第5節 西欧地域
1.西欧地域の内外情勢
(1)概観
(イ)西欧各国では82年においても81年に引き続き多くの国で政権交代が起きた。その中で内外の注目を最も浴びたのは西独の政権交代であり,10月シュミット首相に代わり保守・中道のコール政権が成立した(西独では83年3月総選挙が行われ,コール政権が勝利を収めた)。また,スペインでは10月の総選挙で社会労働党が単独過半数を制し,46年ぶりに左翼政権が誕生した。そのほかデンマーク(9月),スウェーデン(11月),オランダ(11月),アイルランド(11月)及びフィンランド(83年3月)で総選挙が行われ,いずれの国においても政権交代があったほか,11月イタリアにおいても内閣の交代が行われた。これら政権交代の背景には各国の経済的困難があったと言えるが,西欧全体の政治傾向を判断するには,83年に行われる英国,イタリアの西欧主要国の総選挙の結果を見る必要があろう。
(ロ)こうした状況が生じている最大の原因は,上述のごとく欧州諸国の経済不振にある。経済が悪化する中,その責任が時の政府に転嫁され,政権が交代すれば経済困難克服のため,少なくとも現政権よりは有効な政策を行ってくれるのではないかという漠然とした国民感情が政府与党側に不利に作用していることは否めない。また,経済政策を巡る対立から与党連合が分裂し,政権交代に至る例も見られた。いずれにしても欧州各国の経済情勢は,全体的には低成長,高失業となお苦しい状況にあるが,英国及び西独においては,景気回復の兆しが見え始めており,企業家の景気観もやや好転している。
(ハ)81年後半,西欧各国で盛上がりを見せた反核,平和運動は,82年に入り少数の大規模なデモ等を除き鎮静化した観があるが,83年末に予定されている米国中距離核戦力の西欧配備に向けて再燃する方向にあり,83年後半以降の動きは注視する必要がある。
(2)欧州の東西関係
(イ)欧州安全保障協力会議(CSCE:Conference on Security and Co-operation in Europe)
欧州諸国及び米国,カナダ(計35か国)が参加し,欧州の安全保障及び相互協力に関する「ヘルシンキ最終文書」の履行状況を再検討するため,80年11月からCSCEマドリッド・フォローアップ会議が開始されたが,東西の原則的立場の対立から合意には達せず,会期を大幅に延長している。11月からの再開会期は,ポーランド情勢の変化,ソ連新指導部の成立などの新たな要因があったものの,「結論文書」の採択には至らなかった。
83年2月からの再開会期では,欧州軍縮会議,人権問題などに関する作業部会を設置し,妥協点の模索に努める一方,スイスなど中立・非同盟諸国は「結論文書改訂版」を提出した。結論文書の採択に失敗した場合は,成果を見ないままの中断を意味し,束西関係への悪影響が憂慮される。
(ロ)中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR:Mutual and Balanced Force Reductions)
MBFRは,中欧における東西間の通常戦力に関する軍事的均衡の達成を目的として,ソ連の提唱によるCSCEに対する逆提案の形で西側のイニシァティヴにより開始された交渉であり,東側7か国,西側12か国の計19か国が参加し,73年以来現在までに29ラウンドの交渉が実施されてきた。しかしながら,東西間で,兵力データ,削減要領,査察などの基本的事項で対立を続け,9年を経過した現在も具体的兵力削減の合意は得られていない。
(ハ)北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)
NATOは,5月にスペインを16番目の加盟国として加えた。6月には,ボンでNATO首脳会議を開催し,「防衛力の強化によって侵略を抑止するとともに,建設的な対話による平和強化を図る」とのNATOの基本戦略を再確認し(資料編参照),その結束を内外に示した。しかしポーランド問題,フォークランド紛争などNATO域外での主要国際問題への対応,対ソ経済政策,中距離核戦力配備,トルコ・ギリシャ間の反目など加盟国間で微妙な食い違いも見受けられた。今後,83年末に米国の中距離核ミサイルの配備開始を控え,ソ連の西側世論に対する宣伝,欧州各地における平和・反核運動の激化が見込まれる中,NATOが,その本来の目的である狭義の防衛分野のみならず,北大西洋地域の安定と福祉の維持促進の機能を引き続き果たし得るか否かは,NATO諸国間の運命共同体意識に基づく一枚岩の団結力にかかっている。
