3. ASEAN5か国及びビルマ
(1) ASEAN5か国及びビルマの内外情勢
(イ) インドネシア
(a) 内政
インドネシアは,1982年総選挙(5月),1983年正副大統領選挙(3月)と続く80年代前半の最大の政治的選択の時を迎えたが,物価が前年よりも安定するなど国内経済が比較的順調に推移したこと,政治的に国論を分けるような重大懸案が特に見当たらなかったこと等を背景として,内政・治安動向は,全体として安定的に推移した。
総選挙に向けて,与党ゴルカールは,周到な準備体制を敷いたのに対し,開発連合党(PPP),インドネシア民主党(PDI)の野党側は,それぞれ党内紛争が顕在化するなど体制固めに遅れを示した。この結果,82年5月4日に投票が行われた総選挙では,ゴルカールが前回(77年)を上回る64%の得票率を得て勝利を収めた。
国内の批判勢力にも,特に重大な動きはなく,3月に発生した一部の過激派イスラム・グループによるガルーダ航空ハイジャック事件は,国軍特殊部隊の動員により短期間で解決した。また,10月には,アチエ特別州において偶発的な反華僑暴動が発生したが,比較的短期間に事態は平静に復した。
(b) 外交
81年のインドネシア外交については,カンボディア問題に関連して,カンボディア国際会議で他のASEAN諸国と共にASEANの団結の維持に努力したこと,中国との国交正常化には依然として慎重な態度を維持したこと,対外関係の多角化促進政策の一環として韓国との関係の緊密化が図られたこと等が特筆されよう。
81年後半には,カンボディアの三派連合政権樹立に関するシンガポール提案を巡り,ASEAN内の見解の相違が取り沙汰されたが,インドネシアは,ASEANの団結の維持を前提としつつ,ヴィエトナム・ASEAN間の共存の方途を模索することを基本政策とする従来の姿勢を維持した。
6月には,韓国の全斗煥大統領がインドネシアを訪問したが,爾来韓国と広範な接触が行われ,要人の交流もますます盛んになりつつある。更に,南西アジア諸国(インド,スリ・ランカ,ネパール),東欧(ハンガリー,ルーマニア,ユーゴースラヴィア等)との間に要人の往来が相次ぎ,主として経済面での交流が深められたほか,タンザニア大統領のインドネシア訪問,セネガル,ケニアにおける在外公館実館開設準備等対アフリカ外交にも努力が払われた。対EC関係については,10月にロンドンで開催されたASEAN・EC閣僚会議に参加した。
中国との国交正常化は,83年の大統領選挙以前に行われる可能性は少ないとの見方が一般的となっている。また,インドネシア政府は,8月に趙紫陽総理がインドネシアを除くASEAN各国を訪問した際の同総理の各国での発言ぶりは,中国のインドネシア共産分子との結び付きを否定する内容ではないとして,引続き対中不信感を示した。
他方,12月に孫台湾行政院長がインドネシアを訪問したが,会談内容は貿易問題が主であったと説明されている。
対米関係については大きな動きは見られなかったが,米国の対中武器売却の決定にインドネシアは強く反発した。また,ソ連とは,引続き実務的な交流に限定した関係を維持した中で,82年2月初旬,インドネシア政府は,在インドネシア・ソ連大使館の武官補佐官及びアエロ・フロートのジャカルタ支店長の2名をスパイ活動の容疑で国外追放に処したほか,アエロ・フロート・ジャカルタ支店の閉鎖を行った。
(c) 経済情勢
(i) 81年のインドネシア経済については,物価上昇率は7.1%に抑えられ,米作は2,200万トン以上の豊作を記録する等おおむね順調に推移した中で,年央以降,国際収支が悪化したことが特記される。
(ii) 輸出は,石油輸出がほぼ横ばいとなり,非石油産品輸出が大幅に落ち込んだため,81年度は約237億ドル(うち石油・LNG約195億ドル),輸入は約217億ドルとなる見込みであり,恒常的な貿易外収支の赤字のため,経常収支で約36億ドル,総合収支では約11億ドルの赤字が予測されている。
