第4節 中南米地域

1. 中南米地域の内外情勢

(1) 政情全般

(イ) 81年の中南米政情の焦点は,エル・サルヴァドル及びニカラグァ情勢を巡る中米問題であった。エル・サルヴァドルのドゥアルテ政権は,左翼反政府勢力の武力攻撃及び一部右翼分子のテロ活動にさらされながら,国政の民主化及び農地改革等の社会改革に努力し,82年3月には,制憲議会選挙を成功裏に実施した。一方,ニカラグァでは,サンディニスタ政権がキューバ,ソ連への傾斜を強める一方,国内では,反政府系新聞の圧迫,私企業連合幹部の逮捕等を行い,近隣諸国及び米国との関係を悪化させた。

(ロ) 中米地域以外の中南米情勢は,ボリヴィアを除きおおむね安定的に推移した。ボリヴィアでは,80年7月のクーデターにより成立したガルシア政権が,8月の反乱軍蜂起により辞任に追い込まれた後,政権は軍事評議会に委譲されたが,9月にはトレリオ新大統領(前陸軍総司令官)が就任し,小康状態を保っている。ブラジルでは,9月,病気のため一時入院したフィゲイレード大統領に代わり,シャーベス副大統領が憲法の規定に従い大統領代行を務め,同国の民主化の成熟度を示すものとして評価された。なお,フィゲイレード大統領は,11月,大統領職に復帰した。

アルゼンティンでは,12月に軍政3代目のガルティエリ新大統領が就任した。軍事政権下にあるアルゼンティン,チリ,ウルグァイ,及びボリヴィアにおける民政移行への具体的日程は,81年には示されなかった。

(ハ) 9月と11月にベリーズ及びアンティグァ・バーブーダがそれぞれ英国から独立し,中南米地域の国数は合計32となった。

(2) 域内諸国間関係

(イ) 中南米地域の二大国であるメキシコ及びブラジルは,積極的外交を継続した。メキシコは,カンクンにおける南北サミットの主催(10月),エル・サルヴァドルに関するフランスとの共同声明発表(8月),米国とニカラグァ・キューバ間を仲介する中米和平提案(82年2月)等,活発な独自の外交を展開した。ブラジルは,フィゲイレード大統領がコロンビア,ペルー、アルゼンティンを訪問し,経済協力・文化協定等の締結により二国間関係の緊密化を進めた。

中米では,エル・サルヴァドル,コスタ・リカ,ホンデュラスの3国は,ニカラグァの軍備増強に懸念を示し,82年1月,中米民主共同体を創設した。

キューバについては,同国の中南米の反政府勢力支援等を巡り,同国と近隣諸国との関係悪化が見られた。

(ロ) ヴェネズエラ,ガイアナ間の国境紛争については,70年に締結されたポート・オブ・スペイン議定書(ガイアナ西部地区の領有権を巡る紛争の12年間凍結を定める)の延長拒否をヴェネズエラが通告(12月)したことで,今後の成行きが注目される。

(ハ) 3月に発足したラテン・アメリカ統合連合(ALADI: Asociacion Latinoamericana de Integracion, LAFTA: Latin America Free Trade Associationに代わって成立した地域統合機関)は,既に2度にわたり臨時評価統合会議を開催し,譲許品目,特恵幅等の量的評価を行った。また,ラ米エネルギー機構(OLADE: Organizacion Latinoamericana de Energia)では,11月の閣僚会議において中南米エネルギー協力計画案が承認され,域外先進国への働きかけが積極化している。

(ニ) アンデス・グループ(ヴェネズエラ,コロンビア,エクアドル,ペルー及びボリヴィア)においては,1月のペルー・エクアドル国境紛争により地域統合の進行はほとんど停止するに至ったが,9月の第30回閣僚理事会においては,差当り各国の国家開発計画に応じた関心品目の貿易自由化を中心に,一応の成果が得られた。

