第6節 ソ連・東欧地域
1.ソ連・東欧地域の内外情勢
(1)ソ連
(イ)内政
(a)82年における最大の出来事は,何と言っても18年にわたりソ連の最高権力者であったブレジネフ書記長が死去し,この後を受けてアンドロポフ書記長の率いる新政権が誕生したことであった。
(b)ブレジネフ書記長については,数度にわたり死亡のうわさが流れる等,健康上の衰えが一層目立つようになったが,注意深く休養を取りつつ年中を通して無事諸行事を消化した。しかし10月に集中的に訪ソした諸外国首脳の接遇及び11月の革命記念日関係のハードスケジュールをこなしたところで,11月10日急死した。
(c)他方,1月には「クレムリンのキングメーカー」とも言われたスースロフ政治局員が死亡し,クレムリン指導部内の力のバランスに変化をもたらし,これがブレジネフの健康上の衰えと相まってポスト・プレジネフヘの動きがにわかに活発化した。
その中で,従来ブレジネフに重用されてきたチェルネンコ政治局員と,5月には書記局入りしたアンドロポフ政治局員(前KGB議長)の動きが活発化する一方,それまでブレジネフの当面の後継者と目されてきたキリレンコ政治局員の活動の鈍りが目立ち,8月31日以降公式の場から完全に姿を消し,11月21日党中央委総会において正式に政治局員・書記を解任された。
(d)ブレジネフの死後,アンドロポフが葬儀委員長になったことで書記長候補の最右翼と見られたが,果たして11月12日党中央委臨時総会において書記長に選出された。
(e)アンドロポフ新政権は,その内外政策において基本的には故ブレジネフ路線を継承しているが,経済面における欠陥をブレジネフ時代よりも,より率直に指摘し「生産効率の向上と規律強化キャンペーン」を当面の内政の柱とした。アリエフ政治局員候補(アゼルバイジャン共和国党第一書記)の政治局員への昇格と連邦第一副首相兼任,ルイジコフ・ゴスプラン第一副議長の書記登用のほか,取締り,経済,運輸,宣伝マスコミの諸分野で一連の人事異動を行うなど「ブレジネフ時代の路線の継承」という中にもアンドロポフ独自の新味を出そうと努力していることがうかがわれる。
(f)ただし,アンドロポフの権力基盤については,(イ)これまでの人事異動が主として現業部門の大臣,次官あるいは党中央委部長等のいわゆる中堅幹部クラスが中心であること,(ロ)ブレジネフの死後最高会議幹部会議長のポストが空席となっていること,さらには,(ハ)アンドロポフ書記長の健康状態が必ずしも良好でないこと等々同人の権力基盤が完全に確立しているとは言えず,今後アンドロポフが,党・政府内での支持を得つつ自らの打ち出した政策で効果を挙げ,どれだけ権力基盤を固めることができるかが大きな問題点であると言えよう。
(ロ)外交
82年のソ連外交は,前年に引き続き国際的孤立からの脱却と70年代におけるがごときデタントの枠組みの再構築を主要課題としてきたと言えよう。しかし,アフガニスタン,ポーランドを巡る事態には本質的な改善は見られず,米国レーガン政権の対ソ強硬姿勢にも変化の兆しが見られなかった。
このような厳しい国際環境の中で,11月,故ブレジネフ書記長の後継者となったアンドロポフ書記長は,対外路線の一貫性,ブレジネフ「平和外交」の継承という原則的立場を明らかにし,社会主義共同体諸国の団結強化を強調するとともに,前政権末期以来の外交上の手詰まり打開のため,西側に対しては活発な平和攻勢を展開した。
(a)対東欧関係
東欧諸国に対しては引き続きワルシャワ条約機構,コメコン及び二国間関係を通じて政治・軍事・経済面での団結強化を図ってきた。当面の問題であるポーランドについてソ連は直接介入を回避し,12月13日戒厳令の停止が発表されるに至ったが,引き続き西側の「干渉」を非難し,ポーランドの自主的解決,社会主義諸国による対ポーランド援助を主張する一方,ポーランド国内情勢を注視する姿勢を示している。
