第3節 北米地域

1. 北米地域の内外情勢

(1) 米国

(イ) 内政

(a) レーガン大統領の基本姿勢と経済再建計画

1月20日,第40代米国大統領として就任したレーガン大統領(就任演説は資料編参照)の基本姿勢は,政府の役割の縮小と民間の活力の再生を通じた経済再建,軍備増強と力による平和と安定の維持である。

このような方針に基づき,レーガン大統領は,2月,歳出予算増加額の大幅削減,大幅減税,政府規制の緩和,安定的通貨政策を柱とする「経済再建計画」を発表し,歳出削減と減税実現のための議会対策に全力を挙げて取り組んだ。その結果,7月末までに大幅な歳出削減のための予算調整法案と減税法案の議会通過を見た。これは,一般に,ニュー・ディール以後50年間における財政政策上の最も急激かつ影響の大きな転換であると受け取られ,レーガン大統領は「指導力ある大統領」との評価を得た。

他方,経済情勢の低迷によって,レーガン政権は,歳出削減努力にもかかわらず,再三大幅な財政見通しの改定を余儀なくされ,84年度均衡予算の実現という公約達成が不可能となったばかりか,82年度における財政赤字は,史上初めて1,000億ドルの大台を突破する可能性さえ生じている。レーガン政権にとって,経済・財政問題の改善がますます大きな課題となっている。

(b) 国防力強化

レーガン政権は,ソ連の軍備増強に対処する強い意志の表明として,国防予算を歳出削減の対象外とする方針を打ち出すとともに,8月,中性子爆弾の製造決定を確認し,10月,MXミサイル,B-1爆撃機,トライゲント潜水艦を中心とする戦略戦力総合整備・近代化計画の決定を公表した。そして,82年度1,828億ドル(前年度比実質7%増)に上る国防歳出予算を成立させたのに続いて,83年度予算教書においても,実質6%減(国防費を除く)の超緊縮予算の中にあって,国防費のみ唯一大幅な増加(2,210億ドル,実質10.3%増)を図ることを提案した。

このような国防強化の方針自体は,基本的に国民の支持を得ているが,福祉予算の削減に対する不満や増大する財政赤字に対する批判を背景として,国防費の増大幅が大きすぎるとの声も高まりつつあり,レーガン政権が既定方針どおり国防費の増加を実現していくことは次第に難しい見通しとなっている。

(c) レーガン政権と議会の関係

81年は,レーガン大統領にとって,議会で大きな勝利を収めた年であった。その主なものとして,前述の歳出削減,減税に加え,対サウディ・アラビアAWACS(Airbone Warning and Control System)売却の承認,対外援助歳出法の成立(78年以来初めてであり,その間は毎年暫定予算の下で運用されてきた)等がある。このようなレーガン大統領の議会対策の成功は,ジョンソン大統領以来の強力な政治的指導力を示すものであると評価された。その成功の要因としては,80年選挙の圧勝を背景としたレーガン大統領の指導力,説得の巧みさ,共和党議員の団結,民主党の亀裂,特に南部保守議員の分派行動等が挙げられる。

しかし,80年選挙の余勢が消え,経済・財政問題が深刻化するにつれて,与党共和党内にも不満や批判が生じ,加えて82年11月には中間選挙を控えているだけに,議会をレーガン支持でまとめるのは容易でない状況にある。

(d) 世論の動向

レーガン大統領狙撃事件(3月)という不幸は起こったものの,レーガン政権の滑り出しは順調であった。大統領に対する世論支持率は,国民の保守化傾向,レーガン大統領の人柄や施政スタイルに対する好感,その政策に対する期待を反映して,5月には68%に達した。しかし,議会対策での成功等レーガン政権の業績にもかかわらず,景気後退が長引き,失業が増大するにつれて,レーガン大統領に対する国民の期待と支持が揺らぐに至っている。すなわち,大統領支持率は漸次低下し,82年3月には46%となったが,これは大統領就任後同時点の支持率比較において,戦後歴代大統領中最も低いものである(ギャラップ調査)。この要因は,経済情勢にあるが,レーガン政権の外交・国防政策に対する支持も減りつつあることは注目される。

