第4節 中南米地域

1.中南米地域の内外情勢

(1)情勢全般

(イ)82年の中南米情勢の大きな焦点は,近年まれに見る近代兵器戦に発展したフォークランド紛争であった。フォークランド問題を巡っては,65年以来ほとんど毎年国連総会で審議され,また17年間にわたり英国及びアルゼンティンの間で二国間交渉が行われてきていた。同交渉においては82年に至っても領有権問題の解決は大きな進展が見られなかったところ,4月2日アルゼンティン軍約4,000名がフォークランド諸島に上陸し,これが武力衝突の発端となった。結局,6月14日英ア両国間の戦闘は終了したが,本件紛争を巡りラ米諸国は公式にはアルゼンティンヘの連帯を示したものの,アルゼンティンの立場支持の度合いには国ごとに差が見られた。他方,本件紛争を巡り米国及び西欧諸国等の示した態度が契機となって,多かれ少なかれラ米諸国の対米欧姿勢を見直そうとの気運が高まったことは否めない。また,同紛争は,ラ米元首会議の開催の提案等米州機構の見直しの動きや,ヴェネズエラ及びコロンビアの非同盟への傾斜の動きを促進するなど,ラ米諸国に対し今後も長期にわたり波及するところの大きい心理的影響を残したと思われる。

(ロ)中米情勢は82年の初め,ニカラグァを除き各国で選挙が相次いで実施され民主主義体制に向けて進展が見られたが,エル・サルヴァドル情勢に進展がないばかりか,ニカラグァと近隣国との緊張が新たな焦点として加わった1年であった。

(a)81年末から82年3月の間に,ホンデュラス,コスタ・リカ,グァテマラ,エル・サルヴァドルで多数の国民の参加の下に選挙が実施された。

(b)その後エル・サルヴァドルでは,保守・中道両派の妥協でマガーニャ臨時大統領が新制憲議会により選ばれ,憲法制定作業が開始され,また,農地改革等が継続されている。他方,反政府ゲリラ活動は,選挙後一時鎮静していたが,10月ごろから北部と東部で再び活発になっており,平和的解決への道は険しいものとなっている。

(c)ニカラグァでは,3月に非常事態令が出され,報道規制が強まっている。米国との関係改善は見られず,他方国内における反サンディニスタ・ゲリラの活動が活発になるにつれ,隣国のホンデュラス及びコスタ・リカとの関係が緊張している。

(d)この間,2月にメキシコ,3月ホンデュラス,8月米国,9月メキシコ,ヴェネズエラ両国が緊張緩和のための提案を行い,10月にホンデュラス,エル・サルヴァドル,コスタ・リカ,コロンビア,ジャマイカ,ベリーズ,米国がコスタ・リカで中米カリブ諸国外相会議を開いた。83年1月にはパナマでメキシコ,ヴェネズエラ,コロンビア,パナマの4か国が緊張緩和の方策を話し合い,その後もドミニカ共和国が自国で中米5か国及び上記4か国参加の下に話合いを行うよう提案している。

(e)グァテマラでは,選挙直後に腐敗政治の打破を主張する若手将校のクーデターが起こり,リオス・モント准将が大統領になった。同政権は,82年末までにほぼゲリラ活動を抑え,他方で84年3月までに制憲議会選挙を実施するための準備を始めた。

(f)中米諸国の経済はマイナス成長を記録し,各国とも外貨準備の枯渇に直面して厳しい経済引締めと輸入抑制措置を導入した。その中でコスタ・リカは,83年1月に関係国政府から債務繰延べの同意を得た。

(ハ)82年にはまた,中南米の多くの国で民主化の進展が見られた。

ニカラグァを除く中米諸国で選挙が実施されたほか,7月には,メキシコで大統領,上下両院選挙が実施され,予想どおりデラマドリが74%という高い支持率を得て次期大統領に選出された。

