5. インドシナ地域
(1) インドシナ諸国の内外情勢
(イ) ヴィエトナム
(a) 内政
81年のヴィエトナムは,79年からのカンボディア武力介入及びこの既成事実化の追求を継続した。また、中越間の緊張,更には経済困難といった内外の厳しい状況には,ほとんど変化が見られなかった。
第6期国会代表の任期満了に伴い,4月に総選挙が実施され,第7期国会代表496名が選出された。また,6月末に開催された第7期国会第1回会期において新憲法に基づき政府国家機構の改革があり,従来の大統領,首相等が廃止され,国家評議会議長(元首)にチュオン・チン(前国会常任委員会委員長),閣僚評議会議長(首相に相当)にファム・ヴァン・ドン(則首相),国会議長にグエン・フー・ト(前副大統領)が就任した。
他方,81年末に開催が予定されていた第5回党大会は,11月に至り急速開催が延期され,82年3月末に開催された。同党大会では従来の親ソ反中路線を更に鮮明にしたほか,他のインドシナ諸国との「特別な関係」を強調した「政治報告」を採択するとともに,「第3次5か年計画」及び「党建設に関する報告」が採択された。
また,党中央機関の人事改選が行われ,第5期党中央委員会委員116名が選出されたほか,レ・ズアン書記長が再選された。
(b) 外交
中国との関係は,国境地帯における小競り合いが引続き発生している旨伝えられたが,5月には国境地帯で比較的大規模な戦闘が発生した。
一方,中断している中国との次官級会談は再開されず,この間捕虜交換のみ実施された。
ソ連との関係については,「ソ連との団結と全面的協力は,ヴィエトナムの党と国家の外交政策の礎石であり,ヴィエトナム・ソ連間の戦闘的団結と全面的協力の力強い発展に今後とも努力する」(第5回党大会「政治報告」)としており,3月及び9月のレ・ズアン党書記長の訪ソ等を通じて引続き強化されている。
反面,ASEAN諸国との関係は,カンボディア問題を巡って依然双方の立場が対立しており,関係は停滞したまま推移している。
米国との関係については,米国側は,「カンボディアを占領し,当該地域の紛糾の根源となっているヴィエトナムとの関係を正常化しない」(6月,ヘイグ米国務長官)旨宣明しており,ヴィエトナム戦争中の行方不明米国兵(MIA:Missing In Action)の捜索を巡る動き(82年2月にアーミテージ国防次官補代理を団長とする米政府調査団が訪越した等)を除き何らの動きも見られなかった。
(c) 経済情勢
第2次5か年計画(76年~80年)失敗の後,ますます深刻となった経済困難を打開するため,政府は様々な経済政策を打ち出した。すなわち,1月には物質的刺激により労働者の労働意欲を高め,生産性を拡大することを目的とした新経済政策(農業面での生産請負制度及び工業その他での出来高払い制度)を本格的に導入するとともに,国営企業の独立採算制(1月),分配・流通機能の確立(6月),労働者・政府職員に対する増給(6月),外貨の国家管理強化(6月),為替レートの切下げ(7月),農産品の政府買上価格引上げ(9月),電力料金等一部公共料金の引上げ(10月)等である。
農業面では,南部地方の不振にもかかわらず,新経済政策の効果が現れ,また,天候に恵まれたこともあって,食糧生産は目標の1,500万トンを達成したとされており,食糧事情は幾分好転する見通しとなった。工業面においては,布地,紙,医薬品,自転車部品等多くの生活必需品の生産が減少した。
他方,対外経済では,大幅な貿易インバランス及び西側諸国や国際機関からの経済援助の停止ないし先細りにより外貨事情は極端に悪化し,このため対外債務の支払いにも困難を来している。
82年3月に開催された第5回党大会において,第3次5か年計画(81年~85年)が採択された。同計画は,最終年の目標として,食糧1,900~2,000万トン,石炭800~900万トン,セメント200万トン,電力55~60億kwh等の数値を掲げているが,その達成目標は第2次5か年計画に比し,低めに設定されている。