(e) 82年年頭一般教書

82年1月,レーガン大統領は,就任後初めての年頭一般教書演説を行った。それが,米国の現状とレーガン政権の課題を反映し,経済・財政中心の教書となったのは当然であり,その中で大統領は,従来の方針を堅持していくことを明らかにした。すなわち,経済再建計画を修正する必要はなく,逆にその遂行によってのみ,経済・財政の再建が可能であると強調した。財政赤字の続く限り,経済の回復は難しいとの観点から,赤字圧縮のための増税を主張する声もあったが,大統領はこれを退けるとともに,国民に対し,歴史上最大の減税というこの好機を生かし,貯蓄や投資をするよう呼びかけた。同教書については,そのほかに,新連邦主義計画(「小さな政府」,州権尊重の思想から,連邦政府の事業を州・地方政府レベルに移管していくもの)及び都市再開発計画(「フリー・エンタプライズ・ゾーン」を設置し,企業進出,雇用増大を図り,不況に悩む都市の状況を改善ぜんとするもの)の提案が関心を集めた。

レーガン大統領のこれら方針に対しては,依然として改善の見通しの立たない経済・財政の状況を背景に,各方面からの不満や批判が強まっているだけに,レーガン大統領が経済再建計画を中心とした基本政策をいかに維持し,実効を挙げることができるか注目されている。

82年におけるレーガン大統領の政権運営は,難しくならざるを得ない状況にあると言えよう。

(ロ) 外交

(a) レーガン政権は,発足以来,ソ連の軍事力増強と第三世界への進出に強い危機感を表明してきており,これに対処するために,外交,国防,経済各分野の政策を総合的に駆使して「強い米国」を再現し,「力による平和」を確立することに努めている。そして,これまでに,(i)ソ連の軍備増強に対する強い意志の表明として国防力の強化を図るとともに,(ii)同盟・友好国首脳との対話を通じてこれら諸国との関係強化に努め,また,(iii)エジプト,イスラエル,穏健アラブ諸国,中国,パキスタン,エル・サルヴァドル等戦略的に重要な位置にある友邦への支援を強めてきた。

(b) こうした中で,79年末のアフガニスタン問題発生以後大幅に後退した米ソ関係は,ソ連に対する確固たる姿勢を強調するレーガン政権の下で,更に厳しいものとなった。

レーガン政権は,過去のデタント政策がソ連の軍事力増強や第三世界への進出を阻止し得なかったことへの反省から,米国自身の力の強化に努める一方,米ソ関係改善のためには,ソ連が「抑制」と「相互主義」を行動規範として尊重することが何よりも重要であるとの立場をとってきている。そして,この点をソ連に理解せしめるべく,特に軍備管理,経済関係及び世界各地でのソ連の行動(アフガニスタン問題,ポーランド問題等)を関連づけつつ,厳しい対ソ警告を繰り返してきた。

しかし,他方では,安定した東西関係の再構築に向け現実的に対処する姿勢も示し,81年後半には,ニューオルリンズにおける演説でヘイグ国務長官が,米ソ間に50回以上もの実務レベルの接触があったことを明らかにし,更に,国連総会の機会に行われた米ソ外相会談では,11月30日からジュネーヴで中距離核戦力(INF)削減交渉を開始することで合意を見た。また,同INF交渉に先立ち,レーガン大統領は,INF削減に関するゼロ・オプション提案(関連の「平和と安全保障問題に関する演説」は資料編参照)やSALT(戦略兵器制限交渉)に代わるSTART(戦略兵器削減交渉)の開始等4項目から成る軍備管理政策を明らかにした。

81年末のポーランド情勢の悪化は,ともかくも対話の兆しを見せ始めた米ソ関係を更に後退させるものであり,米政府は,ソ連の抑制を求めるためのシグナルとして対ソ措置(12月29日)に踏み切るとともに,西側同盟国にも協調を求めた。しかし,この間にも「危機の時にこそ政府間の対話が必要である」(ヘイグ国務長官)との観点から,再度の米ソ外相会談(82年1月,ジュネーヴ)の実施,INF交渉の継続等対話の維持に努めた。なお,1月の外相会談では,ポーランド問題に多くが費やされた模様であり,懸案のSTART等について進展はなかった。

(c) 同盟国との関係では,東西の軍事不均衡を是正し,ソ連の行動を抑止していくには西側の結束が不可欠であるとして,我が国や欧州首脳の相次ぐ訪米,NATOあるいはオタワ・サミット等を通じて緊密な協議・協調に努めた。

