2.国際情勢の主要動向

(1)主要国間の相互関係

(イ)アフガニスタン問題,ポーランド問題を契機に大幅に後退した米ソ関係は,82年に入っても双方の原則的立場が維持され厳しい状態のまま推移した。

軍備管理・軍縮交渉については,81年11月開始された中距離核戦力(INF)交渉は83年3月末,交渉第4ラウンドが,また,82年6月開始の戦略兵器削減交渉(START)は83年3月末,交渉第3ラウンドがそれぞれ終了したが,米ソ双方の主張にはなお大きな隔たりがある模様である。

米国は西側の同盟諸国,友邦との連帯・協力関係強化に努めつつ,国防努力の強化や,81年12月のポーランド戒厳令布告後とった対ソ経済制裁措置等に見られるごとく強い立場からソ連の自制を求める一方,軍備管理等共通の利益を見出し得る分野においては対話の継続を意図した。米ソ首脳会談についても米国は積極的成果がある保証があれば,これを準備する用意があるという態度を示した。

他方,ブレジネフ書記長死去に伴う新政権の発足を見たソ連は米国の対ソ強硬姿勢に対し,基本的にはレーガン政権のとる具体的行動を見極めた上で,これに慎重に対応していくとの姿勢を変えず,ソ連に有利な形でのデタントの再構築を主目標として平和外交攻勢を展開し,反核,反戦運動を支持・助長するなど,西側世論に積極的にアピールしつつ,米・西欧間の離間を図る態度をとった。82年における米ソ間接触は,外相レベルでは1月にジュネーヴにおいてグロムイコ・ヘイグ会談が行われ核軍縮の意向,対話継続を確認したのに続き,6月,9月,10月とそれぞれ国連総会出席を機に行われ,また,11月,故ブレジネフ書記長の葬儀に際しては,アンドロポフ新書記長とブッシュ副大統領及びシュルツ国務長官の会談(グロムイコ外相同席)が行われたものの実質的成果が得られるには至らなかった。

(ロ)米中関係

中国は,レーガン政権の台湾政策(とりわけ,対台湾武器供与)に強い警戒心を抱き,レーガン政権発足以来これが米中関係発展の大きな障害となっていた。その後米中双方は82年1月のボルドリッジ次官補,5月のブッシュ副大統領訪中等の機会を通じ台湾武器供与問題につき協議を重ねた結果,8月,武器供与は国交正常化以後の水準を超えず漸減していくことを主な内容とする共同コミュニケを発表して一応合意を見た。しかしながらその後も上記共同コミュニケの解釈その他の台湾問題を巡り米中関係は引き続きぎくしゃくした関係となっていた。

83年2月のシュルツ米国務長官の訪中は両国間の意思疎通を図り信頼関係を築いてぎくしゃくした米中関係を正常なものとするためのものであった。シュルツ長官はトウ小平主任,趙紫陽総理,呉学謙外交部長と会談。一連の会談により,相互信頼を築き上げるために米中双方が努力することを確認し,今後の対話のための良い雰囲気が作られた。

しかし,その後も中国のアジア開銀参加問題,湖広鉄道債券問題,米国による83,84年度の対台湾武器売却額の発表,テニスプレーヤー胡娜の政治亡命認定(及びこれに端を発する米中文化協定に基づく82,83年文化交流プログラムの未実施分の停止及び米国における83年の国際スポーツ競技への不参加)等,米中間の不協和音が依然継続した。他方,米中経済関係は,貿易,科学技術等の分野で比較的順調な発展を見せた。中国が不満を表明していた米国の対中高度技術移転政策については,米国は5月,米国輸出管理法上中国を日本,インドを含む非共産圏諸国と同じグループに含めるとの決定を行った。

(ハ)82年における中ソ関係は,10月の第1次次官級会談の開催,ブレジネフ書記長葬儀の際の外相会談等両国間の接触が行われ,実務関係においても人的交流,貿易,経済関係等の維持・拡大が看取されたことに見られるように81年とは,かなり異なる様相を呈した。

