3.東南アジア諸国連合(ASEAN)5か国及びビルマ
(1)ASEAN5か国及びビルマの内外情勢
(イ)インドネシア
(a)内政
82年のインドネシア内政は,5月4日に実施された総選挙,83年3月の国民評議会総会を目指した諸準備及びスハルト大統領4選に向けての体制固めを中心に推移したが,スハルト政権に対する批判的動きも小さいまま,スハルト体制の政治的基盤が一段と強化された1年であったと言える。
5月の総選挙では政府が推進する開発政策が成果を挙げたことも手伝って,与党・ゴルカルが前回を上回る議席数を獲得,大勝した。また,政府は一部の過激な反体制グループには強い態度で臨み,他方,学生運動その他批判グループは国民多数の支持を得られず先細りになりつつある。
こうした内政状況の中でスハルト大統領は83年3月10日,平穏裏に4選され,同月19日には第4次開発内閣が発足した。
今後とも内政面の安定は維持されていくと見られるが,世界経済不振の影響を受けたインドネシア経済の悪化をいかに乗り切るかが政治的にも大きな課題となろう。
(b)外交
外交面では,12月に海洋法条約の署名が行われ,長年の主張であった群島理論が同条約に盛られたこと,カンボディア三派連合政権支持でASEANの団結の維持に努力したこと,10月にスハルト大統領が米国,韓国,スペイン及び我が国を訪問し友好関係の強化に努めたことが特筆されよう。なお,中国との国交正常化については,依然として慎重な態度を維持している。
対外関係の多角化促進への努力は顕著であり,ASEAN域外諸国(インド,パキスタン等,11月にはパキスタン大統領が訪問),中東諸国(インドネシアから閣僚レベルの訪問),東欧諸国(11月にはルーマニア大統領が訪問)等との関係促進が図られた。
東チモール問題は,国連の討議で賛成,反対の差を2票差にまで縮めることに成功した。
他方,対ソ関係については2月のソ連スパイ追放事件以降一段と冷却化した。
(c)経済情勢
(i) 経済面では,物価上昇率が9.7%にとどまったものの,石油生産の削減,昨年に引き続く輸出不振等の結果,経済成長率は前年の7.6%を大きく下回るものと見られ,国際収支の逆調が一段と拡大してきていることが特記される。さらに,83年3月には当国最大の輸出産品である石油の価格が引き下げられ,インドネシア経済は厳しさを一段と強めており,政府は財政収支,輸出促進対策として3月末にルピアを大幅に切り下げる等の自助努力を行っている。
(ii) 輸出は,非石油・ガス産品の不振に加え,石油輸出も減少したため,82年度は11年ぶりに貿易収支が赤字となる見込み、であり,恒常的な貿易外収支の赤字のため,経常収支で68億ドル,総合収支では28億ドルの赤字になると見込まれている。
(iii) 82年の石油生産は,前年の日産160万バーレルから約130万バーレル近くに削減された。国家歳入及び輸出の約65%を石油に依存するインドネシアにとって,この生産削減の影響は甚大である。さらに83年3月,インドネシア政府は2月23日にさかのぼって石油価格を値下げすることに決定した。
(iv) このような厳しい経済状況に対処するため,インドネシア政府は,(1)緊縮財政(83年度予算は対前年度比6.1%という低い伸びとなった)(2)非石油産品の輸出促進措置,(3)輸入制限措置,(4)外貨の借入れ増大といった措置をとりつつある。
(ロ)マレイシア
(a)内政
82年は,81年にフセイン・オン前首相から政権を引き継いだマハディール首相が初めての総選挙(4月)の洗礼を経て,地歩固めを行い各種政策の面でマハディール色が具体化し始めた年であった。
総選挙においては,人種問題,宗教問題を巡ってマハディール首相の率いる与党・国民戦線の若干の後退も予想されていたが,結果的には政府の失点となるような争点が顕在化することがなかったこともあり,与党の圧倒的勝利(154議席中132議席)となった。二大野党のうち回教党は現状維持(5議席),民主行動党は議席減(13から9議席)となった。
