第6節 ソ連・東欧地域

1. ソ連・東欧地域の内外情勢

(1) ソ連

(イ) 内政

(a) ソ連の内政にとり,81年は,2月23日から3月3日まで第26回党大会が行われた年であり,更に第11次5か年計画の初年という意味で重要な年であった。

(b) 党大会におけるブレジネフ演説においては,内政面では61年の第22回党大会で採択された党綱領の改定作業を始めることを提唱した以外に,労組問題,民族問題,人口問題,勤労者の労働意欲,青少年の思想教育問題等が取り上げられたが,全体として目新しい点はなかった。また,党大会においては,党最高指導部の陣容が紹介されたが,大会前のメンバーが全員留任するという党大会史上異例の人事か行われ,党指導部の老齢化が更に進んだ(なお党大会においては,中央委員319名,同候補151名,監査委員75名が選出された)。

(c) 81年におけるブレジネフ書記長の健康状態は,比較的良好で,2月~3月の党大会,4月のチェッコスロヴァキア党大会への出席及びキエフ訪問,5月のグルジア共和国訪問,11月の党中央委総会及び西独訪問等の重要行事をこなした。この間,11月には同人の「回想録」が出版され,12月の生誕75周年には東欧・モンゴルの首脳も駆けつけて大々的な祝賀行事が行われる等ブレジネフ書記長の権威を高める行事が行われた。

(d) しかしながら,82年に入り,ソ連共産党内でイデオロギー分野において不動の地位を占め,キング・メーカーと言われたスースロフ政治局員兼書記が1月に死去して以来,ブレジネフ書記長の近親者を巡る一連のスキャンダルが西側において報じられ,また,ブレジネフ書記長の泣く姿がソ連のテレビで放映される(2月のグルシポイ・モスクワ軍管区政治部長の告別式の際)等同書記長の権力を卜する上で注目すべき現象が起こった。かかる状況の中で,ブレジネフ書記長は,3月1日~2日にヤルゼルスキ=ポーランド第一書記と会談,3月5日に国際婦人デーのレセプション出席,9日~10日にコイピスト=フィンランド大統領と会談,16日に全ソ労組大会において演説,22日から25日までタシケントを訪問する等あたかも権力失墜説を打ち消すかのように過密なスケジュールをこなしたが,その後4月22日のレーニン生誕記念行事に至るまで公式行事に姿を現わさなかった。その間,同人の健康を巡り重体入院説も流れ,ポスト・ブレジネフを巡る後継者問題が注目されるに至った。この関連で注目される点は,スースロフなき後,表面に現われた現象を見る限り,かつてブレジネフ書記長の後継者として最有力視されていたキリレンコ政治局員兼書記の影が薄くなり,最近では一切の公式行事から姿を消しているのに比し,同じく政治局員であるチェルネンコが各種の重要行事に参加していることである。

(e) 反体制派に対する締付けは81年を通じても継続され,これらの者に対する裁判がしばしば行われた。かかる中で,81年末にサハロフ夫妻がハンガー・ストライキを行い,国際世論の支援も得て,米国に居住する同夫妻の子息のため恋人アレクセーエヴァのソ連出国を実現せしめたことは,注目すべき出来事であった。

(ロ) 外交

ブレジネフ書記長は,第26回党大会において,社会主義諸国の協力の成果を強調するとともに,反帝国主義勢力の団結を訴え,次いで資本主義諸国との関係に言及して,資本主義内部の矛盾対立の増大が軍拡競争の激化など国際情勢複雑化の原因であると指摘しながらも,ソ連は引続き平和路線を追求するとして8項目の平和提案を行った(対日関係部分及び「平和提案」関連部分は資料編参照)。

81年のソ連外交は,上記のブレジネフ演説に依拠しつつ,前年に引続き,(あ)アフガニスタン事件以降の国際的孤立から脱却し,米国はじめ西側諸国との関係を修復すること及び(い)ポーランドの事態を収拾し,同国をソ連の影響下に確保すべくポーランド統一労働者党を中心とする情勢安定化を図ることを主要課題としてきた。

更に,これらの課題を達成することにより,70年代におけるがごときデタントの枠組を再構築し,70年代を通じてソ連が獲得してきた諸成果を維持すべく腐心してきたと言えよう。

しかしながら,アフガニスタン問題の未解決に加えてポーランド問題が深刻化し,大幅に後退した東西関係は回復するに至らず,ソ連を巡る国際環境は厳しい状況のまま推移した。

