第5節 西欧地域
1. 西欧地域の内外情勢
(1) 概観
(イ) 1980年の西欧情勢は,前年同様多くの国で与野党伯仲状態が続き流動的に推移した。10月西独及びポルトガルにおいては総選挙が,7月アイルランドにおいて大統領選挙が行われた。また,イタリア,ギリシャ,アイスランドにおいては新内閣が成立するに至った。
(ロ) 経済面において西欧は,79年以来続いている経済活動の不振が一層強まり,英国,西独,フランス,イタリアなどの主要国を始め,ほとんどの西欧諸国がインフレーションの激化,経済成長率の低下,失業者の増大などの諸問題に直面している。
(ハ) 東西関係については,11月マドリッドにおいて欧州安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe; CSCE)第2回フォローアップ会議が開催されたが,ソ連のアフガニスタン軍事介入,ポーランド情勢などを背景に会議は難航しており,これに象徴されるように欧州の東西関係には80年に入り翳りが生じてきている。
(2) 欧州の東西関係
(イ) 欧州安全保障協力会議(CSCE)
CSCEヘルシンキ最終文書(75年8月1日)の履行状況を再検討するための第2回フォローアップ会議は,11月11日からマドリッドで開催された。本件会議はソ連のアフガニスタン軍事介入後行われる欧州の安全保障にかかわる最初の国際会議であり,かつポーランド情勢が悪化するなど,東西関係に翳りを生じていることから注目されていた。会議前半では米国を始め西側諸国がソ連を激しく非難し,全体的にソ連批判が目立ったとは言え,東西双方からCSCEの進展について,基本的には前向きの姿勢が見られた。しかし,81年1月の会議再開以降,欧州軍縮会議,信頼醸成措置及び人権問題など80余りの新提案の検討が続けられたものの,東西の利害が衝突し,会期を大幅に延長している。
(ロ) 中欧相互均衡兵力削減交渉(Mutual and Balanced Force Reduction; MBFR)
MBFRは中欧における東西間の通常戦力に関する軍事的均衡の達成を目的として,ソ連の提唱によるCSCEに対する逆提案の形で,西側のイニシアティヴにより開始された交渉であり,東側7カ国,西側12カ国の計19カ国が参加し,73年以来現在までに23ラウンドの交渉が実施されてきた。しかしながら,「中欧における東西間の軍事力は均衡している」とする東側と,「中欧の軍事力は東側に優位であり,不均衡である」とする西側の間で,兵力データ問題を始め基本的提案事項につき対立し,譲歩が見られず,7年を経過した現在も具体的兵力削減につき合意をみていない。
(ハ) 欧州戦域核問題(Theater Nuclear Forces; TNF)
NATOは79年12月の閣僚理事会において,米国製のパーシングII及び地上発射巡航ミサイルを欧州数カ国に配備し,NATOの戦域核近代化を図るとともに,戦域核分野における米国の対ソ軍備管理交渉を促進するとの二重決定を行った。これに対しソ連は反対の姿勢を見せていたが,6月末のシュミット西独首相の訪ソを契機として,10月17日から11月17日の間,事務レベルで米ソ間の予備的折衝が行われた。他方81年2月,ブレジネフ書記長が欧州の核ミサイル配備凍結を条件に交渉に応ずる旨提案したことから,NATO特別協議グループを中心に本件が協議されており,米国を始め西側の今後の出方が注目されている。
(3) 欧州統合
(イ) 政治協力
79年6月の欧州議会初の直接選挙は政治面における欧州統合促進への新たな一歩として評価された。欧州議会はその後,EC委員会作成の80年予算案を否決するなど,従来行使されなかった権限を行使し,また,アフガニスタン問題などについても討議し決定を行うなど活発な動きを示した。
また,EC各国は,イランの米国大使館占拠事件,ソ連軍のアフガニスタン軍事介入,イラン・イラク戦争,ポーランド情勢などの国際問題に対し,ECが一つの声で行動することに意を用いた。具体的には,80年6月のヴェニス欧州理事会における中東問題に関する宣言の発出,及びこれに基づく中東諸国へのECミッションの派遣など国際社会における主要な勢力として責任と役割を果たした。