3月,故ブレジネフ書記長はタシュケントにおいて演説を行い,対中関係の改善を呼び掛けた。これに対し,中国外交部スポークスマンは,「演説中の中国に対する攻撃を断固拒否する」,「中国が重視しているのはソ連の

実際の行動である」としつつも,「ブレジネフ演説に留意する」との反応を示した。その後,カーピッツァ=ソ連外務省第一極東部長の訪中,于洪亮中国外交部ソ連・東欧局長の訪ソ等の事務的接触を経て,9月に入り,胡ヨウ邦総書記は中国共産党12全大会への報告で,条件付きながら対ソ関係正常化の可能性に言及し従来より積極的な対ソ姿勢を打ち出した。

かかる経緯を経て,10月5日から22日の間北京において第1次次官級会談が開催された。交渉内容については中ソ双方の合意で公表しないとされており,不明確の点が多いが双方の基本的立場の違いが伝えられている。特に中国側の提示しているいわゆる「三条件」(中ソ国境からのソ連軍削減,モンゴルからのソ連軍撤退,アフガニスタンからのソ連軍撤退及びヴィエトナム支援の停止)に対して,ソ連は歩み寄る姿勢を示していない。

また,右会議において今後次官級会談を北京とモスクワで交互に行うことが双方の間で合意され,83年3月には第2次次官級会談がモスクワにて開催された。

11月,黄華中国外相は,故ブレジネフ書記長の葬儀出席に際し,グロムイコ外相と会談を行った。右会談は「率直かつ平静な雰囲気」であったと発表されている。なお,中国閣僚レベルの訪ソは64年11月の周恩来首相の訪ソ以来18年ぶりであった。

実務レベルの関係については,中ソ貿易の拡大,貨物輸送協定の調印,国境貿易議定書の調印が行われたほか,ソ連陸上競技選手団,ボリシヨイ・バレエ団の訪中,留学生交換の合意等の交流の拡大につき,従来見られなかった新たな動きが看取された。

(ニ)東西経済関係の在り方についてはヴェルサイユ・サミット等の場において米欧間の協議が行われた。米国及び欧州諸国とも東西経済関係において政治・安全保障上の考慮を払うことについては原則的に一致していたが,その具体的手段については,相違が生じたため,日本を含め米欧間で調整の努力が行われた。その結果,82年11月には西側主要国間で,今後の具体的な検討分野を高度技術,エネルギー,信用供与等にすることで実質的合意が達成された。

もっとも,かかる経緯にかかわらず安全保障面における東西間の軍事均衡の必要性を含め,対ソ関係をはじめとする東西関係についての米欧間の基本認識は一致している。

(2)ポーランド情勢

(イ)過去2,3年ヨーロッパにおける東西関係の推移の一つの軸となっていたポーランド情勢のその後の経過を見ると,81年12月13日に布告された戒厳令に対する国民の当初の激しい抵抗が年末とりあえず鎮圧されると,ポーランド当局は,「正常化」へ向けて徐々に努力を傾注し,7月21日には,ヤルゼルスキ首相は国会で条件付きながら戒厳令の年内解除を示唆し,また一定数の拘留者の釈放を発表した。しかしその間にもグダニスク合意2周年記念日に当たる8月31日,反軍政デモが全国的規模で行われ,治安当局との間で各地で衝突事件が起きるなど直接的,間接的な形で国民の不満や反発が表明され続けた。組合員1,000万人を擁していた自主管理労組「連帯」は,戒厳令下活動を停止されていたが10月8日,既存の労組の解散及び新労組の結成等を主たる内容とする新労働組合法が国会で可決されたことにより,非合法化された。これに対し「連帯」地下組織は11月10日の「連帯」正式登録2周年記念日に新労組法に反対するためのデモ・ストを呼び掛けたが,当局側の万全な警戒態勢に阻まれワルシャワなど数都市で小規模のデモが行われたにとどまり,以後市民の反軍政行動は下火になった。