(d) アジアについては,日米関係をアジア政策の礎石としながら,ヘイグ国務長官の訪中(6月),米韓首脳会談(2月),在韓米地上軍の駐留継続,ASEANとの協力関係強化,対パキスタン援助等を通じ,友邦との関係強化を図った。

(e) 中東では,カーター前政権のキャンプ・デーヴィッド和平合意の路線を踏襲しつつ,中東和平の推進に努めるとともに,サウディ・アラビアに対するAWACSの売却等域内穏健派諸国との戦略的協力関係の強化に努めた。

(f) 中米地域は,ソ連やキューバの浸透を阻止するとの観点から,レーガン政権が最も重視している地域の一つである。そのため,エル・サルヴァドル問題を重視し,同国に対する支援を強化するとともに,中米・カリブ地域の安定化のため同地域開発構想(関連の米州機構理事会における大統領演説は資料編参照)を推進した。

(g) アフリカでは,西側コンタクト・グループとの協議等により,ナミビア問題の平和的解決に努めたほか,外部勢力(ソ連,キューバ,リビア)の脅威にさらされているとするスーダン等への支援を強化した。

(ハ) 経済情勢

(a) 81年全般の経済情勢

80年夏から始まった景気回復は,異常高金利のため短期間で終了し,8月から戦後8回目の景気後退に入った。経済成長は,10月~12月,年率4.5%減の後,82年1月~3月には年率4.3%減と再びマイナス成長となった。

需要面では,金利動向に最も左右されやすい住宅着工と自動車販売数は,いずれも81年前半に比し,後半には半減した。

生産面では,8月以降,鉱工業部門のうち軍事宇宙産業を除くすべての部門で,生産は軒並み減少した。製造業稼動率,製造業在庫率のいずれも,81年末には80年後退期の水準となった。

雇用面では,7月に7%であった失業率は,82年5月には9.5%となり,戦後の最高(75年5月の9.0%)を上回っている。

貿易面では,81年上半期に石油輸入の減少から2割程度縮小した貿易赤字は,ドル高などの影響から年後半には再び拡大傾向に転じた。

しかし,経常収支は,海外投資収益の増加から,80年夏以来の黒字を維持している(81年65.8億ドル)。

金融面では,景気後退の進行とともに9月から金利は低下に転じ,9月中旬の20%台から12月初の15%台へ低下した。しかし,将来の財政赤字見込みの影響から,高水準の金利(プライム・レート16.5%)が続いている。

インフレ率の改善は著しく,食料・エネルギー価格の安定と景気後退の影響から,80年13.5%であった卸売物価は,81年には9.2%に鈍化し,消費者物価も13.5%から10.4%に鎮静化した。

(b)82年初頭の動向と政府の経済政策

最近の景気指標をみると,住宅着工と自動車販売は低水準ながら下げ止まりつつあるものの,引続き民間設備投資,輸出の停滞が続いているほか,4月の鉱工業生産が0.6%減と3か月連続で落ち込んだ。

また,同月製造業稼動率が71.1%へ低下し,戦後の最低記録である69%へ近づいているほか,製造業在庫率も1.75か月へ上昇し,80年景気後退期のピークを上回った。失業率は,5月に9.5%となった。

他方,インフレ率は引続き低下しており,住居,衣料,エネルギー価格等の安定から,4月の消費者物価は対前年同月比6.6%,卸売物価は同3.1%まで低下した。

金融面では,マネー・サプライが僅かながら減少傾向にあるため,短期市場金利は,2月中旬以降若干低下した。しかし,長期金利は,財政赤字見込みのため,依然高水準が続いている。

このような情勢下,大幅な財政赤字を将来どの程度縮小できるかが当面の最大の政策課題になっている。83年度の予算審議は,国防費,社会保障関係費の削減及び増税を巡って政府共和党と民主党が激しく対立していたが,6月には第1次予算決議が成立した。予算決議は,今後の個別の歳出法案作成の指針となるもので,83年度の財政赤字は1,039億ドルとされている(2月の予算教書では915億ドル)が,予算関係者の間では赤字幅は更に大きくなるとの見方が強く,議会予算局の見通しでは1,164億ドルとされている。いずれにせよ,大幅財政赤字の恒常化・慢性化が必至の情勢にあり,レーガン政権が堅持している減税,軍事費増加などの経済政策を巡る情勢は依然厳しいものがある。

