第8節 アフリカ地域

1. アフリカ地域の内外情勢

(1) 概観

(イ) ナミビア独立問題,チャド紛争,西サハラ紛争等,アフリカにおける懸案の政治問題の解決については,国連,アフリカ統一機構(OAU: Organization of African Unity)及び関係国などによる活発な問題解決のための動きが見られたが,いずれの問題も根本的解決を見るには至らなかった。

(ロ) 9月に中央アフリカで,12月にはガーナでクーデターによる政変があった。また,7月のガンビアにおけるクーデター未遂事件を契機に,82年2月,セネガルとガンビアとの間にセネガンビア国家連合が成立した。また,セイシェルでは,11月に現政権の転覆をねらった外人傭兵侵攻事件が発生したが未遂に終わった。

(ハ) アフリカ諸国の経済は,世界経済の停滞の影響もあり引続き低迷し,成長の減速,インフレ高進,産品輸出の伸び悩み,農業不振・食糧不足,失業,累積債務問題等諸種の著しい経済困難に直面している。

(2) 域内協力関係

(イ) 81年においては,OAUは種々のアフリカの政治紛争の解決に取り組んだ。6月にナイロビで開催された第18回OAU首脳会議では,モロッコが西サハラにおける住民投票を受諾したほか,チャドヘのOAU平和維持軍の派遣などを内容としたチャドに関する決議が採択された。10月のリビア軍のチャドからの撤退に伴い,11月にはOAU平和維持量が同地に派遣された。

他方,82年2月のOAU閣僚会議では,事務局長がポリサリオ(西サハラ解放戦線)のアラブ・サハラ民主共和国(RASD)を51番目の加盟国として,その代表の会議出席を認めたため,モロッコ等19か国が会議をボイコットするという事態が発生し,OAU内部の意見の相違を浮彫りにした。

(ロ) 更に,従来の地域協力機関(西アフリカ諸国経済共同体,南部アフリカ開発調整会議など)においても,その活動を拡大強化しようとの動きが見られた。また,12月,ルサカで開催された首脳会談において,78年以来検討されてきた域内18か国を対象とする束・南部アフリカ特恵貿易地域設立条約が署名された。

(3) 東部アフリカ

(イ) エティオピア

内政面では,概して一般政情と治安状況が安定化へ向かい,エティオピア労働者党設立準備委員会(79年12月設立)の組織作りも前年に引き続き進められたほか,既存農民団体に加えて婦人団体や青少年団体の全国的組織も結成された。また,政府による汚職摘発キャンペーンも81年後半から開始された。

他方,エリトリア州における紛争は,81年中は特別の展開は見られなかった。82年1月から,政府は,エリトリア再建キャンペーンに着手したが,2月から戦闘が続けられている。

経済面では,干ばつによる食糧不足,コーヒー国際価格の低迷及び前年に引き続いて大幅な石油輸入代金の支払いが続いたなどの理由により外貨不足に悩んだ。

外交面では,8月,エティオピアは,南イエメン及びリビアと共に三国友好協力条約を結んだ。また,メンギスツ議長が2月にソ連を訪問したほか,80年に引き続きソ連及び東欧諸国との間の要人往来が活発に行われた。

(ロ) ジブティ

6月に大統領選挙が行われ,アプティドン大統領が再選された。10月に大統領の率いる「進歩のための人民連合(RPP)」のみを合法とする法律が制定された。

5月のフランスの政権交代後も,同国には,フランスの軍事的プレゼンスが維持されることとなった。

(ハ) ソマリア

内政面では,80年に引き続きインフレ,外貨不足,難民問題及び食糧不足に悩んだが,80年10月に宣言された非常事態は,82年3月,内閣改造とともに解除された。

外交面では,バレ大統領は,6月,ケニア領への領有権主張を行わない旨表明したが,他方,エティオピアとの関係は依然として改善が見られなかった。加えて,8月,リビア・エティオピア・南イエメンの三国友好協力条約締結直後,ソマリアはリビアと断交した。