南米においても,10月ポリヴィアで民政移管が実施され,シーレス・スアソ大統領が就任した。ブラジルでは,政治開放路線を推進しているフィゲイレード大統領が予定どおり11月に総選挙,統一地方選挙を実施した。この結果野党は,知事選挙及び連邦下院選挙で大幅に勢力を伸ばしたが,一方,政府与党も今次選挙の結果,85年1月次期大統領を選出する選挙人団の過半数は確保した。ウルグァイでは,11月全国統一党内選挙が実施され,85年3月の民政移管に向けての重要な一歩となった。パラグァイでは,83年2月大統領選挙が実施され,ストロエスネル大統領が7選を果たした。さらにアルゼンティンでは,フォークランド紛争後,軍事評議会が84年3月までに立憲諸制度へ復帰することを決定し,それまでの暫定政権としてビニューネ大統領が7月就任した。同大統領は政治活動の解禁,政党基本法の公布を行い,政党指導者,労組代表との対話を進めた。そして83年に入り,同年10月に総選挙を実施し,84年1月には新政権が誕生するとの具体的スケジュールを発表した。

(2)域内諸国関係

(イ)フォークランド紛争中,米州機構(OAS: Organization of American States)では,全米相互援助条約(リオ条約)に基づき4月外相協議会が開催され,フォークランド諸島に対するアルゼンティンの領有権の主張を支持しつつ,英国に対し直ちに敵対行為の停止を求め,またEC諸国の対アルゼンティン経済措置を非難する決議を採択した。しかしリオ条約に基づく集団的自衛措置をとることには多くの国が消極的であった。このため同紛争終結後,中南米諸国の中でOAS等の米州システムの機能強化を求める動きが出,各種の国際会議の開催が提案された。特に7月ロヨ=パナマ大統領のヴェネズエラ訪問時,共同声明で提唱されたラ米外相会議は,キューバを参加させ,米国の参加を排除したものであったので大きな反響を呼んだ。しかし米国抜きの機構設立には大半の支持が得られず,またロヨ大統領が帰国後早々に辞任したこともあり,以後本件については目立った動きはなかった。11月のOAS総会においても,米州の安全保障問題については見るべき議論はなく,現実的な経済問題に関心が移っている。

(ロ)中南米地域では,フォークランド問題のほかにも多くの領土問題を抱えている。

ヴェネズエラとガイアナ間の懸案であるエキセボ問題については,6月ヴェネズエラが本問題を過去12年間凍結してきたポート・オブ・スペイン議定書を失効せしめ,二国間交渉による解決を求めたのに対し,ガイアナは国際司法裁判所への付託を主張し対立している。また本問題と関連し,ヴェネズエラが非同盟加入の動きを示したのに対して,ガイアナは強く反発している。

アルゼンティンとチリ間の懸案であるビーグル海峡問題については,1月アルゼンティンが72年に両国間で署名された「紛争の解決のための一般的条約」を一旦破棄したが,その後ローマ法王の呼び掛けもあり,9月同条約の適用範囲をビーグル海峡問題に限定して有効期間の延長が合意され,その後80年2月に提示されたローマ法王調停案に関し交渉が継続されている。

またボリヴィアがチリに対し要求している海港問題に関しては,10月民政移管により成立したシーレス・スアソ=ボリヴィア新政権が前軍事政権以上に厳しい態度で臨んでおり,OAS総会等の場を通じて自己の主張に対する国際的支持の取付けに積極的に動いた。

(3)域外諸国との関係

(イ)対米関係

レーガン政権の対中南米基本政策は,隣国メキシコとの関係強化,中米・カリブ諸国への経済支援と安全保障に関する援助,南米諸国との緊密な二国間関係の再建にあった。特にレーガン政権発足当初は,米国の安全保障上重要な中米・カリブ地域に対する対策に重点が置かれ,81年から米国が推進してきた中米・カリブ開発構想については,2月大統領自身が特恵措置の導入,投資促進税制の適用及び緊急経済援助増額を骨子とした米国の具体的措置(行政府案)を発表した(援助については,9月議会承認済)。

しかし,フォークランド紛争でヘイグ国務長官の仲介努力が功を奏さず,対英支援に踏み切った米国に対し中南米諸国で対米不信感が高まった。紛争終結後,米国側にも対中南米諸国との関係を修復せんとの気運が生まれた。以後米国の対ラ米基本政策の実施上,一貫性重視,南米諸国との関係重視の姿勢が強調された。