(2) カナダ

(イ) 内政

長年の懸案であった憲法改正が成就した。80年10月に議会に上程された憲法改正案は,各州の反対に遭い審議は難航したが,最高裁が9月に改憲手続につき判決を下した後に開催された11月の連邦・州首相会議では,ケベック州を除く9州と連邦との間に妥協が見られ,憲法改正案につき合意が成立した。この結果,右改正案は,12月にカナダ連邦議会を通過し,英国議会に送付された後,82年3月,英国議会を通過した。これにより歴史的とも言うべき憲法のカナダ化,人権憲章・憲法改正手続の明文化が成ったが,カナダの統一を目的とした憲法改正が憲法改正に反対していたケベック州を逆に孤立させる結果となり,ケベック問題は国家統合上の不安定要因として将来に残されることとなった。

(ロ) 外交

(a) カナダは,81年においても活発な外交活動を展開した。7月のオタワ・サミットでは,議長国として先進国首脳間の意見調整に積極的リーダーシップを発揮し,会議を成功に導くとともに,10月のカンクンでの南北サミットでも共同議長国として活躍した。

(b) カナダ外交の伝統的柱である対米協調は,カナダのエネルギー・外資政策及び米の保護主義的傾向等を原因とする経済摩擦などにより,やや陰りが見られたが,3月のレーガン米大統領のカナダ訪問,7月のトルドー首相の訪米等の首脳外交では,諸般の事項に関する意見交換と両国の結束強化が図られた。

(c) また,トルドー内閣は,これまでの日米欧との協力関係に加え,中南米・カリブ海諸国,ASEAN諸国との関係を緊密化する考えを明らかにした。

(ハ) 経済情勢

81年前半,景気は若干回復したが,後半には急激に悪化し,同年の実質経済成長は3.0%にとどまった。

消費者物価は,81年に入り一層上昇傾向を強め,同年の消費者物価上昇率は,12.5%となった。また,失業率も81年後半に至り,8%台に上昇し,戦後最高のレベルとなった。更に,金利水準も米国の金利動向に大きく左右され,8月には公定歩合がカナダ金融市場最高の21.24%に達し,その後低下したとはいえ,15%~16%台を保っている。製造業の操業率も記録的に落ち込んでおり,カナダ経済の運営の困難さの一端を示している。

一方,国際収支も81年に入り,輸出の伸び悩みなどにより,大幅に悪化し,同年の赤字額は14.7億ドルとなった。

11月に,引締型予算の発表と同時に,各種優遇税制の廃止等を柱とする大幅な税制改正が発表された。物価抑制の一環としての財政赤字の縮小及び税負担の公平化を図ろうとする税制改正については,評価する向きも強かったが,景気の一段の落込みや税制改正のもたらす産業界に対する影響等に関し,厳しい批判も起こり,結局12月には税制改正の修正を行わなければならなかった。82年に入っても,景気後退は深刻化し,新たな財政・金融政策を求める声も少なからず出てきている。

80年10月に発表された「国家エネルギー計画」については,当初,州の資源所有権を連邦が侵害するものであるとして批判の声もあったが,9月から,連邦政府は主要産油州と交渉を締結し,トルドー政権のエネルギー政策も一応軌道に乗り始めた。しかしながら・外資系全業のカナダからの撤退に伴う悪影響により,探鉱・開発活動は低迷を続けている。

11月にカナダ政府は,80年代経済開発大綱を発表し,エネルギー分野のほか運輸対策にも重点を置きつつ,大規模プロジェクトをテコに国家経済再生を図ることとなった。

2. 我が国と北米諸国との関係

(1) 米国

(イ) 日米関係全般

日米安保条約によって固く結ばれた政治・安全保障関係,往復600億ドルを超えるに至った貿易・経済関係をはじめ,科学・技術,教育・文化等広範な分野にわたる日米協力関係は,両国民に多大の利益をもたらし,また,世界の平和と繁栄に寄与している。このような日米関係は,81年においても全体として順調に進展したと言える。

一方,米国においては,今日の厳しい国際情勢,困難な国内経済問題及び大幅な日米貿易不均衡等を背景として,特に米議会を中心に,自由・民主主義,開放経済に立脚した国際秩序の維持・強化のため,我が国に一層大きな貢献を求める声が高まった。特に,米国は我が国に対し,一層の防衛努力と市場開放を期待している。

