2. 国際情勢の主要動向

(1) 主要国間の相互関係

(イ) 79年末に発生したソ連のアフガニスタンヘの軍事介入の結果,同年6月のカーター,ブレジネフ間首脳会談とSALTII条約の調印によりいったんは順調に進展するやに見られた米ソ両国関係は80年1年間を通じて改善の兆しを見せないままに推移した。

(ロ) 米国は80年早々に一連の対ソ措置を発表するとともに,カーター大統領はその年頭教書の中で,ソ連の侵攻が中東に深刻な脅威をもたらしているとして,いわゆるカーター・ドクトリンと呼ばれる強い外交姿勢を明らかにした。それと同時に米国は,西側諸国との間で対ソ措置につき共同歩調をとるべく努めた。

こうした米国を始めとする西側諸国の動きに対し,ソ連は80年の1年間を通じてブレジネフ書記長とジスカールデスタン仏大統領及びシュミット西独首相とのそれぞれの首脳会談をプレイアップしつつ,第6回主要国首脳会議(ヴェニス・サミット)の直前にはアフガニスタン駐留ソ連軍の一部撤退を発表し,更には12月にインドを訪問したブレジネフ書記長はペルシャ湾不介入提案を米,日,西欧諸国などに対して行った。

 このようにソ連は対西欧諸国平和攻勢を強め,米国と西欧諸国との離間を図る一方,ソ連軍のアフガニスタン駐留の長期化と介入の既成事実化への動きを示した。

(ハ) このようなソ連の対西側平和攻勢に対して米国は,引続きソ連に対し強い姿勢を維持し,上院における批准審議が棚上げとなっていたSALTII条約についても批准し得る見通しがたたないまま推移した。また,81年1月に発足したレーガン政権は強い対ソ姿勢を打ち出しており,2月の第26回ソ連党大会におけるブレジネフ書記長の米ソ首脳会談開催の呼びかけに対しても慎重な態度をとっている。

他方,西欧諸国も80年を通じて米国との同盟関係の維持・強化に努める一方,ジスカールデスタン仏大統領及びシュミット西独首相のブレジネフ書記長との会談に示されたように,緊張緩和を維持すべくソ連との対話も併せ行うとの対応を示した。また,レーガン米新政権のソ連に対する厳しい政策に対しては,西欧諸国は懸念を抱きつつも,サッチャー英首相,ゲンシャー西独外相,フランソワ・ポンセ仏外相等が相次いで訪米するなど,米国との間の協調関係の維持のための努力が行われた。

   80年後半におけるポーランド国内情の緊迫化とこれを巡るソ連・ワルシャワ条約機構軍の動向が,こうした西側諸国結束への動きを促進させる大きな要因となった。

(ニ) 中国は79年に引続き外交政策の柱の一つである日本・米国・西欧との協調関係の強化に努めた。特に,79年1月に国交正常化を実現した米中間では80年においてブラウン国防長官の訪中とこれに引き続く耿ヒョウ副首相(党中央軍事委員会秘書長―現国防部長)の訪米を通じて軍事面での交流も始まったことが注目された。しかし,80年後半の米国大統領選挙戦を通じてのレーガン候補の台湾との関係強化を示唆する発言が中国側を刺激し,レーガン新政権の発足後も中国側は米国の台湾政策については反発を示しつつ見守るとの態度をとった。

(ホ) 中国と西欧との間では,趙紫陽が新首相となり,新体制が成立した80年後半,ペルティーニ=イタリア大統領,ジスカールデスタン仏大統領の訪中などを通じて関係強化が図られた。

(ヘ) 他方,中ソ両国関係は,80年4月に中ソ同盟条約が30年間の期間満了をもって終了し,無条約状態に入ったが,79年に開始され80年春に北京で再開される予定であった中ソ間の関係改善交渉は,ソ連のアフガニスタン軍事介入の結果,中国側がこれを中断し,更にポーランド情勢が緊迫化するに伴って再開の見通しは立っていない。

(2) アフガニスタン問題と南西アジア及び周辺地域

(イ) ソ連のアフガニスタンヘの軍事介入は上述のとおり主要国間関係に大きな影響を与えたにとどまらず,その周辺諸国にも大きな衝撃を与えた。

特にアフガニスタンと直接に国境を接し,同国に流入する大量のアフガニスタン難民を抱えることとなったパキスタンは,80年に2度にわたってイスラム諸国外相会議を主催するなど,アフガニスタン問題の政治的解決に向けての努力を行うとともに西側との関係改善を図った。