(3) 域外諸国との関係

(イ) 対米関係

1月に発足した米国のレーガン政権は,安全保障及び経済開発の両面から,中米・カリブ地域に対し積極的働きかけを行うとともに,2月にチリ向け輸出に対する輸銀信用供与を再開するなど,カーター前政権下で人権,原子力問題等を巡って悪化していた南米諸国との関係の修復に努めた。

レーガン政権は,米国の安全保障上重要な地域である中米・カリブ地域において,反政府勢力が外部共産主義勢力の支援を得て勢力を拡張するのを座視することはできないとの考え方に立ち,特に中米問題に関し,強い姿勢で対応した。すなわち,米国は,エル・サルヴァドルについては,同国ゲリラに対し,ニカラグァを通じて外部共産主義勢力により武器供給等の支援が行われているとして,ゲリラの攻撃を受けている同国政府に対し,経済・軍事援助を大幅に強化した。また,ニカラグァについては,米国は,エル・サルヴァドル・ゲリラ支援を停止させるためのニカラグァの措置が不十分であるとして,対ニカラグァ援助を民間部門に対するものを除き停止したほか,エル・サルヴァドル・ゲリラ支援の中心的役割を果たしているのはキューバであるとして,キューバを強く非難した。

これに対して,ニカラグァ及び7月以降キューバも激しく反発し,米国の軍事的措置に備えて防衛体制を強化する等米国と右2国との関係が緊張した。

米国は,上記2国に対し強い姿勢を示す一方,ニカラグァとの間で関係調整の努力を行うとともに,キューバとの間でもメキシコの仲介により,ヘイグ国務長官・ロドリゲス国家評議会副議長会談を行う等対話の努力を行った。

レーガン政権は,カナダ,メキシコ,ヴェネズエラと共に,7月のナッソー(バハマ)での4か国外相会議を皮切りに,中米・カリブ開発構想の推進を図った。ナッソー会議では,この構想の基本方針がコミュニケで発表された。9月,10月には,これら4か国と中米・カリブ諸国との会合が各々開かれたほか,82年3月には,この4か国にコロンビアが加わり5か国外相会議が開催された。82年2月には,レーガン大統領自身が,中米・カリブ地域に対する特恵の導入,投資促進税制の適用及び緊急経済援助増額を骨子とした米国の具体的措置(行政府案)を発表した(関連演説は資料編参照)。

また,レーガン大統領は,メキシコとの関係改善にも努め,ポルティーリョ=メキシコ大統領と4度にわたって会談して首脳レベルでの信頼関係を築くとともに,米国とキューバやニカラグァとの間の緊張緩和に向けてのメキシコの活動を評価した。

(ロ) 対西側諸国関係

中南米諸国は,従来の過度の対米依存関係から脱却し,外交の多角化を図るとの観点から,我が国,西独,フランス,カナダなどの西側諸国との関係強化に努力しており,特に外国投資に対する要望が高まりつつある。

81年には,ブラジルのフィゲイレード大統領がフランス,西独,ポルトガルを訪問し,また,メキシコヘはトルドー=カナダ首相,カルポ・ソテロ=スペイン首相,ミッテラン=フランス大統領,サッチャー英国首相が訪問してポルティーリョ大統領と会談するなどブラジル及びメキシコの意欲的活動が目立った。

(ハ) 対共産圏関係

ソ連とキューバは緊密な関係を維持し,4月にはモスクワにおいて幾つかの経済協力協定が締結された。ソ連は,ニカラグァのサンディニスタ政権と交流を深め,また,5月にはメキシコ外相をソ連に招待するなどこれら2国との政治的接近を図る一方,アルゼンティン,ブラジル(デルフィン企画大臣,7月訪ソ)等南米諸国とは貿易を中心に経済関係を強化した。