このような米国の期待を踏まえ,また,我が国の国力と国情にふさわしい国際的責任と役割を果たすため,我が国の自主的努力を通じて,日米関係を更に強化・発展させていくことが,今後の我が国外交の大きな課題の一つであると言える。

(ロ) 日米経済関係

(a) 81年の日米経済関係

81年の最初の課題は,自動車問題であった。この問題は,紆余曲折を経たが,5月に今後3年間の対米輸出自主規制(1年目は168万台)を行う旨日本側が発表し,一応決着を見た。こうした我が国の措置について,レーガン大統領から謝意の表明があるとともに,日米両国は,自由貿易の維持と強化に引続き努力する決意を確認した(5月の鈴木総理大臣訪米時)。

その後,日米経済関係は,しばらく平穏に推移し,例えば,半導体については,秋までの話合いによって,相互に関税を引き下げることで合意を見,建設的な進展があった。

9月には,レーガン政府の重要な経済担当高官との初めての出会いとして,第4回日米高級事務レベル会議が開かれ,世界経済等について率直な意見交換が行われた。このころから,米国の景気低迷もあって,日本市場は閉鎖的という議論が出され,貿易問題について,更に突っ込んだ意見交換を行うことを目的として,日米貿易小委員会が設けられた。

10月以降,ボールドリッジ商務長官,リーガン財務長官等が相次いで来日し,拡大する貿易不均衡に強い懸念を表明し,日本市場の開放を要望してきた。

以上を背景に,日本の対応策を検討すべく経済対策閣僚会議が設けられ,東京ラウンド合意に基づく関税引下げの一律2年分前倒しの実施が決定された。また,12月には,第2回日米貿易小委員会が東京で開催され,米側は日本市場の早急な開放が必要であるとして,次回会合までの進展を期待する旨表明し,日本側も自由貿易体制の維持と対米通商関係円滑化の努力を払っている旨述べた。

なお,地中海実バエ問題については,8月に日米防疫専門家会合が行われ,カリフォルニア州産果実が対日輸出される際には予め消毒すること等が合意された。しかし,その後,日本側の検疫措置は不当に厳しいとの米国の申入れがあり,82年1月に検疫専門家会合が開かれ,ここで米国の当面の最大の関心事であるレモンにつき,規制地域外のものは,4月10日までの期間中は消毒なしで対日輸出できる道が開かれることとなった。

(b) 82年当初の貿易問題

1月中旬,ワシントン,ニューヨークを訪問した安倍通商産業大臣に対し,米国は,日本の市場開放努力は評価するも,具体的成果を待つとの強い期待感を表明した。同月30日の経済対策閣僚会議では,67項目に及ぶ輸入検査手続等の改善及び市場開放問題苦情処理推進本部(いわゆる通商オンブズマン)の設置等が決定された。2月には自民党の国際経済対策特別調査会の江崎調査会長を団長とするミッションが訪米し,日本側措置を説明したが,米側からは日本市場の開放に関し極めて厳しい要請が繰り返された。

このような事態を背景として,3月に第3回日米貿易小委員会が行われ,米国側は日本の努力を評価しつつも,残存輸入制限,タバコ,準カルテル行為や「系列」などの眼に見えない障壁,規格制定の「透明性」,サービス貿易等を巡り,一層の市場開放を要請した。

3月下旬,櫻内外務大臣が訪米し,レーガン大統領ほか米政府・議会要人と会談した際,今後の日本市場開放については,ヴェルサイユ・サミットを念頭においてできる限りの努力を払いたい旨表明した。

なお,1月末から,米国議会に多数のいわゆる相互主義法案が提出された。「相互主義」自体は,相互の市場を開放し,貿易の拡大を図るという意味ではGATT等においても用いられてきた概念である。しかしながら,いわゆる相互主義法案においては,相手国の貿易障壁により米国産品の市場アクセスが制限されていると認められた場合には,これと等しいだけ当該国の対米市場参入を制限し得るという保護主義的色彩の強い考え方として示されている。

米国政府は,3月24日の上院公聴会において,国別,セクター別の相互主義には明確に反対であるとの立場を明らかにしており,目下議会において各種法案の調整を行っているところであり,その行方が注目される。

