第7節 中近東地域

(1) 中東和平を巡る動き

(イ) サダト=エジプト大統領の暗殺(10月6日)後,キャンプ・デービッド合意に基づくエジプト・イスラエル和平過程に及ぶ影響が懸念されたが,後継者のムバラク大統領及びベギン=イスラエル首相は,共に同和平過程を堅持する旨表明し,従来の路線が継続されることとなった。これに先立つ9月23日,ベギン・サダト両首脳は,80年5月以来中断していたパレスチナ自治交渉の再開に同意し,以後月1回,閣僚,事務レベルで交渉が行われた。しかし,両国間には自治の対象及び範囲等を巡り基本的考え方の相違があり,また,具体的には,「自治評議会」の設立を巡り交渉が難航し,大きな進展はなかった。

また,イスラエル及びエジプトの両国は,8月3日,82年4月に予定されているシナイ半島完全返還後の安全を確保するため設置される多国籍軍・監視団(MFO: Multinational Force and Observers)の設立議定書に調印した。この結果,米国,EC諸国及び豪等11か国がMFOに参加することとなった。この過程で,EC諸国は,当初パレスチナ人の権利を主張した80年6月のヴェニス宣言に基づく参加を望んでいたが,ベギン首相がこれを承知しなかったため,結局は,イスラエル・エジプト平和条約の文書のみに基づき,いかなる政治的条件も付さないことで派遣が決定された。

(ロ)他方,アラブ諸国は,8月にファハド=サウディ・アラビア皇太子が発表した中東和平に関する8項目提案(資料編参照)をアラブのコンセンサスとすべく活発な動きを見せたが,結局イスラエルの生存権を承認するとも受け取られる第7項を巡り,シリア等を説得することができず,同提案を中心に討議することになっていた第12回アラブ首脳会議(モロッコのフェズ)は,同提案の検討を行わないまま無期延期された。

(ハ) イスラエルは,4月からレバノンのミサイル危機を巡りシリアと緊張関係にあったが,6月に突然イラク原子炉を爆撃破壊し(本件に関する園田外務大臣談話は資料編参照),7月にはパレスチナ解放機構(PL0: Palestine Liberation Organization)の動きを事前に牽制するとしてベイルート,南レバノンのパレスチナ・キャンプを爆撃し,更に,12月,シリア領ゴラン高原を併合する法的措置をとる等,次々と国際社会の基本的ルールに抵触する行為に出て,アラブ諸国のみならず,国際世論の非難を浴びた。また,82年に入り,イスラエルは,西岸の民選3市長を解任する等パレスチナ住民の意向を無視する挙に出たため,西岸・ガザにおいて一連の騒擾事件が生起した。

(ニ) レーガン米政権は,発足以来キャンプ・デービッド合意を基本とする中東和平政策を維持しつつ,他方においては,中東諸国を外部勢力の脅威から防衛するとの強い姿勢を打ち出しており,かかる中東和平政策と安全保障政策は矛盾するものではなく,相互に補完するものであるとの立場をとっている。

かかる観点から,米国は,サウディ・アラビアヘの空中警戒管制システムの売却を決定するとともに,エジプト等親米的アラブ諸国との共同軍事演習(ブライト・スター)を行った。また,7月にはハビブ特使の精力的な努力及びサウディ・アラビア等の尽力によりレバノンにおけるイスラエル・PLO間に事実上の停戦合意を成立せしめ,更に82年1月及び2月には,パレスチナ自治交渉の停滞を打開すべく,ヘイグ国務長官が中東諸国を歴訪した。

(2) 湾岸,イラン及びアフガニスタン情勢

(イ) 79年のイラン革命,アフガニスタンに対するソ連軍の侵攻などのため,湾岸情勢は極めて流動的なものとなった。

こうした情勢の中で,宗教的,社会的,歴史的更に文化的に共通基盤に立ち共に王制(首長制)をとる湾岸6か国(アラブ首長国連邦,バハレーン,サウディ・アラビア,オマーン,カタル,クウェイト)は,互いの結束を強化するために,5月に湾岸協力理事会(GCC: Gulf Cooperation Council)を正式に発足させるための第1回首脳会議をアブダビにおいて開催した(声明は資料編参照)。