(ロ) カンボディア
(a) 内政
民主カンボディアは,幅広い反ヴィエトナム民族統一戦線の結成を呼びかけていたが,2月,キュー・サンパン首相とソン・サン=クメール人民民族解放戦線議長との会談が行われたことが明らかにされ,次いで3月,平壌においてキュー・サンパン首相とシハヌーク殿下との会談,更に,8月,南仏においてシハヌーク殿下とソン・サン議長との会談が行われた。
このような一連の動きを経て,9月,シンガポールにおいて初めて反ヴィエトナム三派首脳会談が開催された。会談後発表された共同声明は,民主カンボディア連合政府樹立への願望を表明しており,また,連合政府の原則,形態等を検討するための暫定委員会が設置された。
交渉の舞台をバンコクに移した三派代表は,連合政府の態様及び条件につき計9回の話合いを重ねたが,合意をみるには至らなかった。
このため,11月,バンコクで「緩やかな連合」に関するシンガポール提案が打ち出された。同提案は,(あ)各派は独自性及び自らの政治綱領を維持する,(い)連合政府は,(i)国家元首ないし大統領(ii)首相(iii)副首相(iv)国防及び情報広報担当の各派代表3名ずつより成る委員会で構成される,(う)連合政府は,任務達成後自動的に解散し,自由選挙で新政府を決定するというものであり,民主カンボディアを除く関係者の同意が得られた。
しかし,民主カンボディアは,82年1月,「緩やかな連合」構想では,連合政府が機能するための基本原則,ルールが欠如することになるとして,これに代えて新たに三派首脳会談を提唱した。その後,2月に北京において,ソン・サンは参加しないまま,シハヌーク=キュー・サンパン二者会談が開かれ,(あ)三派連合は,最低限度の政治綱領を持つべきである,(い)同連合政府は,国連の正式メンバーたる民主カンボディアの法的枠組内にあるべきである,(う)三派は独自性を有するが,共同の準則等を持つべきであるとの3点に合意した。しかし,ソン・サンは,右合意に同調せず,三派連合政府実現には至らなかった。
なお,カンボディア国内では,ヴィエトナム及びヘン・サムリン軍に対する抵抗戦が続いているが,総じて軍事的に決定的な変化はなく,膠着状態が続いている。
他方,ヘン・サムリン政権側(いわゆる「カンボディア人民共和国」)は,5月に「総選挙」を実施するとともに,カンボディア人民革命党大会を開催し,ペン・ソヴァンが書記長に選出された。また,6月には国会を開催し,新憲法を採択して,ヘン・サムリン国家評議会議長(元首),ペン・ソヴァン首相を選出するなど体制固めを進めたが,依然として軍事,行政面などにおいて全面的にヴィエトナムに依存している。また,12月には,ペン・ソヴァンが突如更迭され,ヘン・サムリンが党書記長に任命された。
(b) 外交
カンボディア問題の包括的政治解決を求めた80年の国連総会の決議に基づき,7月,ニューヨークにおいてカンボディア国際会議が開催され,ソ連,ヴィエトナム,インド等を除く93か国が参加した(オブザーバー14か国を含む)。同会議の宣言において,(あ)国連軍の監視,検証下の可及的速やかな全外国軍隊のカンボディアからの撤退,(い)国連監視下での自由選挙の実施等がうたわれ,また,決議により,同会議暫定委員会が設置された(それぞれ資料編参照)。我が国を含め7か国(後に10か国に拡大)が同委員会メンバーとなった。
国連総会は,10月,ASEAN等が提出した「カンボディア情勢」決議案を前年を上回る圧倒的多数(賛成100,反対24,棄権20)で可決し,上記国際会議の宣言及び決議をエンドースするとともに,国連事務総長に対し,包括的政治解決に寄与するための周旋の労をとるよう要請した。これに基づき,アーメド事務総長特使が,2月~3月にかけてASEAN5か国,ヴィエトナム,ラオス,中国及び日本を歴訪した。