(a) 対東欧関係

いわゆる社会主義共同体の中核とも言うべき東欧諸国に対しては,引続きワルシャワ条約機構,コメコン及び二国間関係を通じて政治・軍事・経済各面での団結強化が図られたが,主たる努力はポーランド問題への対応に向けられた。

ソ連は,連帯運動の進展に伴うポーランド情勢の深刻化を憂慮しつつも直接介入を極力回避し,ポーランド当局に対し強硬措置による事態収拾を迫り,12月13日,戒厳令が導入されるや,直ちに同措置支持を表明した。更に,82年3月初め,ヤルゼルスキ第一書記以下のポーランド党・国家代表団を招いて社会主義ポーランド支援を明確にしたが,今後のポーランド国内体制の動向については,なお注視する姿勢を示している。

(b) 対西側諸国関係

年初,米国にレーガン政権が発足したのに伴い,ソ連は前記党大会で米ソ首脳会談開催を呼び掛け,その後も米ソ対話再開の糸口をつかむべく腐心した。9月,国連総会に際しての米ソ外相会談を契機として,11月末に中距離核戦力交渉が開始され,更にポーランド情勢の悪化にもかかわらず,82年1月,ジュネーヴにおいて米ソ外相会談が行われたが,同会談は当初予定されていた2日の日程を1日に短縮して行われるなど,現在の米ソ関係の厳しさを反映したものとなった。

この間,ソ連は欧州諸国に盛り上がった反核平和運動を支持して米欧分断の努力を強化するとともに,11月にはブレジネフ書記長が西独を訪問し,政治的対話の重要性を再確認した。しかしながら,東西間の具体的懸案についてはすれ違いに終わり,デタント再構築への大きなステップと言えるほどの成果は挙げ得なかった。

また,ポーランドにおける戒厳令導入以後,米国が対ソ姿勢を一層硬化させ西側諸国の協調を求めているのに対しては,ソ連は,対ソ「制裁」は結局西側諸国にも向けられているとして,対ソ経済協力の利益を強調し,米国とその他の西側諸国の足並みの乱れを助長すべく働きかけている。

(c) 対アジア関係

中国との関係では,正常化交渉も行われず,ソ連論調も6月の中国共産党6中全会以降再び従来同様の対中批判を行っている。しかし,ソ連は,9月,中国に対し78年以来中断している国境交渉の再開を提案し,更に,82年3月,ブレジネフ書記長がタシケント演説で関係改善を呼び掛けるなどの動きを見せた。北朝鮮との関係については著しい進展はなかった。

インドシナ3国については,ヴィエトナムほかラオス及びカンボディアとの二国間関係を強化する動きを見せ,カンボディア問題については,3国の地域会議開催提案を支持している。ASEAN諸国に対しては,経済・通商面での関係発展を図っているが,政治的関係は低調に推移した。また,インドとの良好な関係維持に努めた。

(d) 対中近東関係

国際的孤立の直接の原因となったアフガニスタン問題では,ソ連にとっての泥沼化現象が見られる。

ソ連は,中東問題解決に対する発言権確保のため,シリア,南イエメン,リビア,アルジェリア,PLO等を支持するとともに,穏健派のクウェイト,ヨルダン等へ働きかけ,北イエメンとも関係改善に努めた。また,サダト以後のエジプトに対しては,ムバラク政権との関係改善を期待し,イランに対しても,経済的実務関係を通して接近する姿勢を示してきた。

(e) その他の地域

中南米地域では,引続き,キューバ,ニカラグァとの関係強化に努めるとともに,メキシコ,アルゼンティン,ブラジル等に対し正常な国家関係の維持を図っている。

アフリカについては,コンゴーと友好協力条約を締結した(5月)ほか,南部アフリカ情勢に関心を示し,ナミビアについては引続き南西アフリカ人民組織(SWAPO: South West African People's Organization)を支持している。

(ハ) 経済情勢

(a) 81年は,第11次5か年経済計画の第1年目に当たる。第11次5か年計画は,基本的には「質と効率の向上」を主要目標とした前5か年経済計画の路線を踏襲したものであり,その諸指標も,例えば,鉱工業生産については前5か年経済計画法の36%増に対し26%増とされ,農業については16%増に対し13%増,国民所得は26%増に対し18%増とされる等,いずれも前5か年経済計画に比し,抑制されたものとなっている。しかし,第11次5か年経済計画では,鉱工業生産のうちの消費財生産部門の伸びを26.2%とし,生産財生産部門(25.5%)より優先的に発展させる方針が打ち出されているのが注目される。