(ハ) 日米安全保障条約

(a) 緊密な協議・協力

日米安保条約は,我が国のみならず,極東の平和と安全の維持に大きく寄与してきている。81年においても,日米安保条約の円滑かつ効果的な運用を図るため,日米間において引続き緊密な協議及び協力が行われた。

3月には,伊東外務大臣がレーガン米新政権成立後の初の我が国閣僚として訪米し,安全保障問題についてヘイグ国務長官,ワインバーガー国防長官などと幅広く意見交換を行った。次いで,5月には,鈴木総理大臣が訪米し,レーガン大統領と会談した(共同声明は資料編参照)。同会談においては,国際情勢及び二国間情勢について幅広く意見交換が行われたが,同会談に際し,レーガン大統領から,日本が憲法その他の制約の範囲内で従来より防衛力の整備に努力してきたことに理解を示すとともに,引続き防衛力の整備に努力するよう期待する旨の表明があった。これに対し,鈴木総理大臣は,防衛力整備については,今後とも世論の動向,国民意識の状況,財政の状態,他の政策との調整,近隣諸国への影響を考えつつ,憲法の枠内で自主的に整備していきたい旨述べた。

更に,82年3月には,櫻内外務大臣が訪米し,レーガン大統領,ヘイグ国務長官,カルルッチ国防長官代行などと現下の国際情勢及び二国間情勢につき意見交換を行った。その際,米側は,82年度予算案に見られる我が国の防衛努力を評価するとともに,一般的な形で我が国の継続的な防衛力整備についての期待を表明し,これに対して,我が国は,防衛計画の大綱に従って着実に防衛力を整備していくとの基本的な考え方を説明した。

また,82年3月には,ワインバーガー国防長官が来日し,国際軍事情勢,安全保障問題などについて鈴木総理大臣,櫻内外務大臣及び伊藤防衛庁長官と意見交換を行い,我が方から改めて日本が行っている防衛努力についての説明を行った。

なお,82年1月には約3年ぶりに第18回日米安全保障協議委員会が開催され,日米両国が共に関心を有する極東の国際情勢等について意見交換を行うとともに,「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)に従って,日本以外の極東におげる事態で,日本の安全に重要な影響を与える場合の日米間の協力についての研究を行うことが望ましいことに双方の意見の一致が見られた(右研究は1月末正式に開始された)。

(b) 日米安保体制の円滑な運用

政府は,日米安保条約・地位協定の目的達成と施設・区域周辺地域の経済的,社会的発展との調和を図るため,在日米軍施設・区域の整理統合を推進してきたが,81年においても施設・区域の全面返還・一部返還が相当数実現した。

また,82年度の在日米軍関連予算は,そのより円滑な駐留に資するよう前年度に引続き増額された。

(ニ) 日米航空交渉

(a) 78年3月以来中断していた日米航空協定改定交渉は,80年9月及び81年1月の非公式協議を経て交渉再開が合意され,その後,82年3月まで公式・非公式協議を7回にわたり開催し,日米間の永年の懸案しである航空問題に決着をつげるべく緊密かつ真摯な努力が行われた。

(b) その間,交渉の主要項目は,「路線権」,「以遠権」,「空港使用条件」,「指定企業数」,「輸送力」,「運賃」,「チャーター」及び「第5の自由」の8分野にわたり一括解決を目指して交渉が行われた。

(c) 82年3月,サンフランシスコにおいて開催された交渉は,すべての懸案を解決するための最終会合とするとの82年1月の日米双方の合意に基づき開催され,合意の達成に双方が努めた。しかし,右交渉の大詰めに至り,一括解決の見通しが立たなくなったため,一括解決案の主要項目であった輸送力調整方式・運賃問題等を棚上げし,日米両国間で当面処理を要すべき争点の絞られた関心問題のみの妥結を図るとの部分合意案が日米双方から各々提示された。

(d) 部分合意案については,「日本側に追加の以遠権を与えるための合意が成立するまで,米企業の日本以遠運航を現状のまま凍結する」との日本案と「日本企業のシカゴヘの貨物専用便の運航は認めない」とする米案を巡り各々対立し,最終的妥結に至らず,交渉は不調に終わった。3月末現在,日米双方が航空問題打開への糸口を見出すべく鋭意努力している。