8月のメキシコの金融危機に際し,米国は直ちに27億ドルの金融支援を決定し国際決済銀行(BIS)の緊急融資決定のイニシアティブを取った。10月にはデラマドリ=メキシコ次期大統領と両国国境地帯で初めて会談し,11月末からはブラジル,コロンビア,コスタ・リカ,ホンデュラスの4か国を歴訪し,コスタ・リカではエル・サルヴァドル大統領と,またホンデュラスではグァテマラ大統領と会談した。米国大統領による中南米訪問は,79年のカーター前大統領のメキシコ訪問に次ぐものであり,訪問先国は,いずれも過去1年間に選挙を実施した国が選ばれ,歴訪中ブラジルに対する約12億ドルのつなぎ融資の供与を発表し中米カリブ開発構想(CBI)の完全実施の重要性を強調した。こうして,米国としては,民主主義の進展を通じて地域の平和と安定を確保する考えであること,そしてこれに必要な経済的支援には積極的に取り組む用意があることを具体的に示した点注目された。また,11月フォークランド紛争に関する国連総会審議において,米国は紛争当事国に交渉の再開を要請したラ米20か国提案の決議案を支持したが,これは従来本紛争関連決議に一貫して棄権の態度をとってきた米国にとり大幅な態度の修正であり,中南米諸国との関係修復に寄せる米国の意欲を示すものであった。

(ロ)対西側諸国関係

フォークランド紛争発生後,4月EC諸国は対アルゼンティン輸入禁止措置等をとり,英国寄りの態度をとったため,中南米諸国との関係が一時冷却化したが,その後関係改善が図られつつある。

(ハ)対共産圏関係

キューバはソ連と緊密な関係を維持し,11月のブレジネフ書記長の死去に際しては,カストロ議長がソ連を訪問しアンドロポフ新書記長と会談した。10月にはチュオン・チン=ヴィエトナム国家評議会議長がキューバを訪問した。また83年3月には,オルテガ=ニカラグァ国家再建委員会委員長がソ連,北朝鮮,ヴィエトナムを訪問した。

ブラジルと中国との貿易は最近著しく増大しているが,ゲレイロ外務大臣は3月中国を訪問し,伯中科学技術協力協定を締結した。このほか,10月ウヨア=ペルー首相,83年に入りバレンシア=エクアドル外務大臣が中国を訪問した。

(4)経済情勢

(イ)82年の中南米経済は,世界的な経済不況の影響で輸出が伸び悩み,一次産品の価格低下と高金利の影響で多くの国において低成長,国際収支の悪化が続き,インフレの進行と相まって戦後最大の経済困難に陥った。このような状況の中で,中南米諸国の中から対外債務の返済に窮する国が多く出,メキシコが8月借入金元本の返済猶予を要請したのを発端に,それ以降ブラジル,ヴェネズエラ,アルゼンティン,キューバ,コスタ・リカ,エクアドル,ポリヴィア,チリ,ペルー等が各種の救済措置を要請するに至っている。そして,これらの要請に対しては,IMF,国際決済銀行(BIS)等からの支援の下に,関係民間金融機関の協力もあって,必要な救済措置が順次講じられてきている。なお,コスタ・リカとキューバは公的債権に関する債務繰延べの要請を行ったところ,各々83年1月,3月に,債権国会議で債務繰延べが合意された。

(ロ)国連ラ米経済委員会(ECLA: Economic Commission for Latin America)の資料によれば,82年の中南米地域の平均GDP成長率は,81年の戦後最低の1.5%から,更に-1%に低下した。このような中南米全体のマイナス成長は過去43年間記録されなかったところであり,ウルグァイ(-9.5%),ポリヴィア(-7.5%),コスタ・リカ(-6.0%),アルゼンティン(-5.0%)等において記録され,中でもチリは最も深刻な景気後退に見舞われ,-13.0%となった。ブラジルにおいては,生産活動にわずかな回復が見られ,81年のマイナス成長から脱出した。

(ハ)インフレ問題は,中南米の多くの国で自国通貨切下げの影響もあり,物価が急上昇し,82年の地域全体の平均物価上昇率は80%と過去の記録を大幅に破る高さとなった(80年53.6%,81年58%,ECLA資料)。インフレが特に加速された国は,アルゼンティン(200%),ボリヴィア(200%),コスタ・リカ(100%),メキシコ(85%)であったo。

(ニ)貿易収支は,輸出額が10%減少したものの,輸入額が輸出額よりも更に減少した結果,81年の6億ドルの赤字から82年は89億ドルの黒字に転じた(ECLA資料)。貿易収支の黒字により,金利支払いの増加にもかかわらず,76年以来拡大し続けていた経常収支の赤字は,81年の380億ドルから330億ドルに減少した。また,中南米への外国資本の流入が55%減少した結果・総合収支は81年40億ドルの黒字から140億ドルの赤字に転じた。