(iii) 81年度予算は,対前年度比31.7%増の大型予算であったため,その物価に及ぼす影響が懸念されたが,81年の物価上昇は7.1%と前年の16.0%を大きく下回った。しかしながら,政府は82年1月から平均60%強の国内石油製品価格引上げを実施したこともあって,今後の物価上昇が懸念されている。
(iv) 81年のインドネシアの石油生産は,日産約161万バーレルとされているが,石油生産の停滞と国内需要の急速な伸びは,輸出余力を減退させており,同国は新規油田の開発及び代替エネルギーの開発に努めている。
なお,82年3月にOPECが石油減産を決定したのに伴い,インドネシアの石油生産量は,日産130万バーレルに引き下げられることになり,減産が国家収入に及ぼす影響が懸念されている。
(v) 米の生産は,80年に未曾有の生産高である約2,000万トンを記録したが,81年は,これを更に上回る約2,200万トンの大豊作と発表された。
(vi) 外国援助については,5月の対インドネシア政府間協議グループ(IGGI: Inter-Governmental Group on Indonesia)会議において,インドネシア政府から,81年度分の外貨所要額約25億ドルのうちIGGIの二国間援助として10億ドルを受け入れる希望が表明された。我が国は,右要請に対し580億円の資金協力の意図表明を行った。
(vii) 対インドネシア外国民間投資は,1月~9月の間で7億8,800万ドルであり,その結果,67年~81年9月までの累計では,786件,83億2,600万ドルとなっている(うち,我が国からの投資は204件,25億6,000万ドルで,第1位を占める)。
(ロ) マレイシア
(a) 内政
81年は,マレイシアにとって独立後約四半世紀を経過し,旧時代を脱し新しい時代への移行を画する重要な年であった。すなわち,新たな時代の到来は,マハディール新首相の登場によるところが大きい。
フセイン・オン首相は,かねて予想されたとおり,与党第1党である統一マレイ国民組織総裁及び首相を健康上の理由から辞任し,新たに,歴代の首相とは異なり英国留学経験のないマハディール副首相が首相に就任した(7月)。同首相は,清潔と効率,公務員の綱紀粛正をはじめとして,新しい国造り,人造りのための諸施策を打ち出した。
また,急速な対日接近政策(東方政策)をとり始めたことが目立った。
経済面においては,世界的不況による輸出の伸び悩み,インフレの高進など必ずしも好調とは言えない面もあったものの,7月の政権交代が従来どおり民主的な手続によりスムーズに行われたことにも見られるとおり,内政は引続き平穏に推移した。他方で,人種間の調和をいかにして維持するかは,依然として当国にとって最大の問題であることに変りなく,特に中国人社会には,マレイ人優先政策に対する一般的な不満,教育問題や中国人第2副首相設置に対する公平な取扱い要求等の問題が存在している。
なお,議会の任期を後1年残していた段階で,マハディール首相は,82年3月に下院を解散し,4月に総選挙が実施された結果,与党国民戦線が前回を上回る勝利を収めた。
(b) 外交
マレイシア外交は,ASEAN協力の強化,イスラム諸国との協力,非同盟中立,大国との等距離外交及び自由主義諸国との協力推進をその主要な柱としている。
ASEANとしての活動については,その主要な課題であるカンボディア問題につき,マレイシアは,外相会議,国連等の場を通じ三派協議の開催,第三勢力支援問題で積極的な動きを示した。域内の協力については,フィリピンとの間で未解決の問題として,サバ州帰属を巡り一時両国関係が若干緊張した時期もあった(12月)が,全般的に各分野において順調に推移した。首脳間の交流として,マハディール首相は,就任直後慣例に従い,インドネシア及びタイ(8月),シンガポール(12月)を訪問したほか,ガザリ外相及びムサ・ヒタム副首相のインドネシア(各々8月及び82年2月),ガザリ外相のシンガポール(8月)訪問があり,また,インドネシアからは,スハルト大統領(2月,サバ州),モフタル外相(82年1月)がそれぞれマレイシアを訪問した。その他,近隣国との関係では,83年末,完全独立予定のブルネイとの間でお互いに政府代表部を開設し(12月),ブルネイのアジズ首相代行のマレイシア訪問(82年1月),ムサ・ヒタム副首相のブルネイ訪問(同3月)を通じ関係緊密化が進んでいる。