(b) 81年の経済計画は,第11次5か年経済計画の低成長路線に従って相対的に低く抑えられたが,その遂行状況は全体として不調に終わっている。すなわち,鉱工業生産の伸びは,鉄鋼,石油,石炭,化学などの基幹産業部門の引き続く不振により,計画4.1%(うち生産財生産及び消費財生産はそれぞれ4.1%及び4.2%)に対し,実績3.4%(同上3.3%及び3.6%)にとどまった。農業についても,第11次5か年経済計画において,農工コンプレクスの発展,宅地菜園の振興など農業生産発展のための諸施策が予定されているにもかかわらず,穀物生産は約1億7,500万トン(推定)と前年実績を下回る不作であり,このため,農業全体としての生産も計画7.5%増に対し実績2%減に終わった。この結果,国民所得の伸びの実績も3.2%と計画3.4%に達しなかった。

(c) このような経済不振の原因は,天候不順などの自然条件に起因するもののほか,鉄鋼,エネルギー,輸送などの基幹部門の諸欠陥を含め,より基本的には計画経済が内包する構造的,制度的な諸欠陥が顕在化してきていることにあると見られる。

(2) 東欧地域

12月13日のポーランドにおける戒厳令の布告及び軍政への移行は,全世界に衝撃を与える出来事であり,東西関係に深刻な影響を及ぼすものであった。かかる事態の展開に対し,当初ポーランド国民は,「連帯」労働者を中心としてストライキ・デモ等により軍政に対する反対運動を繰り広げたが,12月末には一応鎮静化した。当局は国民との話合い路線は維持すると表明しつつも,力の行使によりかかる抵抗を抑えてきているが,国民の特に若年層を中心とする反発には根深いものがあり,また経済再建・党の再建等種々の困難な課題を抱えたままである。

ポーランド以外の東欧諸国においては,上記のポーランド情勢による影響等はあったが,大きな政治的不安定化は特に見られるに至っていない。

他方,経済動向及び対外累積債務については,問題がより一層顕在化した。これら諸国において,経済成長率は全般的に低下しており,経済構造ないし運営上の問題,エネルギー確保の困難化等東欧経済を取り巻く環境は,今後更に厳しくなるものと見込まれ,各国がいかに対処していくかは経済面のみならず政治的にも重要な課題となってきている。

ユーゴースラヴィアにおいては,80年5月のチトー大統領の死後も非同盟・自主管理の内外路線は継承され,政情は比較的安定した状況で推移した。同国の経済情勢は依然として難しい局面にあるが,インフレ・国際収支の若干の改善等明るい兆しも見えている。

(イ) ワルシャワ条約諸国

(a) ドイツ民主共和国 

4月に第10回党大会を開催したが,党内には対立もなく,政情は比較的平穏であった。経済面では,他の東欧諸国同様,エネルギー,対外債務等の諸問題を有しつつも,81年は工業生産の拡大に努め,成長率は計画の5%を達成した。外交面では,ホネカー議長の日本(5月),メキシコ(9月)訪問に引き続き,12月には過去2度にわたり延期された両独首脳会談が実現し,両独関係発展のための糸口が作られた。なお,12月に欧州各国の作家・学者等を交えた「平和促進のためのベルリン会議」が開催され,体制批判を含めた自由な討論が行われたほか,教会を中心とした平和運動が推進されていることは注目される。

(b) ポーランド

ポーランド労働者の経済的・政治的不満を背景として「連帯」が結成された80年夏以来,同国を巡る情勢は世界の注目を集めてきた。

81年初めは,まず週休二日制,個人農の「連帯」認可問題等を巡り,全国各地で労働者,農民,学生も加わったストが頻発した。3月には,ポーランド・ソ連首脳会談(モスクワ)の後に,ワルシャワ条約機構軍の演習「ソユーズ81」が行われる中で,ビドゴシチ事件(「連帯」代表に警官が実力行使)が発生し,これに反発した「連帯」がゼネストを計画する等情勢は緊迫化した。また,このような党・政府対「連帯」の対立に加え,党内における下部党員の民主化の要求の高まりは,ポーランド情勢を一層複雑にし(300万党員のうち100万が「連帯」のメンバーと言われた),ソ連に新たな不満と警戒を引き起こすことになった。

ソ連は,ポーランドにおける事態に巻返しを図るべく,4月下旬,スースロフ政治局員をポーランドに派遣し,また,党内の保守派グループの支援に乗り出す等ポーランド当局に圧力を加えた。しかし,「連帯」の活動は活発化し,これに対するポーランド党の対応に不満を抱くソ連は,6月5日,ソ連党中央委の名でポーランド党中央委あての書簡を送りつけ,ポーランド党に対する極めて厳しい態度を明らかにした。かかる外部からの圧力が加わる中で,カニア第一書記を中心とする党指導部は,幾つかの緊張した局面を乗り切って,7月上旬,臨時党大会の開催にこぎつけ,事態打開の方向として,社会的合意に基づく社会主義的「再生」と呼ばれる社会主義の改革と民主化の路線を確認した。臨時党大会終了直後,ポーランド当局は,小麦粉などの値上げ,食肉配給量の一時的削減を発表したが,右発表後各地でこれに反対するデモが相次ぎ,国内は再び混乱に陥った。

