第8節 アフリカ地域
1. アフリカ地域の内外情勢
(1) 概観
南部アフリカにおいては,80年4月に旧英領南ローデシアがジンバブエとして独立したことにより,南部アフリカ問題の一部が解決された。
東アフリカにおいては,ウガンダで総選挙が行われ,オボテが9年ぶりに大統領に返り咲いた点が注目される。
(2) 域内協力関係
(イ) 80年においては,アフリカ諸国が域内相互間の協力関係をより強化し,アフリカの当面する深刻な経済問題の解決を図っていこうとする注目すべき動きが見られた。
(ロ) これまで主として政治問題を扱ってきたアフリカ統一機構(Organization of African Unity; OAU)が,80年4月にその成立以来初めての経済問題特別首脳会議をナイジェリアにおいて開催し,「アフリカ大陸の経済的発展のためにアフリカ各地域の経済的統合を推進し,西暦2000年にはアフリカ経済共同体を設立する。」というラゴス行動計画を採択した。また,南部アフリカ問題解決のためのフロントライン諸国会議構成国も,同地域の他の諸国を加えて南部アフリカ開発調整会議をモザンビークの首都マプトで開催した。
(ハ) 更に,従来からの地域協力機関(西アフリカ諸国経済共同体など)においても,その活動を拡大強化しようとの動きが見られた。
(3) 東部アフリカ
(イ) エティオピア
国内面では「エティオピア労働者党」設立準備委員会の第1回全国大会が80年6月に開催され,政治的基盤の確立が図られた。他方,エリトリア州における紛争は依然膠着状態を続けている。
外交面では,オガデン紛争にかかわるソマリアを除く近隣諸国との善隣外交を積極的に推し進めた。すなわち,懸案であったスーダンとの関係は,両国首脳の相互訪問(5月及び11月)を通じ改善され,引続いてのメンギスツ議長のケニア訪問(12月),モイ=ケニア大統領のスーダン訪問(12月)により3国間の提携は促進された。また,メンギスツ議長は15日間にわたるソ連訪問(10月~11月)を行ったほか,リビア(11月),南イエメン(11月)を訪問し,ロションツィ=ハンガリー国民議会幹部会議長がエティオピアを訪問するなど社会主義諸国との関係を深めた。
(ロ)ソマリア
バレ大統領は,79年の新憲法制定と総選挙のあとを受けて,80年1月人民議会を招集し,同議会において,新憲法に基づく任期6年の新大統領として満場一致で選出された。
オガデン地区からの大量の難民の流入(国連機関は130万人と推定)は,ソマリア経済に大きな負担となっており,ソマリア政府は,西側諸国及び国際機関に援助要請を行っている。
80年10月には非常事態が宣言され,76年に廃止された最高革命評議会が復活した。
エティオピアとの関係は依然として改善が見られず,国境地帯での小規模な武力衝突が散発している。
80年8月,米国との間に米軍のベルベラ港など使用に関する協定が締結され,米国は施設利用の見返りとしてソマリアに対し武器調達のための信用供与を行ったと報じられている。
(ハ) ケニア
食糧不足を主因とする経済的諸困難や部族間紛争に直面したモイ大統領の課題は,経済の立直しを図り,部族間融和に基づく国内統一を達成することであった。かかる目的のため,6月には内閣改造によりジョンジョ内務憲法相を任命して,政府内のバランスを図るとともに,7月には,GEMAといわれる最大部族結社を解散させた。かかる措置が次第に奏功し,80年後半にはモイ大統領の地位は,より安定化したと見られる。
(ニ) タンザニア
80年10月に行われた大統領選挙において,ニエレレ大統領は93%の支持票を得て5選され,同政権に対する国民の支持を示した。しかし,石油価格の上昇,同国産換金作物の価格低迷に加え,厳しい旱魃に見舞われ,経済的には依然苦しい状況にある。
外交面では,旧東アフリカ共同体構成国(ケニア・ウガンダ・タンザニア)にルワンダ,ブルンディ,ザンビアを加えた新たな地域協力への動きを見せたほか,ニエレレ大統領は81年3月,日本,中国,北朝鮮,インドを歴訪した。