一方,82年3月,バレ大統領は,米国,カナダ及びフランスを歴訪し,欧米諸国との関係強化に努めた。

(ニ)ケニア

モイ大統領は,部族間の融和を図るとともに,6月及び82年2月の2度にわたり内閣改造を行って権力基盤の確立を図り,内政は安定的に推移した。

経済面では,80年に引き続いて大幅な石油輸入代金の支払いが続いたことに加え,輸出品の農産物価格の低迷から,国際収支は悪化した。

このため,2度にわたり平価切下げを実施し,国際収支は若干改善された。80年に引き続いてケニアが直面していた食糧危機については,緊急輸入と降雨に恵まれたため,当面の危機は回避された。

モイ大統領は,6月のOAU首脳会議の議長として同会議を成功裏に収め,また,OAU議長としてチャド問題,西サハラ問題,ナミビア問題等OAUの直面する諸問題解決に活躍した。更に,1月にウガンダ,2月にインド,3月にナイジェリア,ガーナをはじめ精力的に外国を歴訪した。

(ホ) タンザニア

内政面では,81年においても,近年継続している生産の減退,インフレ,失業,国際収支の悪化等国内経済の悪化に苦しんだ。12月9日の独立20周年記念日のニエレレ大統領の国民に向けるメッセージは,苦境脱出のため国民に更に一層の勤労,耐乏生活を求める呼び掛けに終始した。また,2月にはタンザニア航空機のハイジャック事件が発生し,2日後に犯人が英国で投降するという形で収拾された。なお,本件事件の背後には,組織的なものはなかった模様である。

他方,外交面においては,活発な展開が見られ,ニエレレ大統領は,3月に訪日したのをはじめ,10月には英連邦首脳会議続いて南北サミットに出席し,経済困難に苦しむ南側諸国の代表として,強く北側の理解と協力を求める発言を行った。

このような第三世界に対する貢献により,ニエレレ大統領には,第2回第三世界賞及び世界平和賞が授与された。

(ヘ) ウガンダ

オボテ大統領は,80年12月の政権復帰後の1年間を治安の回復と経済の復興を二大目標として,政策を推進し,政権発足1年目の困難な時期を何とか乗り切った。治安面では,反オボテ・ゲリラ勢力の活動が活発化したものの,軍・警察力の強化により対処した。また,経済再建については,新経済政策-(1)変動相場制採用,(2)物価・金利の適正化,(3)世銀・IMF・西側諸国からの援助一の導入による経済再建計画を発表し,これを実施に移した。

外交面では,1月に対ケニア首脳会談,次いでケニア,タンザニア,ザンビアとの4首脳会談が行われた。また,オボテ大統領は,4月にザイール,スーダン訪問,6月のザイールでのウガンダ・ザイール・スーダン首脳会談及びケニアでのOAU首脳会議に参加,同月タンザニア訪問,10月末から11月初めにかけてインド及び北朝鮮を歴訪するなど極めて活発な外交を展開した。

(ト) セイシェル

81年は,電力,農業,厚生,離島開発等のバランスのとれた発展を目指す5か年開発計画(81年~85年)の初年度であり,3月に通貨の15%切上げが行われたほか,基礎物資の統制価格引下げ,輸入品に対する価格統制の導入など一連の経済施策が実施された。

11月には,省庁組織改編に伴う内閣改造が行われた。

11月,外人傭兵によるクーデター未遂事件が発生した。国連は,同国の要請により,本件事件の背後関係等を調べる安保理調査団を82年1月に同国に派遣した。なお,我が国もこの調査団に参加した。

(チ) コモロ

アブダラ大統領は,7月及び82年1月の2度にわたり内閣改造を行うとともに,82年3月には連邦議会の総選挙を実施した。総選挙の結果,アブダラ大統領派が圧倒的な優勢で議席を占めた。

(リ) マダガスカル

ラチラカ大統領は,82年1月,5年ぶりに内閣改造を行い,経済関係閣僚の総入替えを行うことにより,不振の続いている経済の再建に新たに取り組むとの姿勢を見せるとともに,82年12月に予定されている大統領選挙に立候補することを宣言して,政権の維持に強い意欲を表明した。