GCCは,11月にリヤドにおいて第2回首脳会議(コミュニケは資料編参照)を開催したほか・蔵相会議外相会議,工業相会議石油相会議国防相会議内相会議等主要閣僚レベルの会合を開催し,政治,経済その他広範な分野における協力増進について活発な討議を行った。経済分野においては,第1回首脳会議において経済統合促進が合意されたが,第2回首脳会議において,輸出入の自由及び関税の免除を定める経済協定が調印された。更に,12月のバハレーン事件を契機に,82年2月の内相会議では,GCC治安協力協定の締結についても検討が行われ,治安面での協力具体化の動きが見られた。今後,軍事面での協力の動きが注目される。

(ロ) 80年9月に戦闘が拡大したイラン・イラク紛争は,未解決のまま推移した。

戦闘は,81年前半を通じおおむね膠着状態が続いていたが,9月以降,イラン側の攻勢が活発化し,イラン側は被占領地のかなりの部分を回復した。しかし,82年3月現在,戦闘は依然イラン領内で行われており,イラク側は,ホラムシャハルなどのイラン領内の拠点を占領している。

81年前半において,国連,非同盟,イスラム諸国会議などの調停活動が行われたが,いずれも成功に至らなかった。82年初めから,3月にかけて,これらの調停活動が再び活発化したが,82年3月現在,何の進展も見られていない。

12月,バハレーン政府は,イランが関係したグループのバハレーン政府転覆計画を未然に発見した旨発表したが,これを機に,サウディ・アラビアなどアラブ諸国の中で本紛争に対し中立の立場をとってきた湾岸諸国も,イラク支持の立場を明らかにするに至った。

(ハ) 79年12月に始まったソ連軍のアフガニスタン駐留は,引続き継続した。アフガニスタン各地でソ連軍・カルマル政権側と反政府勢力との戦闘が続き,パキスタン等周辺諸国は,大量のアフガニスタン難民を受け入れ,大きな困難に直面する状態が続いた。

アフガニスタン問題解決のため,当初から種々の調停努力がなされたが,81年においてもデ・クエヤル国連事務総長個人代表がアフガニスタン,パキスタン両国を2度にわたり訪問し,82年2月,その後任としてコルドベス国連事務次長が任命された。また,問題解決のため81年にEC提案(資料編参照),アフガニスタン提案,イラン提案などが行われたが,いずれも進展を見なかった。

(3) 各国の情勢

(イ) エジプト

(a) 内政面では,サダト体制に対する野党及び宗教界,過激派等の批判が高まり,9月,政府側は反体制派の大量検挙を行ったが,10月6日,サダト大統領は第4次中東戦争記念パレード観閲中,イスラム過激派兵士によって暗殺され,ムバラク副大統領が国民投票を経て後任大統領に就任した。ムバラク大統領は,国内過激派の取締りを強化する一方,反体制派の釈放,野党との対話など国民間のコンセンサス作りを進めるとともに,82年1月内閣改造を行った。

(b) 外交面では,サダト大統領後も引続き対米協調,対イスラエル和平及びキャンプ・デービッド合意の路線を機軸とする外交政策を維持するとともに,ムバラク大統領は,82年1月末から2月初めにかけて米国及び欧州諸国を歴訪した。イスラエルとの国交正常化は進んだが,中断されていたパレスチナ自治交渉は,9月,サダト大統領の訪米後再開されたものの,イスラエルとの間に大きな立場の相違があって行詰り状態を続けた。エジプトのアラブ諸国との外交関係は,スーダン及びオマーンを除き引続き断絶状態にあったが,ムバラク大統領は特に報道機関によるアラブ諸国非難を停止し,アラブ諸国との関係改善に配慮した。

(c) 経済面では,石油収入の増大などから一時改善された国際収支は,石油価格の下落などのため再び陰りを見せ,また,慢性的な政府の財政難,人口増加,食糧,住宅不足などの諸問題が未解決のままムバラク政権にとって大きな課題として残された。