なお,民主カンボディアは,9月の国連総会で,やはり前年を上回る支持を得て(賛成79,反対36,棄権30),引続き議席を維持したが,反面,豪州の承認撤回(2月)などの動きもあった。
他方,ヴィエトナム側は,1月(ホーチミン市),6月(プノンペン),82年2月(ヴィエンチャン)に各々インドシナ3国(ヴィエトナム,ラオス及びヘン・サムリン政権)外相会議を開催し,インドシナ3国とASEANの地域会議開催,ヴィエトナム軍の条件付部分撤退等を含む提案を繰り返したが,ヘン・サムリン政権の既成事実化を追求する基本姿勢には変化は見られなかった。
(c) 経済
国際機関を通ずる緊急人道援助もあり,カンボディア国内の食糧事情は相当改善され,タイ国境の難民の移動も大幅に減少した。
他方,インフラストラクチャーが未だ復旧されておらず,カンボディアは経済的に自立できていない。
貿易は,ごく一部の例外を除き,西側との正常な貿易関係が樹立されていない。
(ハ) ラオス
(a) 内政
81年を通じ,ラオスでは,人民民主共和国成立後5か年間の社会主義建設の成果を踏まえ,同年から開始された第一次社会・経済5か年計画の実施に努力が集中された。また,81年は,82年に開催が予定されているラオス人民革命党第3回大会の準備年であり,党・政府は,治安対策,党体制の強化,行政改革等を推進するとともに,各地方党大会の開催を取り進めた。
82年1月,最高人民議会に対する報告「81年の情勢と82年の方針」において,カイソーン首相は,国防,治安面については,軍の質的・量的強化,行政組織の整備等が図られた旨,また,経済部門においては,特に農業生産が増大し,米(籾)の生産は80年に続き100万トンを超す豊作を記録し,食糧自給を達成するなど各部門で成果を収めた旨述べている。
しかし,地方における反政府グループの活動も伝えられ,また,現体制になじめない者などのラオス脱出が続いた模様である。
82年の方針として,上記カイソーン報告は,引続き,国防,治安の確保,生産増大,人民の生活条件の正常化などの達成を強調している。
(b) 外交
外交面では,従来に引続き,ヴィエトナム,カンボディア(ヘン・サムリン政権)との「特別な関係」の強化,ソ連をはじめとする社会主義諸国との連帯強化を図った。
ヴィエトナムとの関係では,4月にヴォー・グエン・ザップ将軍を団長とするヴィエトナム党・国家代表団のラオス訪問,8月のヌーハック副首相,82年3月のカイソーン党書記長兼首相(第5回ヴィエトナム党大会に出席)のヴィエトナム訪問をはじめとする各方面,各レベルでの両国交流が図られた。カンボディアとの関係も,5月にカイソーン党書記長兼首相がプノンペンを訪問するなど活発であった。
ソ連・東欧との関係も更に緊密化した。2月,8月,82年3月に,カイソーン党書記長兼首相がソ連を訪問する一方,4月にフィリュービン=ソ連外務次官がラオスを訪問し,12月にはヴィエンチャンにおいて社会主義諸国外務次官会議が開催された。
他方,カンボディア問題を巡っては,ラオスは,ヴィエトナムと歩調をそろえ,ASEAN側との地域会議の開催を推進するため,4月にプーン外相がヴィエンチャンでの「インドシナ3国外相会議」を主宰した後,インドネシア,マレイシア,フィリピンを訪問した。更に,同外相は,第36回国連総会において東南アジアの平和と安定に関する7項目提案を行った。
タイとの関係は,2月に発生したメコン河での発砲事件後,国境が一時閉鎖され,緊張が続いたが,11月のプーン外相の訪タイ,82年3月シティ内相のラオス訪問等があり,両国関係には改善の兆しが見えた。
中国に対しては,依然として「帝国主義と結託する北京反動主義」との非難姿勢を取り続けており,冷たい関係が続いている。
(c) 経済情勢