こうした状況を踏まえて,米国は対パキスタン外交を積極化し,80年2月には,実現こそしなかったものの4億ドルの援助をパキスタンに提案した。更に,10月にはハック=パキスタン大統領の訪米が行われ,1981年に入ってレーガン政権の下で米国の対パキスタン援助の積極姿勢が一段と明確になってきている。

(ロ) これに対して,インドについては80年初頭の総選挙で勝利を収めて再登場したガンジー首相の下で,ブレジネフ書記長とレッディ=インド大統領の相互訪問,同じくグロムイコ外相とラオ外相との相互訪問に加えて,16億ドルに上るソ連製武器の対インド供与の合意など,ソ連との間に積極的な動きが見られた。しかし,インドは,アフガニスタン問題については明確なソ連支持の態度を表明せず,注目された81年2月のニューデリーでの非同盟外相会議でも議長国として中立的立場に終始した。

このようなインドに対して米国は,濃縮ウラン輸出の再開,武器売却決定など関係改善に努めたが,両国関係は全般としては目立った進展は見せなかった。

(ハ) 中国は,アフガニスタン問題発生直後に黄華外相がパキスタンを訪問し,その後,ハック=パキスタン大統領の訪中を実現させてパキスタン支援の姿勢を示し対ソ牽制を行った。

(3) 中近東情勢

(イ)  79年11月に発生した在イラン米大使館人質問題は80年には最終的解決は見られなかったが,81年1月に至り,人質全員が解放されて解決した。しかし,イラン国内では80年においても,バニサドル大統領を中心とする穏健派と教条主義者グループとの間の対立,更には同大統領とラジャイ首相の不仲などの内部権力抗争が依然として継続し,国内統治体制が確立されないままに混乱が続いた。

対外的にはイランは,人質問題の経緯にも見られるとおり反米政策をとりつつ,また他方ソ連に対しても慎重な態度を維持してきている。

(ロ)イラン革命後,国境地帯で小規模な武力衝突が見られていたイラン・イラク間の関係では上述のようなイラン国内の混乱をもその背景の一つとして,80年9月に至って大規模な本格的戦闘へと発展した。

イラン・イラク紛争に対しては,米・ソ両国ともイラン,イラクに対するそれぞれの思惑,更にはいずれか一方に与することにより予想されるマイナスなどが制約要因となって中立・不介入の立場を維持してきた。

しかしながら,イラン・イラク紛争は,国連,非同盟,イスラム諸国などの様々な調停活動にもかかわらず80年内には解決の糸口すらも見出せぬままに長期化するに至った。

同紛争の長期化に伴って,アラブ諸国の間にもイラン支持を明らかにする国と,実質的にはイラクを支援する国との間の立場の相違が明らかになり,シリア・ジョルダン間の緊張,アラブ首脳会議へのシリアを始めとする強硬派の欠席に見られたごとく,アラブ諸国間の対立が表面化した。

(ハ) 中東和平問題を巡っては,80年1月にはエジプトとイスラエルとの間で国交の樹立が見られたものの,パレスチナ自治問題に関しては両国間の基本的立場の相違により進展を見ないまま,自治交渉終結の一応の目途とされていた5月26日を経過した。7月末にイスラエル議会が統合されたジェルサレムをイスラエルの首都とするジェルサレム基本法案を可決したため,これに反発したエジプトは自治交渉の無期延期を表明した。その後この停滞を打開すべく,80年末米,エジプト,イスラエル間首脳会談開催が合意されたが,米大統領選挙においてレーガン候補が勝利を収め新大統領に就任することとなったため実現しなかった。レーガン政権はキャンプ・デービッド合意の維持などの立場を明らかにしたが,むしろ中東地域における対ソ政策を当面の課題としていると見受けられる。81年4月ヘイグ国務長官が中東訪問などを行ったが,米国が新たな具体策を打ち出すのは6月のイスラエル総選挙後になると見られる。

EC諸国は,このような状況を踏まえて,中東和平のモメンタムを維持すべく,80年6月のヴェニスにおけるEC首脳会議で中東宣言を発表するとともに,EC議長国外相を長とする使節団を数度にわたり中東に派遣するなど,いわゆるECイニシアティヴといわれる動きを見せた。