(5)主要国の動向

(イ)メキシコ

(a)内政面では,82年はロペス・ポルティーリョ大統領の政権最終年に当たり,7月,大統領選挙及び連邦議会議員選挙が行われた。予想どおり与党の立憲革命党(PRI)が圧倒的多数を占め,デラマドリが12月に新大統領に就任した(任期:82年12月~88年12月)。立憲革命党は数十年にわたり事実上の一党支配体制を確立してきたが,ロペス・ポルティーリョ前政権は政治的複数体制を容認する政策をとったこともあって,野党側から6名の大統領候補が出馬し,これら6候補の得票率は合わせて25%に達したほか,一部地方選挙ではPRIが敗北した。(b)経済面では,2月のペソ切下げ,8月の対外債務支払い猶予要請,9月に全面的為替管理の導入と銀行国有化を行う等,多事多難な1年となった。82年末に830億ドルに達した対外債務累積問題は,米国等の主要先進国及びIMF等の国際金融機関や民間金融機関の支援により,当面の体制が整った。

(c)外交面では,隣国米国との間で,米国へのメキシコ不法移民問題,メキシコの補助付輸出に対する米国の課徴金賦課問題等,いずれも継続案件として残った中で,メキシコの年央からの金融危機に対し,米国が迅速かつ大規模な支援に積極的なイニシアティヴを取ったことが注目された。中米問題については,メキシコは,外部からの不干渉を関係者間の話合いによる和平達成という従来の主張の下に,2月には単独で,9月にはヴェネズエラと,83年1月にはヴェネズエラ・コロンビア・パナマと共同で和平提案を行ったが,いまだ成果はない。

(ロ)パナマ

故トリホス将軍を後楯としていたロヨ大統領は,7月末に突然辞任し,後任には副大統領であったデ・ラ・エスプリエーリャが昇格した。新大統領は,経済実務家として経済活性化等の内政面を重視し,前政権の中道左派的姿勢を若干修正するとともに,外交面では対米関係を中心に,より穏当な路線を指向している。なお,84年の大統領選挙に向けて,パレーデス将軍及び野党各党の動きが活発化している。

(ハ)コロンビア

5月の選挙で成立したベタンクール保守党政権は,大衆主義(ポピュリスト)的色彩の下で不良銀行を国有化し,またM-19等の過激派に対して恩赦を実施し帰順を呼び掛ける等,治安問題の改善に努力しているが,目立った成果は挙がっていない。

外交面では,トルバイ前政権は親米的で,3月には中米・カリブ開発構想の共同推進国に自発的になる等,中米・カリブ地域にも目を向けるようになったが,ベタンクール政権は83年3月に非同盟に加入する等,より自主独立的な姿勢をとっている。

(ニ)ヴェネズェラ

(a)内政面では,83年12月の大統領選挙に向けて,二大政党たるキリスト教社会党(与党),民主行動党両党が,カルデラ及びルシンチをそれぞれ大統領候補に指名した。経済情勢の悪化に伴い,与野党間の対立は先鋭化したが,二大政党を中心とする民主主義体制に影響はない。

(b)経済面では,石油市況の低迷により石油輸出収入が大幅に減少した結果,歳入欠陥問題が生じ,4月歳出削減,税収増等を骨子とする新経済政策を発表した。しかし金融不安が8月のメキシコの金融危機に助長されて外貨の流出が相次ぎ,一方では,国際金融市場での資金調達,公的短期対外債務の繰延べも難航した。政府は中銀への外貨集中等各種の施策を打ち出したが,結局83年2月複数為替相場制移行に踏み切った。

(c)外交面では,隣国ガイアナとの領土問題が,本問題を凍結したポート・オブ・スペイン議定書の失効(6月)により再燃し,これを機にヴェネズエラは非同盟への加盟を試みたが,ガイアナの反対で実現しなかった。

ヴェネズエラは,9月メキシコと中米和平提案を行い,83年1月にはパナマでの4か国外相会議に参加する等中米問題に積極的な姿勢を示した。

(ホ)キューバ

(a)内政面では,特に注目すべき動きはなく,カストロ議長を頂点とするキューバの集団指導体制に変化はない。

(b)経済面では,砂糖については史上第2位の820万トンの生産高を記録したが,国際価格の低迷により,国内経済を充分潤おすに至らず経済情勢は極めて深刻化し,8月末には西側諸国に対する債務返済繰延べを要請するに至った。西側債権国は債権国会議を開催して協議した結果,83年末までに支払期限の到来する債務の支払繰延べに合意した。