なお,83年1月プラハにおいてアンドロポフ政権下初めてのワ条約政治諮問委員会会議を開催し,政治宣言においてワ条約・NATO間武力不行使条約締結を提案したほか,軍備管理,軍縮に関する一連のソ連提案を繰り返して西側に対する平和攻勢を示した。
(b)対西側諸国関係
ソ連は対米関係の安定化を最大の外交課題とし,81年のINF交渉開始に続いて6月末には戦略兵器削減交渉(START)が開始された。
しかし米ソ外相会談(1月,6月及び9月)においては,ポーランド問題その他の国際問題に関する双方の見解は対立し,米国の対ソ強硬路線が維持され,その後の軍備管理交渉にも進展がなく,米ソ首脳会談も行われるに至らなかった。
当面の問題である中距離核戦力(INF)交渉に関してもNATO二重決定に基づく米国の中距離ミサイルの欧州配備に対しては,対抗措置をとるとの立場を明らかにしている。他方プラハ政治宣言,グロムイコ外務大臣の西独訪問(83年1月)等を通じ西側世論に訴える平和攻勢を行い,米国製中距離核ミサイルの配備阻止に努めた。また対ソ経済措置についてはガス・パイプライン問題を巡り米欧間に足並みの乱れが見られたこともあり,ソ連は西欧諸国に対し経済関係を回復するよう働きかけてきた。
(c)対アジア関係
中国との関係ではブレジネフ書記長がタシケント演説(3月)で関係改善を呼びかけ,10月北京で外務次官協議が行われた。アンドロポフ書記長も11月,関係改善の意図を再確認し,83年3月モスクワで第2回外務次官協議が行われた。中ソ間では各種の実務レベルでの接触が拡大し,貿易量も増加しているが,関係正常化については中国側が要求している3条件(中ソ・中蒙国境のソ連軍削減,カンボディアに係る対越援助の停止,ソ連軍のアフガニスタン撤退)との絡みから急激な進展は困難と見られている。また,北朝鮮との関係にも著しい進展は見られなかった。
ソ連・ヴィエトナム関係はそれぞれの対中姿勢の差異,ソ連援助の効率と量を巡る問題等から微妙なものがあったが,大枠ではインドシナ3国との関係は順調に推移し,カンボディア問題の処理についても3国の主張を支持している。ASEAN諸国に対しては経済・通商面での関係発展を図り,7月にはイメルダ=フィリピン大統領夫人が訪ソした。インドに対しては引き続き良好な関係の維持に腐心し,ガンジー首相の訪ソ(9月)が行われた。
(d)対中近東関係
アフガニスタン問題については政治的解決の必要を認め国連事務総長特使の仲介を評価する一方,ソ連側立場の不変を確認している。6月のレバノン事件に際しては激しい対米非難を行ったが具体的行動を欠き,中東地域における威信の低下を招いた。イラン・イラク紛争には中立的立場を維持しているが,イラク副首相が6月及び12月訪ソしているのに対し,イランとの関係はイラン当局のツーデ党に対する圧迫,反ソ宣伝等から冷ややかなものとなっている。
この間ジャルド=リビア革命指導部員(5月),フセイン=ジョルダン国王(6月),南イエメン首相(9月),アラブ連盟7か国委代表団(12月)が訪ソし,83年3月のリビア代表団訪ソに際しては友好協力条約の締結が原則的に合意された。なお,ソ連はエジプトとの関係改善を期待している。
(e)その他の地域
中南米地域では引き続きキューバ,ニカラグァとの関係強化に努め,フォークランド紛争(4月)に際しては,その原因を英国の植民地主義にあると主張し,一貫してアルゼンティン側を支持した。
アフリカ諸国に対しては目立った動きはなかったが,メンギスト=エティオピア軍事評議会議長(10月)及びマシェル=モザンビーク大統領(83年3月)の訪ソが行われた。
(ハ)ソ連経済
(a)現行の第11次5か年計画の第2年目に当たる82年の経済遂行状況は概してよくなく,比較的に控え目に設定された目標すら達成されず,計画とのかい離が一層拡大している。