81年は,社会・経済5か年計画の初年度であり,農業,輸送部門の発展に主眼が置かれた。上記カイソーン報告によれば,特に農業部門では好天に恵まれたこともあり,籾生産が115万トンに達した。しかし,工業部門では,原料,部品,生産管理の経験の不足もあり,電力等を除き大きな成果は得られなかった模様である。輸送部門では,第9号,第13号公路の修理,拡張工事に努力が集中された。
82年においては,農業協同組合化,価格体系の改訂,徴税強化策等を通じ生産増大などの5か年計画目標の達成に努力が払われると見られるが,ラオス経済は,今後とも外貨不足,技術者不足等の諸困難を抱えていくものと見られている。
(2) インドシナ難民問題
(イ) 概況
75年のインドシナ政変に伴い発生したインドシナ難民問題は,79年のジュネーヴ会議及び80年のカンボディア民衆救済会議を経て活発化した国際的救済努力により,従来よりかなり緩和されているものの,同時に長期慢性化してきており,依然として深刻な問題となっている。
すなわち,ASEAN諸国などには,今なお約22万人の難民(82年2月末現在,ラオス9万人,カンボディア9万人,ヴィエトナム4万人)が滞留しているほか,ヴィエトナム難民を大宗とする新規難民の流出も月平均5,000~6,000人のペースで続いている。他方,米国など主要難民受入国による定住受入れは,これまでに大量の難民を受け入れてきたことによる「疲れ」や,昨今の難民には移民的な「経済難民」が増えているとの理由などから,81年に入り制限的となった。また,国連難民高等弁務官(UNHCR: United Nations High Commissioner for Refugees)の仲介努力にもかかわらず,難民の本国帰還は遅々として進まず,一時受入国における難民の「焦げつき」の傾向が顕著となってきた。特に,全滞留難民の8割強(19万人)を抱えるタイは,強い焦燥感から,81年になり新規流入者を不法入国者として取り扱い,これらに第三国定住を認めないこととするなどの難民流入抑制策を採るようになった。
こうした事情から,ラオス及びカンボディア難民については,81年を通じ,新規流入こそ減少してきているものの,当面大量の滞留が続き,また,ヴィエトナム難民については,今後も多数の流出が続くものと見込まれ,「合法出国計画」の促進を含め難民の流出そのものを抑える方策を講ずることが焦眉の急となっている。
(ロ) 我が国の対応
(a) 資金援助については,79年度の約9,000万ドル及び80年度の約1億ドルに引続き,81年度においても総額約8,100万ドルに上る大口の資金援助を行った。内訳は,UNHCRへの拠出4,090万ドル,世界食糧計画(WFP: World Food Programme)を通ずる食糧援助などその他国際機関への拠出約2,700万ドル,タイ政府への二国間援助約1,300万ドルとなっている。
(b) 難民の本邦受入については,我が国は,4月に定住枠を1,000人から3,000人へ一挙に拡大し,定住促進に努めてきた結果,82年3月末現在,我が国には1,789人のインドシナ難民(元留学生等742人を含む)が定住するに至っている。
更に,海上で救助され本邦に到達したボート・ピープルに対しては,引続きほぼ無条件で一時庇護を与えており,81年中に上陸した者は,1,026人に上っている。75年以来の上陸総数は,82年3月末現在,5,639人に達するが,うち1,714人は,今も我が国に滞留している。最近,特に米国による引取りが少なくなってきていることなどから,我が国においてもこれら難民の「焦げつき」化の傾向が出始めている。
なお,82年1月,我が国につき難民条約が発効したが,我が国は本邦定住インドシナ難民のうち条約上の難民として認定されない者についても,認定難民に準じた処遇を与えるよう配慮するとの方針を立てている。