かかる状況を背景として,当局は11月13日ワレサ元「連帯」議長を釈放,12月18日国会で戒厳令停止法案を可決し,31日から戒厳令は停止された。

83年1月から新労組の登録が開始され,3月末には労組メンバーは200万人に達した。また各県レベルでの党会議の開催,さらに5月には愛国的国民再生運動全国評議会第1回大会が開催されるなど新秩序造りを目指すポーランド当局の動きが見られた。

82年8月に予定されていたローマ法王のポーランド訪問は延期されたが,83年3月,政府はローマ法王に対し訪ポ招待状を発出し,法王は83年6月16日から23日まで訪ポした。

(ロ)戒厳令布告直後の81年12月23日,米国は対ポーランド制裁措置を発表した。82年1月西側主要国はEC外相会議,NATO外相会議を通じてポーランド当局に対し事態の早急な改善(特に戒厳令の解除,拘留者の釈放,当局が教会,「連帯」との話合いに入ること)を求めるとともに,対ポ措置を発表した。西側諸国はEC・NATO等の場でポーランド情勢を検討しているが,ポーランド情勢に若干の改善の兆しは見られるも真の改善は見られないとして制裁措置を継続している。

また,米国は,10月新労組法の成立に関連し,関税上の最恵国待遇の適用停止をポーランドに対し実施した。

(3)中近東情勢

(イ)6月6日,イスラエルは南レバノンのPLO部隊を駆逐するためとして侵攻作戦(ガリリー平和作戦)を開始,8月4日には西ベイルートへ侵入した。この結果,PLOはイスラエル,レバノンとの合意に基づき米,仏,伊3国から成る多国籍軍の監視の下,9月1日までに西ベイルートから撤退した。その後,83年4月末以降のシュルツ米国務長官の調停努力もあり5月17日,レバノン,イスラエル間でイスラエル軍の撤退に関する協定が成立した。しかし,シリアはイスラエル軍の無条件撤退の後でなければ撤兵しないとし,これに対しイスラエルはシリア軍との同時撤兵を主張,現実には両軍とも撤退しておらず,べッカー高原で対立を続けている。なお,イスラエルは7月軍事負担及び人的損傷軽減のためベイルート郊外からレバノン南部のアワリ川まで一方的に部分撤兵することを決定した。

(ロ)中東和平問題に関しては,4月にイスラエルによるシナイ半島のエジプト返還が予定どおり完了したが,6月にイスラエルがレバノン侵攻を開始,8月末にはPLOがベイルートを撤退するという新情勢をにらみ,9月1日レーガン米大統領は,和平新提案を発表,(a)イスラエルは西岸,ガザ地区入植を即時凍結,(b)西岸,ガザ地区の最終的地位はパレスチナ人の自治行政府とジョルダンの連携が望ましいとの立場を打ち出した。イスラエルはこれをキャンプデーヴィド合意(CDA)からの逸脱であるとして即座に拒否したが,アラブ穏健諸国はあえてこれを拒否しないとの態度を示した。西欧諸国は本提案を歓迎,ソ連は米国の新秩序を中東に押し付けるものとして批判した。

一方,アラブ側は9月にモロッコのフェズで開催された第12回アラブ首脳会議において,初めて統一和平提案を採択した。同提案は,PLOがパレスチナ人の唯一正当な代表たることを再確認した点並びにパレスチナ人の民族自決権及び独立国家建設を認めた点はレーガン提案と大きく隔たるが,アラブ側が初めて統一してイスラエル承認の方向を打ち出した点は注目される。イスラエルはこれをその生存への脅威として即座に拒否したが,米,英,仏など西欧諸国は同提案がレーガン提案を正面から否定しなかった点で一応評価した。他方,ソ連はこれを積極的に評価し,9月15日,本提案と同工異曲の「ブレジネフ和平提案」を発表した。