(ロ) 経済統合
80年は欧州諸国の経済統合について特に目立った進展はなく,欧州通貨制度(European Monetary System; EMS)が順調に機能したという明るい材料はあったものの,むしろEC予算問題,共通漁業政策の策定,鉄鋼の危機対策など,時にはECについての基本的な考え方自体も論議されるような極めて困難な問題に直面した年であった。
(a) 予算問題
79年来のEC予算問題は,80年5月,過度な負担を不満としていた英国の主張をかなり入れて,同国に対し総額約15億ポンドの払戻しを行うことで解決した。また79年末欧州議会により否決されていた80年予算案は,7月に漸く成立した。他方,81年度予算案についても,理事会と欧州議会との思惑が一致せず,欧州議会が予算成立を宣言したのに対し,独,仏両国がこれを認めないとの立場をとるに至った。
(b) 共通漁業政策
77年1月のEC200海里水域設定以来,共通漁業政策策定の努力が続けられてきており,5月の外相理事会では80年中に決着すべきことが決議されたが,結局加盟国別漁獲割当,制限水域の設定などの点にっき各国の意見調整がつかず,80年中に成立しなかった。
(c) 鉄鋼
EC鉄鋼業における不況に対処するため,これまで生産調整,最低価格制など種々の危機対策がとられてきたが,80年11月には欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community; ECSC)条約第58条を史上初めて発動し,10月から81年6月までの8ヵ月間EC諸国における強制生産割当を実施することが決定された。
(ハ) 対外関係
(a) ギリシャが81年1月1日からECに正式加盟したことにより,ECは10カ国に拡大した。ポルトガル及びスペインとは引続き加盟交渉が行われているが,当初の予定の83年初めの加盟は困難であると見られている。
(b) 75年にEC9カ国とACP(アフリカ,カリブ海,太平洋地域)46カ国との間で締結された通商・経済協力についてのロメ協定を更に強化拡充した第2次ロメ協定は,批准手続の遅延のためとられた10ヵ月間の過渡的措置を経て,81年1月1日正式に発効した。(同協定締約国は60カ国に増加)
(c) ユーゴースラヴィアとの間で,80年4月に署名されたEC・ユーゴースラヴィア協力協定が正式に発効するまでの中間協定は,7月実施に移された。ASEAN5カ国との間では,80年3月に署名された協力協定が10月発効し,また,ブラジルとの間では9月に通商・経済協力協定が署名されるなど,ECの伝統的対外関係以外の関係も強化していくとの姿勢が一層具体的な形で表れ始めた。
(4) 各国情勢
(イ) ドイツ連邦共和国
(a) 80年10月に行われた連邦議会選挙において,シュミット現首相を首相候補に立てた社会民主党(SPD)及び自由民主党(FDP)の与党連合は,シュトラウスの率いる野党キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)に45議席の大差をつけて圧勝した。従来10議席差という与野党伯仲の厳しい政治情勢にあったシュミット内閣にとって,この結果は,連邦議会の運営を比較的容易にするものであった。
しかし,SPDの微増(4議席)に対しFDPが大幅に伸長(14議席)したため,連立政権内においてFDPの発言力が強まり,また,SPD内部においても党指導部と左派との間にエネルギー問題などを巡り意見が対立している。
(b)80年における西独経済は順調ではなく,年初に設定された低めの経済成長目標(2.5%)も達成し得ず,実績はわずかに1.8%にとどまった。失業者数は年の後半に漸増し,12月には112万人(失業率4.8%)に達した。西独経済政策の最も重要な目標であった物価安定策も十分な成果を上げ得ず,消費者物価も年間を通じて対前年比5%を超えるところとなり,先行き不安材料の一つとなっている。一方,79年に赤字に転じた国際収支は,貿易黒字幅の急減及び資本の流出などが続き,282億マルクという史上最高の逆調となった。
