第4節 中南米地域
1. 中南米地域の内外情勢
(1) 政情全般
1980年の中南米政情において特筆されるのは,ボリヴィアを除き南米諸国及びメキシコの政情がおおむね安定的に推移したのに反し,中米・カリブ諸国の情勢は79年に引続き流動的に推移したことである。
79年から顕著になった軍事政権国家における民政移行の動きは,80年においても引続き見られ,ペルーが民政移行を果たした結果,域内北部は中米の一部諸国を除きすべて民政となった。一方,78年の大統領選挙以来混乱を続けていたボリヴィアにおいては,80年6月に大統領選挙が行われたものの,同年7月にはまたも軍事クーデターが発生した。軍事政権が73年より続いているチリ及び76年より続いているアルゼンティンにおいては,それぞれ新憲法の制定及び新大統領の就任により,両国とも81年3月から軍政第2期目が開始された。ブラジルにおいては,民主化政策が着実に進んだが,アルゼンティン,チリ,ウルグァイ,ボリヴィアにおいては民政移行の具体的日程は示されなかった。
中米地域の情勢の焦点となったエル・サルヴァドルにおいては,政府は,民主化及び経済・社会改革の実施を目指したが,左翼勢力は外部からの支援を得て武力をもって政府の路線に反対,かかる動きに対し一部右翼分子はテロを加えるといった複雑な状況となり,治安情勢は見るべき改善のないまま推移した。
(2) 域内諸国間関係
(イ) 域内北部においてはメキシコの,また同南部においてはブラジルの積極的外交が注目された。メキシコは,豊富な石油資源と経済回復による自信を背景に外交を展開した。ロペス・ポルティーリョ大統領が7月~8月に,ブラジル,キューバ,ヴェネズエラなどの中南米6カ国を訪問し,中米・カリブ諸国エネルギー協力計画(メキシコ,ヴェネズェラ両国が,中米5カ国,パナマ,ドミニカ共和国,ジャマイカ,バルバドスに対し日量16万バーレルの原油を供給するというもの)を打ち出した。一方ブラジルのフィゲイレード大統領は,5月にアルゼンティンを,10月にチリをそれぞれ訪問した。また,アルゼンティンのビデラ大統領が8月ブラジルを答礼訪問したことにより,南米は域内二大国たるブラジルとアルゼンティンの協調という新時代に移行したと評価する見方も強く,注目された。中米では3月,72年以来中断されていた中米外相会議が開催され,10月にはホンデュラス,エル・サルヴァドル間で1969年以来の国境紛争に終止符を打つ平和条約が調印されるなど,中米における域内協調の動きが見られた。
キューバにおけるキューバ人難民流出問題を契機に,それまでキューバと友好関係を保っていたペルーのみならず,ヴェネズエラ,コスタ・リカとの関係も悪化した。10月のジャマイカの総選挙において,社会主義路線をとってきたマンレイ首相が敗北し,穏健派セアガ首相が当選したこと,及びスリナムの政変(8月)並びにドミニカ国の総選挙(7月)の結果がいづれも穏健派の台頭となったことなど,カリブ地域においては穏健勢力の伸長が見られた。
(ロ) 81年1月及び2月,エクアドルとペルーの間で国境問題に端を発する小規模の武力衝突が発生したが,リオ・デ・ジャネイロ議定書4保障国(米国,ブラジル,アルゼンティン,チリ)及び米州機構(OAS)が調停に乗り出し,両国は右調停を受け入れる形で紛争地域からの兵力引離しに合意した。この結果紛争は,ひとまず収拾された。
ビーグル海峡を巡るアルゼンティンとチリとの国境紛争に関しては,12月ローマ法王の調停案が両国に示され,紛争解決への期待が高まった。
(ハ) 地域統合機関の動きとして注目を引いたものに,ALADI(Asociacion Latinoamericana de Integracion;ラテン・アメリカ統合連合)の誕生がある。これは,自由貿易地域の設定を目的として1961年に設立されたLAFTA(Latin American Free Trade Association ラテン・アメリカ貿易連合)に代わる新しい機構で,域内統合を推進し,最終的にラ米共同市場を設立することを目的としている。ALADIは,1980年8月,LAFTAの全加盟国(11カ国)により署名された1980年モンテビデオ条約(81年3月発効)により設立された。このほか,アマゾン協力条約(署名国は8カ国)が8月に発効したことを受けて,10月ブラジルのベレーンにおいて第1回アマゾン協力条約外相会議が開催され,「ベレーン宣言」を採択し,アマゾンの地域開発,環境保全などに対する域内協力の推進に向けて一歩を印した。また,ラ米エネルギー機構(OLADE)は,域内の石油依存を軽減するため,石炭,地熱,風力などの代替エネルギーの開発の推進に努めた。