(c)外交面では,3月のウォルターズ米特使のキューバ訪問を境に,米国・キューバ両国は,主として中米情勢を巡って一段と厳しい対決姿勢を示している。冷却化していた中南米諸国との関係は,フォークランド紛争を機に,関係修復の兆しが見られたが,その後具体的進展はない。ソ連とは極めて緊密な関係にあるが,特に,軍事面での協力が顕著で,カストロ議長自身,82年には大量の武器援助があったことを認めている。

なお,83年3月のインドにおける非同盟諸国首脳会議の結果,キューバの非同盟諸国議長国としての任期は終了した。

(へ)カリブ諸国

カリブ諸国においては,砂糖等の主要輸出品の国際市況の大幅悪化,観光収入の減少等により,81年に引き続き経済は不振に陥っているが,政治的には,慢性的な政治不安が続くスリナムを除き,おおむね穏健化の方向にあり,82年も特に不安定な動きは見られなかった。

スリナムは,2月に軍の圧力の下に大統領が交替し,3月には一部軍人によるクーデター未遂事件があり,以後不安定な状態が続いていた。12月に至り,軍部は反政府勢力の処刑による一掃を強行した。この事件でオランダ,米国からの援助は中止された。

(ト)ブラジル

(a)軍事革命政権5代目のフィゲイレード大統領は,79年の就任以来一貫して漸進的に民主化を推し進めてきたが,11月には経済情勢の悪化という与党側に不利な状況の下で,公約どおり総選挙及び統一地方選挙を実施した。同選挙においては州知事選挙が直接選挙により実施され,野党は,サンパウロ等の有力諸州を含む10州で知事のポストを確保した。

また連邦下院でも諸野党の議席の合計は過半数を占めるに至った。しかし,与党側も今次選挙の結果,85年1月次期大統領を選出する選挙人団の過半数は確保し,与党側で統一候補を選出すれば,次期大統領を与党側から出し得る点は確保した。

(b)82年のブラジル経済は,前年のマイナス成長に引き続き約1%程度の低成長率を記録した模様である。9月以降メキシコの金融不安の影響で国際金融市場での調達可能資金が半減し,ブラジルは対外債務支払の面で困難に直面した。このため,政府は当面の資金繰りを米国,BIS,民間銀行等からつなぎ資金を得て対処するとともに,IMFに拡大信用供与等59億ドルの供与を要請し,さらに82年末には83年末までの資金繰りのため,民間銀行団に40億ドルの再融資及び44億ドルの新規融資等を要請した。これらの要請については,83年2月民間銀行及びIMFとの間でそれぞれ合意が成立した。なお,82年のインフレ率は,99.7%で,貿易収支は,輸出の減少にもかかわらず輸入も減ったため,7億8,000万ドルの黒字であった。

(c)外交面では,フィゲイレード政権は現実主義に基づく多角的自主外交を基本方針としている。ブラジルがフォークランド紛争に関してアルゼンティンの領有権の主張は支持するが紛争解決の手段としての武力の行使は認めないとの立場を明確に表明し,また米国が対英支援に踏み切り中南米諸国で対米不信感が強まる中で,フィゲイレード大統領は米国を訪問し,米国の対アルゼンティン経済措置を米州の連帯を損ねるものとのブラジルの見解を米国側に表明した点は注目された。

11月にはレーガン大統領が訪伯したが,これは,経済困難の中で民主化を進めるブラジルに対する米国の支援を示すものであったと見られている。

(チ)ペルー

(a)82年はベラウンデ政権にとり3年目に迎えた最も苦難に満ちた年であった。

内政面では,与党人民行動党(AP)党内の内紛が6月の党大会に向けて激化した。さらにウヨア内閣は,経済運営及び治安対策について批判の的となり,12月には総辞職を余儀なくされ,代わって83年1月シュワルブ内閣が発足した。