9月に入り,「連帯」第1回全国大会第1ラウンドが開催されたが,「連帯」は強い政治色と党・政府に対する対決姿勢を示し,更に,ソ連及び東欧諸国に対する挑発的内容を含んだ東欧諸国労働者へのメッセージを発出した。ワルシャワ条約機構軍は,上記の「連帯」全国大会と同時期に,「ザーパド81」と称する10万人を動員した軍事演習を行い,「連帯」の動きに圧力をかけていたが,右全国大会における「連帯」の対決姿勢にソ連はじめ東欧諸国は一斉に警告を発し,ポーランド党・政府の断固たる措置を求めた。9月下旬の「連帯」全国大会第2ラウンドにおいても,「連帯」は既存の権力関係を変革することを目指す綱領を採択するなど,基本的には対決姿勢を崩さなかった。他方,ポーランド統一労働者党は,10月に第4回中央委総会を開いたが,同総会ではカニア第一書記が辞任し,後任にヤルゼルスキ首相兼国防相が選出された。ヤルゼルスキ第一書記は,社会主義に反対しないすべての勢力を結集した「国民合意戦線」の結成を呼び掛けるとともに,事態改善のためには強硬措置も必要である旨示唆した。また,同総会以後,軍の小人数から成る特別編成部隊が地方に派遣され,更に,軍人が党・政府要職に登用される等軍の拾頭が目立った。

11月に入り,党はストライキの禁止を含んだ非常立法の制定を提案する等強硬な対応を示し,これに対し,「連帯」はゼネストを対抗措置として決議する等(12月)両者の対決姿勢の激化が見られた。こうした状況下で,12月13日に至りポーランド全土において戒厳令(資料編参照)が布告され,(あ)すべての集会・デモの禁止,(い)マスメディアの統制,(う)労働者のスト・抗議運動の権利の停止等の諸措置がとられ,ほとんどの「連帯」指導者が拘禁された。同時に,ヤルゼルスキを長とする救国軍事評議会が設置され,事実上軍政が施行された。このような当局の措置に対し,「連帯」は,全国各地において大規模なストライキ・デモ等による抵抗運動に訴え,事態は流血の惨事を招くに至った。当局は,「連帯」の抵抗に対しては力の行使によりその抑え込みを図り,直接的な抵抗運動は鎮圧されていった。一応の治安の達成に成功した当局は,国民との話合い路線は維持するとの方針を引続き表明するとともに,国会の再開,党中央委総会の開催等を通じ経済及び党の再建等の課題に着手した。また,3月初めには,ヤルゼルスキはソ連を訪問し,戒厳令布告後の事態の収拾ぶりに対するソ連の支持を取り付けた。他方,教会は,歴史的・伝統的に特別の地位にあり,国民の9割が敬虔なカトリック教徒であるポーランドにおいては大きな社会的影響力を有しているが,戒厳令布告以降は流血回避に努め,また,国民的和解の達成に努めてきている。

その後,4月末には,救国軍事評議会は,拘留者1,000人の釈放(うち,200人は仮釈放)及び5月2日以降の夜間外出禁止令の全国的解除等戒厳令措置の一部緩和の決定を行い,国内が正常化に向かっていることを内外に強調しようとした。しかし,5月3日の旧憲法記念日に,ワルシャワをはじめ主要都市において若年層を中心として軍政に反抗する騒擾事件が発生した(ポーランド当局は,約1,400名を拘禁し,また,幾つかの県で夜間外出禁止令を復活させた)。5月現在,戒厳令措置の根幹部分(スト・集会の禁止,重要企業の軍による直接管理等)は依然継続されたままであり,経済再建,党の再建,更に国民的合意の達成等重要課題の解決のメドは立たず,問題は山積したままである。