(ロ) シリア

(a) 内政面では,11月に人民議会の選挙が実施され,第2次カスム内閣が発足したが,主要閣僚は留任した。また,4月ごろからモスレム同胞団を主体とする反体制派により,政府機関等を対象とするテロ行為が多発しており,82年2月には北部のハマ市等において大規模な騒擾事件が発生した。

経済面では,国防費の大幅な伸び等により依然赤字財政が続き,国内の流動性が更に増加した。国際収支は,輸入抑制措置等もあり,81年後半には好転した。

(b) 4月のレバノン内紛の再燃を巡り,シリアはベッカー高原に地対空ミサイルを搬入してイスラエルと対立し,5月のアラブ緊急外相会議ではアラブ諸国の全面的支持を取り付けた。11月のモロッコのフェズにおけるアラブ首脳会議では,サウディ・アラビア和平8項目提案が検討される予定であったが,アサド大統領の突然の欠席もあり,同会議は延期された。12月にイスラエルがゴラン高原併合措置をとった際には,この措置を違法として国連安全保障理事会,国連総会に上程した。また,81年末から82年にかけては,アサド大統領,ハッダーム外相が相次いで湾岸諸国を歴訪した。

(ハ) ジョルダン

(a) 内政面では,年初にバドラン首相暗殺未遂事件があったほか,モスレム同胞団による爆破事件等もあったが,基本的にはフセイン国王の円熟した政治手腕の下で政情は平穏に推移し,経済的にも順調な発展を見た。

(b) 外交面では,米国等西側諸国及び湾岸諸国との伝統的な友好関係を堅持しつつ,他方でソ連とも一定の友好関係を保っている(5月にはフセイン国王の訪ソが実現)。イラン・イラク紛争では,イラク支持を明らかにしており,82年初には小規模な義勇軍がイラクへ派遣された。中東紛争については,フセイン国王はサウディ・アラビア和平8項目提案を支持しており,11月の訪米の際にもレーガン大統領に対しキャンプ・デービッド合意一点張りの中東和平政策の転換を要請した。

(ニ) レバノン

(a) 内政・外交面では,4月のザハレ市におけるキリスト教徒右派とシリア軍の衝突を発端として,シリア軍による国内への地対空ミサイル搬入が行われ,それを巡るイスラエル・シリア間の緊張が高まり,米国のハビブ特使等による調停努力がなされた。7月には,PLOによる北部イスラエル砲撃,イスラエルによるベイルート等の爆撃により,イスラエル・PLO間に大規模武力衝突の可能性が高まったが米国及びサウディ・アラビアの調停により停戦が成立した。その一方で,同国内諸派間の対立解消のため,サウディ・アラビア,クウェイト,シリア,レバノンから成るアラブ履行委員会で協議が継続している。しかし,81年末ごろから南レバノンにおいて,イスラエル・PLO間の緊張が再度高まってきている。

治安状況は依然として悪く,従来の左右両派間の対立に加え,左派諸派間の衝突も多発し,外交団を対象とするテロも増大している。

(b) 経済面では,経済活動は80年を上回ったが,インフレが高進した。

(ホ) リビア

(a) 内政面では,カダフィ大佐の「第三世界理論」((あ)イスラム,(い)アラブ民族主義,(う)人民革命による直接民主主義,(え)あらゆる搾取の否定(社会主義)の4点に集約される)に基づく人民委員会の設置が完了した。経済面では,私的経済活動の廃止の一環として最後まで残されていた私的小売業についても,各種の人民経済委員会として再組織される目途がついたこと等直接民主主義制度確立に向けて更に一歩前進が図られた。

(b) 外交面では,米国による在米リビア人民事務所の閉鎖とリビア人外交官全員の国外追放(5月),シドラ湾事件(8月),在りビア米国人の引揚勧告及び米国人のリビア渡航禁止措置(12月),対リビア経済制裁措置(82年3月)等一連の対リビア措置によって両国関係は悪化の一途をたどったが,その他の西側諸国とは経済関係を中心に通常の関係が維持された。サウディ・アラビア,イラク,モロッコ,テユニジアとの復交,チャド撤兵(11月)等外交路線の穏健化の兆しが見られた一方,カダフィ大佐のソ連訪問(4月)やリビア・南イエメン・エティオピア三国軍事同盟の締結(8月)等ソ連及び親ソ派諸国との関係も強化された。