中国の対中南米外交は活発化し,黄華副総理兼外交部長のヴェネズエラ,コロンビア訪問(8月),趙紫陽総理のメキシコ公式訪問(10月)のほか,中南米からは,エレラ=ヴェネズエラ大統領,レモス=コロンビア外相などの訪中が見られた。また,ブラジル及びチリが,中国との関係を最近それぞれ急速に深めていることも注目される。

(4) 経済情勢

(イ) 81年の中南米経済については,世界的な経済低迷,域内主要諸国におけるインフレ抑制策及び一次産品の価格低下と高金利の影響で,多くの国において低成長,高インフレ及び国際収支の悪化が続いた。

(ロ) 国連ラ米経済委員会(ECLA: Economic Commission for Latin America)の資料によれば,81年の中南米地域の平均GDP成長率は,80年の5.8%から1.2%(推定)に低下した。これは,戦後最低の伸び率で,人口増加率をも下回った。特に,中南米のGDP全体の30%を占めるブラジル,10%を占めるアルゼンティンでは,それぞれマイナス3%,マイナス6%とマイナス成長を記録した。

中南米経済のインフレ問題については,各国ともインフレ抑制を経済政策の最重点事項に掲げたにもかかわらず,ここ数年間,年を追って激化しており,81年の平均消費者物価上昇率は60.0%(推定)と80年に続き高率となった(79年53.8%,80年53.6彩,以上ECLA資料)。特に,アルゼンティン(131.3%),ブラジル(95%)等域内主要国の高率のインフレが注目される。これとは対照的に,メキシコ及びコロンビアは,28%と前年並みの水準であった。また,チリは,9%と最も物価が安定していた。

81年の中南米の貿易収支は,輸出量の増大と輸入量の減少によって,80年のマイナス10億2,000万ドルから81年にはマイナス4,500万ドルヘと改善された。しかしながら,経常収支については,国際市場の高金利と対外債務の増大による利子支払いのため,80年のマイナス280億ドルから81年にはマイナス337億ドルと悪化した。

また,中南米の81年末の対外債務残高は2,400億ドルに達した。

(5) 主要国の動向

(イ) メキシコ

(a) 内政面では,ポルティーリョ政権は,81年を「発展の年」と銘打って,同政権の最後の段階において,その成果を確固たるものにすることを目指した。しかしながら,経済面において,これまでの石油をテコとした高度経済成長のヒズミともいうべきインフレ,国際収支の悪化等の経済困難が顕在化し,また,これに起因する労働者,農民等による政府批判の動きが活発化した。

政治面では,与党立憲革命党(PRI)の次期大統領候補として現ポルティーリョ大統領の信任の厚いデ・ラ・マドリッド前予算企画相が指名されたことが注目される。同氏が次期大統領(82年7月4日大統領選挙,同年12月1日政権交代)になることは,確実視されている。

(b) 経済面では,引続き石油をテコとした高度経済成長政策をとり,実質7%~8%の高い成長を遂げたものと見られるが,反面,高率のインフレ,国際収支の赤字幅の増大,これに伴う公的対外債務の急増等の問題が深刻化した。

(c) 外交面では,豊かな石油資源と第三世界のリーダーとしての自負を背景に,史上初の南北サミット開催(10月),首脳レベルでの活発な外交活動(特に,レーガン米新政権との対話推進),中米・カリブ情勢に対する独自の外交展開等に示されるとおり,過去5年間のポルティーリョ政権期間中最も多角的かつ積極的な外交を展開した。

(ロ) 中米情勢

81年から82年にかけての中米情勢は,同地域が抱える貧富の格差等経済・社会改革の遅れ,経済情勢の困難及び外部勢力の介入等により,一般的に依然不安定なまま推移した。しかし,その間にあって,ホンデュラス,コスタ・リカ,エル・サルヴァドルでは大統領選挙,あるいは制憲議会選挙が順調に実施されたことは注目される。