かかるアラブ側の対応を下に,中東和平の第一当事者たるPLOの態度が注目されることとなり,83年2月にパレスチナ民族評議会(PNC)が開催された。しかし,同評議会では穏健派と強硬派の対立のためレーガン提案に対する明確な態度を打ち出せず,ジョルダン等関係国との協議結果を待たざるを得なくなった。かかる状況の下で開かれた4月のフセイン・アラファト会談では,一時レーガン提案を基礎にフセイン国王が和平交渉に参加することにPLOが合意したとも伝えられたが,結局,PLOがレーガン提案による和平の動きに賛成したとしても米国から何ら具体的譲歩を得られる見通しが立たなかったことから,アラファトは最終的に合意することを拒否した。このためジョルダンはPLOとの交渉を断念し,パレスチナ人の代理としてのみならず独自でも和平交渉に参加しない旨表明した。その後5月にはPLO主流派ファタハ内で内紛が生じアラファトの穏健路線に対する反発が表面化,さらにシリア及びリビアが反アラファト派を支援するに及び中東和平への道は当面一層遠のいた感がある。

(ハ)湾岸地域については,79年のソ連のアフガニスタン軍事介入,イラン革命及び80年のイラン・イラク紛争の激化が湾岸情勢に大きな影響を及ぼしたが,このような状況の下で81年に結成された湾岸協力理事会(GCC)は徐々に協力関係を強化,11月バハレーンにおいて第3回首脳会議を開催した。また83年3月にはGCCの経済協定の第1段階が実施に移された。他方,国際石油需給緩和を反映して産油諸国の石油収入は減少しており,その内政・外交に対する影響も現れ始めている。

(ニ)イラン・イラク紛争は,5月のホラム・シャハル奪回をはじめとするイラン軍の数次の攻撃により,夏以降,戦闘地域がイラン領内から国境地帯に移行し,戦局に新たな変化が見られた。しかし,停戦に関する両国の立場の差は依然大きく,解決の糸口のないまま,その後戦況は国境地帯でおおむね膠着したまま推移している。

(ホ)スーダンに対するリビアの脅威に対抗すべく83年2月に米国は地中海艦隊の一部をリビア沖へ移動,AWACSをエジプトへ急派した。一方リビアは,3月に代表団をソ連に派遣,両国は友好協力条約の締結に関して原則的合意に達した旨の共同コミュニケを発出した。

(4)アフガニスタン問題と南西アジア情勢

(イ)79年末以来,ソ連はアフガニスタンヘの軍事介入を行ってきており,10万人強の大規模な兵力を同国に投入しているが,全国各地で展開されている様々な反政府勢力の抵抗活動は依然根強く続いており,同国情勢が安定化する兆しは見られない。

アフガニスタン問題の政治的解決のための外交的努力は81年に引き続き国連等を通じて行われた。第37回国連総会(11月)では,外国軍隊のアフガニスタンからの撤退等を求める4回目の決議が採択され,またニュー・デリーで開催された第7回非同盟首脳会議(83年3月)でも上記とほぼ同趣旨の政治宣言が発出された。他方,国連事務総長個人代表仲介によるパキスタン,アフガニスタン両国外相参加(イラン不参加)の第1回間接会合がジュネーヴ(6月)で開催され,また第2回会合も83年4月開催され,デ・クエヤル国連事務総長は83年3月訪ソの際・ソ連政府首脳とアフガニスタン問題に特に焦点を当てて意見交換を行った。

(ロ)南西アジア地域においては,79年末のソ連のアフガニスタン侵攻を契機として,従来の印ソ対中パの対立関係の図式は,同地域最大の勢力であるインドの対外姿勢の変化を中心として大きく変わってきているが,82年においてもかかる趨勢は続いている。