(3)欧州統合
(イ)政治協力
欧州共同体(EC)は欧州の政治的,経済的統合を究極的目標として発足しながら,経済面での統合のみが進展し,政治問題について一つの声で発言することは中々実現しなかった。今日においても完全な政治統合への見通しは立っていないが,他方,欧州を巡る国際情勢の激動に伴って,EC加盟国間の外交政策の調整とそれに伴う共同行動が必要となり,かつそれが現実のものとなっていることは見逃せない。中東問題,アフガニスタン問題ポーランド情勢などの主要国際問題の対処に際し,EC各国は共同歩調に努め,4月のフォークランド紛争の際にも同様の行動に出た。
EC各国の政治協力で重要な役割を果たしているのが欧州政治協議(EPC:European Political Cooperation)である。EPCは,そもそもECの設立の基礎となったローマ条約に規定された機構ではなく,首脳・外相間の合意に基づく,すなわち何らの条約的義務を負わない形での政府間の協力がその基本的性格である。その枠内で,欧州統合,中東,CSCEなどの対外問題につき共通のポジションを目指し緊密な協議が進められているが,最も中枢的な機能を有するのは外相協議である。
EPCがECの究極の目標としている政治統合への推進役となるか否かは別として,EPCの国際政治の場での役割は今後ますます高まっていくこととなろう。
(ロ)経済統合(「5月30日マンデート」問題)
英国予算問題のため82年以降ECの政策,制度を構造的に改革せんとするいわゆる80年5月30日マンデート問題は,82年においても再三にわたり理事会等で取り上げられ,活発な議論が行われたが,はかばかしい進展はなかった。しかしながら,ECとしては,スペイン,ポルトガルのEC加盟を間近に控える中で,本件につき具体的な成果を挙げることが迫られており,欧州理事会等での取扱いが注目される。
(ハ)対外関係
(a)EC・米国関係
深刻な不況に喘いでいるEC鉄鋼業界は81年に入り米国向けの鋼材輸出を激増させ,折からの米国経済の低迷もあり,1月に米鉄鋼業界の広範な対EC相殺関税,反ダンピング提訴を引き起こしたが,米政府による最終決定期限間際の10月にEC側が85年まで一方的に輸出自主規制を行うことで解決を見た。シベリア天然ガス・パイプライン問題は,11月,米国が対ソ制裁措置を解除したことにより解決した。農産物貿易問題については,米国はECの共通農業政策,とりわけ輸出補助金に対する批判を続け,一時は米・EC農産物貿易戦争必至との観測もあったが,12月の米・EC閣僚レベル協議の結果,当面は補助金戦争を回避し,国際市場における混乱を避ける努力を行い,83年3月までに双方が話し合うことにより解決策を見出すことになった。しかるに83年1月米国は多額の補助金付きで小麦粉100万トンをエジプトに輸出することを決定したため,一時休戦状態にあった米・EC間の農産物紛争は再燃した。
(b)スペイン,ポルトガルの加盟交渉
ポルトガルに関してはかなりの進展が見られ,工業分野についての実質的な話合いは終わり,残された大きな問題としては,農業問題,労働者の移動等の社会問題,予算問題等がある。他方,スペインに関しては,工業問題,農業問題を含め多くの問題において,はかばかしい進展は見られなかった。なお,EC委は両国のEC加盟に伴う問題点の一覧表を11月に理事会に提出し,右一覧表に基づく検討結果は83年3月の欧州理事会で報告された。加盟時期については,これまで84年1月がその努力目標とされていたが,最早右時期は現実的でなく,今後の加盟交渉の進捗状況のいかんにもよるが,85年又は86年が一応の目安と言われている。
(4)各国情勢
(イ)ドイツ連邦共和国(西独)
(a)69年以来連立を組んでいた社民党(SPD)及び自民党(FDP)の連立政権は,両党間に経済政策を中心とする意見対立が激化し9月に崩壊した。その後,自民党は,直ちにキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)に接近し,新たに結成された野党連合はシュミット内閣に対し不信任動議を提出し,10月同内閣は倒れ,コールCDU党首を首班とするCDU・CSU及びFDPの新連合政権が成立した。