(c) 外交面では,10年来進めてきた東方政策の展開が,アフガニスタン事件を巡る対ソ制裁及びポーランド情勢によって大きな試練に立たされた。シュミット首相は,アフガニスタン軍事介入につきソ連に対し警告を発していたが,80年6月に訪ソし,ソ連との対話の機会を維持しようとする態度を示した。一方,対西側外交では,対米関係最重視という西独外交の基本に変更はなく,レーガン政権の誕生に対し西独は好意的反応を示した。また,EC諸国の中ではフランスとの緊密な関係が際立ち,独仏の協調が注目された。わが国との間には,5月にボンにおいて日独外相定期協議が開催され,また,大平総理大臣が同じくボンでシュミット首相と会談し,国際情勢全般にわたって幅広い意見交換が行われた。
(ロ) フランス
(a) 80年の仏内政には特に大きな動きは見られず,仏民主連合(ジスカール派),共和国連合(ドゴール派),社会党,共産党の4大政党の対立抗争という基調に変化はなかった。しかし,74年5月大統領に就任したジスカールデスタン大統領の任期が81年春終了し,81年4月26日,5月10日の2回にわたり大統領選挙が予定されていることから,80年の仏内政は,大統領選挙への思惑がらみに推移した。
80年末までは,社共の決定的分裂,共和国連合内部での不統一,現職の強みなどの点もあり,ジスカールデスタン大統領が再選されるだろうとの見方が強かった。しかし,81年に入り,一部世論調査では,社会党ミッテラン候補がジスカールデスタンを上回る得票率を収めており,160万人の失業者,年率14%近いインフレに見られる深刻な経済状況と相まって,ジスカールデスタン大統領にとり楽な闘いであるとは言えず,その帰趨が注目された。
(b) 経済面では,80年は,個人消費の減少,輸出の不振などから緩やかな景気下降が続き,異質経済成長率は79年(3.2%)を下回り2%程度に低下した。雇用状況は全く改善を見せず,失業者数は11月には160万人を超えるに至り,消費者物価についても,原油価格値上げの影響などから高水準で推移し,80年の消費物価上昇率は13.3%に達した。更に貿易面でも,79年の大幅赤字に引続き,原油価格上昇に伴う輸入額増により,80年の貿易収支は142億ドルの記録的赤字を示した。
(c) 外交面では,ソ連のアフガニスタン軍事介入に始まり,ポーランド情勢に終わった80年は,東西関係緊張の年であり,「デタント」政策を推進してきたフランスにとっては試練の年であったと言えよう。5月ワルシャワでジスカールデスタン・ブレジネフ会談が行われ,仏の対ソ対話継続の姿勢が示されたが,他方,西独との間には80年中に仏独首脳の接触が5回も行われ,仏独協調をベースとした欧州政治協力強化が注目された。なお,10月には大統領訪中が行われた。
(ハ) 英国
(a) サッチャー保守党政権は,活力ある英国社会の再建に向けて種々の政策を実施しているが,中でも80年はインフレの抑制に重点が置かれた年であった。政府の財政・金融両面からする厳しい引締め政策により,インフレは80年6月以降漸次低下傾向を示しているが,反面生産の低下及び失業者数の急増も顕著となった。このため,80年秋ころより,野党,経済界などを始めとし,与党内,更には閣内からも政府の経済政策緩和ないし修正を求める声が大きくなった。しかし,サッチャー首相は81年1月初め内閣の一部改造を行い,更に3月には予想外に緊縮型の81年度予算を発表するなど,当初の経済政策を遂行していく姿勢を示している。
他方,79年5月の総選挙敗北以来,左右両派が対立を続けていた労働党は,80年10月の党大会以後いよいよ左派勢力の伸長が顕著となり,これに不満を抱く右派系議員(上下両院議員計21名)が81年3月2日正式に労働党を脱党し,更に同月26日には新たに社会民主党を結成するに至った。