82年における本地域の主要な動向は次のとおりである。

(i) 印ソ関係は緊密であるが,インドの対ソ自主外交の動きが顕著に見られ,インドは第7回非同盟首脳会議開催国となるなど本来の非同盟路線を強調する姿勢を示している。

(ii) 印パ関係は紆余曲折はあるも好転しており,これはハック=パキスタン大統領の訪印(11月),両国合同委員会設置協定の調印(83年3月)等に見られる。

(iii) 印中関係も国境交渉協議が2回にわたり(5月ニュー・デリー及び83年1月北京)開催され,改善の方向に向かっている。

(iv) 印米関係は従来冷却していたがガンジー=インド首相の訪米(7月)により大幅に改善された。

(v) パ米関係は81年米国の対パ経済軍事援助決定に支えられて改善を見ていたがハック=パキスタン大統領の訪米(12月)によりこれが一層進捗を示した。

(vi) 従来まとまりの欠けていた当地域内の協力を目指す南アジア地域協力構想が着実に進展を見せており,83年8月には外相レベルの会合開催が予定されている。

(5)アジア情勢

(イ)韓国においては83年3月第五共和制2周年を迎えた。82年中には,3月~5月にかけて,政局を揺るがす大きな事件が相次いだが,全斗煥政権は内閣及び党の改造によってこれを乗り切った。他方,82年1月の夜間通行禁止の解除及び83年2月の政治活動規制対象者の大幅な規制解除等を行い,政治環境の改善に努力した。外交面においては,82年8月の全大統領のアフリカ・カナダ歴訪,同10月のスハルト=インドネシア大統領の訪韓,同12月の金相浹国務総理の南米3か国訪問及びIPU総会の招致等,幅広い外交活動を展開し,成果を収めた。83年5月には中国民航機ハイジャック事件に関し,中国民用航空局長が訪韓,韓中両国当局間の直接交渉が行われた。他方,北朝鮮では金正日の後継体制造りが着実に進展しつつあるものと見られ,83年6月には金正日が非公式な形で中国を訪問した。経済面では,83年1月の金日成主席の新年の辞で経済建設に大きな割合を割き,力を入れていることをうかがわせているが,具体的な成果についてはほとんど言及はなかった。また外交面では,非同盟外交を積極的に推進する動きを示した。南北対話については韓国,北朝鮮とも提案の応酬に終わり,対話再開の見通しは立っていない。

(ロ)カンボディア問題については,カンボディア抗越三派(シハヌーク派,ソン・サン派及びクメール・ルージュ(KR))による連合構想が,81年の3派首脳会談(シンガポール)以降紆余曲折の後に結実し(6月,「民主カンボディア連合政府の樹立に関する宣言」に署名),シハヌークが民主「カ」連合政府大統領に,キュー・サンパンが副大統領に,ソン・サンが首相にそれぞれ就任した(7月,同連合政府の樹立宣言)。かかる状況下でヴィエトナム側は,第6回インドシナ外相会議(7月)において,在「カ」越軍の一部撤退の決定,「東南アジアに関する国際会議」開催の提案等を行い,続いてグエン・コー・タック外相がASEAN諸国を訪問(7月及び10月)したが,各国外相との会談を通じヴィエトナムの基本的戦略(中国の脅威が除去されない限り在「カ」越軍の完全撤退には応じられない。ヘン・サムリン政権の既成覇実化を進める)には変化は見られず,実質的進展はなかった。

第37回国連総会(10月)においては,民主「カ」連合の成立が有利に作用したものと見られ,民主「カ」の代表権が81年を11か国上回る90か国の支持を得て4度維持された。他方,10月に再開された中ソ外務次官級会談において,中国側は中ソ関係正常化の3条件の一つとして,越の「カ」侵略に対する支援の停止を挙げ,これを重視している。83年2月に越側は,第1回インドシナ首脳会議(ヴィエンチャン)を開催し,毎年「カ」の安全を考慮しつつ部分撤退を行うこと及び83年も前年に引き続き一部部隊の撤退を行うことを発表した。また非同盟諸国首脳会議(83年3月,ニュー・デリー)では,「カ」代表権問題に関し,前回のハバナ会議同様,今回も空席にすることが決定された。