(ヘ) スーダン

(a) 内政面では,深刻な国際収支困難から生活基本物資の不足が顕著となり,5月には鉄道ストライキが発生した。ニメイリ大統領は,11月に内閣改造を行うとともに,強力な新経済政策を発表した。この新政策の結果,砂糖等の輸入品物価が大幅に上昇し,82年初に若干の社会不安が発生したが,その後鎮静化した。

(b) 外交面では,米国等西側諸国との友好関係を強化しており,11月には米国と共同軍事演習を行った。また,エジプトとの関係は一層緊密化し,両国大統領の相互訪問も行われている。他方,リビアとの関係は冷却化しており,9月にはリビア機によりチャド国境付近のスーダン領内爆撃が行われ緊張が高まったが,チャドの安定化とともにスーダン・リビア関係も一応平穏化した。

(ト) トルコ

(a) 内政面では,軍事政権は治安の回復と経済再建に一応の目途が立ったとして,不測の事態が生じない限り82年秋に新憲法制定のための国民投票を実施し,83年末または84年初頭には民政に移管するとの方針を発表した。

(b) 外交面では,良好な対米関係が維持された一方,人権抑圧,言論統制等が行われているとする西欧諸国の軍政非難が相次ぎ,トルコ・ヨーロッパ関係はぎくしゃくした状態が続いている。ソ連及び東欧諸国とは,伝統的な善隣友好の精神の下にそれなりの関係が維持された。

(c) 経済面では,80年に引き続いてOECDを中心とする特別援助,債務救済などの国際規模での対トルコ支援が継続された。この結果,トルコ経済は3年ぶりにプラスの成長率(81年,44%)を記録した。

(チ) イスラエル

(a) 内政面では,6月の総選挙の結果,ベギン首相が率いるリクード党が1議席差で労働党に辛勝し,8月に第2次ベギン内閣が成立した。

ベギン政権は,三つの宗教・右翼政党との連立政権であり,全般的に保守色を強めた。

(b) 外交面では,4月にシリアのミサイル事件が緊迫化した後,6月にイラクの原子炉を爆撃し,更に,7月にはPLOの動きを事前に牽制するためベイルートのパレスチナ・キャンプを爆撃し,12月には,シリア領ゴラン高原を併合する等対外強硬政策に出たため,国連安保理で非難決議(イラク原子炉爆撃に関する決議487については資料編参照)が採択される等国際社会から非難を浴びた。

エジプトとの関係では,9月にパレスチナ自治交渉が1年余ぶりに再開され,数度にわたり閣僚・事務レベルで交渉がもたれたが,「自治」を巡る両国の基本的考え方の相違のため停滞したままである。他方,サダト大統領暗殺後も,ベギン首相及びムバラク大統領共にキャンプ・デービッド合意に基づく和平過程の遵守を約し,82年4月に予定されているシナイ半島のエジプトヘの完全返還実施に向けて,8月にエジプト・イスラエル両国間で調印された議定書に従い,米国・EC4か国等11か国が多国籍軍・監視団に参加した。

米国との間では,11月,戦略協力の大筋に関する合意がなされたが,ゴラン高原併合に批判的立場をとっている米国により具体的話合いは一時停止の状態におかれている。

(c) 経済面では,アリドール蔵相が選挙政策として大幅な補助金政策を実施したこともあり,81年のインフレ率は101.5%に達し,3年連続して三けたを記録した。

(リ) アルジェリア

(a) 内政面では,党政治局の改組,人事刷新を通じ,ブーテフリカ元外相等の政敵の排除を巧みに行い,シャドリ体制の基盤を一段と強化した。一方,内政上の重要な課題となっているペルベル系国民の処遇問題に対し柔軟な対応を行う等対話を重視し,国民相互間の融和を促進するという現実的かつ穏健な路線を打ち出した。

(b) 外交面では,6月のシャドリ大統領のソ連訪問,11月末のミッテラン仏大統領のアルジェリア訪問をはじめ,欧米諸国及び社会主義諸国との間で活発な要人の往来が行われ,非同盟主義に立脚した多角的外交が展開された。