外交面では,同大統領は,9月にリビア,アルジェリア,インド,ソ連及びフランスを歴訪した。

(ヌ)モーリシァス

モーリシァスにおいては,西欧型民主主義の体制下で,内政・外交共に安定的に推移した。また,12月の国会議員の任期満了に伴い,国会が解散された。同総選挙は,82年6月に行われる予定であるが,与党・労働党が引続き政権を維推することになるかどうかが注目された。

(4) 中部アフリカ

(イ)ザイール

政権担当16年目に入ったモブツ大統領は,81年を通じ3回(2月,4月,10月)にわたる内閣の改造,軍上層部の人事異動,政治局の改組,一部中央委員の除名等を行い,指導制の引締めを行った。

なお,ザイール経済が依存する銅,コバルトの国際市況は低迷を続け,外貨不足は改善されず,依然として経済再建へのきっかけをつかむに至らなかった。

(ロ) ルワンダ

81年における同国外交は,モブツ=ザイール大統領(8月),バガザ=ブルンディ大統領(8月),モイ=ケニア大統領(12月)等のルワンダ訪問に見られるように,近隣諸国との関係強化を図るべく活発な活動を展開した。内政においては,12月にハピヤリマナ政権下で初の国民議会選挙が行われ,78年12月の憲法制定国民投票等に続き,「民主化」へ大きく前進した。なお,10月にはンガリュキイントゥワリ外務・協力大臣が訪日し,鈴木総理大臣,園田外務大臣をはじめ我が国政府要人と会談した。

(ハ) ブルンデイ

パガザ政権は,将来の民政移管への布石として11月に新憲法を採択した。新憲法においては,(イ)国民の権利・義務を明記し,(ロ)統治機構として国民進歩同盟(UPRONA)の一党独裁と大統領制(任期5年,普通選挙により再選可能)を採用した。

(ニ) コンゴー

5月にンゲソ大統領はソ連を公式訪問し,両国間で友好協力条約の調印を行ったが,同時に,外交関係の多角化にも意を用いている。経済面では,いかなる国からも経済援助を受けるという現実主義路線を推進している。

(ホ)ガボン

8月に憲法が改正され,大統領の権限を一部縮小し,首相をこれまでの大統領の補佐役から内閣の首班に据えるという改正措置がとられた。

外交面では,ボンゴ大統領は,米国及びEC諸国を訪問する一方・近隣諸国との関係も重視し,なかでも,12月にリーブルヴィルで開かれた中央アフリカ関税・経済同盟(UDEAC: Union douaniere et economique de 1'Afrique centrale)元首会議に際しては,中央アフリカ諸国の経済共同体設立協議のため,ザイールほか6か国の元首をオブザーバーとして招請するなど活発な外交活動を展開した。

(ヘ) 中央アフリカ

ダッコ大統領の複数政党制の導入を含む民主化路線は,反政府活動の活発化に伴い破綻を来し,同大統領は,9月に無血軍事クーデターにより退陣を余儀なくされた。

政権を掌握したコリンパ将軍は,国家再建軍事委員会を設立し,自ら同委員会議長に就任するとともに国家元首となった。コリンバ軍事政権は,憲法を停止し,政党活動をも禁止して治安の維持と経済再建に努めた。なお,82年3月にはクーデター未遂事件が発生した。

(ト) チャド

10月下旬,チャド暫定連合政府(GUNT)は,80年12月以来チャドに駐屯していたリビア軍の撤退を要請し,同軍に代わってOAU平和維持軍の派遣を得て,チャド情勢は一応正常化の兆しが見えた。

しかし,同国東部地域を中心に元国防相が率いる北部軍(FAN)が勢力を盛り返し,他方でGUNT内部の足並みに乱れが見られるなど,とんチャド情勢は再び混沌化の様相を呈してきている。

82年2月,OAUは,ナイロビでチャド問題に関する首脳会議を開催し,同問題の平和的かつ恒久的な政治解決のためのスケジュールを決定したが,GUNTはOAU決議の受入れを拒否している。