(a) エル・サルヴァドル

エル・サルヴァドルにおいては,1月,反政府勢力側は「最終攻勢」と称して都市部への攻撃を行ったが,政府軍はこれを頓座せしめた。

この直後に発足した米国レーガン政権は,エル・サルヴァドルの反政府勢力に対して外部共産主義勢力の支援が行われている事態を座視し得ないとして,エル・サルヴァドル政府に対する軍事・経済援助の増大,エル・サルヴァドル・ゲリラ支援停止のための対ニカラグァ圧力の強化(対ニカラグァ援助停止等),エル・サルヴァドル問題に関する内外世論の喚起等積極的かつ強い態度で対応した。

一方,エル・サルヴァドル反政府勢力側は,送電線,橋梁の爆破等経済基盤破壊戦術を含む武力活動を継続した。また,都市部は政府軍がコントロールしながらも,一部山岳部における政府軍と反政府勢力との戦闘は膠着状態のまま推移した。

このような状況下で,エル・サルヴァドル政府は,82年3月に総選挙を実施し,制憲議会を発足させることが情勢安定化に向けての鍵であるとして,その準備に努力した。また,反政府勢力に対しては,武器を捨てて同選挙に参加するよう呼びかけた。

反政府勢力側は,政府側に対し対話を呼びかけたが,政府側は,これを「時間かせぎ」にすぎないとして応じなかった。また,反政府勢力側は,関係者の身体の安全が保証されないとして,選挙への参加を拒否した。

8月にフランス及びメキシコは,エル・サルヴァドルの反政府勢力が一つの政治的代表勢力であることを認め,同勢力が政治解決のための交渉に参加すべきであるとの共同声明を発表した。

これに対して,エル・サルヴァドルが内政干渉であるとしてフランス,メキシコ両国に抗議を行ったほか,ヴェネズエラ,コロンビア,グァテマラなど中南米の9か国は,上記声明はエル・サルヴァドルに対する内政干渉であるとして両国を批判する共同声明を発表した。

他方,社会主義インター及びパナマによる政府側,反政府側両者間の調停の動きも見られたが,実を結ばなかった。

こうした動きの中で,エル・サルヴァドル政府は,「選挙!そして解決を!」をスローガンに国民に呼びかけ,制憲議会選挙の実施について不動の姿勢を堅持した。同選挙は,82年3月,一部地域においてゲリラによる若干の妨害活動が見られたものの,全般的には,事前の予想をはるかに上回る大多数の国民が参加して順調に行われた。反政府勢力側が,事前に同選挙への参加をボイコットするようにとの激しい宣伝活動を行っていたことからすれば,同選挙結果は反政府勢力側の影響力の限界を示したものと言えよう。

4月には制憲議会が発足し,更にアルヴァロ・マガニャ臨時大統領の下に,主としてPDC(キリスト教民主党),ARENA(国民共和同盟),PCN(国民協議党)の三大政党出身者からなる新内閣が誕生した。

(b) ニカラグァ

ニカラグァにおいては,政府はその発足当時から複数政党制,混合経済体制及び非同盟主義を標榜してきているが,81年には,反政府系ラ・プレンサ紙に対する圧迫,COSEP(私企業連合)幹部の逮捕等に見られるようにサンディニスタ独裁化,左傾化の現象が強まった。

米国は,ニカラグァのエル・サルヴァドル・ゲリラ支援及び軍備増強に強い懸念を有し,4月には民間部門に直接供与する一部の援助を除き,大部分の対ニカラグァ援助を停止した。これ以降も,米国とニカラグァとの間で,関係調整のための協議が行われてきているが,ニカラグァはエル・サルヴァドル・ゲリラ支援を否定しており,関係調整は難航している。

(c) その他の中米諸国

石油を産出し中米随一の経済力を有するグァテマラにおいては,反政府ゲリラ活動に対し政府の治安対策が強化されたが,その根が絶えない状況の下で,82年3月7日に正副大統領・国会議員等を選出する総選挙が実施された。選挙は平穏裏に実施され,大統領にはルカス前大統領を継ぐゲバラ将軍が選出された。しかし,3月23日,軍の若手将校は,同選挙における不正,腐敗政治の打破を叫んでクーデターに決起し,同日,リオス・モント准将を議長とする3名から成る執政軍事評議会が結成され,クーデターは無血のうちに成功した。