鉱工業生産の伸びは計画4.7%増(うち生産財生産は4.8%増,消費財生産は4.6%増)に対し,実績は2.8%増(同上2.8%増,2.9%増)と計画をかなり下回った。中でも鉄鋼,セメント,木材,ディーゼル機関車,貨車,自動車等の生産が前年より落ち込み,鉄鉱石,紙等の原材料生産がほぼ81年並みの水準にとどまるなど主要工業製品の生産が不振であった。
エネルギー生産では,天然ガスが引き続き8.0%の増大(計画5.8%増)を示したものの,石油は0.6%増(計画0.8%増)と頭打ちの傾向にある。
石炭は81年まで3年連続の減少であったのが82年には2.0%増(計画2.4%増)と漸く増加に転じた。電力は計画並みの3.0%増にとどまった。
農業総生産は連続3年の減少傾向から4.0%増と増大に転じたが,まだ必要な水準までには回復していないものと見られる。穀物生産高は前年同様実績数字の発表がなく,79年から4年連続の不作という結果に終わったものと見られる。
この結果,国民所得の伸びも計画3.0%増に対し,実績2.6%増と計画を下回る低い水準にとどまった。
(b)このような経済不振の原因は天候不順などの自然条件に起因するもののほか,鉄鋼,エネルギ、農業,運輸等の基幹産業部門における諸欠陥を含め,より基本的には計画経済が内包する構造的,制度的な欠陥が顕在化してきていることにあると見られる。
(c)アンドロポフ新政権はおおむね前政権の経済政策を踏襲していくものと見られ,上記の諸欠陥の除去のため生産規律の厳格化,監督の強化等の引締措置と共に生産現場の自主性の拡大の措置等を実施して経済全般の「効率化」を追求せんとする姿勢を示している。事実,新政権はその発足後まず第一に社会の随所に見られるズル休み,横領,酔払い等の悪弊の除去,人事の一新による沈滞ムードの一掃等に力を注ぐとともに,最近では農業生産における請負作業班の導入等生産現場の自主性をある程度認めた措置を講じつつある。
第6節ソ連・東欧地域
1.ソ連・東欧地域の内外情勢
(1)ソ連
(イ)内政
(a)82年における最大の出来事は,何と言っても18年にわたりソ連の最高権力者であったブレジネフ書記長が死去し,この後を受けてアンドロポフ書記長の率いる新政権が誕生したことであった。
(b)ブレジネフ書記長については,数度にわたり死亡のうわさが流れる等,健康上の衰えが一層目立つようになったが,注意深く休養を取りつつ年中を通して無事諸行事を消化した。しかし10月に集中的に訪ソした諸外国首脳の接遇及び11月の革命記念日関係のハードスケジュールをこなしたところで,11月10日急死した。
(c)他方,1月には「クレムリンのキングメーカー」とも言われたスースロフ政治局員が死亡し,クレムリン指導部内の力のバランスに変化をもたらし,これがブレジネフの健康上の衰えと相まってポスト・プレジネフヘの動きがにわかに活発化した。
その中で,従来ブレジネフに重用されてきたチェルネンコ政治局員と,5月には書記局入りしたアンドロポフ政治局員(前KGB議長)の動きが活発化する一方,それまでブレジネフの当面の後継者と目されてきたキリレンコ政治局員の活動の鈍りが目立ち,8月31日以降公式の場から完全に姿を消し,11月21日党中央委総会において正式に政治局員・書記を解任された。
(d)ブレジネフの死後,アンドロポフが葬儀委員長になったことで書記長候補の最右翼と見られたが,果たして11月12日党中央委臨時総会において書記長に選出された。
(e)アンドロポフ新政権は,その内外政策において基本的には故ブレジネフ路線を継承しているが,経済面における欠陥をブレジネフ時代よりも,より率直に指摘し「生産効率の向上と規律強化キャンペーン」を当面の内政の柱とした。アリエフ政治局員候補(アゼルバイジャン共和国党第一書記)の政治局員への昇格と連邦第一副首相兼任,ルイジコフ・ゴスプラン第一副議長の書記登用のほか,取締り,経済,運輸,宣伝マスコミの諸分野で一連の人事異動を行うなど「ブレジネフ時代の路線の継承」という中にもアンドロポフ独自の新味を出そうと努力していることがうかがわれる。