(b) 80年の英国経済は,内外の経済不況に高金利,ポンド堅調などの要因が加わったこともあり,極めて深刻な状況となった。インフレは80年5月の21.9%をピークに年末には15.1%にまで低下したものの,生産は75年の水準程度に落ち込み,80年の実質GDP成長率はマイナス3%(79年はマイナス1.0%)と予測されている。また,景気の後退により失業者数は急増し(80年1年間で約80万人増),年末には224万人(失業率9.3%)に達した。他方経済不況の影響から相対的に輸入が伸びなかったこともあり,80年の経常収支は約22億8,000万ポンドの黒字を計上した。
(c) 外交面では,ジンバブエ独立のために中心的な役割を演ずる一方,イランにおける米国大使館占拠事件,ソ連のアフガニスタン軍事介入などの国際危機に際し,ECの一員として積極的に行動した。また81年2月にはサッチャー首相が訪米し,欧州諸国の最初の首脳としてレーガン米大統領と会談した。
(ニ) イタリア
(a) 4月4日社会党が5年ぶりにキリスト教民主党(基民党)との連立政権に復帰し,それに共和党が加わった第2次コッシーが内閣が成立したが,9月に入り経済緊急政令の法律化について共産党の反対と基民党内左派の党議違反のため,国会における過半数の支持が得られず,同月29日総辞職に追い込まれた。
10月18日に至り基民,社会,共和,民社4党連立の下に多数安定勢力を持つ第1次フォルラーニ内閣(戦後第40代目)が誕生した。
(b) 80年の伊経済は年間を通じ対前年比20%を上回るインフレに悩まされた。その結果,輸出競争力の低下を招き,石油輸入代金の支払い増も手伝い貿易収支は年間累積222億9,000万ドルの大幅赤字を記録した。9月28日には公定歩合の16.5%への引上げ,次いで経済緊急政令の発出など一連の経済再建措置がとられたが,10月23日の南部イタリア地震,ワイアット社の大量解雇を巡る労働争議などのマイナス要因も重なり,80年後半に至っても経済復調の兆しは見られず,81年3月公定歩合は史上最高の19%に引き上げられた。
(c) 外交面では,伊政界の大物エミリオ・コロンボ(首相及び欧州議会議長経験者)を外相に据え,80年前半のEC議長国として6月ヴェニスでEC首脳会議を開催し,また,引続き同地で主要国首脳会議をも大過なくこなした。9月にはペルティー二大統領が中国を訪問した。
(ホ) その他
(a) ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は,81年2月わが国を非公式に訪問し,天皇陛下及び鈴木総理大臣と会見したほか,広島では世界平和アピールを発出し,また,長崎ではキリスト教にゆかりの深い教会,史蹟などを巡礼した。ローマ法王の訪日は,史上初めてのことであり,特に「平和の巡礼者」として来日した法王が,平和憲法の下に非核三原則を堅持し平和外交を推進しているわが国において,世界平和と核廃絶を全世界に向かって訴えたことは極めて意義深いことであった。
(b) オランダにおいては,80年4月ベアトリックス新女王が即位し,即位式には,わが国より三笠宮,同妃両殿下が参列された。また,7月から12月までオランダは,EC議長国として活躍した。4月,ファン・アフト首相が来日し(オランダ首相の来日は日蘭交流史上初めて),オランダ船デ・リーフデ号彫刻寄贈,文化協定の調印が行われた。ベルギーでは,8月地域化共同体法が成立し,内政上の最大懸念であるワロン・フラマン両言語問題に一応の決着がついた。
(c) スペインにおいては,81年1月29日内政上の諸困難もあってスアレス首相が突然辞任を表明し,2月27日カルボ・ソテロ新内閣が成立した。なお,2月23日発生した治安警察隊員による下院議場占拠事件は,スペインの民主化に対する反対勢力が今なお根強く存在していることを内外に印象づけた。ポルトガルでは80年10月の総選挙において与党連合の「民主同盟」が着実に議席を伸ばし,81年1月にはピント・バルセモンを首班とする第2次民主同盟内閣が発足した。ノールウェーにおいては,81年1月30日ノルドリ首相が辞任を表明し,後任として労働党副党首ブルントラント女史が北欧初の女性首相となった。アイスランドにおいては,80年7月の大統領選挙の結果,フィンボガ・ドッティル女史が選出された。