コール政権は国民の信任を得るべく連邦議会解散に訴え,その結果83年3月,総選挙が行われ,CDU・CSU及びFDPの与党連合は,過半数の議席を獲得して圧勝した。また,反核・環境保護を旗印として,地方議会レベルの選挙で躍進していた緑の党は,最低必要得票率の5%を超えて連邦議会に初進出した。
この選挙結果を受けて,83年3月末第二次コール内閣が発足した。連邦議会における与野党の議席差(58)及び連邦参議院における与党の優位は,同政権の長期安定化を予測させるものである。
(b)82年における西独経済は,ほぼすべての分野にわたって活動が後退し,前年度に引き続き2年連続のマイナス成長に落ち込んだ。その結果生じた失業問題の解決は,西独にとって最大の課題となった(失業者数は12月に222万人,年平均失業率は7.5%となった)。
しかし,このような経済情勢の下にあって,経済が回復に向かいつつあるとの兆候が出てきたことも注目される。物価動向は良好な推移を続け,経常収支が4年ぶりに均衡を取り戻したことは,経済安定法が掲げる成長,雇用確保,物価安定及び対外均衡という4目標のうち2面において改善が見られたことを意味している。物価の安定と経常収支の好転は金利引下げを可能ならしめ,投資環境改善にとってプラスの要因となっている。
(c)コール新政権下における外交は,基本的にシュミット前政権の外交路線を踏襲することとなった。
これは,ゲンシャー外相が前政権に引き続き,外相にとどまったことによっても明らかである。すなわち,コール首相は政権交代直後にフランス及び英国を訪問し,それぞれミッテラン仏大統領及びサッチャー英首相と会談し,ECの拡大強化に積極的姿勢を見せ,次いで11月中旬,ワシントンでレーガン大統領と会談し,独米の歴史的つながりと共に両国の一体性を強調した。対ソ連関係でも,毅然たる態度を示す一方,対話維持に関心を表明するなど,前政権の路線を踏襲しているが,米中距離核配備問題を巡り,83年1月訪独したグロムイコ=ソ連外相が総選挙前に配備に反対する野党などに働きかけるなど,対ソ関係が複雑化している。
(ロ)フランス
(a)ミッテラン政権は,81年5月発足後,地方分権化,企業・銀行の国有化,死刑廃止,税制改革などの諸政策を意欲的に推進してきたが,82年に入り,経済面で引締政策への転換に見られるごとく,経済(物価賃金凍結措置),社会(社会保障負担の引上げなど),司法(テロ抑圧のための治安対策の強化など)の諸分野でより現実的な政策への「方向転換」が見られた。
また政治面でも,現政権下で初の全国規模の選挙として注目された83年3月の統一市町村選挙で,野党保守派の伸長に対し,与党社会党は後退を余儀なくされ,81年の総選挙時の「明白な左翼の優位」から伝統的な「左右均衡」へと変化が見られた。
このように,政権成立後2年目に入った82年は,諸分野において重大な「方向転換」が見られた年であったが,81年に引き続き最大課題は,極めて困難な経済状況にあり,引締政策がどのような成果を挙げるかは,今後に持ち越された。
(b)82年のフランス経済は,経済成長率こそ81年を上回ったものの(1.5%),二桁台の消費者物価上昇率(11.8%),失業の増大(200万人台になる),貿易収支の記録的赤字(-933億フラン)など,81年に引き続き極めて困難な状況にあった。
ミッテラン政権は,発足以来の国内需要の拡大による経済再活性化政策を進めてきたが・需要の拡大に見合う形でフランス経済の生産力が拡大しなかったため,82年に入り同国経済は,インフレの高進,輸入増による貿易収支の悪化,フラン価値の下落を招いた。このため,政府はインフレ抑制重視の経済改善に方針を転換し,物価賃金凍結措置という思い切った引締政策をとった(11月末まで)。さらに83年3月には,経済引締め第2弾(財政支出の削減,貯蓄奨励,公共料金引上げ,税収増加,為替管理強化等)を発表し,国内需要の抑制により貿易収支の回復,インフレの抑制を目的とした本格的な引締政策を実施した。
(c)外交面では,81年に引き続き,第三世界,南北問題を重視する傾向と共に,他方,東西関係においては西側の忠実な一員として大西洋同盟を支持するとの現実的姿勢が見られた。