(ニ) 域内の民主化に向け努力を行ってきたアンデス・グループ(ヴェネズエラ,コロンビア,エクアドル,ペルー及びボリヴィア)においては,80年7月の軍事クーデターにより成立したガルシア政権下のボリヴィアと,その他の諸国との間で緊張が高まった。7月リマにおいてボリヴィア不参加のまま開催されたアンデス諸国首脳会議は,ボリヴィアの民主的制度確立過程の中断に対し非難声明を出したため,一時ボリヴィアのアンデス統合からの脱退すらうわさされた。結局ボリヴィアの脱退には至らなかったものの,域内統合への足並みが大きく崩れた。
(3) 域外諸国との関係
(イ) 対米関係
中南米に依然大きな影響力と利害関係を有する米国の対中南米関係は,81年1月のレーガン政権発足により大きな変化を見せることとなった。カーター政権下の80年においては,米国はグッドバスター大統領特使のアルゼンティン訪問(2月),マスキー国務長官のメキシコ訪問(11月)などを通じこれら諸国との関係改善に努めた。またニカラグァ,エル・サルヴァドルに対する援助実施に見られるように,中米,カリブ地域において政情不安ないし経済悪化に悩む諸国に対し経済援助を通じて安定化の努力を行った。
81年に入り成立したレーガン政権は,安全保障,経済関係拡大の観点から対中南米政策の見直しを行っている模様である。米国は,まず中米情勢に関し,共産主義諸国がキューバ及びニカラグァを通じてエル・サルヴァドルの反政府勢力に武器を供与しているとして,エル・サルヴァドルの現政権を支援するための軍事及び経済援助を増大し,またニカラグァに対しては,米国の警告にかかわらず,ニカラグァの事態改善の努力は不十分であるとして外国援助法の規定に従い,援助を停止する措置をとった。また,カーター政権下で推進され,南米の軍事政権国家との関係悪化につながった人権政策についても,再検討を加えていると見られ,レーガン政権下では,アルゼンティン,チリなどの南米諸国との関係が改善に向かいつつある。
(ロ) 対西側諸国関係
中南米諸国は従来の過度な対米依存関係から脱却し,外交の多角化を図るとの観点から,わが国,西独,仏,カナダなどの西側諸国との関係強化に努力しており,近年その傾向が強くなっていることがうかがわれる。
80年の主な動きとしては,第1回EC・アンデス・グループ外相会議が5月ブリュッセルにおいて開催され,本件会議の制度化が決定されたことが挙げられる。このほか,メキシコのロペス・ポルティーリョ大統領の欧州(仏,西独,スウェーデン)及びカナダ訪問(5月),ブラジルのフィゲイレード大統領のフランス及びポルトガル訪問(81年1月)など中南米側からの動きが目立った。
(ハ) 対共産圏関係
キューバとソ連の緊密な関係は継続された。10月モスクワにおいて両国間の1981~85年国家計画調整のための最終会議が開催され,ソ連の対キューバ経済技術協力と貿易拡大などについての議定書が署名されたほか,グロムイコ=ソ連外相のキューバ訪問,ラウル・カストロ=キューバ第一副議長兼革命軍事相の訪ソ(共に9月)などが見られた。
アルゼンティンは,7月,ソ連との間に穀物貿易協定を結んだほか,6月にはビデラ大統領が訪中するなど,共産圏との通商関係拡大に努め注目された。ソ連はまたニカラグァとの関係強化にも努めた。他方,中国はエクアドル(1月),コロンビア(2月)との外交関係を樹立した。
(4) 経済情勢
(イ) 80年の中南米経済については,先進工業国の経済停滞,貿易保護主義の台頭,国際石油価格の上昇などの状況の中で,多くの国において経済成長は鈍化し,また,高インフレと国際収支上の困難が続いた。
(ロ) 国連ラ米経済委員会(Economic Commission for Latin America ECLA)の資料によれば,80年の中南米地域の平均GDP成長率は,79年の6.3%から5.3%(推定)に低下した。