(5) 西部アフリカ

(イ) ナイジェリア

79年10月の民政移管とともに内政・外交面で順調なスタートを切ったシャガリ政権は,2年目に至り政治・経済面で難しい問題に直面した。

経済面では,世界的な石油需給の大幅緩和により原油生産が激減した。同国経済の要である原油生産は,81年通年平均で144万B/Dと対前年比約3割減となり,外貨収入,外貨準備高(81年末で約42億ドル)も急減した。このため,82年3月,同国は,輸入信用状(L/C)発給等の見合せ措置を余儀なくされた。

内政面では,政府与党と連合していたナイジェリア人民党(NPP)が離脱し,同党を含む野党4党が83年の大統領選等を目指して統一野党を結成する動きが生じた。

他方,外交面では,アフリカ第一主義の立場からOAU等の場においてナミビア独立問題,チャド問題,西サハラ問題等アフリカの地域紛争の解決のため引続き活発な外交活動を行った。

(ロ) ガーナ

12月末,ローリングス元空軍大尉によるクーデターが発生し,79年9月の民政移管によって政権の座についたりマン大統領は失脚した。

クーデター後,同大尉を議長とする暫定国家防衛評議会が設置され,新政権は,一部を除く各省の長官を任命し政権の運営に当たっている。しかしながら,同国の解決しなければならない緊急課題である国内経済の建直しについては,未だ具体的な中長期政策は発表されていない。また,対外関係では,同政権は非同盟中立主義を掲げているが,在りビア及びキューバ大使館の新設,ソ連,東欧諸国及びキューバヘの使節団の派遣等新たな外交の方向を打ち出しつつある。

(ハ) 象牙海岸

81年を通じ,内政はさしたる問題もなく推移した。外交面では,フランスにおけるミッテラン社会主義政権の誕生に対応して両国関係の再構築に努め,また,南北サミットを念頭において,同国の主要輸出産品であるコーヒー,カカオ等一次産品の国際価格の安定のため諸外国へ協力要請を行った。

経済面では,主要輸出産品価格の低迷と輸入工業品の引き続く高騰等により,81年の国際収支は1,113億フラン(CFA)の赤字を計上するなど,かつて経験したことのない景気後退の年であった。他方,石油生産量については,82年150万トン,83年250万トンを見込み,83年には60万トンの精油を西アフリカ近隣諸国に輸出できる見通しが立てられている。

(ニ) リベリア

8月の副国家元首ウェセンを主謀者とするクーデター未遂事件に伴い,一連の内閣改造が行われる等内政面で若干の波乱も見られた。

外交面では,近隣アフリカ諸国を含むすべての国との友好関係の増進を図っており,特に米国とは伝統的に緊密な関係にある。

(ホ) シエラ・レオーネ

スティーブンス大統領は,9月に内閣の一部改造を行うとともに,12月末には82年4月以降に総選挙を実施する旨発表した。

経済面については,同国の経済状況の悪化から,8月以降ストライキの全面禁止及び国家非常事態宣言が行われた。

(ヘ) ギニア

セクー・トゥーレ大統領は,82年3月に一部の閣僚を罷免したほか,82年2月にはOAU首脳会議の83年コナクリ開催を巡り騒擾事件が生じたが,内政はおおむね平静に推移した。

外交面においては,81年に続きイラン・イラク紛争調停委員会,OAUチャド特別委員会などの議長国あるいはメンバー国としての活躍が見られたのをはじめ,積極的に元首外交を展開し,同時に近隣諸国との関係強化に努めた。

(ト) ギニア・ビサオ

80年11月にクーデターにより政権を掌握したヴィエイラ革命評議会議長は,81年においては暫定政府を組織するとともに,新憲法の起草に着手する等政権の安定に努めた。

(チ) セネガル

独立以来の懸案であったセネガンビア構想は,7月のガンビアにおけるクーデター鎮圧のためのセネガル軍派遣を契機として急速に進展し,82年2月,隣国ガンビアとの間にセネガンビア国家連合が成立した。同国家連合は,セネガル,ガンビア両国が各々主権と独立を維持しつつ,軍隊,経済,外交,通貨等の面で統合若しくは協調していくものである。