(f)ただし,アンドロポフの権力基盤については,(イ)これまでの人事異動が主として現業部門の大臣,次官あるいは党中央委部長等のいわゆる中堅幹部クラスが中心であること,(ロ)ブレジネフの死後最高会議幹部会議長のポストが空席となっていること,さらには,(ハ)アンドロポフ書記長の健康状態が必ずしも良好でないこと等々同人の権力基盤が完全に確立しているとは言えず,今後アンドロポフが,党・政府内での支持を得つつ自らの打ち出した政策で効果を挙げ,どれだけ権力基盤を固めることができるかが大きな問題点であると言えよう。
(ロ)外交
82年のソ連外交は,前年に引き続き国際的孤立からの脱却と70年代におけるがごときデタントの枠組みの再構築を主要課題としてきたと言えよう。しかし,アフガニスタン,ポーランドを巡る事態には本質的な改善は見られず,米国レーガン政権の対ソ強硬姿勢にも変化の兆しが見られなかった。
このような厳しい国際環境の中で,11月,故ブレジネフ書記長の後継者となったアンドロポフ書記長は,対外路線の一貫性,ブレジネフ「平和外交」の継承という原則的立場を明らかにし,社会主義共同体諸国の団結強化を強調するとともに,前政権末期以来の外交上の手詰まり打開のため,西側に対しては活発な平和攻勢を展開した。
(a)対東欧関係
東欧諸国に対しては引き続きワルシャワ条約機構,コメコン及び二国間関係を通じて政治・軍事・経済面での団結強化を図ってきた。当面の問題であるポーランドについてソ連は直接介入を回避し,12月13日戒厳令の停止が発表されるに至ったが,引き続き西側の「干渉」を非難し,ポーランドの自主的解決,社会主義諸国による対ポーランド援助を主張する一方,ポーランド国内情勢を注視する姿勢を示している。
なお,83年1月プラハにおいてアンドロポフ政権下初めてのワ条約政治諮問委員会会議を開催し,政治宣言においてワ条約・NATO間武力不行使条約締結を提案したほか,軍備管理,軍縮に関する一連のソ連提案を繰り返して西側に対する平和攻勢を示した。
(b)対西側諸国関係
ソ連は対米関係の安定化を最大の外交課題とし,81年のINF交渉開始に続いて6月末には戦略兵器削減交渉(START)が開始された。
しかし米ソ外相会談(1月,6月及び9月)においては,ポーランド問題その他の国際問題に関する双方の見解は対立し,米国の対ソ強硬路線が維持され,その後の軍備管理交渉にも進展がなく,米ソ首脳会談も行われるに至らなかった。
当面の問題である中距離核戦力(INF)交渉に関してもNATO二重決定に基づく米国の中距離ミサイルの欧州配備に対しては,対抗措置をとるとの立場を明らかにしている。他方プラハ政治宣言,グロムイコ外務大臣の西独訪問(83年1月)等を通じ西側世論に訴える平和攻勢を行い,米国製中距離核ミサイルの配備阻止に努めた。また対ソ経済措置についてはガス・パイプライン問題を巡り米欧間に足並みの乱れが見られたこともあり,ソ連は西欧諸国に対し経済関係を回復するよう働きかけてきた。
(c)対アジア関係
中国との関係ではブレジネフ書記長がタシケント演説(3月)で関係改善を呼びかけ,10月北京で外務次官協議が行われた。アンドロポフ書記長も11月,関係改善の意図を再確認し,83年3月モスクワで第2回外務次官協議が行われた。中ソ間では各種の実務レベルでの接触が拡大し,貿易量も増加しているが,関係正常化については中国側が要求している3条件(中ソ・中蒙国境のソ連軍削減,カンボディアに係る対越援助の停止,ソ連軍のアフガニスタン撤退)との絡みから急激な進展は困難と見られている。また,北朝鮮との関係にも著しい進展は見られなかった。