(c) 経済面では,国際石油市場の需給緩和に伴う原油の減産,天然ガス価格交渉の難航等困難な状況に置かれた。なお,12月の党中央委員会において,国家全体の社会主義的発展に寄与する限り私的部門を奨励し助成するとの方針を打ち出したことは,経済運営上の変化の兆しとして注目される。

(ヌ) モロッコ

(a) 内政面では,6月に基礎食糧品の値上げに触発されたカサブランカ騒擾事件が発生したが,大事件に発展することなく収拾された。11月には大幅な内閣改造(首相留任)が行われ,厳しい経済,軍事情勢下において西サハラ紛争を錦の御旗として,国内団結の気運を維持した。

(b) 外交面では,フランス,米国など西欧諸国及びアラブ穏健諸国との関係を強化した。西サハラ問題については,6月のアフリカ統一機構(OAU: Organization of African Unity)の場で国王が住民投票の受諾を表明した。このモロッコの動きの結果,OAU履行委員会が和平提案を行う等同問題について新たな動きが見られた。

(c) 経済面では,石油輸入代金の支払いと国防負担の増大,更には独立以来最大の干ばつにより厳しい状況が続いた。

(ル) チュニジア

(a) 内政面では,78年1月の「暗い木曜日事件(労働総同盟による暴動事件)」に関係した元書記長等の労組幹部及び政治犯の釈放,最低賃金の引上げ等を通じ国内融和が一層推進された。また,4月の立憲社会党臨時党大会で打ち出された多党主義に基づき,同党以外の政治団体の活動が公認され,11月には複数の政治団体が参加した初の国会議員選挙が行われた。他方,ブルギバ大統領(78歳)の健康状態に関連して後継者問題が注目され始めた。

(b) 外交面では,経済・安全保障面での米国,フランスとの緊密な関係を維持する一方,資金協力面でサウディ・アラビア,クウェイト等の湾岸諸国との関係を強化したほか,ガフサ事件(80年1月)後悪化していたリビアとの関係に修復の動きが見られた。

(c) 経済面では,失業問題はあるものの実質経済成長率6%強を達成し,一応順調な経済運営が行われた。

(ヲ) アフガニスタン

(a) 79年12月,ソ連の軍事介入の下に成立したカルマル政権は,反封建,反帝国主義を標擁しつつイスラム教の尊重を唱え,6月には各種社会団体,部族等の代表の参加する祖国戦線設立大会を開催するなど国内の統一を印象づけることに努めたが,依然カルマル政権に対する国民の反感は強く,反政府ゲリラ活動が全国各地で根強く続いた。

政府与党内の派閥抗争(カルマルの属するパルチャム派とハルク派の対立)も続いた。6月,カルマルは,政権就任後初めて内閣・党人事の改造を行い,兼任していた首相に副首相のケシュトマンド(パルチャム派)を任命し,82年3月にはパルチャム派主導により政権掌握後初めての人民民主党全国党大会を開催したが,パルチャム派が優位を確立したとは言えず,ハルク派との対立は解消しなかった。

(b) 外交面においては,カルマル政権は非同盟政策を標榜したが,ソ連との間で領事条約及び国境条約を締結し,チェッコスロヴァキア及びブルガリアと友好協力条約を締結したことに見られるように,実際にはソ連及びソ連寄り共産諸国との関係を強めた。

アフガニスタン問題の政治解決に向けて,EC諸国,イランなどのイニシアチブが見られたが,カルマル政権は,これらイニシアチブを拒否し,カルマル政権の承認をねらって,パキスタン及びイランとの直接交渉を呼び掛けた。

(c) 経済,社会面では,流通の困難等による経済活動の停滞,農業生産の不振などの問題が生じている。懸案の土地改革についても円滑に進まず,実施緩和措置を講じた。

(ワ) イラン

(a) イラン・イスラム革命第3年目(81年)の特徴は,最高指導者ホメイニ師の路線を踏襲するものとして主導権の確立を図ってきたイスラム共和党(IRP)を中心とする勢力が,ホメイニ体制のもう一つの選択肢として残されていたバニサドル大統領を排除し(6月),それに触発され激化した反体制テロ活動(8月30日には首相府爆破事件によりラジャイ大統領及びバホナル首相が死亡した)をも一応封じ込め,IRP主導体制の整備が図られたことにある。これにより,イスラム革命は更に新たな局面を迎えた。

