6. ソ連・東欧地域

(1) ソ連

(イ) わが国の対ソ外交の基本は,ソ連との間に互恵の原則に基づく関係を増進し,真の相互理解と相互信頼に基づく安定した良好な関係を確立することにある。このような日ソ関係の確立は,アジアの平和と安定にとっても重要である。

(ロ) しかしながら,最近の日ソ関係は北方領土におけるソ連の軍備強化,アフガニスタンヘのソ連の軍事介入などにより,引続き困難な局面にある。

(ハ) このように日ソ関係が現在困難な局面を迎えているのは上述のごときソ連側の行動に起因するものであり,これに対し政府は,言うべきことは言い,通すべき筋は通すとの一貫した態度を維持し,ソ連が日ソ関係打開のために具体的行動でその誠意を示すことを求めているが,残念ながら今日まで,ソ連から誠意ある具体的な反応は示されていない。

(ニ) 日ソ間の最大の懸案である北方領土問題については,80年9月の国連における伊東・グロムイコ外相会談の際及び81年3月の伊東外務大臣とポリャンスキー在京ソ連大使との会談などにおいて引続き話合いが行われ,日本側から,日ソ関係において領土問題は避けて通れない問題であり,早急に領土問題を解決して平和条約を締結すべき旨,また北方領土におけるソ連の軍備強化は日ソ友好の精神に逆行するものである旨強調した。しかしながら,ソ連側は依然この問題の解決促進に誠意ある態度を示さなかった。

また政府は,北方領土問題に対するわが国の基本的立場を広く国際世論に訴えるとの観点から,80年9月の第35回国連総会における伊東外務大臣の一般討論演説において,北方領土におけるソ連の軍備強化にも言及しつつ,北方領土問題を直接取り上げた。

(ホ) わが国は,日ソ関係を真の相互理解に基づく安定的な基礎の上に発展させるためには,北方領土問題を解決して平和条約を締結することが不可欠であるとの立場で一貫しており,81年2月7日の「北方領土の日」の設定にも見られる国民の総意を背景に,今後ともこの問題の解決のため,粘り強く対ソ折衝を進めていく考えである。

(ヘ) また,79年末に行われたソ連のアフガニスタンヘの軍事介入については,政府はいかなる問題も武力の行使又は威嚇によってではなく,平和的話合いによって解決されるべきであるとの基本的立場から,外務大臣談話(79年12月29日)の発出,外交的申入れ(79年12月29日,80年2月8日)国連における活動などを通じ,これを非とする日本の姿勢を明確に表明した。またわが国の立場を西側友好諸国との協調の下に具体的行動をもって示す必要があるとの認識に基づき,モスクワ・オリンピック不参加,ココムにおける輸出規制強化への協力,公的信用供与及びハイ・レベルの人的交流面における慎重な対応などの措置をとってきた。

(ト) 対ソ外交は,わが国の対外関係の中でも最も主要な位置を占めるものの一つであるが,ソ連のように長期的観点から一貫性ある外交戦略で臨んでくる国との外交上最も必要とされるものは,筋を通した確固たる姿勢であり,息の長い冷静な対応である。日ソ関係発展への道を開くためにも,現在ソ連側において,自ら主張してやまない善隣と友好を言葉の上だけでなく,実際の行動で示すことが強く望まれている。

(2) 東欧地域

(イ) わが国の国力の増大に伴い,近年東欧諸国のわが国に対する関心が高まりつつあるが,わが国としても,政治社会体制を異にするこれら諸国とも,相互理解と友好関係を発展させる方針であり,80年もかかる方針に沿って外交努力を行った。

(ロ) 80年夏以降のポーランドを巡る情勢については,その進展いかんによっては,欧州のみならず全世界の平和と安定に深刻な影響を及ぼす可能性も懸念された。わが国は,かかる認識に基づいて,ポーランドの問題は外部からのいかなる干渉にもよることなく,同国国民自身によって解決さるべき旨の外務大臣談話を12月6日発表したのを始め,その他の機会でも,ポーランド情勢に対するわが国のかかる関心を表明した。

また,今日の同国情勢の原因の一つにその経済困難があることから,各国がポーランドに何らかの形の支援を行うことも必要であるとの観点から,わが国政府としては,欧米諸国との協調をも考慮しつつ,いかなる協力が可能かにつき検討を行った。

(ハ) 独立・非同盟の道を歩んで来たユーゴ一スラヴィアにおいては,チトー大統領が死去(5月)したが,その国葬には,折からカナダを訪問中であった大平総理大臣が,急拠同国訪問の日程を繰り上げて参列した。このことは,故チトー大統領の内外路線を継続していくことを決意したユーゴースラヴィア官民を勇気づける上で,大きな意義があったものと思われる。

また,独自の内外政策を推進しているアルバニアとの間では,外交関係設定の交渉が合意に達した結果,81年3月に外交関係が設定され,わが国の外交の基盤が更に拡げられた。

(ニ) 以上のほか,80年2月にはプヤ=ハンガリー外相のわが国への公式訪問が行われるなどの要人の交流も継続されたほか,経済・貿易,文化面においても各国との交流が深まった。

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