総選挙後の内閣改造では副大臣,政務次官クラスに若手テクノクラートが登用されたが,主要閣僚にはほとんど変更は行われなかった。
マハディール首相は,総選挙での国民の圧倒的支持を背景に引き続き「清潔,効率的かつ信頼に値する政府」を目指した諸施策を積極的に推進している。また同首相の唱導している「東方政策」(日本,韓国等の勤労倫理を見習いマレイシアの発展を目指す政策)についても軌道に乗りつつあるが,同政策の成否が今後のマハディール政権の帰趨にも大きな影響を与えるものと言われている。一方国内のイスラム復古運動に対する配慮から,イスラム大学及びイスラム銀行の設立が決定されたほか,イスラム道徳に基づいた酒類の製造・輸入・販売禁止,ギャンブル禁止等の措置も議論されるに至っており,青少年の間での麻薬患者の増加が治安対策上問題化しつつある。1,500人余と推定されるマラヤ共産党の反政府活動は目立った動きはない。
(b)外交
従来の外交政策の基本路線であるASEAN諸国との協力強化,イスラム諸国との協力推進,非同盟中立,自由主義諸国との協力を踏襲しつつ積極的な外交活動を展開している。
カンボディア問題の政治的解決は安全保障に直接関係することから引き続きマレイシアにとって最重要課題であり,82年においては民主カンボディア連合政府樹立宣言署名の場を提供した(6月)ほか,ソン・サン派を中心に同政府支援の強化に努めた。
イスラム諸国との関係強化については,マハディール首相がバハレーン,アラブ首長国連邦,オマーン(2~3月),ムサ・ヒタム副首相がエジプト,ジョルダン(11月),ガザリ外相がトルコ(83年1月)をそれぞれ訪問する一方,諸外国からは,イスラム諸国機構事務局長(12月),イラン商業次官(83年1月)がマレイシアを訪問するなど活発な交流が行われた。その他パレスチナ連帯に関する政府声明(4月)等を通じて引き続きイスラム諸国との協力関係を進展させた。
マハディール首相は,83年3月の非同盟首脳会議への出席のほか,フィジー,トンガ,西サモア(6月),日本(83年1月),英国,ブルネイ(同3月)等各国を訪問する一方,諸外国からはオランダ首相(3月),オーストラリア首相(8月),パキスタン大統領及びルーマニア大統領(11月),フランス首相(12月),カナダ首相(83年1月)の訪問を受ける等活発な首脳外交を展開した。共産圏との関係では北朝鮮首相のマレイシア訪問(2月),ガザリ外相の中国及び北朝鮮訪問(11月),ソ連外務次官のマレイシア訪問(83年2月)があったが,新たな進展は見られなかった。対米関係については,着実に進展しており,当地域での米軍のプレゼンスは必要との姿勢を維持している。英国との関係は,81年以来「東方政策」による日本,韓国接近との関連で冷却していたが,マハディール首相の英国訪問(83年3月)等を契機として改善の兆しが見られている。
(c)経済情勢
70年代を通じて順調な経済発展を遂げていたが,80年以降の先進工業国の景気後退の影響を受けてマレイシア経済にも陰りが見え,82年の実質経済成長率(GDP)は3.7%と急激な落込みを示した(80年8.0%,81年6.5%)。主要輸出産品である石油,天然ゴム,木材,錫等の輸出不振により82年の貿易収支は前年に引き続き赤字を記録(約10億ドル),その結果財政収支の悪化を招き,81年から開始された開発5か年計画の縮小を含め経済運営の見直しを迫られている。
(ハ)フィリピン
(a)内政
82年は,前年の戒厳令解除及び大統領選挙を受けて,マルコス大統領が政権の基盤を強化すべく各種の立直しを図った年であったと言える。
まず5月には,全国42,000のバランガイ(部落。フィリピン最小の政治単位)の役員選挙,また6月には南部回教徒地区議会議員選挙が行われたが,それぞれ与党=新社会運動(KBL)が圧勝した。