イラクとの戦闘においては,9月のアバダン地区作戦,11月末のポスタン地区作戦のごとく,イラクに対する反撃力を逐次強めていると言われるが,他方,紛争の長期化がイラン経済に更に過重の負担を強いている。

(b) 「東にも西にも偏らない」外交政策を標榜するイラン政府は,米国大使館人質問題の解決(1月)後も,その後遺症やイラン・イラク紛争の継続,更に,国内での反体制分子の処刑等が及ぼした国際的影響のため,国際的孤立感を一層強め,この孤立感から未だ脱却できぬまま現在に至っている。

(c) 経済面では,生産活動の停滞及び石油輸出の低調の中で,貿易収支,財政収支共に大幅に悪化し,引続き困難な状況となっている。

(d) 我が国とイランとの関係は,革命後限定されたものとなったが,イランは,依然潜在的には大産油国であると同時に,北にソ連と国境を接し,南はペルシャ湾に臨みホルムズ海峡を擁するという地政学上の重要性を有し,更に,その人口規模(3,700万人),潜在的な外貨獲得能力,工業水準等からして輸出市場としても有望であり,我が国にとってその重要性を依然失っていない。

両国の最大の合弁案件であるイラン石油化学計画(IJPC)は,イラン・イラク紛争の影響により工事が再開されないまま推移し,イラン政府と我が国民間当事者間で本計画に関する話合いがなされた。

(カ) イラク

(a) 内政面では,イラン・イラク紛争の長期化により,多大の人的,物的損失が生じ,一部に厭戦気分の高まりが見られたが,革命評議会(RCC)を頂点とする現政権指導部は,一部閣僚の交代等はあったものの,軍・党を有効に掌握し,内部の結束を堅持した。他方,国民議会及びクルド族自治立法評議会も,政権に対する翼賛体制を維持したため,一般大衆の政権に対する支持基盤にも変化は見られず,政情はおおむね安定基調で推移した。

(b) 外交面では,非同盟諸国,第二世界諸国との活発な訪問外交を展開した。6月のイスラエルによる原子炉爆撃に際しては,アラブ外相会議,国連安保理等の場を通じ,反シオニスト闘争を展開した。また,サウディ・アラビアとは,GCC設立,中東和平8項目提案,石油政策等において立場を異にしたが,対イラン戦闘遂行上の必要性もあり,良好な関係の維持に努めた。米国とは,経済関係を含む実質的な関係維持の動きが見られ,他方,武器供与凍結を巡って冷却化していったソ連との関係も次第に改善された。

(c) 経済面では,イラン・イラク紛争の長期化による石油収入の減少にもかかわらず,「戦争は戦争,開発は開発」のモットーの下で,政府は前年比29%増の開発予算を計上し,各種の大型プロジェクトを実施したため,軍需品の新規調達を含む戦費の増大等により,湾岸諸国からの借入れで補強を図ったものの,外貨準備はかなりの減少を見た。

(ヨ) サウディ・アラビア

(a) 内政面では,サウド王家の安泰を揺るがす衝撃的事件となった79年末のメッカ事件以降,厳しいイスラム戒律の徹底,国防治安力の強化(米国からの早期警戒管制機(AWACS)等の購入,GCC加盟諸国との治安協力強化),福祉の向上,公共支出増大等の諸政策が功を奏し,ハーリド国王の健康問題,12月のバハレーンのクーデター未遂に絡む東部シーア派の動き等の問題はあったが,内政は一応安定的に推移した。

(b) 外交面では,5月の湾岸6か国の統合を目指すGCC設立,7月の南レバノン停戦合意の調停,更に,8月のファハド皇太子中束和平8項目提案等従来の受動的外交姿勢から一転して積極的姿勢をとり始めたことが注目される。更に,10月のOPEC石油価格の統一実現,IMFへの出資割当増加,開発途上諸国への量的・質的援助の拡大等国際経済の面でもその安定化に積極的に貢献している。