西側諸国は,戒厳令布告直後,「深い憂慮の念とポーランド自身による事態収拾の必要性」を訴えつつ,ソ連に介入の口実を与えぬよう慎重な対応ぶりを示した。しかし,その後,米国は,ポーランド当局の措置はポーランド国民に対する弾圧であるとし,具体的な対ポーランド措置を打ち出すとともに,ソ連に対してはポーランド情勢への介入に警告を発した(12月24日)。これに対し,ソ連は,米国こそポーランドの内政に干渉しているとの態度をより明確にした。これを受けて,米国は,7項目の対ソ連措置を発表した(12月29日)。一方,欧州の主要諸国は,EC10か国外相会議(82年1月4日),米独首脳会談(1月5日),NATO外相理事会(1月11日)等を通じて,ポーランド当局に対して事態の早急な改善を求めるとともに,ポーランド情勢に対するソ連の責任について米国と共通の認識に立つ旨を表明した。

更に,2月に入り,英国,西独,ベルギー及びカナダが具体的な対ポーランド・対ソ連措置を発表した。

東欧諸国は,いずれもポーランド情勢に憂慮を表明していたが,戒厳令施行後,ルーマニアを除く各国は右施行を積極的に歓迎した。

ルーマニアは,ポーランド問題はポーランド人自身により解決されるべきであるとの立場の表明にとどめ,戒厳令には間接的な支持を与えたにすぎなかった。なお,ユーゴースラヴィアについては,ワルシャワ条約諸国とは明確に異なった対応を示し,外部の干渉を危惧し,戒厳令に対しては批判的な態度を取った。

(c) チェッコスロヴァキア

81年には,第16回党大会(4月),総選挙(6月)が行われたが,党・政府内に若干の人事異動が行われたのみであった。政情には大きな変化はなく,ほぼ安定している。

経済面では,81年の経済実績は,軒並み計画を下回っており,特に農業生産は,前年比3.4%減を記録した。

外交面では,対第三世界外交において,アフガニスタン,エティオピア,南イエメンとの間に友好協力条約を締結したことが注目される。

(d) ハンガリー

81年のハンガリー国内政治情勢は,カダール政権の現実的,弾力的な施策及び独自の経済政策に基づく生活水準の向上等もあり安定していた。81年の経済実績は,低めの目標設定にもかかわらず,主要指標はおおむね未達成に終わった。

同国は,市場メカニズムを取り入れた経済改革及び開放経済体制を目指している。この現れの一つとして,複数為替レートの統一を進め,11月にIMF・世銀への加盟申請を行った。

(e) ルーマニア

チャウシェスク体制は,基本的には安定している。ただし,経済情勢悪化を背景に,国民の不満がデモ・スト等の発生となって現われた。経済情勢は,80年からの工業成長の鈍化,農業の不振が依然続いており,対外累積債務問題,食料品及びエネルギー不足が深刻化した。

外交面では,引続き自主独立の外交路線を貫いている。ポーランド問題については,他のワルシャワ条約諸国とは異なる立場を表明し,また,ヘイグ米国務長官のルーマニア訪問(82年2月)に見られるとおり西側との関係の促進にも努め,更に,チャウシェスク大統領の中国・北朝鮮(82年4月)訪問等もあった。

(f) ブルガリア

ジフコフ政権は安定しており,内政に基本的変化はなかった。同国は,81年が建国1300年に当たるとして国内外で各種祝賀行事を繰り広げ,ブルガリアの存在を内外に印象づけるべく努めた。経済面では,工業成長率の鈍化が続いているものの,政府は,企業の自主性を高める「新経済メカニズム」の導入等により経済の回復を図り,また,対外債務の縮小に努め,停滞する東欧経済にあってブルガリア経済は比較的安定的に推移した。外交面では,従来消極的であったバルカン協力構想について,ジフコフ議長がバルカン首脳会議を提唱したことが注目された。

(ロ) その他の諸国

(a) ユーゴースラヴィア

同国は,チトー大統領没後2年目に入ったが,チトーの非同盟・自主管理路線を堅持しており,「集団輪番指導制」の下に,内政の安定を維持している。3月にコソヴォ自治州でアルバニア人の騒擾事件が発生したが,局地的事件にとどまっており,他地域に波及するとの兆候はない。

経済は,インフレと国際収支難等の困難な課題を抱えているが,インフレ抑制・輸出振興を主眼とする「経済安定政策」に全力を挙げており,81年末に至ってインフレと経常収支にやや改善の兆しが見られた。

ユーゴースラヴィアは,対ソ独立・非同盟のチトー外交路線を堅持しており,西側諸国も右路線支持の姿勢を継続している。他方,ソ連も,82年4月のグロムイコ外相のユーゴースラヴィア訪問(政府高官の訪問は,80年5月のチトー国葬に出席したブレジネフ書記長以来)等同国との関係強化に努めている。