内政面では,81年就任したディウフ大統領の下で更に民主化が進められたが,特に4月の憲法改正により政党数の制限が撤廃されたため,その後多くの政党の出現を見た。

外交面では,セネガンビア国家連合の創設のほか,82年2月にアンゴラと外交関係を樹立した。

経済面では,81年の農作物生産は数年来の不作から脱したものの,主要輸出産品である落花生については世界市況が芳しくなかったことの影響を受けた。

(リ) モーリタニア

ハイダラ政権は,4月に文民内閣を終結せしめ,軍人が半数を占める内閣改造を行った。6月末には,3月以来断絶していたモロッコとの外交関係を修復した。なお,3月及び82年2月にはクーデター未遂事件が発生した。

(ヌ) ニジェール

ニジェールは,近年ウラン開発を中心として着実な経済発展を遂げてきたものの,80年は黒字だった国際収支も,81年にはウラン価格の低迷等により再度赤字へと転落した。

外交面では,旧宗主国フランスにおけるミッテラン政権の誕生に対応して,両国関係の再構築に努めるとともに,隣接するリビア,アルジェリアとの友好関係の維持に努めた。

(6) 南部アフリカ

(イ) 南アフリカ共和国

1月に白人,カラード,アジア人から成る大統領評議会がアパルトヘイト政策の見直し作業を開始し,注目されたが,特段の成果は挙げ得なかった。4月の総選挙において,右派が勢力を伸ばしたこともあり,ボータ首相の改革政策は,全般的に足踏みを余儀なくされた。他方,80年のサソール爆破事件に典型的に見られたような破壊活動は,81年にも一層増加の傾向を示し,随所で同種の事件が頻発した。また,12月には,シスカイが第4番目のいわゆる独立ホームランドとなった。

経済は,80年後半から景気の過熱が懸念され始め,81年初めには,公定歩合の引下げが行われた。81年下半期には,金価格の下落,鉱物資源の輸出停滞等を主因として,景気の下降傾向が顕著となった。

外交面では,強硬姿勢が目立った。1月にモザンビーク所在のアフリカ民族会議(ANC)本部を攻撃したのをはじめ,8月以降は,南西アフリカ人民組織(SWAPO: South West Africa People's Organization)追跡攻撃を理由に,アンゴラ領への軍事侵攻を強化した。ナミビア問題については,早期解決を是とするレーガン米政権から積極的な働きかけを受け,基本的には,これに歩調を合わせる姿勢を見せた。

(ロ) ジンバブエ

内政面では,1月の内閣改造,10月のZIPRA(ヌコモ派)とZANLA(ムガベ派)の両元ゲリラ軍及び旧ローデシア軍の新国軍への統合等により,ムガベ首相の指導力が強化された。また,ムガベ首相は,7月ごろから一党制国家への動きを示唆し始めたが,これに対しては,ZAPU党やRF党等から批判の声があがり,12月にほ,ZANU-PF与党本部等の爆破事件が発生した。

経済面では,南アによる経済的締めつけ,引き続く白人の流出による技術者不足,輸送力の低下等があり,81年の経済成長は,前年に比し大幅に低下した。

対外面では,対南ア関係の悪化が見られたが,南部アフリカ開発調整会議に積極的に参加するなど,前年に引き続き近隣諸国との政治・経済関係強化が図られた。また,ムガベ首相は,日本,中国等のアジア諸国歴訪(5月)を皮切りに北欧諸国訪問(9~10月)や東欧諸国訪問(11月)を行い,積極的な訪問外交を展開した。また,ソ連との外交関係樹立(2月)及び第5旅団創設のための北朝鮮軍事顧問団の受入れ(8月)が行われた。

(ハ) ナミビア

81年は,ナミビア独立促進の国際的動きが国連や西側コンタクト・グループの活動を中心に活発化した。その結果,地域内諸政党が,独立に反対しないDTA(民主ターンハレ同盟)等と独立に反対するAKTUR(ターンハレ原則維持戦線),HNP(真正国民党)等に大きく二つに分かれた。また,独立の具体的手続問題の検討に入るとDTA内部でも対立が顕在化し,カラングラ総裁とマッジ議長との対立は,82年2月,カラングラ総裁及びオバンボ族関係メンパーがDTAから脱退する事態に発展した。