イスラム諸国との協力には引続き重点が置かれ,イスラム諸国首脳会議(1月)にマハディール首相代行が,また,外相会議(1月及び6月)にリタウディン外相がそれぞれ出席したほか,PLO事務所に対する外交ステータスの付与(8月),イラン・イラク紛争に関するイスラム諸国調停委員会の活動にも積極的に参加した。
ソ連からはフィリュービン外務次官(4月),また,中国からは超総理(8月)の訪問があったものの,前者についてはソ連大使館員のスパイ事件(7月),アフガニスタン問題,後者についてはマラヤ共産党に対する支援問題等もあり,両国との関係で特に進展は見られなかった。
対米関係については,米・ASEAN協議,政府関係者の頻繁な往来を通じ実務的協力関係が促進されている。
英国との関係は,マハディール首相の登場を契機として,在英留学生問題,英系企業の買収,マレイシア政府調達先からの英系企業排除等を巡って冷却化の方向にある。
(c) 経済情勢
過去順調な足取りを続けていた経済は,80年後半から陰りが見え,第4次5か年計画の初年度である81年は,先進工業国の景気停滞による一次産品輸出の伸び悩みの影響もあり,経済成長の鈍化(8.0%→6.8%),インフレの高進(6.7%→9.6%),国際収支の悪化を招いた。
所得水準の向上に伴い,個人消費及び住宅投資は依然根強いが,需要の大半を海外に依存する農・鉱業生産は停滞し,工業製品輸出も低迷した。
(ハ)フィリピン
(a) 内政
81年は,フィリピン政治史上ある意味では画期的な年であった。
マルコス大統領は,1月に8年4か月ぶりに戒厳令を解除し,また,4月にはフランス型の強力な大統領制の実現を目指す憲法改正を断行し,更にそれを受けて,6月に大統領選挙を実施し,自ら出馬して三選を果たした。
野党勢力は,中核となるべき指導者に欠け離合集散を繰り返しているが,82年1月以降,新統一野党結成に向け精力的な動きを示している。
7月に発足したマルコス政権は,「新共和国」の誕生を宣言するとともに,「新共和国」の活力は村落にあるとして,地方開発を最重視する政策を打ち出し・地方における雇用機会の増大,所得の向上を目的としたいわゆる生計向上運動(KKK)を居住環境省を中心にして開始した。
近年の原油値上げに起因する高率インフレ,国際収支の慢性的赤字,対外債務の累積等の経済困難打開のため,引続き代替エネルギー開発,経済体質の強化(輸入自由化の推進,関税軽減,各種補助金の廃止等)などの経済政策をKKKと並ぶ重要な政策として推進している。なお,11大工業プロジェクトについては,82年に入って見直しが始められ,また,対外借入については抑制されつつある。
(b) 外交
フィリピンは,対米友好協力関係を機軸としつつ,ASEANとの関係強化,先進諸国との貿易・経済関係の緊密化,社会主義諸国との関係増進,第三世界との連帯強化等外交の多角化を推進している。
対米関係は,レーガン政権登場後,急速に緊密化の度合を深めており,ブッシュ副大統領訪比(6月,大統領就任式典出席),南北サミット時(10月)のマルコス・レーガン会談の実現,同会談時におけるレーガン大統領からのマルコス大統領あての訪米招待等はかかる比米関係の良好さを裏付けている。
対ASEAN関係については,11月,サパ請求権問題を巡って一時マレイシアとの関係が緊張したが,全般的には,ASEAN外相会議のマニラ開催(6月),要人の往来(6月,マリク=インドネシア副大統,リー=シンガポール首相,プレム=タイ首相の大統領就任式典出席)により関係の強化が図られた。
