第7節 中近東地域

1. 中近東地域の内外情勢

(1) 湾岸,イラン及びアフガニスタン情勢

中東湾岸地域は,歴史的・民族的紛争,宗教的対立,石油収入の増大に伴う急激な近代化政策による社会的・経済的矛盾を抱え情勢は従来から流動的であったが,79年末のソ連のアフガニスタン軍事介入,80年のイラン・イラク紛争の勃発により情勢は一段と緊迫したものとなった。

イラン・イラク両国はシャー時代から国境問題,シャットル・アラブ河問題などを抱えていたが,イラン革命後は相互に内政干渉を非難するなど特に関係が悪化していた。しかるところ80年9月に至り両国の国境での武力衝突が全面紛争に発展した。紛争の長期化は,両国からの石油輸出に大きな影響を及ぼしたのみならず,湾岸の安全保障の観点からも不安定要素となっている。またこの紛争によりアラブ世界がイラク支持派とイラン支持派に分裂するという局面を招いた。これに対し,イスラム諸国が,80年2月及び3月にイスラム調停使節団をイラン・イラク両国に派遣するなどの紛争仲介努力を行ったほか,国連,非同盟諸国も仲介,調停を試みたが功を奏するには至っておらず,紛争の根が深いだけに紛争の長期化が懸念される。

ソ連のアフガニスタンヘの侵攻は,湾岸地域に対するソ連の直接間接の影響力行使の機会を増大させ,湾岸諸国の緊張も高まった。湾岸諸国は反発と警戒をもってこれを受けとめ,80年1月のイスラム諸国緊急外相会議は,ソ連の即時全面撤退を求める決議の採択を行い,更に5月のイスラム外相会議,81年1月のイスラム首脳会議は,同決議の確認を行った。こうした中で湾岸諸国は,域内の安全保障は自らの手でという立場の下に,湾岸諸国の協力を促進するために81年2月,サウディ・アラビア,クウェイト,アラブ首長国連邦,カタル,バハレーン,オマーンの6カ国から成る湾岸アラブ協力理事会(Arab Gulf Cooperation Council; AGCC)の設立を打ち出し,今後のこれら諸国間の協力関係の強化が注目される。

なお,イランにおける米国大使館占拠・人質問題は,80年1月米国政府とイラン政府との話合いが,アルジェリアを通じて行われ,444日ぶりに解決した。

(2) 中東和平を巡る動き

78年9月のキャンプ・デービッド合意に基づく79年3月のエジプト・イスラエル平和条約の署名により,30年来の両国の戦争状態に一応終止符が打たれた。しかし,他のアラブ諸国はこれをパレスチナ人の権利回復に結び付かない単独和平であるとして強く反発し,79年3月のアラブ外相・経済相会議でエジプトに対する制裁決議を採択した。

エジプト・イスラエル間の平和条約に従い,シナイ半島の段階的返還が進められ,80年1月下旬までに同半島の約3分の2にあたる部分が返還され,2月下旬には大使交換が行われ,両国関係は一応正常化された。しかし,西岸・ガザ地区の自治交渉については,自治に関する基本的問題を巡る立場の相違のため交渉は実質的な進展を見なかった。80年5月の西岸市長に対するテロ事件など情勢の悪化を巡り交渉は一時中断し,いったんは再されたが,7月末,クネセット(イスラエル議会)がジェルサレムをイスラエルの統一された首都と宣言する法案を可決し,東ジェルサレムの併合を法的に追認する挙に出たことに対し,エジプトはこれに激しく反発し,自治交渉は更に中断を続けた。その後,一時はエジプト・イスラエル・米国3国首脳会談の開催が合意されたが,カーター大統領の大統領選挙敗北により,これも立消えとなった。(シナイ半島図:188ページ参照。)