(b) アルバニア

同国は,外国からの一切の借款・援助を拒否するとの徹底した自力更生主義を依然堅持し,米ソを除く諸外国との貿易拡大に努めている。

11月に第8回党大会が開催され,ホッジャ第一書記の地位は更に強化されたと見られたが,12月にホッジャの「右腕」シェフ首相が自殺したと発表され,種々の臆測を呼んだ。後任のチャルチャニ首相の就任演説(82年1月)から見る限り,アルバニアの内政外交に変化は見られない。

2. 我が国とソ連・東欧諸国との関係

(1) ソ連

(イ) 北方領土問題

(a) 1月6日,1855年の日露通好条約の調印日にちなんで,「2月7日」を「北方領土の日」と設定することにつき閣議了解が行われた。この「北方領土の日」設定は,真の相互理解に基づく日ソ友好善隣関係の発展のためには北方領土問題の解決が不可欠であるとの認識に基づき,この設定を強く求める国民の声及びこれを背景として,80年11月に国会の衆・参両院のそれぞれ本会議において全会一致で採択された決議の趣旨を踏まえて行われたものである。

1月20日,ソ連側は,「北方領土の日」設定などに関連して,我が国の北方領土返還要求運動を「ソ連に対する非友好的キャンペーンである」として非難する口頭声明を行った。これに対し,同月28日,政府は,未解決の領土問題を解決して平和条約を締結することが,日ソ両国にとっての最も基本的な課題である旨を強調し,北方領土返還要求は,北方領土問題を解決し真の日ソ友好善隣関係を確立せんとする日本国民の総意であり,ソ連政府がこのような日本国民の真意を正しく理解し,真の友好善隣関係の発展にふさわしい態度を示すことを強く求める申入れを行った。更に,2月16日,ソ連側は上記とほぼ同様の口頭声明を行った。

(b) 3月15日,伊東外務大臣は,ポリャンスキー在京ソ連大使と会談して日ソ関係の諸問題及び国際問題につき話し合い,日ソ間に真の信頼関係を築くためには,何よりも領土問題の解決が不可欠である旨を強調し,「日ソ関係において,領土問題は避けて通れない問題である」と述べた。4月29日,駐ソ魚本大使はグロムイコ外相と会談し,(極東における信頼措置に関する3月15日のソ連側申入れに対する日本政府の考え方を回答するとともに)上記の2月16日のソ連側口頭声明に対する反論の申入れを行った。

(c) 9月9日,10日の両日,鈴木総理大臣は,現職の総理大臣としては初めて北海道の北方領土返還運動関係者と懇談するとともに,北方領土の現地視察(根室訪問)を行い,北方領土問題解決に対する政府の不動の姿勢と不退転の決意を改めて内外に表明した。

(d) 9月22日,園田外務大臣は,第36回国連総会一般討論演説において,北方領土問題に対する我が国の基本的立場を国際世論に訴えた。

翌23日,園田外務大臣はグロムイコ外相と会談し,北方領土問題に関しては,73年10月の田中総理大臣のソ連訪問時の日ソ共同声明にも言及して,この問題を解決して平和条約を締結すべき旨強調したのに対し,ソ連側は従来の主張を繰り返すにとどまった。

(e) なお,82年1月に行われた第2回日ソ事務レベル協議において,日本側は北方領土問題を提起し,その基本的考え方を述べた。

(b) 日ソ二国間関係の諸問題の協議においては,日本側から,北方領土問題に関連し,73年10月の日ソ共同声明のラインにソ連側がまず立ち戻ること,北方領土配備のソ連軍は速やかに撤去されねばならないこと,平和条約締結交渉を早期に行う必要があることなどを日本側の基本的な考え方としてソ連側に伝えるとともに,次回の平和条約締結交渉はグロムイコ外相が訪日して行われる順番になっていることを指摘し,その早期訪日を要請した。これに対し,ソ連側からは,「北方領土問題は存在せず」との従来の姿勢と異なる対応は見られなかった。更に,日本側から,墓参,漁船拿捕などの問題も提起した。

国際情勢についての協議においては,中国,朝鮮半島,東南アジアなどのアジア情勢,米ソ関係,軍縮・軍備管理問題などについて意見交換を行った。ポーランド問題については,日本側から,この問題は外部からの干渉によることなくポーランド国民自身によって解決されるべきであるとしてソ連に自制を求め,また,アフガニスタン問題についてはソ連軍の早期全面撤退を主張した。

以上の諸問題についてのソ連側の立場には従来と異なるところは見られなかったが,日ソ関係が困難な局面にあり,また,国際情勢に厳しいものがあるだけに,このような話合いを行ったことは評価しうるものと考えられる。