対中国関係は,貿易,文化等の分野を中心に順調に進展しており,楊尚昆全人代常任副委員長及び趙紫陽総理が,各々6月及び8月に訪比した。
(c) 経済情勢
81年のフィリピン経済は,先進諸国の景気停滞,一次産品市況の不調,交易条件悪化,台風被害等の悪条件が重なり,輸出不振,投資の鈍化が目立ち,各産業の伸び率も前年に比し鈍く,結局,実質経済成長率は4.7%にとどまった。一方,消費者物価上昇率は,政府の金融引締政策,物価対策等が奏功して,80年の17.6%から12.5%と大幅に下落した。失業率は,81年平均で4.7形であった。
対外貿易は,輸出44億5,200万ドル(前年57億8,700万ドル)及び輸入69億8,500万ドル(前年77億2,600万ドル)とも,前年に比し大幅に伸び悩んだ。このため,貿易収支の赤字は,前年の19億3,900万ドルから25億3,300万ピルに増大した。一方,貿易外収支,移転収支は好調であったが,貿易収支が大幅赤字であったため,結局,総合収支は5億6,000万ドル(前年3億7,000万ドル)の赤字となった。また,外貨準備は,12月現在で25億7,400万ドルに達した。
対外債務残高は,158億3,500万ドルと前年水準(127億ドル)を大幅に上回った。
(ニ) シンガポール
(a) 内政
5月,10年間にわたりその職にあったシアーズ大統領が急逝し,その後を受けて10月,NTUC(全国労働組合会議)の議長であったデヴァン・ナイアが新大統領に就任した。また,大統領就任に伴い同氏がそれまで務めていた国会議員を辞任したことを受けて行われた補欠選挙において,野党労働者党党首ジャヤラトナムが当選し,68年以来続いていたリー首相の率いる与党人民行動党の国会における一党独占体制が破られたことが注目された。しかしながら,これまで極めて安定してきたシンガポールの内政には,その後も変化は見られず,引続き安定した政権が維持されている。
ここ数年来,シンガポール内政の主要課題の一つとなっているリー首相の後継者育成については,80年末の総選挙を受けた1月の新内閣成立及びその後の内閣改造等を通じて,若手実力者の重要閣僚ポストヘの起用等引続き若返り策が精力的にとられている。中でも,ゴー・チョク・トン保健相兼第二国防相(82年6月,第一国防相に昇格),トニー・タン商工相,ダナバラン外相兼文化相,オン・テン・チョン運輸通信相兼労働相らの活躍には目立つものがある。
79年から展開されてきている「産業構造高度化政策」は,当初の高賃金政策から生産性向上運動にその重点を移し,新たな段階に入っている。またその一環として,リー首相は日本の労使関係の良好さ,労働者のチーム・スピリット等を模範とすべきことを強調して,「日本の経験に学べ」との一大キャンペーンを展開してきている。
(b)外交
シンガポールは,国際情勢全般についてはソ連の勢力拡張を主因とする東西間の緊張増大が存し,アジアにおいては米ソ両大国に中国を加えた三極体制による勢力争いが展開されているとの厳しい現実的認識に立脚して,ASEANの団結強化を機軸とする極めて活発な外交を展開した。特に,ASEAN諸国にとって最大の政治課題であるカンボディア問題については,ASEAN常任委議長国としてヘン・サムリン政権の既成事実化を抑え,包括的政治解決の方途を探求するとともに,右解決の基盤を整えるべく抗越三派連合結成のために精力的な活動を展開した。
また,リー首相自身による首脳外交も引続き活発に行われ,同首相は,81年中,スリ・ランカ(1月),台湾(2月),米国(6月),フィリピン(6月),英国・フランス・西独・オーストリア(7月),豪州・ニュー・ジーランド(9月)を訪問,各国首脳と会談した。他方,外国からは,年初の鈴木総理大臣(1月)を皮切りに,全斗煥韓国大統領(7月),趙紫陽中国総理(8月),マハディール=:マレイシア首相(12月)らがシンガポールを訪問した。