これは,ブラジル,ニカラグァなど数カ国を除く全中南米諸国の成長率が79年より低下したことによるものであり,特にアルゼンティン及びエル・サルヴァドルにおける低下ぶりが目立った。
中南米経済のインフレ問題については,各国ともインフレ抑制を経済政策の最重点事項に掲げたにもかかわらず,ここ数年間年を追って激化しており,80年の平均消費者物価上昇率は,53.6%(推定)と79年に続き高率となった(78年41%,79年53.8%,以上ECLA資料)。特にブラジル,メキシコ,ヴェネズエラなどの域内主要国のインフレ傾向が激化しているのが注目される。一方,かつて非常な高インフレであったアルゼンティン及びチリにおいては,インフレの鈍化傾向が見られた。いずれにせよ,インフレ抑制は依然中南米経済の最大課題の一つと言える。
国際的経済停滞と石油価格上昇のあおりを受けて,中南米諸国の国際収支は,全体として見ると大きく悪化した。まず,経常収支の赤字幅は80年には79年に比べ更に30%も増大し,過去最大の250億ドルを記録した(経常収支赤字:78年158億ドル,79年191億ドル。いずれもECLA資料)。また,79年に260億ドルであった資本収支の黒字幅は,80年に225億ドルに減少し,この結果総合収支では71億ドルの黒字(79年)から一挙に25億ドルの赤字(80年)となった。国別には,域内6石油輸出国(ヴェネズエラ,メキシコ,エクアドル,トリニダッド・トバゴ,ペルー,ボリヴィア)では,経常収支の赤字幅が減少し,総合収支は黒字を継続したが,他方,非石油輸出国は,特にアルゼンティン及びブラジルでは国際収支が大幅に悪化した。
(5) 主要国の動向
(イ) メキシコ
ロペス・ポルティーリョ大統領は,76年12月に就任して以来「新政治組織・選挙法」の公布,共産党の合法化などの一連の政治改革を打ち出してきたが,80年は,これら新しい諸制度が定着し始めた年であった。
特に,権力が大統領に集中しているメキシコ独特の大統領制の下において,相対的に地位の低かった議会が,農業改革,インフレ,雇用,石油政策,次年度予算などの問題を中心として活発な審議を展開し,それがマス・メディアを通じて国民に報道されるようになり,政治改革は徐々に前進しているとの印象を与えた。野党の議会への進出,また激化するインフレを背景とした労働争議の頻発などの新しい要因はあるものの,大統領制及び立憲革命党の圧倒的多数による支配という基本的な政治の枠組みには変化はなく,引続き政情は安定的に推移した。
現政権は,79年及び80年を「経済の基礎固めの年」と位置づけ,石油資源の活用を図りつつ,近代的工業国家へ脱皮するための足掛りを築くとともに,高い人口増加率に対応すべく,81年以降の持続的高成長を実現するための政策を打ち出している。80年においては,国家総合発展計画,食糧自給計画,エネルギー計画などを公表し,上記政策の具体化のための各種法令,施策の整備に努めた。
このような政府の積極的経済政策は,上方修正され続けた石油埋蔵量に起因する対外信用の高まりと相まって,関係者にメキシコ経済の将来に対する自信と展望を与え,官民双方のレベルにおける旺盛な投資意欲として結実してきた。この結果,実質経済成長率は79年は8.0%,80年は7.4%(暫定値)を記録するに至った。
しかし,反面,輸送インフラ,熟練労働力,電力,その他の一部原材料不足から,需要の拡大に供給が追いつかないという隘路問題が生じ,80年には29.8%のインフレを招来することとなり,メキシコ経済の大きな問題となっている。
(ロ) 中米情勢
中米情勢は各国ごとに多様な展開を見せ,一方でホンデュラスにおける民主化の動き及びホンデュラス,エル・サルヴァドル間の和平条約の締結などの安定に資する動きが見られた。
しかし全体としては,多年にわたる貧困及び貧富の格差などの政治的,社会的不安定要因に加え,石油価格の上昇などの経済情勢の悪化を背景としで情勢は安定を得られないまま推移した。
中でも中米情勢の焦点となったエル・サルヴァドルにおいては,治安情勢は見るべき改善のないまま推移した。