キャンプ・デービッド合意に基づく和平プロセスの停滞に関し,レーガン政権がどのように具体的に対処していく方針であるかは未だ明確ではないが,同政権もキャンプ・デービッド合意の枠組み自体を継承するとの基本的立場は確認している。また,米国は新政権成立当初は,中東和平プロセスの促進と中東においてソ連に対する戦略的地位の強化を図ることは,相互に補完し合うものであるとの見方に立ちつつも,当面後者に米国の努力を集中すべきであるとの立場を表明していたが,81年4月のヘイグ米国務長官の中東4カ国訪問などにより,米国が今後どのようにかかる政策を具体化させていくかが注目されている。

なお,パレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization; PLO)に関しては,80年9月のイラン・イラク紛争の激化や,これを巡るアラブ諸国内の対立,更に11月のアラブ首脳会議に強硬派グループ及びレバノンが欠席したことなどに見られるアラブ諸国の足並みの乱れにより,その政治的環境は不利に展開したと言える。

(3) 各国の情勢

(イ) エジプト

(a) 内政面では,イスラエルとの和平にもかかわらず国民経済に大きな改善が見られず,またパレスチナ自治交渉にも進展が見られないこと,更にイランのパーレビ元国王を受け入れたことなどから,一部国民の間に不満が表面化した。また,79年春以来のイスラム過激派とコプト教徒の衝突は,80年前半も続いた。5月サダト大統領は新内閣を組織し,自ら首相を兼任して行政の能率化,国内政治の安定化を図った。また,5月終身大統領制を盛り込んだ憲法改正案が国民の圧倒的支持で承認された。

(b) 外交面では,エジプト・イスラエル間平和条約に基づき1月イスラエルはシナイ半島の第1次撤退を完了し,外交関係が正式に樹立され,2月には両国大使の交換が行われた。他方,パレスチナ自治交渉は容易に進展を見ないまま,5月に中断された。エジプトのアラブ諸国との外交関係は引続き断絶状態にあって,特にリビアとの関係が悪化した。米国との間では,軍事面を含む協力関係が急速に進んだ。対ソ連関係はアフガニスタン軍事介入後,一段と冷却化した。

(c) 経済面では,石油収入の増大などから国際収支は著しい改善を見せた。しかし,インフレの進行,人口増加,食料不足などによる輸入増,政府の財政困難などの諸問題が未解決のまま残された。

(ロ) シリア

(a) 内政面では,経済的困難などに加え北部諸都市を中心に79年半ばから回教同胞団による反政府活動が激化したが,アサド政権の強硬策が奏功し,80年秋ごろまでには一応鎮静化した。経済面では,公務員給与大幅引上げ及び石油価格高騰などのため高率インフレと国際収支の悪化が進んだ。

(b) 外交面では,9月にリビアとの国家統合を宣言し,また10月にはアサド大統領訪ソの際,ソ連と友好協力条約を締結するなどの動きを見せた。イラン・イラク紛争ではイランに同情的な立場をとったこと,また,相互に相手方政府が自国内の反政府勢力を支援しているとの疑いを持ったことから,ジョルダン,イラクとの関係は冷却した。中東和平問題に関しては,一貫して強硬な姿勢を維持し,11月にアンマンで開かれたアラブ首脳会議には,リビア・PLOなど強硬派グループとともに欠席した。

(ハ) ジョルダン

(a) 内政面では,79年12月成立したシャラフ内閣は首相の急逝により崩壊し(7月),リアーウィ暫定内閣を経て,8月第2次ノミドラソ内閣が成立した。

(b) 外交面では,フセイン国王,ハッサン皇太子,シャラフ首相らがサウディ・アラビア,イラクを含む湾岸諸国を歴訪し,これら諸国との友好・協力関係の強化を推進した。特にイラン・イラク紛争では当初からイラク支持の態度を表明した。他方,シリアとの関係は回教同胞団の活動を巡って急速に冷却化した。また,11月の第11回アラブ首脳会議を始め,アラブ外相・経済相会議,イスラム諸国外相特別会議などの国際会議を主宰した。

(ニ) レバノン

(a) 内政面では,内戦収拾以来内閣を率いてきたホス首相が辞任し,新たにワザン内閣が成立した。

治安情勢は,ベイルート地区からシリア軍が一部撤退し,代わって政府軍が治安維持を引き継いで国民的和解への突破口としょうとしたが,国内のキリスト教徒右派,回教徒左派両勢力の抵抗に遭って任務を十分果たすことができなかった。左右両勢力内部では内紛が頻発し,また外交官,報道関係者を狙ったテロも続発した。