(c)経済情勢
81年のシンガポール経済は,低迷を続ける世界経済,なかんずく,主要輸出先である欧米先進国経済の不振の影響を受け,年後半に入って主要産業の一つである電子機器関係の輸出が不振に陥ったこと等を主因として,73年の石油危機以降初めて二けた台に乗せた80年を若干下回る成長(9.9%)にとどまった。ただし,81年3月に発表した80年代経済発展計画に掲げる成長目標(8~10%)を十分に達成しており,不振を続ける各国経済の中で無資源の小島国がなお二けたに近い成長を遂げたことは注目に値する。産業別には,金融・サービス部門の貢献が大であり,次いで船舶修理,オイル・リグ製造,電子機器を中心とする製造業部門,運輸通信部門等となっている。また,80年に急上昇(8.5%)した消費者物価上昇率は,11月中旬にシンガポール・ドルが史上最高値をつける等おおむね強含みに推移したこと等により,80年と比べわずかながら下落し,8.1%の上昇にとどまった。更に,産業構造高度化政策の指標としてシンガポール政府が着目している労働生産性上昇率は,前年に比しほぼ倍増した80年(5.0%)に引続き5.4%を記録した。
(ホ) タイ
(a) 内政
3月の内閣改造後,4月にサン陸軍副司令官を指導者とする一部若手将校によるクーデター事件が発生したが,プレム首相は王室及び軍の大勢の支持を得て大規模な流血を見ることなく鎮圧に成功した。しかしながら,同事件により陸軍内のプレム支持勢力に亀裂を生じたことは否めず,プレム首相は,同月中にアーティット第2軍副司令官の第1軍司令官抜擢等陸軍の人事刷新や上院の一部改選により支持基盤強化を図るとともに,5月には事実調査委員会の結論を待たずしてクーデター関係者にも特赦を与えるなど,軍内の亀裂修復に腐心した。
また,プレム首相は,8月,自ら兼任する陸軍司令官のポストの定年を再延長することなく退任したが,10月の軍定期異動では,サイユード最高司令部参謀総長が最高司令官に,また,プラユット陸軍副司令官が陸軍司令官に各々昇格したほか,アーティット第1軍司令官が陸軍司令官補佐を兼任して,軍部のプレム支持体制維持が図られた。
他方,政党との関係は,7月の政党法公布に伴い政党の再編成が活発化し,特に8月のクリアンサック前首相の下院議員当選は,国家民主党という新党結成とも相まって従来の政党勢力関係に少なからぬ影響を与えることとなった。
プレム首相は,こうした政党間の勢力関係の流動化に伴い,82年の現王朝200年祭を控えて,政権安定性の強化を図るべく,12月に内閣改造を実施し,82年3月にはいったん下野していた社会行動党を再び入閣させた。右内閣改造は,入閣人事を巡って社会行動党及び民主党内部に党内抗争を惹起することとなり,各政党とも83年4月の総選挙を控えて党内の足固めの必要に直面している。
(b) 外交
タイは,カンボディア問題につき,81年も引続き主要外交問題としてその包括的政治解決に積極的に取り組み,カンボディアの抗越三派連合政府の結成に向けて話合いの場所を提供する等側面からの支援を与えた。また,6月のASEAN外相会議や7月のカンボディア国際会議,更には10月の国連総会等の場を通じ,他のASEAN諸国とともにカンボディア問題に対する国際的関心の維持及び民主カンボディアの代表権維持に努めた。
他方,ヴィエトナムとは,カンボディア問題を巡って関係が停滞しており,6月,ビルマでアルン副外相がヴォー・ドン・ジャン=ヴィエトナム外務次官と会談するなど意思疎通のパイプ維持には努めたものの,特に進展は見られなかった。
西欧諸国との関係では,4月のクーデター事件後の国内基盤固めを終えて,8月,プレム首相はニュー・ジーランド及び豪州を訪問,また,10月には国連総会出席の途次米国を,11月には日本及び韓国を訪問した。これら一連の歴訪で,プレム首相は,国内政局の安定を強調して外国投資の誘致を図ったほか,カンボディア問題におけるASEANの立場支持及びタイに対する支援を求めた。右に対し,米国は,タイに対するマニラ条約上の義務の履行及び軍事・経済協力の継続を確認した。