8月には,マルコス大統領の訪米を控え,テロ計画が発覚し,これに関連して,労働組合の指導者等が逮捕された。また年末には,「教会と国家の対立」という問題が浮上し,政府関係者は,大衆の間に大きな影響力を有する教会勢力との相互理解を図るため対話を持った。そして12月には反体制紙WE FORUMの幹部が政府転覆容疑で逮捕されるなどの引締めが行われた。その他1月に起こった大統領娘婿マノトクの誘拐事件,8月の大統領後継法制定が内政上特記されよう。
一方,既成野党については4月,12野党を糾合した新野党連合(UNDO)が結成されたが,内部の結束に依然問題があり,現政権を脅かすに至ってはいない。
(b)外交
フィリピンは,対米友好協力関係を基軸としつつ,ASEAN及び中東諸国との関係強化,先進諸国との貿易・経済関係の緊密化,社会主義諸国との関係増進,第三世界との連帯強化等,外交の多角化を推進している。
対米関係については,9月のマルコス大統領の16年ぶり2度目の訪米が,82年のフィリピン外交にとり最大の行事であったのみならず,レーガン大統領の手厚いもてなしぶりもあって,比米友好関係を再確認する絶好の機会となった。
ASEANとの関係については,ダナバラン=シンガポール外相(2月),シティ=タイ外相(8月)が来比した程度にとどまり,大きな動きはなかった。
対中ソ関係では,イメルダ夫人が6月に中国(北京,上海)を訪問した後,7月に訪ソした。一方10月には,モスクワ市長が来比した後,11月には広東市長が来比するといったバランスのとれた要人の往来が行われた。
中東関係では,3月に,マルコス大統領は中東における石油の供給先,労働者の出稼ぎ地,南部回教徒問題と関係の深いサウディ・アラビアを訪問し,労働者の雇用増大につき好意的な反応を得るとともに,航空協定を締結した。
(c)経済
経済面では,対外的には世界経済の停滞の影響を大きく受け,2年続きの輸出減少,国際収支の悪化,対外債務残高の累増等を招来し,また,国内的にも大幅な財政赤字,金融界の問題等の影響を受けた。
したがって,82年のフィリピン経済は,一層困難な局面を迎え,実質経済成長率は近年最低の2.6%であった。一方,インフレ率は景気不振,需要減退等により,81年の12.4%から10.3%と鎮静化した。失業率は82年平均で5.1%であった。
対外貿易は,輸出49億9,500万ドル(前年57億2,200万ドル)及び輸入78億ドル(前年79億4,600万ドル)も前年に比し,伸び悩んだ。
貿易収支の赤字幅は,主要輸出品目の輸出額が減少し,81年22億2,400万ドルから82年28億5,000万ドルと拡大し,総合収支の赤字幅も,81年5億6,000万ドルから82年11億3,500万ドルヘと増大した。このような経済事情を反映し,82年の対外債務残高は,81年の113億7,200万ドルから14%増の129億5,900万ドルに増加した。また,外貨準備高(12月現在)は,25億4,300万ドルである。
(ニ)シンガポール
(a)内政
シンガポール内政は,82年から83年にかけても極めて安定的に推移した。81年末の補欠選挙において労働者党のジャヤラトナムが国会に選出され,82年はこの13年ぶりの野党議員の登場が国政にいかなる影響を与え得るかが注目されたが,結果的には政府がその施策につき国民の理解をより丁寧に求めるといった施政のスタイル面での若干の変化をもたらしたに過ぎなかった。
ここ数年,シンガポール内政の課題となっている世代交代と次代指導者の育成は,引き続き着実に進行している。11月に行われた与党人民行動党中央執行委員会の委員選挙において,これまでリー首相政権を支えてきたゴー・ケン・スイ第一副首相及びラジャラトナム第二副首相らが党務第線から退き,若返りが図られた。また,次代指導者候補として期待されているゴー・チョク・トン国防相,トニー・タン商工相,オン・テン・チョン運輸通信相,ダナバラン外相らも着実に経験と実績を積み上げてきている。
(b)外交
シンガポールは,ソ連の勢力拡張を主因とする東西間の緊張が存し,アジアにおいては米ソ両大国に中国を加えた三極体制による勢力争いが展開されているとの厳しい現実的認識に立脚して外交を展開している。