(6)中南米情勢

82年における中南米は,中米情勢が依然として緊張をはらんで推移したほか,アルゼンティン,英国両国間のフォークランド諸島紛争,累積債務問題が関心を集めた。

中米情勢は,エル・サルヴァドル情勢及びニカラグァと周辺諸国の関係等を中心に,82年後半以降緊張が続いているが,そのような中で,中米情勢の悪化に危機感を抱くメキシコ,ヴェネズエラ,パナマ,コロンビアの4か国のいわゆる「コンタドーラ・グループ」による中米問題の平和的解決に向けての地域的努力が開始された(83年1月)。

4月,フォークランド諸島の領有権を巡ってアルゼンティンと英国との間で紛争が生じ,中南米諸国のほとんどはアルゼンティンの立場を支持した。

米国は,当初中立的な立場から仲介を行ったが,途中で英国寄りの態度をとったため,中南米諸国の対米批判の動きが見られた。米国は,11月の国連総会において中南米諸国が提案した決議に賛成し,同月末からレーガン大統領がブラジル,コロンビア,コスタ・リカ及びホンデュラスを訪問するなど,米国はフォークランド諸島紛争を契機に悪化した中南米諸国との関係修復に積極的に乗り出し,かなりの進展が見られた。

中南米諸国は,世界経済の停滞に伴う輸出の伸び悩み,一次産品価格の低迷,高水準の国際金利による金利負担の増大等により,従来累積債務問題の動向が懸念されていたが,8月にメキシコが債務返済猶予を要請するに至り,累積債務問題が表面化し,その後ブラジル,ヴェネズエラ,アルゼンティン等に波及した。かかる債務返済困難に対し,IMFやBISの国際機関,民間銀行団等により所要の救済措置が順次講じられてきているが,その前途には多くの困難を抱えている。

(7)アフリカ情勢

82年におけるアフリカ情勢の主要な動きとしては,リビアのトリポリで開催が予定されていた第19回OAU(アフリカ統一機構)首脳会議が,8月には西サハラ問題を巡り,11月にはチャード代表権問題を巡り,加盟国間の対立が解消せず2度までも流会に至る事態が発生する一方で,ナミビア独立問題に関しては,西側コンタクト・グループ(米,英,仏,西独,加)の活動が強化され,独立への過程に進展が見られたが,アンゴラからのキューバ兵の撤退問題に関しては関係者の合意が得られず,米・南ア・アンゴラ間で交渉が進められている。また内紛が続いていたチャードにおいてはハブレ元国防相がほぼ全土を支配下に収め,大統領に就任した(10月)。「アフリカの角」地域においては,7月にエティオピア領内のオガデン地区から,ソマリア領内への武力侵攻問題を巡って緊張が高まったが,他方エディオピア・スーダン間には両国の国境を巡るカルトゥーム合憲が5月締結され関係改善の動きが見られるとともに,エジプト・スーダン間には10月に両国間の外交,安全保障,経済等の分野で協力を目指す統合憲章が調印された。

域外諸国との関係では,リビアと米国の関係が一段と悪化の度を加える中で,リビアのカダフィー大佐は東欧諸国,北朝鮮,中国等を訪問し,一部の国とは友好協力条約を締結した。さらにソ連との間には友好協力条約締結に原則的に合意した(83年3月)。他方,中国は最近趙紫陽総理のアフリカ諸国訪問(82年12月~83年1月),アンゴラとの外交関係の樹立(83年1月)等,アフリカとの関係改善に努めている。

また,モロッコと米国の関係は,軍事面を中心として急速に緊密化の動きを見せ,5月にはハッサン国王が訪米し,米国に対するモロッコ領内の軍事施設使用を保障する協定が締結された。