エル・サルヴァドルにおいては,79年10月に発足した革命評議会のメンバーのうち左派グループが80年初頭に脱退し,キリスト教民主党穏健派を中心に3月より農地改革などの各種改革を実施した。他方極左グループはエル・サルヴァドル共産党の指導の下に10月ファラブンド・マルティ国民解放戦線(FMLN)を結成し,外部からの武器供給などの支援を得て武力をもつて政府の路線に反対した。このような状況下,治安情勢は回復せず,3月のロメロ大司教の暗殺を始めとする多数のテロ事件が発生した。革命評議会は12月の米人尼僧殺害事件の発生を契機としてドゥアルテ=キリスト教民主党党首を議長とする新体制を整えた上,引続き各種民主化措置の推進と治安の回復に努めた。81年1月,極左グループは最終攻勢を開始したが,政府軍はこの攻勢を頓座せしめた。ニカラグァにおいては,79年7月に成立した国家再建執政委員会が複数政党制と混合経済体制を標榜し,旧ソモサ政権時代の旧弊の打破と経済の再建に努めてきたが,80年4月私企業出身の委員2名が辞任し,サンディニスタの影響力がより強化されたことから政府と民間との軋轢が目立つた。またサンディニスタの独裁に抗議する市民集会の禁止,報道の自由の制限など政府の一党独裁化傾向が顕著となつた。
グァテマラにおいては,78年発足当初は進歩的な動きを見せていた現政権が,79年以降,左右両翼からのテロが激化したため80年央より極左勢力取締りを強化するなど,保守勢力の現状維持の姿勢が顕著となつた。
ホンデュラスは,72年来軍事政権下にあつたが,80年4月制憲議会選挙が行われ,革新派の自由党が第1党となつた。7月発足した制憲議会において,パス・ガルシア軍事評議会議長が暫定大統領に任命され,同大統領は8月,18ヵ月以内に民政移行を実施するとの意向を明らかにした。
(ハ) パナマ
78年8月,全国代議員の選挙が行われ,同年10月ロヨ前文相が大統領に選出され,その後のロヨ政権は安定的に推移してきた。80年においては9月に国家立法審議会議員のうち19名についての部分選挙が行われ,その結果与党は10議席しか得られなかつたものの,全体としては未だ議席の圧倒的多数を占めており,ロヨ政権は安定を維持した。経済面では,GDPの実質成長率は前年の4.9%を上回り5%に達したと見られるもののインフレ,失業及び対外債務の累積が最大の問題であつた。特に政府の経済開発計画遂行のための外国からの借入れに対する元利の支払いが,政府の財政悪化の主たる要因となつている。
(ニ) ヴェネズエラ
エレラ政権は,2年目を迎えた80年においても,具体的経済開発計画を発表せず,このことは民間の投資意欲にも影響し,消費者物価の大幅上昇(23.1%)と,スタグフレーションの進行と相まって国民の同政権支持率を低下させ,経済界,労働総同盟は,それぞれ政府に対し,経済社会政策の是正を求めた。
しかし,国際収支は石油価格の上昇から,前年に続き大幅な好転が見込まれ,また2大政党内の党内抗争なども見られるものの,ヴェネズエラの民主体制の基盤が確立されていることもあって,同国の対外信用は依然として高く,80年8月には口ンドンで18億ドルのシンジケート・ローン導入に成功した。
貿易については,石油価格の高騰により輸出が大幅に増大した(推定200億ドル)のに対し,輸入は国内経済の冷え込みから伸び悩み,貿易収支は大幅な黒字となった模様である。
(ホ) キューバ
1979年5月ころから散発的に発生していたキューバ人亡命事件は,80年4月からは,125,000人に上る大量難民流出事件に発展し,キューバ経済の悪化と国民生活の困窮ぶりを浮彫りにした。
キューバは,80年4月から農牧産品の自由市場開放を行つたのを始め,12月の第2回共産党大会では,第2次5カ年計画は国民生活の水準向上に重点を置いたものとする旨発表し注目された。しかし,キューバ経済の根幹をなす砂糖生産は病害などにより,前年に比し,百万トン強の減産となったこともあり,依然として厳しい経済情勢にある。
別記党大会での中央委報告によれば,第1次5カ年計画(76~80年)については,糖価の暴落などの諸理由により目標とした年率6%の経済成長は達成できず,4%にとどまった。また,貿易については,社会主義圏との交易が増大し,資本主義圏からの輸入は,やむを得ない場合に限定された。