(ホ) ウガンダ
80年5月,オジョク軍参謀長の解任をきっかけに軍部がビナイサ政権に反発,国内が紛糾し,結局,ムワンガを議長とする軍事委員会が暫定政権として立法,行政の全権を掌握した。
12月10,11日の両日行われた総選挙では,オボテを党首とするUPC(ウガンダ人民会議)が過半数の議席を獲得し,オボテが約9年ぶりに大統領に「返咲き」を果たした。オボテ政権は長期にわたる内紛や旱魃により疲弊している経済の再建,ケニアとの関係改善など内外に課題を抱えている。
(ヘ) マダガスカル
マダガスカルでは,80年11月から81年2月にかけて,食糧不足を始めとする国内経済不振を背景に,反政府活動が活発化し治安の悪化を招いたものの,ラチラカ大統領は党の結束及び軍部の支持によりこれを乗り切った。しかしながら,経済的困難は依然として未解決のまま残されており,緊縮財政をとりつつ,IMFを始めとする外国からの援助の受入れに努めており,西側諸国との関係の改善と強化を図らんとしている。
(4) 中部アフリカ
(イ) ザイール
最大の国内的課題たる経済の再建のため,IMF,世銀などの協力を得て,79年に策定した「経済安定化計画」及び「中期投資計画」の実現のため引続き努力が払われた。
第2次シャバ紛争収拾後,政府はシャバ洲の安定のために意を用いてきたが,80年においても,同州の情勢は安定的に推移した。
外交面でも,第2次シャバ紛争後の善隣友好政策を引続き推し進めた。
(ロ) コンゴー
ンゲソ大統領の下,コンゴーの国内政治情勢は,これまでになく比較的安定した推移を見せた。経済面では新油田の開発により石油収入は増大したが,基幹産業である木材生産の停滞あるいは農業生産の不振,公共部門の肥大化などの問題の解決が必要とされている。
外交面では,ザイールなど周辺諸国との関係改善に努めるとともに,80年6月には,ンゲソ大統領は友好協力関係強化のために中国を訪問した。
(ハ) ガボン
79年12月ボンゴ大統領は3選(任期7年)され,その後,80年1~2月の国会議員選挙及び2月末の新内閣成立を経て,ボンゴ新体制が確立した。外交面では,元首レベルでの交流を通じての近隣諸国との関係緊密化及び10年ぶりの仏公式訪問の実現,ガボン・仏混合委員会の設置による両国間関係の制度化などの注目すべき動きが見られた。また,チャド問題に関連しリビアを強く非難するとともに,リビア大使館を閉鎖するなど両国関係は悪化した。経済面については,78年以後とられてきた財政緊縮政策の効果が現れ,IMFからも経済健全化の評価を受けた。
右を背景として今後の石油枯渇に備えるべく,臨時3カ年計画(80~82年)が策定された。
(ニ) 赤道ギニア
現ヌゲマ政権は,マシアス前政権時代に荒廃した社会と経済の復興を達成すべく努力を傾注している。
外交面においては,現政権はマシアス時代に悪化した近隣アフリカ諸国及び旧宗主国スペインを始めとする仏,西独,米などの西側諸国との関係を修復し,広く各国より経済援助を受け入れる方針をとっている。
80年10月20日には,わが国との外交関係も開設された。
(ホ) カメルーン
80年2月,単一政党であるカメルーン国民連合の党大会が開催され,75年から79年までの政府及び党の諸施策につき総括が行われた。4月には大統領選挙が実施され,アヒジョ大統領が圧倒的な得票率で5選を果たし,今後5年間政権を担当することになった。経済面では,農業を基盤に着実に成長しており,また原油の生産量も順調に伸びている。
(ヘ) 中央アフリカ
ダッコ大統領は,政権獲得後民主化政策を推進してきており,81年2月には複数政党の承認などを主たる内容とする新憲法を国民投票に付し,その採択に成功した。次いで同憲法の下で3月には大統領選挙を実施し,当選を果たすなど政権の基礎固めを行った。
外交面ではリビアのチャド統合に対抗し,両国との外交関係を断絶する一方,仏を中心とする西側諸国との関係を強化せんとしている。
(ト) チャド