流動的な中米情勢の中にあって,非武装,そして,安定した民主政治の伝統を維持するコスタ・リカにおいては,対外経済部門が極度に悪化し,債務支払い不能の状態に陥り,未曾有の経済危機に直面した。

カラン政権は,これに対し有効な対処をなし得ないままに推移し,82年2月,正副大統領・国会議員等を選出する総選挙が実施された。

その結果,野党国民解放党候補のモンへ氏が大統領に当選し,経済再建の課題を引き継ぐこととなった。

72年以来軍事政権下に置かれていたホンデュラスは,80年に制憲議会を発足させ,民政移管への準備を進めてきたが,11月に正副大統領・国会議員等を選出する総選挙を平穏裏に実施した。この結果,自由党候補のスアソ・コルドバ氏が大統領に選出され,82年1月、同大統領の下で10年ぶりに民政が復活した。

(ハ) パナマ

(a) 内政面では,7月,68年の革命以来パナマの最高実力者として君臨してきたトリホス将軍が,航空機事故により不慮の死を遂げたことで大きな政治的空白が生じ,パナマ内外は一時緊張したが,その後のパナマ政情は,安定的に推移した。

(b) 経済面では,建設部門を中心とする活発な民間投資とサーヴィス部門の伸長により,81年のGDP成長率は前年同様5%程度に達したと見られるものの,失業及び対外債務の累積が最大の問題であった。

(c) 外交面では,対米関係を基調としつつ,中南米,特に中米との関係を重視するとともに,我が国や西欧諸国との関係の緊密化を図る外交の多角化姿勢を維持した。

(ニ) コロンビア

安定した議会民主政治と豊富な天然資源に裏打ちされた経済力を有するコロンビアにおいては,内政は安定的に推移したが,過激派グループM-19等の動きも見られ,治安の維持が依然として重要な問題となっている。

ヴェネズエラと並ぶアンデスの雄国として,コロンビアは,81年,外交面において積極的な姿勢を見せた。

3月,上記M-19の動きをキューバが支援しているとして,対キューバ外交関係を停止した。8月末,エル・サルヴァドル問題に関するフランス・メキシコ共同声明が発表されると,直ちにヴェネズエラとともにイニシアティヴをとって,右共同声明は,エル・サルヴァドルに対する内政干渉であるとして両国を批判する中南米9か国共同声明の発表を行った。また,10月には,レーモス外相を現職の外相として初めて我が国及び中国に派遣し,対アジア外交の促進に乗り出したほか,カリブ地域に対する援助を活発化する等多角的な外交の展開に努力した。

(ホ) ヴェネズエラ

(a) 内政面では,エレラ政権が施政3年目を迎えたが,早くも83年末の次期大統領選挙に向けて与野党が一斉に活発な党内活動を開始した。既に,野党第一党のAD党は事実上候補者を決定し,与党COPEIの候補者指名も大詰めを迎えている。社会情勢については,81年末に地方におけるゲリラ襲撃事件,国内旅客機3機の同時ハイジャック事件はあったものの,国民は平静にこれを受け止め,二大政党を中心とする民主政治の堅固な基盤に影響を及ぼすところとはならなかった。

(b) 経済面では,スタグフレーションが続いているものの,国際収支,GDP,物価のいずれの面でも前年に比し改善が見られた。また,8月末には,民生向上を重視した待望の第6次5か年計画が発表されたが,年後半には,世界的な石油需要の減少の影響が見られ始めた。

(c) 外交面では,エレラ大統領が中南米,欧米諸国のほか,中国,インドを歴訪する等活発な首脳外交を展開し,また,南北サミットにも参加した。ヴェネズエラは南々協力を重視し,域内諸国に対する各種援助を行った。