共産圏諸国との関係では,1月の超総理の訪タイ及び5月のシリントン王女の訪中等中国とは引続き良好な関係が維推されたほか,ソ連とはイマシェフ最高会議幹部会副議長の訪タイ(1月),フィリュービン外務次官の訪タイ(4月)及びプラマーン副首相の訪ソ(8月)等要人の往来のほか対ソ輸出の拡大が注目された。ビルマとは,80年に引続き良好な関係が維持され,また,81年初めの国境での紛争で停滞した対ラオス関係は,その後の要人往来等により改善の方向に向かった。
(c) 経済情勢
81年の経済情勢については,農作物の大豊作により農業部門が4.7%,また,農産物加工業の伸びにより製造業が8.0%といずれも前年を上回る伸びを示し,これら両部門の伸びによる運送業,商業への刺激もあり,国内総生産は7.6%の成長率となった。消費者物価上昇率は,13.4%と依然高い上昇率を示しているものの,前年の19.9%から見れば鎮静化している。
しかし,農村においては,農産物価格の低迷から豊作貧乏に陥り,製造業における繊維輸出の不振と機械類の需給のバランスの崩れ等により,全体としての不況感は依然として強く見られた。
貿易収支は毎年赤字幅を拡大してきたが,81年は,年央における8.7%のバーツの切下げ等の措置により輸出の回復,輸入の鈍化が見られ,赤字幅は史上最高であった前年とほぼ同じ29億8,000万ドルとなった。総合収支は,資本流入の回復を中心に好転を示し,1億ドル以上の黒字となった。
第5次国家経済社会開発5か年計画が81年10月から実施に移されたが,その重点は,後発農村地域を中心とする貧困撲滅とタイの国際的資金ポジションの改善に置かれている。
シャム湾の天然ガスは9月に商業生産が開始されたが,これが今後の輸入石油代替及び工業化に果たす役割に多大の期待が寄せられている。
(ヘ) ビルマ
(a) 内政
81年における内政面の最大の動きとしては,ネ・ウィンの大統領辞任が挙げられる。ネ・ウィンは,62年3月の軍事クーデターから約20年の長きにわたり国家元首としてビルマを指導してきたが,老齢で健康も優れず,かつ,権力禅譲の先例にしたいとして,11月9日に大統領職を辞任し,爾後ビルマ社会主義計画党総裁の職に専念している。この背景には,最近における国内政治と経済の安定がある。後継の大統領には,従来序列第二位にあったサン・ユが選出された。もっとも,ネ・ウィンが党の総裁として,国政の指導・監督に当たり,言わば「院政」をしいているので,当面ビルマの政界に大きな変化が生ずることは予測されない。
80年末から81年5月にかけて,ビルマ政府とビルマ共産党反乱軍との間で2度目の和平交渉が行われたが,共産党が同党支配地域の承認などの要求に固執したため,交渉は再び決裂に終わった。
(b) 外交
81年において,ビルマは,カンボディア問題に関するタイ・ヴィエトナム会談の場所の提供,米国からの援助受入れの増大などに見られるごとく,中立主義の枠内で慎重ながらも積極的な外交姿勢を示し始めた。また,近隣諸国との交流は,レー・マウン外相のタイ,ヴィエトナム訪問(1月)並びにプーン=ラオス外相(6月),ラオ=インド外相(10月),シティ=タイ外相(82年1月)及びサッタール=バングラデシュ大統領(82年2月)のビルマ訪問などがあり,ビルマの善隣友好の動きは,引続き活発であった。
(c) 経済情勢
ビルマ経済は,近年「みどりの革命」と称される高収量品種水稲の増産,国営企業の運営改善による生産の回復,外国援助受入れ増による投資拡大などによって,引続き拡大基調にあり,80年度のGNPは,対前年度比8.3%という高い伸びを示した。また,81年度の籾の生産は,史上最高であった前年度並み(1,300万トン)の豊作が予測されている。