南レバノンでは8月にイスラエルが78年以来の大規模侵攻を行った。

(b) 外交面では,シリアの影響が増大し,11月のアラブ首脳会議をボイコットした。

(c) 経済面では,政情不安にもかかわらず貿易・金融面は堅調で,海外からの送金もあって国際収支は黒字基調を維持している。

(ホ) リビア

(a) 内政面では,反革命分子の排除など革命基盤が再編された中で,人民委員会による企業管理の継続など,いわゆる直接民主主義の強化が図られた。また,前年に引続き在外リビア大使館の人民事務所化が行われた。(在京リビア大使館も81年1月に人民事務所に移行した。)

(b) 外交面では,中東問題に関し依然強硬路線を維持し,またイラク,サウディ・アラビア及び数カ国のアフリカ諸国との間で関係が悪化し,これら諸国と断交した。一方,シリアとの統合の動きがあるとともに,反米親ソ路線は依然継続された。80年12月,リビアの支援の下にチャドの内戦が終息したが,リビア軍のチャド駐留及び81年1月のリビア・チャド統合宣言は近隣アフリカ諸国の非難を浴びた。

(ヘ) スーダン

(a) 内政面では,4月人民議会(定員332人,ほかに大統領指名議員36人)の選挙が行われ,唯一の合法政党たるスーダン社会主義連合(SSU)系の議員が圧勝した。

(b) 外交面では,ソ連とリビアに対する冷ややかな関係が鮮明となった一方,米国との関係が一層強まった。また,81年3月,エジプトとの間で80年3月のエジプト・イスラエル平和条約署名後引き揚げていた大使を相互に再派遣することにつき合意が成立した。

(c) 経済面では,経済再建努力の成果が上がらず,インフレの高進(年率30%以上),50万人を超えるアフリカ難民の流入などの困難が生じている。

(ト) トルコ

(a) 内政面では,デミレル内閣が国内諸問題の解決にほとんど有効な政策をとり得ず,特に治安状態が著しく悪化した。かかる情勢を憂慮した国軍は9月12日無血クーデターにより政権を掌握した。

(b) 外交面では,対米関係の改善が顕著で,3月に両国防衛協力協定が調印された。軍事政権は外交方針の不変性を強調しつつ,従来からの欧米中心外交を基調としながらも東側諸国との友好関係を維持している。

(c) 経済面では,前年に引き続いてOECDを中心とする緊急援助,債務救済などの国際的規模での対トルコ支援が行われた。

(チ) イスラエル

(a) 内政面では,経済社会政策の失敗に閣僚の汚職事件が重なり,リクード政権に対する国民の支持が低下した。与党連立政権の議会内議席も漸減し,教職員給与の引上げ問題を巡る対立から過半数を割ったため,ベギン首相は総選挙を81年6月30日に早期実施することを決定した。

(b) 外交面では,エジプトとの平和条約に基づいて,1月シナイ半島の3分の2の地域から撤退を完了し,2月大使交換を行った。しかし,西岸ガザ自治交渉は,実質的な進展がないまま5月に中断された。他方,7月末イスラエル議会はジェルサレム基本法を採択した。アラブ諸国はこれを激しく非難し,またイスラエルの措置は,国連でも非難されたためオランダ,中南米諸国は大使館をジェルサレムからテル・アビブへ移転した。

(c) 経済面では,インフレ抑制を最優先課題に徹底した財政金融引締めが行われたにもかかわらず,インフレは年間133%にも達した。

(リ) アルジェリア

(a) 内政面では,4月カビリー地方において,ベルベル文化の尊重を求めるベルベル系住民の運動が,ストライキや警察当局と衝突する事件を生じたが,その後,事態は収拾され,80年を通じシャドリ体制は6月の党大会における党規則改正及びそれに続く党,内閣の人事刷新などにより,むしろその基盤を強化した。