(ヘ) キューバ

(a) 内政面では,80年末の共産党大会,81年末の人民権議会議員の改選,国家評議会メンバーの改選を通じて,カストロ議長を中心とする集団指導体制はより強固なものとなった。

(b) 経済面では,81年は当初の予定を大幅に上回り,対前年比12%の経済成長を成し遂げたとされているが,これは一つには大幅な経済不振に遭遇した80年と比較したためでもあると説明されている。また,平均賃金の14%引上げ,社会保障制度の拡充,農産物の政府買上価格の引上げ,労働者に対する各種報奨制度の導入等一連の措置と並行して消費物資の供給増大が図られ,政府は国民生活の改善に努めた。年末に,広範な消費物資について,小売価格引上げが行われたものの,上記の改善措置はそれなりの成果を挙げた模様である。

しかし,対外経済面では同国の輸出の大宗である砂糖の価格暴落,他方では先進工業国からの輸入品の価格上昇により,依然として厳しい情勢のまま推移した。

(c) 外交面では,米国レーガン政権の誕生に伴い,米国との関係が緊迫化した。特に,7月以降,両国首脳及び政府高官により非難合戦が繰り広げられた。しかし,11月にはロドリゲス国家評議会副議長兼閣僚会議副議長(対外部門担当)とヘイグ国務長官との秘密会談がメキシコ市で行われ,その後,両国の緊張関係は一時小康状態を保っていたが,82年に入り,エル・サルヴァドル,ニカラグァ等中米情勢を巡って再び険悪化の兆候を示した。一方,中南米諸国との関係も,キューバ難民問題,キューバの同地域の反政府勢力支援問題等を巡って悪化しており,エクアドルが外交関係の格下げ(3月),コロンビア(3月)及びジャマイカ(10月)がそれぞれ外交関係の停止及び断絶,また,コスタ・リカが領事関係の断絶(5月)を行った。

ソ連との関係は極めて緊密で,2月,カストロ議長が訪ソ(第26回ソ連共産党大会出席)したのをはじめ,政府及び軍首脳の交流も行われた。

(ト) ジャマイカ

(a) 内政面では,セアが政権が前政権の外交重視から内政重視へと政策転換を図り,経済再建を同政権の第一の課題として民間主導型の市場経済方式を導入する一方,経済協力を求めて自由主義陣営への接近を図った。

(b) 経済面では,援助国及び国際機関から必要な援助を得ることに成功し,また,特別経済政策も功を奏し,81年の経済は7年来のマイナス成長から初めてプラス成長に転じた。

(c) 外交面では,非同盟主義を堅持する一方,キューバに対しては内政干渉を理由に外交関係を断絶(10月)した。また,10月にセアが首相が我が国を訪問した。

(チ) ブラジル

(a) 内政面では,79年に誕生したフィゲイレード政権は,政党再編成,州知事らを次回から直接選挙とする選挙制度改正などを通じて民主化政策を進めてきたが,81年は,この民主化政策推進の中心人物と見られていたゴルベリー・ド・コウト・イ・シルバ文官長(ガイゼル前政権以来同職)の辞任,フィゲイレード大統領の病気など試練の年であった。82年に予定される総選挙(連邦上・下両院,州知事,州議会議員,市町村長,市町村議会議員)を前に,政府提出の選挙制度改正法案の国会による否決,野党第一党と第二党の合併への動きなど政局の動きは極めて活発になっている。

(b) 経済面では,インフレ対策及び国際収支対策に尽力した結果,95%という二けたのインフレ率へと低下した。また,貿易収支も5月に黒字に転じて以来連続して黒字を続け,81年全体では約12億ドルの黒字を記録した。しかし,81年における経済成長率は,政府の当初見込みである約5%を大きく下回り,マイナス3.0%となった(80年は8.0%)。外貨準備高は,80年末の約69億ドルから75億ドルに増加した。他方,対外債務残高は,614億ドル(80年末538億ドル)に達したものと見られる。