80年3月首都において発生したウエディ大統領派とハブレ国防相派との間の武力衝突は,その後内戦へと発展し,12月には,リビアの軍事援助を得たウエディ大統領派の勝利のうちに戦闘は終息した。
この戦闘により,カメルーンなどの近隣諸国に大量のチャド難民の流入が生じた。また,ウエディ大統領は,81年1月,リビアとの国家統合計画に合意した。これに対してアフリカ諸国は一斉に反発し,81年1月トーゴーのロメで開催されたOAUの緊急首脳会議において,同合意の破棄,総選挙の実施などを主たる内容とする決議が行われた。
(5) 西部アフリカ
(イ) ナイジェリア
79年10月の民政移管とともに発足したシャガリ政権は,石油収入の堅調な伸びによりもたらされた経済の好況を背景として,民生分野を重視しつつ経済,社会開発に意欲的に取り組んできており,軍部との良好な関係と相まって,これまで,ほぼ無難に政局を運営してきた。
同国経済の要である石油生産は,80年通年平均で206万B/D(79年は約215万B/D)と,対前年比ではやや減少したものの,石油価格の大幅な上昇のため,外貨収入,外貨準備高は著しく増加した。また,80年1月には,第4次国家開発5カ年計画(総投資予定額約820億ナイラ)を実施に移した。
外交面では,シャガリ政権は,前軍事政権と同様,アフリカ中心主義,非同盟中立路線の堅持,人種差別・植民地主義反対を基本に,4月のOAU経済問題特別首脳会議の開催,西サハラ・チャド紛争における調停努力,ナミビア解放に向けての先進諸国への働きかけなど積極的な動きを見せた。
(ロ) ガーナ
国内政情はリマン政権が軍に対するシビリアンコントロールを強化し,かつ治安維持にも力を入れたことが奏功し,ほぼ安定的に推移した。
国内経済は政府の経済再建政策が開始された直後でもあり,未だ低迷の域を脱したとは言えないが,11月の最低賃金引上げ,年末の生活物資緊急輸入の実施などにより最近やや好転の兆しが見受けられる。
外交面では引続き積極的な近隣外交を展開するとともに,西側諸国との友好関係の維持強化に努めた。
(ハ) 象牙海岸
80年秋以降,民主党大会(9月)を皮切りに大統領選挙(10月),国民議会議員選挙(11月),国民議会議長選挙(12月),更に内閣改造(81年2月)と一連の重要な政治日程が消化された。この過程でウフェ・ボワニ大統領は圧倒的支持を得て5選(任期5年)され,同大統領の立場は更に一段と強まった。また,懸案の後継者問題についても,11月の国民議会特別会期において集団指導体制の確立を目的とする憲法改正が行われ,副大統領職が新設されるなどの動きが見られた。
経済面においては,アビジャン沖合で1977年に発見された第1油田の生産が80年12月に始まる一方で,80年4月には第2油田も発見された。
(ニ) リベリア
80年4月12日サミュエル・K・ドエ陸軍曹長をリーダーとするクーデターが発生し,トルバート大統領は殺害された。
クーデター・グループはPRC(人民救済評議会)を設置し,ドエ曹長は同評議会議長(国家元首)に就任した。
外交面では,ドエ元首が8月下旬エティオピアを初めて公式訪問したことが注目された。
米国との関係は,歴史的経緯から非常に緊密であり,クーデター後も両国財界要人の往来が頻繁に行われてきたほか,政府間ベースの開発援助や民間ベースの投資も再開された。
(ホ) シエラ・レオーネ
現政権は,非同盟主義・領土保全などを唱えるとともに,国連憲章とOAU憲章の諸原則を遵守しつつ外交活動を展開してきている。
貿易,投資,経済協力などの面では,旧宗主国たる英国を始め米国,西独など欧米諸国との関係が依然緊密である。また中国,ソ連その他の東側諸国との経済技術・文化交流の拡大にも力を注いでいる。
80年7月,第17回OAU首脳会議が首都フリータウンで開催され,スティーブンス大統領が同会議の議長を務めた。この会議の開催はアフリカにおける同国の地位向上には役立ったが,国家予算の半分以上が同会議のために費やされたとも言われており,財政のアンバランスから同国の経済状況は現在かなり深刻なものとなっている。