(b) 外交面では,イラン人質問題に対する仲介の成功及び仏・英など西欧諸国との要人往来が注目された。

(c) 経済面では,6月の党大会において,従来の重化学工業重視政策から国民生活関連部門重視への路線変更が決定され,これにのっとり,11月新5カ年計画(80~84年)が国民議会で承認された。

(ヌ) モロッコ

(a) 内政面では,特に内政不安を引き起こすような事件はなく,国王のイニシアティブによる憲法改正(5月),住宅・教育問題への対応(8月),政治犯釈放などが行われ,厳しい経済,軍事情勢の下において国内団結の気運を維持した。

(b) 外交面では,仏,英など西欧諸国及びアラブ穏健諸国との関係を強化した。西サハラ問題については,ポリサリオとの間で軍事衝突が依然続いており,OAU,国連などの場で数の上では相変わらず不利な立場にあるが,アラブ及びアフリカ内の穏健諸国の支持を得ている。

(c) 経済面では,輸入石油の支払いと国防負担の増大により厳しい状況が続いた。

(ル) チュニジア

(a) 内政面では,1月数十名の武装集団がガフサ市を襲撃する事件が発生,また2月には10年間政権を担当してきたヌイラ首相が病気で倒れ,4月ムザリ教育相を首相とする新内閣が発足するなどの新たな動きが見られた。新内閣は,政治犯釈放,賃金引上げ,労働組合・反政府活動家との関係改善により,国内和解と団結に努めており,一応無難に政権を引き継いだと見られる。

(b) 外交面では,ガフサ事件を契機としてリビアとの関係が一時極度に緊張したほかは,東西双方との友好外交を推進し,特に西欧諸国,アラブ穏健諸国,隣国アルジェリアとの関係強化が図られた。

(c) 経済面では,雇用問題はあるものの,一応順調な経済成長を遂げ,労働者の賃金も引き上げられた。

(ヲ) アフガニスタン

(a) 79年12月,ソ連の軍事介入の下に成立したカルマル政権は,内政面においては,反封建,反帝国主義の政策を進め,4月には暫定憲法の性格を持つ国家基本原則を採択するとともに,非党員の政府職員への採用,国民戦線結成の呼びかけなどにより支持基盤の拡大強化を図ったが,国民のソ連及びカルマル政権に対する反感は依然強く,反政府勢力によるデモやゲリラ,テロ活動が続発したほか,政府内におけるハルク派とパルチャム派の派閥闘争もあって,国内状態は混乱のまま推移した。

(b) 外交面においては,カルマル政権は,非同盟政策を標榜するとともに,近隣諸国,イスラム諸国との友好関係の強化を唱えたが,ソ連の軍事介入に対する世界各国,特に近隣諸国,イスラム諸国の反発は強く,実際はあらゆる面でソ連及びソ連寄り共産諸国との結び付きが強まっている。

(c) 経済・社会面では,反政府活動の激化により治安情勢は回復せず,流通の困難などによる経済活動の停滞,農業生産の不振などの問題が生じている。

(ワ) イラン

(a) 内政面では,バニサドル大統領の就任に続いて議会の開設,ラジャイ内閣の成立が見られ,イスラム共和国体制の形式整備が進んだ。この間,大統領とイスラム共和党指導者の間で,首相及び閣僚の人選,米国大使館人質問題などを巡って激しい主導権争いが展開された。最高指導者ホメイニ師は,両勢力の間にあって調停者の役割を果たし,対立が決定的なものとなるのを防いだ。

9月以降,イラクとの戦火が拡大したが,人質問題を契機とする西側諸国による経済制裁措置に加え,戦闘の拡大はイラン経済に過重の負担を強いている。また,右紛争の拡大を機に革命により崩壊した軍の再建が急速に進められていると見られる。

(b) 外交面では,人質問題が国内の権力闘争の具とされたため,当初の大統領らの解決努力は実を結ばなかった。結局,人質の解放は,ラジャイ内閣の手にゆだねられ,アルジェリア政府の仲介を得て,81年1月米国新大統領の就任直後に実現を見た。