82年においては,シンガポールは前半はASEAN常任委議長国としての立場を十分に活用し,カンボディア問題,特に連合政権樹立を含むテコ入れ等をはじめとしてASEAN協調の推進役を積極的に展開するとともに,6月のAS面AN外相会議,拡大ASEAN外相会議のホスト国としての役割も十分に果たした。また82年後半以降は,リー首相の首脳外交も活発に行われ,同首相は,82年中,英国及び米国(7月),マレイシア(8月),インドネシア(9月),タイ(12月)を訪問し,各国首脳と会談したほか,10月にはフィジーで開催された英連邦地域首脳会議に出席した。他方,シンガポールを訪れた主要国首脳としては,パキスタンのハック大統領(11月),ルーマニアのチャウセスク大統領(11月),カナダのトルドー首相(83年1月)が挙げられる。
(c)経済情勢
82年のシンガポール経済は,低迷を続ける世界経済,とりわけシンガポール製品の主要輸出先である欧米先進国経済の不振の影響を受け,81年(9.9%)を大幅に下回る成長(6.3%)にとどまった。これは,73年の石油危機以降最低の成長率を記録した75年(4.1%)に次ぐ低い水準であり,81年3月に発表した80年代経済発展計画に掲げる成長率目標(8~10%)にも及ばないものであった。ただ,シンガポール経済の主要な柱である製造業部門において5.1%のマイナス成長にもかかわらず,全体として6.3%の成長を遂げたのは建設部門の下支えによるところが大きい。
80年代に向けての産業構造高度化政策の指標としてシンガポール政府が着目している労働生産性上昇率は,79年(2.6%)に比しほぼ倍増した80年(5.0%)に引き続き,81年には5.6%の上昇を記録し,産業構造高度化の諸施策の具体的効果が出たものと見られていたが,82年においては,シンガポール経済の減速に伴い,製造業における労働生産性の伸びがマイナスとなったこと等から大幅に鈍化したものと見られる。
(ホ)タイ
(a)内政
81年12月に発足した第3次プレム内閣は4月に現チャクリ王朝二百年祭の記念式典を無事終えた後,野党の不信任案提出(6月),バス運賃値上げ反対デモ,農民の米価値上げ要求(いずれも11月)等の問題に直面したが,右を無難に乗り切った。また,10月の軍の定期異動ではアーティット陸軍大将の陸軍司令官昇格により,プレム首相を支持する同司令官の軍内体制固めも進められた。
83年4月の下院任期満了に伴う総選挙に向けて,各政党は党内の人事刷新や小政党の合併吸収など,活発な動きを見せる一方,議会では選挙制度改正,議院内閣制の実現を主眼とする改正案が各々審議されたが,いずれも否決され,憲法改正論議は鎮静化した。その後,83年1月に至り,上院の権限維持をねらった憲法改正案がアーティット陸軍司令官の支持発言により国内に大きな論議を呼び,2月同案審議のための特別国会が開催された。3月同案は陸軍の強い働きかけにもかかわらず,主要政党の反対により否決されるに至ったため,プレム首相は急速下院を解散,4月に総選挙を繰り上げ実施することとなった。
その他内政面の主要な動きとして,3月~4月,第4回党大会を開いたタイ共産党は,党内対立が深刻化し,秋以降大量投降が相次いだ。
(b)外交
外交面では81年に引き続き,(i)カンボディア問題等に対するASEANの結束及び中国との良好な関係の維持,(ii)日米等西側諸国との関係強化,(iii)近隣のビルマ及びラオスとの関係改善に重点が置かれた。
タイはカンボディア問題につき,その包括的政治解決に積極的に取り組み,6月の民主カンボディア連合政府樹立のために他のASEAN諸国と共に側面的支援を行った。
他方,対ヴィエトナム関係はカンボディア問題を巡って対立が続いているが,タイ側はヴィエトナムとの対話の糸口は残しておきたいとの考慮から,シティ外相とタック=ヴィエトナム外相の会談が7月及び9月に行われるなど両国の接触は保たれた。