(ヘ) ギニア
セク・トウーレ大統領は80年2月に一部内閣改造を行ったが,内政は80年を通じ比較的安定していた。
外交面ではイラク・イラン紛争調停委員会,OAUチャド特別委員会などの議長国あるいはメンバー国としての活躍が見られたのを始め,積極的に元首外交を展開し自由主義諸国との協力関係の強化に努めた。
(ト) ギニア・ビサオ
80年11月14日,ヴィエイラ首相を指導者とするクーデターが発生し,73年9月の独立以来政権を維持してきたカブラル国家委員会議長は失脚し,同首相を議長とする革命委員会が設置され実権を掌握した。新政権は西側諸国,近隣諸国との関係緊密化の方針を表明している。
(チ) セネガル
80年1月に教育環境改善を求める高校生のストが南部カザマンス州ジガンショーで発生し,一時はダカール大学学生にも波及したが,事態は程なく収拾された。80年末には,サンゴール大統領は独立以来20年にわたり掌握してきた政権の座をディウフ首相に譲った。次いでディウフ新大統領はハビブ・ティアム首相を任命し,新内閣が発足した。ディウフ新政権は,前政権の基本路線を踏襲する姿勢を見せつつも,政党数の制限撤廃,政治結社の自由などを内容とする一連の民主化政策を打ち出している。
外交面では,80年7月,イスラム共和国建設提唱者に対し,リビアが支援活動を行ったとの理由で同国との外交関係を断絶した。
経済面では,77年以来の旱魃のため80年の落花生の生産量は前年よりも更に減少し,石油価格の高騰と相まって財政事情は悪化傾向にあり,政府はこれを打開するために行政部門の経費節減,関税の引上げなどの諸措置を打ち出すとともに,80年7月には仏から215億CFAフラン(約1億ドル)の借款約束を取り付けた。
(リ) モーリタニア
ハイダラ政権は最近徐々に民主化路線を強め,80年12月の文民内閣の成立に続き,複数政党を認める新憲法制定に着手した。また,80年7月に長年の懸案であった奴隷制を廃止した。
81年3月カデル中佐を中心とするクーデター未遂事件が発生し,モーリタニアは,モロッコがこれを助長したとして同国との外交関係を断絶した。
(ヌ) マリ
79年秋よりマリ各地で発生した学生を中心とする反政府運動は,80年3月末を境に鎮静化に向かった。その後は,幾つかの教育機関でスト騒ぎはあったものの,マリ政情はおおむね平穏に推移した。
しかし,恒常的な経済不振,国営企業の不能率と腐敗といった悪条件は改善されておらず,トラオレ政権に対する国民の不満は払拭されていない。かかる状況を背景に,12月末にはクーデター未遂事件も発生した。
(ル) ニジェール
ウラン収入を挺子に意欲的な社会開発を推進してきたクンチエ政権は,最近のウラン価格の低下により大打撃を受けており,79~83年の開発5カ年計画もかなりの縮小を迫られている。しかし,このような経済状況にもかかわらず,クンチエは国民及び軍部をよく掌握しており,80年には内政はおおむね平穏裏に推移した。
外交面ではリビアのチャド侵攻(80年10月)以来,リビアとの関係が悪化している。
(ヲ) 上ヴォルタ
80年11月25日サイエ・ゼルボ大佐をリーダーとするクーデターが発生し,ラミザナ大統領(1966年のクーデターにより政権掌握)は監禁された。その後12月7日,軍人(8名)とテクノラートからなる17名の新しい閣僚が任命され新政権が発足した。新政権のリーダーとなったゼルボ大佐は,建国20周年記念式典でのスピーチにおいて,真の民主主義社会樹立を目指すとの基本方針を明らかにした。
(6) 南部アフリカ
(イ) 南アフリカ
80年前半においては,ジンバブエの独立(4月)と前後してサソール工場爆破事件(6月),ケープ州暴動(5~6月)など過激な事件が発生した。ジンバブエ独立は国内白人層にも波紋を引き起こし,国民党内においても大幅な内閣改造(9月)により地位固めを図るボータ首相など開明派と頑迷派の対立が見られた。10月には白人,カラード,アジア人から成る大統領評議会が設置されたが,黒人,カラードなどの反発も見られる。一方,バンツースタン政策の一環としてシスカイを第4の独立ホームランドとすべく準備が進められている。