ソ連・ヴィエトナム関係はそれぞれの対中姿勢の差異,ソ連援助の効率と量を巡る問題等から微妙なものがあったが,大枠ではインドシナ3国との関係は順調に推移し,カンボディア問題の処理についても3国の主張を支持している。ASEAN諸国に対しては経済・通商面での関係発展を図り,7月にはイメルダ=フィリピン大統領夫人が訪ソした。インドに対しては引き続き良好な関係の維持に腐心し,ガンジー首相の訪ソ(9月)が行われた。
(d)対中近東関係
アフガニスタン問題については政治的解決の必要を認め国連事務総長特使の仲介を評価する一方,ソ連側立場の不変を確認している。6月のレバノン事件に際しては激しい対米非難を行ったが具体的行動を欠き,中東地域における威信の低下を招いた。イラン・イラク紛争には中立的立場を維持しているが,イラク副首相が6月及び12月訪ソしているのに対し,イランとの関係はイラン当局のツーデ党に対する圧迫,反ソ宣伝等から冷ややかなものとなっている。
この間ジャルド=リビア革命指導部員(5月),フセイン=ジョルダン国王(6月),南イエメン首相(9月),アラブ連盟7か国委代表団(12月)が訪ソし,83年3月のリビア代表団訪ソに際しては友好協力条約の締結が原則的に合意された。なお,ソ連はエジプトとの関係改善を期待している。
(e)その他の地域
中南米地域では引き続きキューバ,ニカラグァとの関係強化に努め,フォークランド紛争(4月)に際しては,その原因を英国の植民地主義にあると主張し,一貫してアルゼンティン側を支持した。
アフリカ諸国に対しては目立った動きはなかったが,メンギスト=エティオピア軍事評議会議長(10月)及びマシェル=モザンビーク大統領(83年3月)の訪ソが行われた。
(ハ)ソ連経済
(a)現行の第11次5か年計画の第2年目に当たる82年の経済遂行状況は概してよくなく,比較的に控え目に設定された目標すら達成されず,計画とのかい離が一層拡大している。
鉱工業生産の伸びは計画4.7%増(うち生産財生産は4.8%増,消費財生産は4.6%増)に対し,実績は2.8%増(同上2.8%増,2.9%増)と計画をかなり下回った。中でも鉄鋼,セメント,木材,ディーゼル機関車,貨車,自動車等の生産が前年より落ち込み,鉄鉱石,紙等の原材料生産がほぼ81年並みの水準にとどまるなど主要工業製品の生産が不振であった。
エネルギー生産では,天然ガスが引き続き8.0%の増大(計画5.8%増)を示したものの,石油は0.6%増(計画0.8%増)と頭打ちの傾向にある。
石炭は81年まで3年連続の減少であったのが82年には2.0%増(計画2.4%増)と漸く増加に転じた。電力は計画並みの3.0%増にとどまった。
農業総生産は連続3年の減少傾向から4.0%増と増大に転じたが,まだ必要な水準までには回復していないものと見られる。穀物生産高は前年同様実績数字の発表がなく,79年から4年連続の不作という結果に終わったものと見られる。
この結果,国民所得の伸びも計画3.0%増に対し,実績2.6%増と計画を下回る低い水準にとどまった。
(b)このような経済不振の原因は天候不順などの自然条件に起因するもののほか,鉄鋼,エネルギ、農業,運輸等の基幹産業部門における諸欠陥を含め,より基本的には計画経済が内包する構造的,制度的な欠陥が顕在化してきていることにあると見られる。
(c)アンドロポフ新政権はおおむね前政権の経済政策を踏襲していくものと見られ,上記の諸欠陥の除去のため生産規律の厳格化,監督の強化等の引締措置と共に生産現場の自主性の拡大の措置等を実施して経済全般の「効率化」を追求せんとする姿勢を示している。事実,新政権はその発足後まず第一に社会の随所に見られるズル休み,横領,酔払い等の悪弊の除去,人事の一新による沈滞ムードの一掃等に力を注ぐとともに,最近では農業生産における請負作業班の導入等生産現場の自主性をある程度認めた措置を講じつつある。