イラクとの戦火拡大は,イラン政府に国際的孤立を強く感じさせる契機となり,これ以降国際的孤立を脱却すべく外交的努力が強化されている。

(c) 経済面では,革命に伴う混乱が収束に向かういとまもなく,人質問題,イラクとの戦火といった事態を迎え石油輸出が減少し,更には一時中断したこともあり,引続き困難な状況となっている。

(d) わが国との関係では人質問題に関連し,わが国はEC諸国などと協調して経済的・非経済的措置を講じた。更に価格問題に端を発しわが国へのイラン原油の積出しが停止された。このため,イランとの貿易量は著しく減少した。両国の最大の合弁案件であるイラン石油化学計画(IJPC)は,工事再開直後の9月,イラク機の爆撃を受け再び工事中断を余儀なくされた。

(カ) イラク

(a) 内政面では,政治の民主化の名の下に,80年6月国民議会選挙を,9月イラク北部のクルド居住地区で自治立法評議会選挙をそれぞれ実施し,国民大衆レベルでの体制固めを行った。

(b) 外交面では,米ソなど外国勢力の中東地域への介入を阻止するとの目的の下に80年2月アラブ民族憲章を提案し,他方,サウディ・アラビアなどアラブ穏健諸国との連帯の強化に努めた。9月,シャットル・アラブ河などの国境問題を巡り,イランと戦闘状態に入った。

(c) 経済面では,1980年は76~80年の5カ年計画の最終年に当たり,意欲的な開発投資が進められた。イラン・イラク紛争の拡大により工事が一時停止し,また石油生産,輸出も著しく減少したが,81年度の投資予算は,対前年度比28.7%増(225億ドル)を計上し,活発な投資活動を行うことを予定している。

(ヨ) サウディ・アラビア

(a) 内政面では,サウド王家の安定性に影を投げかけた79年末のメッカ事件,及び東部地区シーア派騒擾事件によって引き起こされた社会政治問題を解決すべく,各種の国内治安体制の充実に全力が投入され,一応の安定が回復された。

(b) 外交面では,ソ連のアフガニスタン侵攻,イラン・イラク紛争などの厳しい国際環境に直面したサウディ・アラビアが,中近東地域の安定化のための努力を行った年であった。ポリサリオ戦線を巡るモロッコ・アルジェリア間の調停,ジョルダン・シリア間の緊張緩和のための外交活動を行ったほか,ソ連のアフガニスタン侵攻に対しても積極的に非難発言を行った。また81年1月には,第3回イスラム首脳会議を主催した。

中東和平問題を巡っては,引続きエジプトと断交関係にあり,東ジェルサレムを併合して首都とするとの7月末のイスラエル議会の決定に対しては,ファハド皇太子はアラブ・イスラム諸国は聖戦(ジハード)の選択しかないとの発言を行った。

イラン・イラク紛争については中立を守ったが,米国からAWACS(早期警戒管制機)の貸与を受けるなどの警戒体制をとった。

(c) 経済面では,総額約2,350億ドルに上る第3次5カ年計画(80年~84年)が発表された。同計画はGNP年平均伸び率を3.28%と見込んでおり,その内容は,インフラ投資は減ったものの,生産部門への投資は増大し,結局,開発優先型計画となっている。石油生産は,80年代を通して約950万B/Dを維持していたが,9月のイラン・イラク紛争拡大後は更に約100万B/Dの増産を行っている。

(タ) クウェイト

(a) 内政面では,イラン革命の勃発が首長制をとるクウェイトに大きな影響を及ぼし,「国民の不満を吸収し内外政策に反映させるべきである」との判断から,同国首脳は国内民主化への動きを促進し,76年以来解散されていた議会の選挙を81年2月実施した。その結果,政府系候補が議会の大勢を占め,当面政情は安定している。

(b) 外交面では,イラン・イラク紛争拡大後,イラク国境に近いアブダリにロケット砲が打ち込まれるなど紛争の火の粉が直接降りかかってきたが,中立の姿勢を貫くことにより,戦火の拡大は免れている。