欧米諸国との関係では,シティ外相が9月に訪米し,米国からは6月,ボルドリッジ国務次官補,11月にはワインバーガー国防長官が訪タイし,軍事援助の増額,難民問題に対する協力等を約した。また,4月,プレム首相が西欧諸国を訪問し,カンボディア問題について西欧の支持を確保するとともに,経済面での交流拡大が図られた。
共産圏諸国との関係では,11月のプレム首相訪中に見られるごとく中国とは良好な関係が維持され,ソ連との関係は,12月のアルン副外相の訪ソ,83年2月のカーピッツァ=ソ連外務次官の訪タイ等要人の往来が行われた。
(c)経済情勢
世界経済の低迷,一次産品価格の下落等厳しい環境の中で,82年のタイ経済は60年以降最低の経済成長率(4%強)に終わった。
農業部門の生産は特に伸び悩みが目立ち,ほぼ前年並みの生産にとどまり,製造部門も前年の伸び(10%)を大幅に下回る4%程度の伸びにとどまった。また,民間投資も前年より大幅に減少し,政府の諸努力にもかかわらず失業率は前年の5.8%から6.3%に上昇した。
他方,貿易収支は毎年赤字幅を拡大してきたが,政府の輸出促進策が効果を示す一方,輸入の鈍化もあり,赤字幅は前年の30.2億ドルから17.7億ドルに縮小し,総合収支は年央からの短資の流入により1.4億ドルの黒字となった。また,消費者物価上昇率は5.4%と落着きを示した。
エネルギー面では,政府は,7月シャム湾天然ガスを一部輸出用として,LNG化を決定したほか,内陸部の原油の商業生産を83年1月から開始した。
(ヘ)ビルマ
(a)内政
81年にネ・ウィンが大統領を辞任した後のビルマの新指導陣は,ネ・ウィン路線の継続を基調としつつ,サン・ユ大統領,ティン・ウ=ビルマ社会主義計画党副総書記,行政組織の長マウン・マウン・カ首相,国軍の長チョウ・ティン国防相から成る「ネ・ウィン指導下」の集団指導制となっているが,現在までこの新指導者間に不協和音が生じたことはない。ネ・ウィンが政治の表舞台から完全に消え去った場合でもビルマ政治の中心勢力である国軍内の結束が固いこと,国軍に対抗し得るだけの力を備えた反政府勢力が存在しないことなどの理由から,現体制に大きな動揺が生ずることは予測されない。
(b)外交
82年においても厳正非同盟,善隣友好を基本とする外交政策を推進したビルマは,79年9月の第6回非同盟諸国会議の議事運営ぶりが,本来の非同盟の路線から逸脱しているとして,同会議から脱退し,83年3月の第7回非同盟諸国会議にも出席しなかった。近隣諸国との交流は,チッ・フライン外相のタイ,シンガポール,インドネシア(4月),北朝鮮,中国(7月),日本,韓国(10月)訪問,及びシティ=タイ外相(1月),サッタール=バングラデシュ大統領(2月),プラチァプ=タイ副首相(3月),コー・タック=ヴィエトナム外相(7月),ダナバラン=シンガポール外相(8月),ムサヒタム=マレイシア副首相(11月)のビルマ訪問などがあり,ビルマの善隣友好の動きは,引き続き活発であった。
(c)経済情勢
ビルマ経済は,農業生産の増大を主因として拡大基調にあるが,最近やや陰りが見え始めている。第1の要因は,国際市場における一次産品価格の大幅下落に基づく輸出の不振である。82年度の輸出目標は5億4,000万ドルであったが,船積ベースの実績は,3億3,000万ドルにしかすぎない。第2の要因は,石油生産の停滞である。従来ビルマは,石油の自給自足を達成していたが,80年半ばから油田の枯渇などの理由で原油生産が低下し,供給不足が生じている。第3の要因は,上記二つの要因が絡み合った結果としての外貨準備高の急減である。
(2)我が国とASEAN5か国及びビルマとの関係
(イ)インドネシア
日本との関係は,貿易,投資,経済協力及び文化交流の増進,要人往来の活発化を通じ近年ますます緊密化の方向にあるが,10月のスハルト大統領訪日により両国間の相互理解と友好協力関係の一層の強化が図られた。またこの機会をとらえて,我が国から,我が国の安全保障政策につき説明が行われたところ,スハルト大統領はこれに理解を示した。
3月の第4次開発内閣の発足によっても,モフタール外相等主要閣僚が留任したことからも,インドネシアの対日姿勢には大きな変化はないものと思われる。