対米関係では,NATOの二重決定支持,キャンプ・デーヴィッド合意の支持,シナイ多国籍監視軍への参加,スペインのNATO加盟の同意など米国の政策を支援したが,他方経済面での米国の高金利政策批判,シベリア天然ガス開発プロジェクト問題など対ソ経済関係を巡って米国との意見の相違も見られた。対ソ関係では,農相,研究工業相,さらにその後のシェイソン外相の訪ソ(83年2月)など仏ソ間の接触が維持されているが,ソ連のアフガニスタン軍事介入,ポーランド情勢,ソ連の中距離核ミサイルSS-20の欧州配備といった動きの中で,大西洋同盟の一員としての立場を明らかにしているミッテラン政権の対ソ関係は現実的な冷めたものと言える。中東諸国との関係では,ミッテラン大統領は3月にイスラエルを公式訪問し,対イスラエル対話を再開するなどアラブ,イスラエル双方と接触をとっていこうとの動きが注目される。
(ハ)英国
(a)81年は既成二大政党への支持が低下し中道に対する支持が拡がるという大きな動きを見せたが,82年はフォークランド紛争の影響もあって中道勢力が後退し,政権党たる保守党への支持が急増した年であった。
82年に入り,サッチャー政権の経済政策が功を奏し,インフレ率は下降線をたどり4月には10%を切ったものの,生産活動は停滞を続け失業者は300万人を超えた。こうした状況の中で年初保守党に対する支持は低下し,政府の経済運営に対する批判が野党のみならず一部与党内からも叫ばれていたが,こうした動きを一変させたのが4月に発生したフォークランド紛争であった。この紛争の結果,国民の主たる関心は経済問題を離れ,保守党に対する支持率は,4月31.5%,5月41.5%,6月45%と急増,その後若干低下したものの労働党を10%前後引き離し,保守党内では,フォークランド人気の冷めないうちに総選挙に訴えるべしとの声が叫ばれるようになった。
保守党支持が急増した中で労働党は依然として左傾化を強め党内の左右対立により,国民の支持低迷をもたらしたが,9月の党大会で中道右派が優勢となり,政権政党としての体裁を整えるきっかけをつかんだ。
ただし,依然として党内の左右対立の調整が党の課題となっている。他方,結党2年目の社民党は,党首にジェンキンズを,党議長にウイリアムズを選出するなど党基盤を固めた。一方,社民・自由連合に対する支持は,フォークランド紛争の影響などにより低下傾向をたどった。
(b)サッチャー政権は,景気刺激政策は長期的な雇用確保の観点からかえって有害であるとの立場をとり,82年も引き続き引締政策を維持した。このため,物価上昇率は1月の12.0%から12月には,5.4%まで低下した。しかし,生産活動は低迷を続けた(国内総生産は0.7%増)。また,雇用情勢も依然悪化を続け,失業者数(失業率)は,81年12月~82年12月の間に33万人(1.6%)上昇した。
(c)82年の年間を通じ外交面での最大の出来事はフォークランド紛争であった。紛争勃発後,英国は国連の内外で極めて積極的な外交を展開すると同時に艦隊を派遣し,結局実力によるフォークランド諸島の奪回に成功した。このほかの外交面での動きとしては,サッチャー首相の訪中を契機として香港問題に関する英中交渉が開始されたこと,さらにガス・パイプライン問題に関連する米欧間の意見対立にあって自国の原則的立場を維持しつつも,米国と西欧の立場の調整に努力したことが挙げられる。
(ニ)イタリア
(a)「不安定の中の安定」と言われるイタリア政情は8月及び11月の2回にわたるスパドリーニ内閣の崩壊,12月のキリスト教民主党(DC)首班ファンファーニ内閣の成立と目まぐるしく動いた。ファンファーニ首相はDC最後の切札として20年ぶりに首相に返り咲き,長期安定政権をねらっているが,厳しい内外の政情,経済の現状下において,失敗すれば繰上げ総選挙(期日84年6月)しかない。
(b)経済も相変わらず失業,インフレ,国際収支の赤字という三重苦に悩まされた。GDPは81年に引き続き82年も-0.3%とマイナス成長となった。鉱工業生産は-2.6%と不振,失業者は10月で211万人(9.2%)に達し,83年1月には約222万人(9.8%)と戦後最悪の状態となった。
消費者物価の上昇は鈍化しているものの,16.3%と先進国中で最も高い。83年1月に物価上昇の元凶と言われる物価スライド制の見直しが政・労・使間で1946年導入後初めて行われた意義は大きい。貿易収支は輸出の不振から約17兆リラの赤字,総合収支も81年の黒字から2兆5,000億リラの赤字に転じた。公定歩合は8月19%から18%に,さらに83年4月17彩に引き下げられ,景気回復を図っているが,ほとんど回復の兆しを見せていない。