(ニ) ザンビア

81年には,経済的困難等を背景に党・政府と労働組合の対立が見られたが,カウンダ大統領による硬軟両様の措置が功を奏し,81年後半には事態は鎮静化に向かった。

食糧不足は,好天候に恵まれやや緩和され,銅価格の低迷による外貨不足も,5月にIMFから10億ドル相当の借入れに成功し,当面の経済危機を乗り切る見通しを得た。

外交面では,おおむね非同盟・中立路線が貫かれたが,6月の米国大使館館員の国外追放に見られるごとく米国との間で緊張が見られた。

(ホ) アンゴラ

81年においては,南ア軍によるアンゴラ領侵攻(SWAPOに対する攻撃)が引続き繰返し行われ,また,国内の一部にアンゴラ完全独立民族同盟(UNITA)などの反政府勢力が活動しており,依然国内情勢は不安定に推移した。

経済情勢は,政情不安,人材不足,インフラ部門の不備,資金不足等で悪化を続け,石油生産を除き,独立前の経済水準を回復するという目標を達成できなかった。

外交面では,ソ連等東側との関係緊密化が進められた一方で,12月にはドス・サントス大統領が,米国に対して話合いを呼び掛けるなど西側に対しより柔軟な姿勢をとる動きが見られた。

(ヘ) モザンビーク

マシェル政権は,国内政治・経済運営の困難に直面しつつも,社会主義国家建設に向かっての前進を国民に繰返し呼び掛け,10月の第8回人民集会において,後進性から脱却するための10か年計画(81年~90年)を発表した。

同国と東側諸国との従来の関係に特に変化はなかったが,81年には新たな対西側接近の姿勢が見られた。すなわち,10月にはマシェル大統領がイタリアを訪問し,11月にはエアネス=ポルトガル大統領がモザンビーク独立後西欧の元首として初めて同国を公式訪問した。

なお,1月の南ア国防軍によるマプート近郊のANC本部攻撃に起因して,3月,米国大使館員追放事件が発生し,米国の援助停止を招いたが,10月に米国が自発的に援助を再開したため,事態は修復された。

2. 我が国とアフリカ諸国との関係

(1) 新たな独立国との関係

80年4月に独立したジンバブエについては,我が国は独立と同時に同国を承認したが,81年5月には在ジンバブエ大使館を開設した。また,ジンバブエ側は,82年3月に在京ジンバブエ大使館を開設した。

(2) アフリカ諸国との人的交流

3月,ニエレレ=タンザニア大統領が国賓として訪日した(共同コミュニケは資料編参照)のをはじめ,5月にはムガベ=ジンバブエ首相が非公式に訪日する等アフリカから要人の訪日が相次いだ。また,我が国からは,6月から7月にかけて,愛知外務政務次官がテュニジア,ザンビア,ジンバブエ,ザイール,象牙海岸,ガーナ及びリベリアの7か国を公式訪問した。

(3) 南部アフリカ問題に関する協力

我が国は,南部アフリカにおける人種差別,植民地支配の犠牲者の救済及び教育訓練を目的とする国連南部アフリカ関係基金に対し81年には43万ドルの拠出を行った。

(4) アフリカ難民問題に対する協力

4月のジュネーヴにおけるOAU及び国連の共催によるアフリカ難民援助国際会議に愛知外務政務次官が我が国を代表して参加し,2,000万ドルの拠出プレッジを行った(政務次官演説は資料編参照)。このうち,81年度中に約1,300万ドルの援助を実施した。

(5)アフリカ諸国に対する経済・技術協力

我が国の対アフリカ経済協力は,二国間政府開発援助について見れば,80年は2億2,291万ドル(支出純額ペース),81年は2億1,053万ドルであった。

要人往来

貿易関係

民間投資

経済協力(政府開発援助)>

 

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