(b)経済面では,非鉄金属の国際価格の低落,アンチョビ不漁による輸出の不振が著しく81年に引き続き失業者の増大,経済停滞が続いた。さらにペルー経済はGDPの7%に達する財政の赤字,年間72.9%に上ったインフレ,対外債務の重圧(106億ドル)等の問題を抱えている。

(c)外交面では,11月にベラウンデ大統領の訪米中止という出来事はあったが,ペルーは欧米諸国との友好関係の維持強化に努めた。また,フォークランド紛争当時はベラウンデ大統領は和平提案を行う等紛争の平和的解決に向け積極的な動きを見せた。

(リ)アルゼンティン

(a)内政面では,フォークランド紛争後民政移管に向かっての軍部及び諸政党の活発な動きが目立った。

すなわち,フォークランド紛争の敗戦により引責辞任したガルティエリ大統領の後を受けて登場したビニョーネ大統領(7月)は,政治活動の解禁,政党基本法の制定,各政党代表との対話等民政移管に積極的に取り組む姿勢を見せ,政党,労組側もこれに応じ,政党再編成に乗り出した。そして83年3月,同大統領は10月総選挙を実施し,84年1月新政権が誕生するという民政移管に至る日程を明らかにした。

(b)経済面では,前年を上回る不況となり,70年の生産水準を下回ることとなった。このほかインフレの高進(消費者物価:年率210%,卸売物価:311%)及び対外債務問題などの問題が山積した。

(c)外交面では,国連総会が英・ア両国に対しフォークランド諸島問題の平和的解決のための交渉を開始するよう勧告するとの趣旨の決議が採択された。同決議の採択はアルゼンティン政府が極めて重視していたものであり,同決議の採択は外交的勝利として国民に歓迎された。フォークランド紛争に関連しアルゼンティンが武力行使を行ったことから,同国と欧米との関係は一時冷却した。特に英国との外交関係は依然断絶したままである。なお,同国はフォークランド紛争につき非同盟諸国の支持を得ることを重視し,83年3月の非同盟諸国会議には大統領が出席した。

(ヌ)チリ

(a)内政面では,81年3月発効した新憲法の精神に基づき,ピノチェット政権は漸進的に民主化を進めるとともに,国外亡命者の帰国を実現するなど,人権上の改善にも努めている。

(b)経済面では,81年中ごろから82年にかけて,世界不況の影響を受け成長率の大幅な低下(-14.1%)と,それに伴う失業の増大並びに国際収支の悪化による対外債務の増加の問題に直面することになった。これに対し,ピノチェット大統領は4月及び8月に2回内閣改造を行って主要経済閣僚を更迭するとともに,6月には80年以来初めての為替切下げ(18%)を行い,7月には中央銀行による不良債権の買上げによる商業銀行の救済,8月には変動相場制への移行等の措置をとった。

(c)外交面では,81年レーガン政権の誕生に伴い対米関係が著しい改善を見たが,82年は特に目立った動きはなかった。フォークランド紛争に対しては,アルゼンティンと領土問題を有するチリの態度は微妙なものがあった。また,ウルグァイ大統領の訪チ,ロハス外相のブラジル,コロンビア訪問等近隣諸国との友好関係の促進に努め,また,ピノチェット大統領令嬢の訪中,金韓国総理の訪チ等に見られるようにアジア地域との関係改善にも配慮した。

(ル)ポリヴィア

(a)内政面では,トレリオ(81年9月~82年7月)及びそれに続くビルドーソ両軍事政権は,経済・社会情勢の急激な悪化に耐えかねた労働者,市民の圧力に直面し,自ら政権を文民に委ねる旨決定し,10月には,ペルーに亡命していたシーレス・スアソが大統領に就任した。

(b)経済面では,軍事政権の失政による国家経済の破局的状態,特に対外債務返済遅延,財政赤字増大を克服するため,11月シーレス大統領は単一固定相場の採用(1ドル=200ペソ),公共料金の引上げ等からなる経済措置を発表した。なお,82年の成長率は-10%(推定)であった。

(c)外交面では,10月シーレス・スアソ政権成立直後ニカラグァと,83年1月には,キューバとの外交関係を再開した。欧米諸国は同国の民政移管を歓迎し,ポリヴィア支援を表明したところ今後の動きが注目される。米国は停止されていた経済援助の一部(小麦贈与)を再開したが,ボリヴィア外交路線の左傾化,麻薬取締りの実が挙がらないこと等もあり米ボ関係に大きな進展は見られなかった。

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