経済については,産油国による石油禁輸の打撃はあるものの金価格が国際的に高値を維持していることもあり比較的好調に推移した。
ナミビア独立のためのUNTAG実施前会議(81年1月)においては,停戦・UNTAG開始時期の設定は時機尚早との態度をとったため,同会議は具体的成果を見ずに終わった。一方かかる非妥協的態度の故に南アは国際社会で一層孤立化を強めたと見られている。
(ロ) ジンバブエ
ローデシア制憲会議(79年9月~12月)での合意に従って80年2月末総選挙が実施された結果,ジンバブエ・アフリカ民族同盟,愛国戦線党のムガベ議長を首班とする政府が樹立された。これを受けてローデシアは65年11月のスミス白人政権による「一方的独立宣言」以来,14年余に及ぶ紆余曲折を経て,80年4月18日,黒人多数支配の下にジンバブエとして正式に英国より独立した。
ムガベ首相は,内政面では,人種・部族の和解と国家の統一の精神に基づく平等で民主的な多人種国家の建設を目指し,挙国一致内閣(白人2名も入閣)を発足させるとともに自由経済体制の維持をはかり,内戦により疲弊した経済の再建と国家の開発に取り組んでいる。外交面では,非同盟中立を基調とし,南アとは経済関係を維持し,またコモンウエルス,OAU,国連,世銀,IMF等への加入を速やかに実現するとともに,ナミビア問題,南部アフリカ開発調整会議等においては,フロントライン諸国の一員としての活動も開始している。かかるムガベ首相の内政・外交政策における穏健で現実的な取組み方は着実な成果を見せ始めており,ジンバブエはおおむね順調な進展を遂げつつある。
(ハ) ナミビア
ナミビアにおいては80年7月,従来の行政長官諮問評議会が改組され行政権を有する閣僚評議会が設置され,同評議会議長にはDTA(民主ターンハレ同盟)党のマッジ議長が就任した。同評議会は,行政長官からかなりの権限の委譲を受け,同長官の下にあって一種の行政府的役割を果たしており,SWAPO(黒人解放組織),NNF(ナミビア内政党の一つ)などは,これをもってナミビアの「一方的独立宣言」への一歩であると非難した。10月にはフィリューン行政長官が解任され,D.ハウが新行政長官に就任した。11月には地方選挙(種族別)が実施され,その結果,国民議会において多数党として主導権を握るDTAの母体政党共和党が地方レベルの選挙では白人の過半数の支持を失うこととなった。他方,地方選挙での国民党(同党は,国民議会には,AKTUR党を送り出している)の白人地域での勝利により,DTAの政策が白人の間で不人気であることが示され,今後ナミビア内での白人と黒人の二極化,国民議会と地方議会の乖離が推進され,ナミビア独立問題に微妙な影響を及ぼすとの見方もなされている。
(ニ) ザンビア
80年には食糧生産の不振,銅価格の低迷による外貨収入の減少,インフレ,失業者の増加など経済情勢が悪化しており,これを反映して民衆の不満の高まりが見られた。10月にクーデター未遂事件が発生し,軍将校,元政府高官などが逮捕された。
外交面では,カウンダ大統領は積極的な首脳外交を進め,8~9月には東独,チェッコスロヴァキアなど東欧諸国,イラク及びわが国を訪問した。
(ホ) アンゴラ
80年において,国内情勢は,南アフリカ軍によるアンゴラ領内侵攻(南西アフリカ人民組織に対する攻撃)及び反政府勢力の南部を中心とした活動などにより依然不安定に推移している。
(ヘ) モザンビーク
ジンバブエの独立(80年4月)以降,国内経済の再建を優先的政策として掲げているが,経済状況は低迷している。
11月,南部アフリカ諸国の対南アフリカ依存からの離脱を最終目標とする同地域内の経済協力に関する南部アフリカ開発調整会議がマプートで開催された。(同会議において検討された開発プロジェクトの約40%はモザンビーク関連である。)
マシエル大統領はソ連訪問(11月)の後,モザンビークのコメコン加盟の意向を表明している。