(ハ) ポーランド問題関連対ソ連措置

(a) 12月のポーランドにおける戒厳令の布告とそれ以降の事態はソ連の圧力の下に生じたものであるとの立場から,政府は,ソ連政府に対してその責任を指摘し自制を求めた。政府としては,ポーランドを巡るその後の事態に改善が見られないことから,西側諸国の結束を維持し,西側諸国と協調していくことが重要であるとの認識の下に,ソ連の自制を更に求め,将来の介入を抑止するため一定の具体的措置をとることとして,その内容を82年2月23日の宮澤官房長官談話(資料編参照)で発表した。この具体的措置の内容は次のとおりである。

(1)日ソ科学技術協力協定に基づく科学技術協力委員会の開催には,当面応じない。

(2)日ソ貿易年次協議の開催には,当面応じない。

(3)在日通商代表部等の拡充については,当面検討しない。

(4)ソ連買付ミッションの本邦在留期間(82年末までの期間)の延長については,今後のポーランド情勢を見ながら慎重に検討する。

また,我が国がアフガニスタン情勢との関連でとっている対ソ連措置については,従来どおりの基本方針を維持することとしている。

なお,欧米等の西側諸国も一定の具体的措置をとるに至った。

(ニ) シベリア開発協力

日ソ間でこれまでに具体化したシベリア・極東地域の資源開発を中心とする経済協力案件としては,既に終了したものとして,第1次及び第2次極東森林資源開発,ボストーチヌイ港建設及びパルプ・チップ開発の4件があり,現在実施中のものとして,南ヤクート原料炭開発,サハリン島大陸棚石油探鉱,ヤクート天然ガス探鉱及び第3次極東森林資源開発の4件がある。

実施中の各プロジェクトに関しては,次の動きがあった。

(a) 第3次極東森林資源開発

3月の基本契約の締結に続いて,6月には借款契約が締結され,また,10月には政府間取極が署名された。

(b) 南ヤクート原料炭開発

6月に追加融資に関する借款契約が締結された。

(c) サハリン島大陸棚石油探鉱

81年にも前年に引続き天然ガス,油層の試掘に成功し,また,日ソ当事者間において開発に関する技術問題等について話し合った。

(ホ) 日ソ貿易

(a) 81年の日ソ貿易は,輸出,輸入いずれも前年の水準を上回り,貿易総額は,日ソ貿易始まって以来の最大額52億8,000万ドル(対前年比13.8%増)を記録した。輸出の伸びは,主として従来からの中心品目たる鉄鋼,機械機器の増加によるものであり,他方,輸入の伸びは,金の輸入額の著増(11倍強)によるものである。ただし,金を除くと,輸入額は前年比18.1%の減少であり,これは従来の主要品目である木材,石炭,非鉄金属等の不振による。

なお,81年の日ソ貿易が我が国対外貿易総額に占める比率は1.8%である。

日ソ貿易

(b) 81年~85年日ソ貿易支払協定に関する日ソ政府間の締結交渉は,4月に東京において行われ,協定内容につき実質的に合意に達したので,5月,モスクワにおいて本件協定の署名を行った。

(ヘ) 日ソ漁業交渉

(a) 「日ソ」及び「ソ日」両漁業暫定協定延長交渉

日ソ両国のそれぞれ相手国200海里水域内における漁業につき定めた「日ソ」及び「ソ日」漁業暫定協定が81年末で失効するのに伴い,両暫定協定を更に延長し,82年の日ソ双方の漁獲量等を定めるための交渉が11月19日から12月16日までモスクワで行われた。その結果,両暫定協定の有効期間を82年末まで1年間延長する議定書が締結されるとともに,日ソ双方の相手国200海里内での漁獲量につき,日本側は75万トン,ソ連側は65万トンとすることなどが定められた。

(b)日ソ漁業委員会定例会議

「日ソ漁業協力協定」に基づき,日本による81年度の海上におけるさけ・ます操業に関する日ソ政府間協議が,4月6日から4月20日までモスクワで行われた。その結果,議定書が締結され,ソ連200海里外の北西太平洋における日本の漁獲量を42,500トンとし,ソ連に対する漁業協力費として,日本側は40億円を負担する旨の合意がなされた。

(ト) 墓参

6月,政府は,81年の北方4島,ソ連本土及び樺太への政府ベースの墓参実施につきソ連政府に対し申入れを行った。これに対し,ソ連側は,8月,樺太(豊原,真岡,本斗)への墓参を認めるが,その他の諸地域への墓参については同意できない旨回答した。政府は,その他の申入れ地域についても人道的見地から墓参が実現できるようソ連側の再考を求めたが,ソ連側は上記の回答を最終的回答であるとした。以上の結果,81年においては,10月15日から同月22日まで樺太墓参のみが実施された。