(2) 我が国とASEAN5か国及びビルマとの関係
(イ) インドネシア
(a) 81年における日本・インドネシア関係は全般的に順調に推移した。
1月,鈴木総理大臣はASEAN諸国歴訪の一環としてインドネシアを公式訪問し,スハルト大統領と余人を交えずに会談を行い,両国首脳間に個人的な信頼関係が確立された。その後,鈴木総理大臣は,5月の訪米の成果をスハルト大統領に電話で説明した。これは,両国間関係で初めての出来事として,インドネシア側からも高い評価を受け,総理のインドネシア訪問により高まった信頼・友好関係は更に深まった。
また,今次総理訪インドネシアの機会に,伊東外務大臣とモフタル外相との間で,「科学技術協力に関する日本国政府とインドネシア共和国政府との間の協定」に署名が行われた。この協定の締結を受け,82年1月,ジャカルタにおいて第1回日本・インドネシア科学技術協力協議が開催された。
一方,8月には,両国間の官民各層の対話の場である第9回日本・インドネシア・コロキアムがスラバヤ市で開催されたほか,9月には,日本・インドネシア・エネルギー合同委員会,12月には日本・インドネシア合同経済委員会第3回会議がそれぞれジャカルタで開催された。
(ロ)マレイシア
1月の鈴木総理大臣の訪問を通じ,両国関係の一層の緊密化,多角化の基礎が築かれ,また,マハディール首相の提唱する「東方政策」による「日本に学べ」の動きが急速に高まり,一層の対日接近傾向が目立った。
その結果,経済や経済協力,留学生・研修生の大量派遣等広範な分野において,我が国の協力に対する期待感が数多く表明されている。
両国の貿易関係については,81年においても我が国はマレイシアにとって引続き最大の貿易相手国であったが,貿易収支は6年ぶりに我が国の出超に転ずることが見込まれている。
(ハ)フィリピン
日比関係は,貿易,投資,経済協力及び文化交流の増進,要人往来の活発化等を通じ緊密化の傾向にあるが,1月の鈴木総理の訪比により両国間の相互理解と友好協力関係の一層の強化が図られた。
両国貿易は,前年のフィリピン側出超(2億6,800万ドル)から日本側の出超(1億9,700万ドル)となっている。
(ニ)シンガポール
シンガポールと我が国の関係は,80年以来のリー首相の主唱による「日本の経験に学べ」のキャンペーン展開もあり,単に貿易,投資等経済分野のみならず,社会,文化等極めて広範な分野における緊密な協力関係に発展してきている。
我が国としても,シンガポールの我が国に対する強い期待感にこたえるべく,ソフト・ウエア技術訓練センター設立,シンガポール大学工学部拡充,同大学日本研究講座設立,教育制度改善,生産性向上運動,警察組織再編成計画などについて積極的な協力を進めている。
貿易分野では,我が国はシンガポールにとり最大の貿易相手国となっているが,引続き我が国の大幅出超(シンガポール側発表では約30億米ドル)となっている。
(ホ)タイ
日・タイ関係は,81年には,我が国からは,1月に鈴木総理大臣の訪タイ,2月に皇太子・同妃両殿下の御訪問,タイからは,3月にシリキット王妃,5月にプラマーン副首相,6月にシティ外相,11月にプレム首相の訪日等両国要人の往来が相次ぎ,日・タイ友好関係は各分野にわたり緊密化し,永年にわたる日・タイ交流史上,前例を見ないほどの盛り上がりを見せた。また,我が国のタイ重視政策とも相まって,経済協力をはじめとする各般の協力が一層強化された。
両国間の懸案である貿易不均衡は,80年以来拡大傾向を示し,81年には,タイの対日輸出入額の比率は1:2.1(80年は1:1.7)と悪化した。
(ヘ)ビルマ
81年においては,4月にネ・ウィン大統領が戦後5度目の訪日をしたほか,我が国からは,亀岡農林水産大臣がビルマを訪問するなど,両国関係は着実に進展した。我が国は,81年度においても,引続きビルマにとって最大の貿易相手国でかつ最大の援助供与国であった。