(c)外交面では,フィゲイレード政権は,現実主義に基づく自主外交を基本方針として,近隣中南米諸国,西欧先進国,中近東・アフリカ諸国との関係強化を図っている。米国との関係は,レーガン政権発足後改善を見,10月のブッシュ米副大統領のブラジル訪問は,このような米伯関係を示すものであった。一方,ソ連・東欧諸国とは,政経分離の立場から経済関係強化を試みている。また,最近アジア諸国との関係強化にも努力しており,82年3月には,ゲレイロ外相が我が国及び中国を訪問した。

(リ) ペルー

(a) 内政面では,80年7月の民政移管後2年目に入り,ベラウンデ政権は,与党人民行動党内部の派閥争いの顕在化,テロ活動の頻発等の問題を抱え,その対策に苦慮した。

他方,ベラウンデ大統領に対する厚い信望,国民による民政及び与党への支持,人民行動党とキリスト教人民党との協力関係の継続,軍部の対政府協力姿勢の明確化などの明るい要素も見られた。

(b) 経済面では,インフレ(81年72%),失業問題等が依然として改善されておらず,経済運営がべラウンデ政権の重要課題となっている。

81年の経済成長率は4%(80年は3.6%)であった。

(c) 外交面では,近隣諸国及び欧米重視の政策をとり,また,国連等国際機関においても積極的な政策をとった。ペルーの職業外交官であるペレス・デ・クエヤル大使が,12月,国連事務総長に選出されたことは,ペルー外交上特筆される出来事であった。

(ヌ) アルゼンティン

(a) 内政面では,軍事政権の枠内とは言え,1年間に3人の大統領が交代するという混迷の81年であった。

すなわち,3月にビデラ大統領の後を受けて登場したビオラ大統領は,12月,健康上の理由及び経済運営の手詰まりから,軍事評議会により解任された。同時に,後任大統領としてガルティエリ陸軍総司令官(55歳)が任命され,軍事政権3代目の大統領に就任した(任期は84年3月まで)。

(b) 経済面では,深刻な不況(マイナス6.1%の成長率),インフレの再燃(131.3%),為替・金融の混乱(ペソは,80年12月の1ドル=2,000ペソから81年12月には10,000ペソに下落),国際収支困難等の経済危機に陥った。

(c) 外交面では,3月就任直前のビオラ大統領の訪米に見られる対米関係の改善をはじめ,対ソ経済関係の発展,対ブラジル関係の強化などが目立った。

(ル) チリ

(a) 内政面では,3月に新憲法が発効し,ピノチェット大統領は同憲法の過渡規定に基づき大統領に就任した(任期は8年)。この憲政復帰により,ピノチェット政権はますますその安定性を強めている。

(b) 経済面では,現政権の自由開放政策が功を奏し,77年以降平均8%の成長を遂げていたが,81年には世界的な景気後退及び銅などの非鉄金属の価格下落の影響を受け,約4%の成長にとどまった。

(c) 外交面では,対米関係はレーガン大統領の登場以降急速に改善され,6月のロハス=チリ外相の訪米,8月のカークパトリック米国連大使のチリ訪問等をはじめとする政府要人の相互訪問が積極的に行われた。

(ヲ) ボリヴィア

(a) 内政面では,80年7月の軍事クーデターにより,ガルシア陸軍最高司令官を大統領とする軍事政権が樹立された。しかし,81年に入り,ガルシア体制に反対する騒擾事件が軍部内で頻発し,8月,ガルシア大統領は辞任した。政権は,いったん軍事評議会に委譲された後,9月,トレリオ陸軍最高司令官が大統領に就任した。

(b) 経済面では,81年の成長率が,前年比0.6%減になるなど依然低迷を続けているが,82年2月,政府は76%の平価切下げ,財政支出の削減等から成る経済措置を発表した。