(c) 経済面では,「金融立国」の道を歩んでおり,対外投資活動は一層活発化している。

他方,自国の能力を超える石油収入が流入し始めたことなどから,石油の生産シーリングを従来の200万B/Dから150万B/Dに削減した。

(レ) アラブ首長国連邦

(a) 内政面では,ラーシド首相に対する批判が若干見られたものの,おおむね政情は安定的に推移した。しかし,連邦の権限強化という点ではほとんど進展は見られなかった。また治安上の観点から,急増した外国人労働者を規制する労働法を制定した。

(b) 外交面では,湾岸の安全保障は湾岸諸国の手にゆだねられるべきであるとの従来の立場を堅持した。またイラン・イラク紛争については,直接紛争に巻き込まれることを警戒し厳正中立を守った。

(c) 経済面では,発電所,学校,道路などのインフラ整備に重点を置きつつもポスト・オイル対策としてアルミ精錬プラント,化学肥料工場など基幹産業への投資が行われた。また12月に中央銀行が発足した結果,今後通貨金融政策の強化が期待されることとなった。

(ソ) オマーン

(a) 内政面では,11月にスルタン・カブースの即位10周年記念行事が盛大に催された。また,南部ドファール地域での反政府活動も鎮静化し,政情は比較的安定的に推移した。

(b) 外交面では,ソ連のアフガニスタン介入後,ソ連に対する警戒心を一段と強め,80年5月の米国との施設協定を締結し,米国との軍事,経済関係を強化した。

(c) 経済面では,76年に開始した第1次5カ年計画がかなりの達成率で80年末に終了し,同国の発表によれば,同5カ年計画の目標の一つであった石油依存度の軽減については,石油部門のGDPに占める率が75年の67%から78年の56%へと低下した。更に,80年末には,総額約200億ドルに上る第2次開発5カ年計画を発表し,民間セクターの振興に重点目標を置いている。

(ツ) カタル

(a) ソ連のアフガニスタン侵略,イラク・イラン紛争などカタルを取り巻く情勢にもかかわらずサーニ一家体制は,一応安定的に推移した。

(b) 経済面では,国内経済の多様化が一層充実し,石油依存型経済からの脱却に向け着実な進展が見られた。

(c) 外交面では,サウディ・アラビアとの結び付きを機軸とした湾岸諸国との善隣外交というカタルの基本的外交政策の一層の推進に努めた。

(ネ) バハレーン

(a) 内政面では,イラン・イラク紛争によりイランの影響力が低下したことから,シーア派回教徒の反体制の動きも鎮静化した。

(b) 外交面では,サウディ・アラビアとの協調を最優先した上で,非同盟諸国,クウェイトその他の湾岸諸国との同調を図る現実路線をとっている。

(c) 経済面では,ポスト石油時代の経済基盤造り,国家財政収入源の多様化を政策の柱として中東の金融・商業センター化,船舶,鉄鋼業の工業化の推進及びかかる経済活動を支えるインフラの整備に重点を置いてきた。またOBU(Offshore Banking Unit; 外国銀行を誘致し一大金融センター育成を目指したもの)市場ではアラブ世界からの預金量が急増した。

(ナ) 北イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a) 内政面では,国内部族勢力と民主国民戦線(DNF)との抗争が続く中で,10月,イリヤーニ内閣が成立した。

(b) 外交面では,親米,親サウディ政策を基調としつつも,南イエメン,ソ連との接近の動きも見られた。

(c) 経済面では,第1次5カ年計画が推進された。

(ラ) 南イエメン(イエメン民主人民共和国)

(a) 内政面では,80年4月モハメッド首相の最高人民議会常任幹部会議長就任,10月のイエメン社会党臨時大会などを契機に反対派が追放され,モハメッド体制が強化された。

(b) 外交面では,親ソ路線を堅持しつつ,北イエメンを含む近隣アラブ穏健諸国との関係改善にも努めた。

(c) 経済面では,第1次5カ年経済開発計画の最終年に当たり,経済,社会開発が進められた。

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