(c)82年の外交は,米,NATO及びECとの関係を基軸とする従来の基本路線が踏襲された。さらに中近東重視からレバノン問題などに積極的に関与する姿勢を見せた。
(ホ)その他
(a)ヴァチカンでは82年はヨハネ・パウロ2世にとって即位4年目となり,司牧活動に加え,内外政治・外交面においても強力な指導力を発揮し,既に確立している高潔な司牧者としてのイメージを更に高める一方,内外政治情勢に対する幅広い人道的な見地からの発言と果敢な行動力故に「バランスのとれた法王」とのイメージは定着しつつある。82年も外国訪問を積極的に行い年間を通じ7回,10か国を訪問し,流動する国際社会に大きな影響を与えた。
(b)オランダでは,81年9月成立した中道左派内閣が,財政経済政策を巡る対立から崩壊,9月,前回総選挙後1年余りで再び総選挙が実施された。その結果,与党のキリスト教民主同盟は,連立相手をこれまでの労働党,民主66党から保守の自由民主党に変え,安定多数を有するルバース中道右派内閣が誕生した。同内閣はオランダの抱える最大の課題である財政経済問題,INF配備問題に関し相当程度に共通する基盤を有しており,与党問の対立抗争のためとかく明確な施策を打ち出し得なかった前内閣と異なり長期安定政権の様相を呈している。しかしながらINF国内配備問題では与党キリスト教民主同盟内に配備反対派がおり,今後の成行きいかんによっては現政権の前途も楽観できない。
ベルギーでは,81年12月成立したマルテンス中道右派内閣が焦眉の問題である経済・財政再建に積極的に取り組み,82年一杯有効な時限立法「特別権限法」により,(イ)企業競争力改善のため賃金のインデクセーション制度の見直し,(ロ)公共機関,公共施設の統廃合,(ハ)若年層に対する雇用創出,(ニ)社会保障制度の見直し,(ホ)企業投資促進,(ヘ)先端技術開発促進策などを強力に実施している。現内閣は83年においても同様の特別権限法を実現したい考えである。かかる経済政策の実施に際し,労働組合や野党社会党の反発は見られるものの,当面マルテンス内閣は幅広く一般国民から安定した支持を得ていると見られる。
(c)北欧その他
スウェーデンでは,9月に経済の再建策と雇用問題を主要争点とする総選挙が実施され,社民党が6年ぶりに政権に復帰した。パルメ新首相は,失業対策を最重要課題として経済困難克服に当たるとともに,外交面でも積極的姿勢を示している。ノールウェーでは,82年は8年ぶりで政権に復帰した保守党政権の最初の1年間であったが,経済社会全般にわたる国家介入を抑制し,民間の活力を引き出そうとする方向への政策重点の転換の姿勢が見られた。デンマークでは,9月に10年間継続した社民党内閣が総辞職し,同月シュルター保守党党首を首班とする非社会主義4党による少数連立内閣が成立した。フィンランドでは,1月にコイヴィスト新大統領が選出され,新大統領はいち早くケッコネン前大統領の外交路線を継承する旨表明した。また内政面でも特に大きな変化はなく,83年3月に実施された総選挙でも,選挙前の体制に基本的変化はなかった。
スペインでは,10月に行われた総選挙で社会労働党が勝利を収め40年ぶりに社会主義政権が誕生した。ゴンサレス首相率いる新政権は深刻な経済問題やEC加盟問題などの外交上の課題に意欲的に取り組んでおり,今後の成行きが注目されている。ポルトガルでは,バルセマン首相の民主同盟政府の下で懸案の憲法改正が行われたものの,同首相は12月,地方選挙における与党の後退をきっかけとして辞任し,エアネス大統領は国会解散及び83年4月の総選挙実施を決定した。ギリシャでは,82年は全ギリシャ社会主義党政権発足の初年度として,保守から革新への過渡期とも言える時期であったが,同政権は10月の地方選挙で引き続き国民の支持を得た。
アイルランドでは,81年6月に成立したフィネ・ゲール党・労働党連立政権は,2月の総選挙でフィアナ・フォイル党に交替したが,11月の総選挙の結果,フィネ・ゲール党・労働党連立政権が再び登場した,同政権は絶対多数を有しており安定政権となることが期待されている。
オーストリアでは,83年4月に予定された下院総選挙を控え,82年を通じ,与野党間で国内経済政策に関する論戦が高まった。スイスでは,内外政はおおむね安定的に推移したが,政府は国連加盟へ向けキャンペーンを始めており,今後の成行きが注目される。