン合同閣僚委員会が開催された。西欧諸国との関係は前年に引き続き良好で,特に西独との関係が緊密化した。ソ連との関係には格別の進展は見られなかった。

(c)経済面では,財政赤字,国際収支の悪化が続き,農業部門も不振であった。同国経済はサウディ・アラビアからの財政援助,二国間・多国間の経済援助により支えられているが,年末の震災に際しても諸外国からの緊急援助により難局を切り抜けた。また当国の第1の外貨収入である海外労働者からの送金も,産油国の経済開発活動の鈍化等を背景として減少傾向にある。

(ラ)南イエメン(イエメン民主人民共和国)

(a)内政面では,9月,内閣の一部改造が行われたほかは大きな動きはなかった。

(b)外交面では,基本的には従来のソ連寄りの路線を堅持しつつ,経済開発資金の獲得の意図もあり,西側・湾岸諸国との関係改善に努めた。特に,10月,オマーンとの間で両国間関係正常化につき原則的合意を見たほか,サウディ・アラビアとの関係改善の兆しも見え始めた。

(c)経済面では,81年から第2次5か年計画(総投資額約15億ドル)が開始されたが,3月から4月にかけての洪水により約10億ドルの損害を被った。

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