(ホ) 日米原子力問題

5月の日米首脳会談で,両国間の原子力諸懸案事項の「恒久的な解決」を早期に図るべく,両国政府が速やかに協議を開始すべき旨意見の一致を見た。また,7月には,「核不拡散及び原子力平和利用協力に関するレーガン大統領声明」が発表され,原子力開発に関する米国の積極的な姿勢が打ち出された。これらを受けて両国間で交渉が行われた結果,10月末,東海再処理施設における米国産核燃料の再処理に関する新しい日米共同決定文書が署名され,同時に共同声明その他の関連文書が発表された。

これに基づき,両国政府は,84年末までに,日米原子力協定上の諸規定が,「予見可能で,かつ,信頼性のある態様」で実施され得るような長期的取決めを作成することとなっている。また,それまでの間,東海再処理施設においては,年間最大設計容量までの再処理を行い得ることとなったほか,商業規模の第二再処理工場の建設についても,「主要な措置はとらない」との従来の制約がなくなり,建設に着手できることとなった。

また,82年2月には,ワシントンにおいて日米原子力事務レベル協議が行われ,上記の「長期的取決め」作成問題等についての意見交換が行われた。

更に,82年6月には,米国の新プルトニウム利用政策が決定され,「長期的取決め」作成のための本格的交渉を開始できる状況となった。

要人往来

 

(2) カナダ

 

(イ) 日加関係全般

5月及び7月にはサミット参加のため鈴木総理大臣がカナダを訪問したことにより,首脳レベルの交流が急速に深まり,また,1月の田中通商産業大臣のカナダ訪問及び第2回日加外相定期協議の開催等閣僚レベルにおいても頻繁な交流が行われたことにより,両国関係の緊密化が一層進展することとなった。

(ロ) 日加経済関係

両国間の貿易動向は,引続き我が国の工業製品の輸出,カナダの一次産品輸出という形で相互補完関係にあり,過去5年間の往復貿易額は年率17%の増加を示している。二国間貿易収支は,一貫して日本側の入超(81年は10億6,500万ドル)で推移している。

82年2月に第4回日加経済協力合同委員会が開催され,両国経済関係の一層の緊密化のため,種々の具体的な進展を得るべく意見交換が行われた。

農林業分野においては,我が国の対カナダ依存度の高い菜種について,11月に日加菜種会議が開かれ,また,5月には日加住宅委員会が催された。

漁業関係では,4月に日加漁業協議が開かれ,対日漁獲割当及び我が国によるカナダ水産物の買付促進について討議され,その結果81年の対日割当25,100トンが決定された。

投資関係では,82年3月に対加投資調査団が派遣され,また,80年末に発効したカナダ新銀行法によりカナダにおいて日系銀行の設立が可能となったが,83年までに日加双方各7行の銀行が進出し得ることが合意された。

81年においても,対加輸出のうち自動車が問題とされたが,6月に,4月から82年3月までの対加自動車輸出は,80暦年の輸出実績の10%増を超えないモデレートなものとなろうとの見通しを発表することにより,一応の決着を見た。

エネルギー関係では,81年は,80年10月に発表された「国家エネルギー計画」を巡るカナダのエネルギー政策の動向が我が国においても注目を集めるとともに,日加エネルギー関係が一層の発展を見せた。すなわち,1月には,長年の懸案であったブリティッシュ・コロンビア州北東炭輸入契約が成立し,2月にはボーフォート海における石油開発に対する我が国企業の参加が実現したほか,最近では天然ガス関連プロジェクトを巡り日加双方の関心の高まりが見られている。

民間レベルにおいても,7月,ヴァンクーパーにおいて第4回日加経済人会議が開かれる等の交流がみられた。

(ハ) 日加原子力問題

日加原子力協定改正議定書は80年9月発効したが,2月に東京で開催された第1回日加合同作業委員会の際,カナダ側より,カナダ産核物質にかかわる再処理等について,カナダの事前同意を包括的なものとするための協議を開始したい旨提案があった。事前同意の包括化は,我が国の原子力開発促進のためにも望ましいものであるので,我が国としても本件協議に積極的に取り組んでおり,82年1月にオタワで開催された第2回日加合同作業委員会においても,本件に関しカナダ側と意見交換を行った。その後,引続き外交チャンネルを通じて本件に関する協議が行われている。

要人往来

貿易関係

民間投資

(あ)我が国の対北米直接投資

(い)北米の我が国に対する直接投資

 

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