ザイールとイスラエルの間では,73年以来断絶していた外交関係が再開された(5月)。

(8)国際経済の動向

(イ)82年の世界経済は全般的に低迷状態が続いた。インフレ沈静化,金利低下傾向等若干の好材料はあったが,先進国の景気停滞と失業は深刻であり,米国をはじめ多くの国で失業率が10%を超えている。82年の世界貿易額も前年比6%減,1兆8,400億ドルにとどまり,改善の兆候は見られていない。このような状況下で,各国内の保護貿易主義傾向が一段と強まり,米国ではローカル・コンテント法案,相互主義法案が議会に提出され,フランスは10月に通関文書のフランス語記載義務付け,VTR通関のポワティエヘの限定等の措置をとった。日・米・ECの間で農産物・鉄鋼等の二国間の貿易問題・紛争が発生したが,その多くがまだ解決を見ていない。

他方,非産油開発途上国は,世界経済停滞による輸出の伸び悩み,国内経済運営の不適切さ等のために,深刻な経済危機に直面している。82年の非産油開発途上国の経常収支赤字は870億ドル,開発途上国の中長期債務累積は6,260億ドルと見込まれており,先進国を含めた世界経済にとって大きな潜在的不安定要因となっている。

(ロ)このような中で,種々の多国間協議の場では,保護貿易主義の圧力に抗する努力が続けられた。5月のOECD閣僚理事会で「80年代の貿易問題」についての今後の作業の方向・方途が合意され,6月のヴェルサイユ・サミットでは参加国のガットに基づく自由貿易体制の堅持の意思が改めて確認された。さらに11月のガット閣僚会議では,ガット原則に沿わない貿易措置を慎むこと等を主眼とする政治宣言等について合意が見られた。

(ハ)南北問題では,懸案の国連包括交渉(GN)に関して,3月G77全体のエンドースメントを得たG77案が提案された。これを受けて6月のヴェルサイユ・サミットでは,参加国により米国に対する働き掛けが行われて先進7か国案が合意されたが,その中で米国は専門機関の独立性が保証される限り,との条件付きながらもGN本会議の開催に同意した。しかしながら,G77側はこれを受け入れられない旨表明し,新たにG77改訂案(10月G77閣僚会議で正式にエンドース)を提示した。その後も第37回国連総会で,GN発足に向けて協議が続けられたが,発足には至っていない。

(ニ)エネルギー分野では,82年においても石油需要の減退,高水準の備蓄の存在等のため,産油国側は販売不振に見舞われた。年初特にスポットの値崩れが顕著となった中で,OPEC側は価格維持のため3月臨時総会(ウィーン)を開き,原油基準価格を据え置き,生産上限に合意した。しかしその後夏場にかけて一部の国が割当量を上回る生産を開始したため,OPEC内部の意見対立が激化することとなった。この対立は7月の臨時総会でも解決されず,12月の総会においても生産上限(83年1,850万B/D)には合意したが,国別割当量については合意されるに至らなかった。

他方,先進諸国においては,エネルギー消費の節約・代替エネルギーの開発等の政策努力が進められた。5月のIEA閣僚理事会では,中・長期エネルギー情勢に伴う不確定要因を十分に認識しながら,よりバランスのとれたエネルギー・ミックス達成に向け今後とも政策努力を続けていくことが再確認され,6月のヴェルサイユ・サミットでも「エネルギーを節約し,また原子力及び石炭を含む代替エネルギー源の開発を促進するため,引き続き努力する必要性」が最終宣言の中にうたわれている。

(ホ)また包括的な新しい海の秩序を形成する目的で,73年から開始された第3次国連海洋法会議では,4月条約草案が採択されるに至り,12月にジャマイカで最終議定書署名会議が開催された後,海洋法に関する国際連合条約は署名のために開放された(我が国は83年2月署名)。

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