(c) 経済面では,81年は第3次5か年計画の第2年度に当たり,生産部門の育成による生産基盤の多角化,サウディ・アラビア人の育成による外国人労働力依存度の低減,インフラ部門を最小限に抑制すること等石油モノカルチャー型経済からの脱皮という基本目標に向かっての努力が行われた。特に,製造部門育成に本腰を入れ,ジュベール,ヤンブー工業地帯造成整備,更に,中小規模の製造業のための工業地区誘地計画等同国経済の構造改革を推進している。

石油生産については,81年後半から続いている需給バランスの緩和のため減産が行われ,82年2月には生産量は700万B/D台に落ち込んでいる。

(d) 我が国との関係では,82年1月に予定されていたファハド皇太子の訪日(公賓)は延期されたものの,2月の我が国皇太子・同妃両殿下のサウディ・アラビア訪問をはじめ両国要人の往来が近年になく活発化し,10年来の懸案であった石油化学合弁事業の調印(5月),日・サ合同委の開催(6月)等経済技術協力もますます充実し,貿易面でも,同国にとって我が国は輸出入とも第1位となり,また,我が国にとって同国は輸出相手国第5位となる等両国友好関係の進展にとり画期的な年であったと言えよう。

(タ) クウェイト

(a) 内政面では,シリア外交官の射殺,ビル爆破等数件の刑事・公安事件,また,イラン・イラク紛争の影響によるイラン機の国境爆撃や石油基地攻撃等が発生したが,いずれも大事には至らず,かつ,3月に議会が再開されて国内の不満が吸収されたこともあり,一般に政情は安定した。

(b) 外交面では,イラン・イラク紛争に対し中立的立場を維持していたものの,その地理的状況もあり,イラク寄りにならざるを得ず,イラクに対し多額の借款を供与した。また,GCCでは積極的役割を果たすとともに,ジャービル首長の東欧諸国訪問(9月),サアド首相兼皇太子の北アフリカ諸国訪問(12月)等活発な外交を展開した。

(c) 経済面では,世界的な石油の需給緩和の状況の中で,高価格の原油販売政策をとったため,81年末には,生産量は約60万B/Dまで低下し,財政支出を下降修正せざるを得なくなった。他方,在外資産残高は600億ドル強に達し,その投資収益は財政収入の27%を占めるに至った。

(レ) アラブ首長国連邦

(a) 内政面では,12月に予想どおりザーイド大統領,ラーシド副大統領のコンビによる現政権が3選されるとともに,暫定憲法が更に5年延長されるなど,政情は安定した。

(b) 外交面では,当国は小国であることを自覚し,GCCの中にあっても大勢順応の柔軟な態度をとる一方,国威発揚のため,サッチャー英国首相,シュミット西独首相,カルロス=スペイン国王等多数の外国要人の受入れ,GCCサミット,OPEC総会等の会場提供等活発な外交を展開した。また,対イラン政策については,近隣アラブ諸国とほ異なり,ハイ・レベルの外交的接触を維持した。

(c) 経済面では,石油価格の高値安定による豊富な資金的基盤を背景に,積極的な連邦予算が組まれた。特に,各首長国間の生活の平準化と二重投資の回避を目的とした経済社会開発計画の策定は,その現れである。また,石油生産面では,81年第2四半期以降の国際的需給緩和にもかかわらず,9月から12万B/Dの能力を有するルウェイス精油所が操業を開始したこと及び同国産原油が軽質油であること等から,需給緩和の影響は他の産油国に比し比較的軽微であった。

(ソ) オマーン

(a) 内政面では,南部ドファール地区の反政府活動も鎮静化し,政情は安定的に推移し,右を背景として,国民の国政参加を唱える同国最初の国会というべき国家諮問評議会が設置された。

(b) 外交面では,アフガニスタン問題,南イエメンヘのソ連の影響力増大等の関連でソ連に対する警戒心を一段と強め,米国をはじめとする西側諸国との軍事経済関係を強化するとともに,GCC諸国との治安・軍事面での協力関係の緊密化に努めている。