(チ) 未帰還邦人

政府は,日本への帰国を希望する在ソ連未帰還邦人に対し帰国指導を行うとともに,ソ連側がこれら未帰還邦人に対し遅滞なく日本への帰国ないし一時帰国を許可するよう機会あるごとに要請を行った。81年においては,1名が一時帰国を行った。

(2) 東欧諸国

(イ) ポーランド情勢に対する我が国の立場

80年夏以降のポーランドを巡る情勢は,欧州のみならず世界の平和と安定に深刻な影響を及ぼし得るものであり,政府は,かねてから,ポーランド問題は外部からのいかなる干渉にもよることなくポーランド国民自身により解決されるべき旨種々の機会に表明している。また,ポーランド情勢の原因の一つに同国の経済困難があるところがら,各国が共同して経済的支援を行うことは同国の安定に資するとの観点に立って,我が国も欧米諸国との協調の下に,81年の公的債務の支払いの繰延べ,3,000万ドルの輸銀バンク・ローンの供与,2万トンの米の延払い輸出等の経済的支援を行った。

しかるに,12月13日に至り,ポーランド全土において戒厳令が布告され,「連帯」指導部が拘禁されるという事態の展開に対し,政府はかかる事態に深い憂慮の念を表明し,ポーランド当局が国民的和解の精神に基づき流血を避け,国内諸勢力間の民主的話合いを直ちに開始するよう求めるとともに,ポーランド国民に対しては引続き必要に応じ支援の手を差し伸べていく用意がある旨の外務大臣談話(12月25日)を発表した。しかし,その後の事態はポーランド国民自身による対話と民主的話合いによる国内諸問題の解決への努力を妨げており,また,右事態はソ連の圧力の下に生じたものと判断されたので,政府は,ポーランド当局に対し異常な事態を早急に終了させるよう,また,ソ連に対しては自制するよう求めた外務大臣談話(資料編参照)を82年1月14日に発表した。我が国のかかる立場については,政府は,1月6日にソ連側に対し,また,1月7日にポーランド側に対しそれぞれ申し入れるとともに,第96回通常国会における鈴木総理大臣の施政方針演説及び櫻内外務大臣の外交演説を含め種々の機会に表明した。

(ロ) 対ポーランド措置

ポーランドを巡る事態に基本的改善が見られないことから,82年2月23日,政府としては,西側諸国の結束を維持し,西側諸国と協調していくことが重要であるとの認識の下に,対ソ連措置とともに対ポーランド措置を宮澤官房長官談話(資料編参照)にて発表した。この具体的内容は,次のとおりである。

(1) 82年に支払期限が到来する公的債務の支払いの繰延べに関する交渉を当面見合わせる。

(2) 新規の公的信用供与の検討を当面見合わせる。

(3) 我が国在ポーランド大使館館員に課されている諸制限に対応するため,2月18日から在日ポーランド大使館館員に所要の旅行制限を実施する(注:ポーランド当局が,3月2日から在ポーランド外交団に対する

旅行制限を撤廃したことに対応して,我が国も,3月10日,在日ポーランド大使館館員に対する旅行制限を解除した)。

上記措置とともに,既にポーランドに約束済の経済的支援は継続する旨,また,ポーランド国民に対する人道的支援は必要に応じ実施するとの観点から50万ドルを国際赤十字委員会の対ポーランド人救済事業に拠出した旨上記官房長官談話に併せ発表した。

(ハ) アルバニアとの外交関係設定及び大使館(兼館)設置

3月,アルバニアとの間に外交関係が設定されたのに伴い,同国への我が国大使館(兼館)を設置する国内法上の手続が,82年3月末完了した。

(ニ) その他東欧諸国との関係

5月ドイツ民主共和国のホネカー国家評議会議長が国賓として訪日し(共同コミュニケは資料編参照),首脳レベルでの相互理解が一層促進され,その際,両国外務大臣間で通商航海条約が調印された。

ユーゴースラヴィアとの関係では,5月にヴルホヴェツ外相が我が国を公式訪問し,その際,科学技術協定が調印された。

我が国の81年の対東欧8か国貿易は,総額11億ドル強で,ポーランドとの貿易が大幅に減少したことや世界的な経済停滞などもあり,前年に比し約10%減となった。なお,政府レベルの経済混合委員会が,ルーマニアなど3か国との間で,それぞれ開催された。

要人往来

貿易関係

民間投資

経済協力(政府開発援助)

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