同大会で採択された第2次5カ年計画では,経済成長率の目標を年5%としたほか,国民の生活水準の大幅上昇を図るため,個人消費の年率4%以上の上昇を図り,85年の一人当たりの実質所得を現在の15~25%増とし,配給制度の緩和策として繊維品の生産増(年率3%)を図ることなどを決めた。なお,党人事では,政治局員は全員再任された。
(ヘ) ジャマイカ
80年に入りIMFからの引出しが停止されたことから,外貨事情が極度に逼迫し,対外債務残高は13億ドルに達するなど経済は非常に悪化した。かかる状況下で,10月30日総選挙が実施され,野党ジャマイカ労働党(保守系)が圧勝し,72年以来政権の座にあり親キューバ的政策を進めてきたマンレイ政権に終止符が打たれた。11月に発足したセアが新政権は経済の再建に取り組むとともに,西側諸国との関係改善に努めた。
(ト) ブラジル
1979年に誕生したフィゲイレード政権にとって,1980年は,リオ・デ・ジャネイロ及びサンパウロを中心に,左派グループに対する極右テロや労働組合,大学教授などのストライキなどが発生し,内政上多難の年であった。しかしながら,同政権は,政党再編成,州知事らを次回から直接選挙とする選挙制度の改正などを通じて着実に漸進的民主化政策を進めている。一方,経済的には80年は,インフレ対策及び国際収支対策に尽力したものの約110%の高インフレ率を記録し,また,約540億ドル(80年末)の膨大な対外累積債務を抱え,外貨準備高は,79年末の約97億ドルから約69億ドルに減少した。他方,80年における経済成長率は,政府当初見込みである約6%を大きく上回り8%強に達した。輸出額は79年の152億ドルから201億ドルヘと対前年比で約32%の大幅な増加を見たが,輸入額も約229億ドル(79年は180億ドル)と大幅に増え,貿易収支は約28億ドルの赤字を記録した。
(チ) ペルー
80年5月民政移管のための総選挙が実施された結果,人民行動党のベラウンデ党首が大統領に当選し,同年7月,穏健中道右派のベラウンデ政権が発足して12年ぶりに軍政から民政に復帰した。同政権は西側陣営の一員としての自覚の下,民主主義の回復を目指し各種自由主義的政策を打ち出し着実な成果を挙げつつある。経済は79年に引続き回復基調を示したが,インフレ(60.8%),失業問題では必ずしも十分な成果を得られなかった。
(リ) アルゼンティン
76年3月より軍事評議会の下で政権を担当してきたビデラ大統領は,81年3月29日任期終了に伴い辞任し,同評議会により指名されたビオラ退役陸軍大将が同日大統領(任期3年)に就任した。この結果,アルゼンティンは少なくとも84年まで軍政が継続することとなった。ビデラ政権最後の年となった80年は,国内政情は安定的に推移したものの,経済面では79年の8.5%の成長から一転してゼロ成長となり,景気停滞に苦しんだ。74年以来3ケタの高率が続いていたインフレは,初めて2ケタ台になったものの,依然90%近い高率であった。
(ヌ) チリ
80年9月11日に新憲法草案が国民投票に付された結果,67%の支持を得て承認され,同憲法は81年3月11日に発効するとともに,同日ピノチエット大統領は新憲法の過渡規定に基づく大統領に就任した。任期は8年である。経済は現政権の自由開放政策が功を奏し,順調な発展を遂げている(80年の実質成長率6.5%)。人権問題及びレテリエル事件を巡り冷却化していた対米関係は,米国のレーガン政権発足後81年2月に米国政府がチリ向け輸銀ローンの禁止措置の解除を発表するなど,両国関係好転の兆しが見られた。
(ル) ボリヴィア
80年6月29日に大統領選挙が実施され,いずれの候補者も当選に必要な得票に達しなかったものの,左派のシーレス候補が国会での決選投票で大統領に選出されることが確実視されていた。しかし,7月11日の軍事クーデターによりゲイレル暫定政権は崩壊し,ガルシア陸軍最高司令官を大統領とする軍事政権が成立した。他方,経済は政情不安も影響して低迷を続け,成長率は79年比0.8%増にとどまった。また80年末の対外公約債務の累積残高が約22億ドル,80年の国際収支の赤字が4億300万ドルに達するなど,対外経済の悪化が著しかった。