(c) 外交面では,80年のクーデター以来ボリヴィアとの外交関係を制限していた米国は,トレリオ政権の樹立後の11月に外交関係を正常化した。

2. 我が国と中南米諸国との関係

(1) 全般的関係

我が国と中南米地域との間には従来困難な政治問題もなく,伝統的友好関係が保たれてきている。特に,経済面では,貿易・投資関係を中心に緊密の度を深めており,我が国の主要な投資先であるとともに,一次産品の供給先でもある。かかる経済的相互補完関係を基礎としつつ,対話を深め,交流の幅を拡大するため,我が国は,要人の相互訪問の活発化,経済・技術協力の拡充,文化交流の促進等に努めている。また,中南米地域には100万人近い邦人移住者及び日系人が居住し,善良な市民として各国の社会開発及び我が国との関係強化に大きく貢献しているが,このような人的紐帯は,日本と中南米の友好関係を支える重要な要素の一つとなっている。

(2) 経済関係

(イ) 貿易

81年の対中南米貿易は,我が国通関統計ベースで,輸出105億1,563万ドル(対前年比17.9%増),輸入66億6,862万ドル(同17.0%増)と順調に伸びた。我が国の黒字幅は,約38億ドルに拡大した(79年20億ドル,80年32億ドル)。貿易の国別構成については,従来の特定国集中の傾向は変わらず,ブラジル,メキシコなど上位6か国の合計は,輸出では74%,輸入では82%のシェアとなった。

国別動向では,輸出については,チリの大幅増(自動車,テレビなど),輸入については,メキシコ,ヴェネズエラ,ペルー、エクアドルの石油輸入に伴う増加が目立った。

(ロ) 投資

3月末現在の我が国の対中南米直接投資許可実績は,累計ベースで61億6,800万ドルとなっており,我が国の投資総額に占めるシェアは16.9%で,アジア(26.9%),北米(26.8%)に次いで第3位となっている。

国別特徴は,ブラジルが対中南米投資総額の50%近い圧倒的シェアを占めているが,近年メキシコ,パナマ等への投資が急増している。80年度単年ベースでは,5億8,800万ドル(シェア12.5%)と79年(12億700万ドル)に比し半減したが,北米,アジアに次いで第3位の実績を示した。

(ハ) 各種レベルの経済交流

政府レベルの交流としては,5月にメキシコ・日本機械技術見本市が,6月には日墨経済合同委員会が,それぞれメキシコ市にて開催されたほか,11月には,総勢131名から成る日墨貿易交流促進ミッションがメキシコを訪問し,メキシコと我が国の貿易拡大に大きな成果を収めた。また,民間レベルでは,日玖(キューバ)経済懇話会合同会議(3月)及び日智(チリ)経済委員会がそれぞれ東京で開催されたほか,経済団体や民間企業から数多くのミッションが派遣された。

(3) 文化関係

最近の我が国と中南米の関係で注目されるのは,文化面における政府・民間レベルでの交流が緊密化していることである。81年度は,ペルー、メキシコ,パラグァイ,チリに対し,これらの国の教育,文化振興に協力するための文化無償協力の実施,中南米各国における巡回日本映画祭及び日系人の協力を得た「日本文化週間」の実施,日本語普及・日本研究の助成など多彩な協力が行われた。また,5月~6月にはメキシコにおいて,日本・メキシコ両政府及び民間団体の協力の下に,大相撲巡業,映画祭,音楽会等を内容とする「メキシコ・日本旬間」が開催された。更に,8月には,80年5月に大平総理大臣がメキシコを訪問した際に設立の意図を表明した日墨友好基金が発足した。100万ドルから成るこの基金は,文化交流の諸プロジェクトを助成することを目的とするものである。

 

要人往来

貿易関係

民間投資

経済協力(政府開発援助)>

 

 

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