(c) 経済面では,2月から第2次開発5か年計画が開始され,民間部門,特に製造業,農業,鉱業等の開発に重点を置くとの基本目標に沿って計画は順調に実施に移されている。更に,同計画を支える石油収入についても,新油田開発等を通じその維持増大が図られている。

(d) 我が国との関係では,人的交流も一段と活発化し,水資源分野を中心とする技術協力も順調に進展し,我が国企業による石油採掘分野での協力も目立つ等一層の緊密化が図られた。

(ツ) カタル

(a) 内政面では,12月のバハレーンにおけるクーデター未遂事件が発生したこともあり,イランの革命の輸出に対する警戒心から治安強化を図っているが,部族組織を基盤とするサーニ一家の支配体制は安定的に推移した。

(b) 外交面では,上記クーデター未遂事件後,サウディ・アラビアと治安協力協定を結ぶなどサウディ・アラビアを中心とするGCC加盟国との連携を強めた。82年3月に発生したバハレーンとの間のハワール島の帰属を巡る争いも,他のGCC加盟諸国の調停により拡大せずに落ち着いた。

(c) 経済面では,各種重工業プラントの完成に伴い,工業化政策が一段落したこともあり,経済社会面でのインフラ充実・拡大に努めている。また,世界最大規模と言われるガス資源を利用したLNG産業を開発することを目的とした委員会を設立する等石油資源枯渇後への新たな収入源獲得のための努力を行った。

(ネ) バハレーン

(a) 内政面では,12月,イランで訓練を受けたシーア派過激派によるクーデター未遂事件が発覚し,この結果,サウディ・アラビアとの治安協力協定が結ばれることとなったが,事件そのものは大事には至らなかった。

(b) 外交面では,イーサ首長のインド訪問,サッチャー英国首相,クライスキー=オーストリア首相の受入れ等活発な外交を展開したが,基本はあくまでサウディ・アラビアとの協調である。

(c) 経済面では,従来,石油依存の経済から脱却するためアルミ精錬,精油所,ドライドック等の誘致に努力する一方,外国銀行を誘致し一大金融センターを目指したOBU(Offshore Banking Unit)の整備に努めてきたが,81年を通じても,アンモニア工場,精油所等の新計画策定,サウディ・アラビアとバハレーンとを結ぶコーズウェイ計画の調印等従来の政策を積極的に推進した。

(ナ) イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a) 内政面では,南イエメンの支援する国民民主戦線(NDF)の反政府活動が激化する中で,治安強化,軍内部の中央政府支持基盤強化,国内全土にわたる協同組合組織を通ずる全国支配体制確立等の諸施策により,国内部族保守勢力とNDFとの間の均衡が図られ,政権の安定が維持された。

(b) 外交面では,従来のサウディ・アラビアとの緊密な協力関係を維持しつつも,9月には,サーレハ大統領が初めてソ連を公式訪問し,イエメンの積極中立主義,非同盟遵守の立場を明らかにした。また,11月末の同大統領の南イエメン訪問に際しては,南北イエメン協力協定の調印が行われ,同国との緊張緩和に役立った。

(c) 経済面では,第1次開発5か年計画(76年~81年)の最終年に当たり,インフラ部門の整備にかなりの成果を収めたものの,農業部門のGDPの伸びが目標をはるかに下回ったほか,移民送金の減少もあり,外貨準備の落込みが見られた。

(ラ) 南イエメン(イエメン民主人民共和国)

(a) 内政面では,モハメッド議長が閣僚人事の手直し等を行って,その政権の長期安定化へ向け更に前進した。

(b) 外交面では,基本的には従来の親ソ連路線を堅持しつつ,経済開発資金の獲得の意図もあって,西側・湾岸諸国との関係改善に努めた。

また,イエメンとの関係においては,イエメン大統領が南イエメンを訪問する等両国間の緊張緩和の動きが見られた。

(c) 経済面では,民生の向上やインフラの整備等を主眼とした第2次5か年経済開発計画がスタートした。

 

要人往来  

貿易関係

民間投資

経済協力(政府開発援助)

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