また,我が国はインドネシアにとり,引き続き貿易,投資の面で最大の相手国であり,経済協力の分野でも最大の援助国となっている。
(ロ)マレイシア
81年末以来マハディール首相の提唱する「東方政策」を中心として両国関係はあらゆる分野で緊密の度を加えている。同政策の具体化の第一歩として産業技術研修生第1陣135名(9月),第2陣226名(83年4月)が我が国に派遣されたほか,84年4月からは,我が国大学における政府派遣留学生の受入れが予定されている。要人の往来についても,マハディール首相をはじめとする数多くの閣僚の来日,我が国からも櫻内外務大臣,福田元総理大臣,始関建設大臣及び小川文部大臣のマレイシア訪問等に見られるとおり82年は飛躍的進展を見せた。
経済協力については,マハディール首相の公式訪問の際,我が国は82年度の円借款として210億円及び500億円の直接借款の供与を約束した。貿易,投資面でもマレイシアにとって我が国は依然として第一の相手国となっている。また83年1月からLNGの対日輸出が開始されたことにより将来のマレイシアの対日輸出増が予想される。その他83年3月,査証免除取極が発効し,民間レベルの交流促進が期待される。
(ハ)フィリピン
ASEANの中で我が国にとって最も近いところに位置するフィリピンとの関係は,広範な分野において,年々緊密化の度合いを深めている。
ただ,82年の日比関係は,1月の日本タンカー「へっぐ」号銃撃事件,9月のマルコス大統領の訪米の際の日本の防衛政策に対する懸念の表明など若干の問題が生じた。しかし,前者は9月に両国政府の間で円満な解決を見た。
貿易面では,フィリピンは,米国と1,2位を争う最大の貿易相手国であるが,82年貿易収支は我が国の33億ドルの出超となり,出超幅は81年よりも拡大しており,両国の貿易不均衡問題を招来している。
(ニ)シンガポール
シンガポールと我が国との関係は,シンガポールがあらゆる分野で我が国の経験から学びとろうとする姿勢を示していることもあり,単に貿易,投資等経済分野だけではなく,社会,文化等極めて広範な分野における緊密な協力関係に発展してきている。我が国も,このシンガポールの期待感にこたえるべく,幅広い分野で,人造りを中心とした政府ベースの技術協力を行ってきている。
貿易分野では,我が国はシンガポールにとりマレイシアに次ぐ貿易相手国となっている。またシンガポールの対日赤字は,近年徐々に改善傾向を示している。
(ホ)タイ
7月江崎ミッション,8月安倍通商産業大臣,83年3月安倍外務大臣,同月皇太子・同妃両殿下等の訪タイが相次ぎ,また各般の協力が引き続き強化された。
両国間の懸案である貿易不均衡はタイ国内景気の落込みを反映して対日輸入が減少したことにより,対日赤字幅は前年比27%減の8・7億ドルに縮小した。
(へ)ビルマ
82年度においては,要人交流,特に,我が国の要人の訪問が際立った。
まず,小沢辰男衆議院議員を団長とする日本・ビルマ友好議員連盟代表団が訪問(9月),また,83年3月には,安倍外務大臣が外務大臣として3年ぶりに公式訪問し,サン・ユ大統領をはじめ政府要人と広く意見交換を行った。日・ビルマ間には特に懸案は存在していないが,厳正非同盟中立を貫き伝統的に極めて親日色の強いビルマを外務大臣がこの時期に訪問したことは各界から極めて高い評価を受けた。一方,ビルマからはトゥン・ティン副首相(5月,7月),チッ・フライン外相(10月)等の政府閣僚の訪日が相次いだ。このような要人交流の拡大を通じ,両国関係は着実に進展した。
我が国は,82年度においても,引き続きビルマにとって最大の貿易相手国でかつ最大の援助供与国であった。
<要人往来>
<貿易関係>(1982年,単位:百万ドル,( )内は対前年比増加率%)
(出所:大蔵省通関統計)
<民間投資>(単位:百万ドル)
(届出ベース)
<経済協力(政府開発援助)>(1982年,単位:百万円,人)
(約束額ベース)(DAC実績ベース)