(4) ポーランド情勢

(イ)80年7月の肉製品値上げに端を発した労働者スト以降のポーランド国内情勢の急転回とこれに対するソ連の対応によってもたらされたポーランドを巡る情勢の緊迫化が,アフガニスタン問題によって後退していた東西関係に一段と大きな影響を及ぼしかねないことから成行きが注目された。

(ロ) ポーランド国内においては,8月末に収拾策として,ソ連・東欧諸国の中では初めて独立自治労組,スト権,検閲緩和などを内容とした政労合意が成立した。しかし,これら党・政府側の譲歩による党指導部の威信低下,9月のギエレクからカニアヘの第一書記の交代,経済困難の一層の深刻化に加えて,上記の政労合意の実施などを巡り政労間での対立が続いたために,ポーランド国内情勢は混乱を強めた。

(ハ) こうしたポーランド党・政府の労働者側に対する度重なる譲歩に対して,ソ連及び東独,チェッコスロヴァキアなどの周辺東欧諸国が強い不満を示し,特に12月上旬にはポーランド国境付近におけるソ連軍の増強及び警戒体制の強化が伝えられ,更に12月5日には突如ワルシャワ条約機構加盟国首脳会議が開催されるなど,ソ連軍のポーランドヘの介入の可能性を巡って緊張が高まった。

(ニ) このようなポーランド情勢の緊迫化は米国を始めとする西側諸国の強い懸念を呼んだ。米国はソ連に対してポーランドヘの介入に対する強い警告を数度にわたって発し,NATO諸国も,80年12月中旬に開催された閣僚理事会の声明の中で,ポーランドヘの介入が東西関係ないしデタントに多大な悪影響を与えることになる旨明らかにした。

(5) アジア情勢

(イ) 80年のアジア情勢ではまずカンボディア問題の動向が注目されたが,カンボディアにおいては,80年においても前年に引続きヴィエトナム軍によるポル・ポット軍掃討作戦が行われた。6月にはヴィエトナム軍が数カ所でタイヘの越境攻撃を行うという事件があったことから一時タイ・カンボディア国境地帯の緊張が一挙に高まった。しかし,カンボディアにおける軍事情勢は膠着化した。

カンボディア問題の長期化に対応してASEAN諸国は政治的結束を一段と固め,国際世論の支持をとりつけてカンボディア問題の包括的政治解決を図るべく,ASEAN外相会議,国連総会などの場で活発な動きを見せた。更にヴィエトナムとの間では個別の外相会談などを通じて話合いを行ったが,双方の主張はかみ合わず,カンボディア問題の解決への糸口は見出せなかった。

79年には中国軍の対越進攻にまで至った中国とヴィエトナムとの関係は80年においても引続き緊張した状況で推移した。他方,ソ連はヴィエトナムとの友好関係を維持・強化することを基本に経済及び軍事面での援助を継続するとともに,インドシナ地域でのプレゼンスの拡大を図った。

(ロ)また,80年には隣国たる韓国で情勢の急進展が見られた。5月の学生デモの激化に伴う全国非常戒厳令の発布と一連の政治社会刷新を目的とする措置を経て国内秩序の再建への努力がなされ,8月には崔圭夏大統領が辞任し,全斗煥大統領が選出された。その後10月には新憲法が採択・施行され,81年2月に同憲法の下での大統領選挙が実施され全斗煥大統領が再選された。

このような韓国情勢の急進展に対して,北朝鮮は韓国との間で80年2月から開始した南北総理会談開催のための準備会談を一方的通告により中断させた。また,中・ソ両国との関係では北朝鮮は80年においても両国いずれにも過度に片寄らないという従来の立場を堅持した。

他方米国は,上述の通りの韓国内の情勢の急進展もあって,80年1年間を通じて韓国に対しては慎重な対応を示してきたが,81年に入り全斗煥大統領選出直後の2月に同大統領が訪米し,米韓首脳会談を行った際に韓国に対する防衛上のコミットメントを確認した。

(ハ)80年の中国においては79年に引続き内政面では農業,工業,科学技術,国防の「四つの現代化」達成に向け国内の経済建設を進め,そのための政治的,社会的環境整備として文革の否定,毛沢東元党主席の再評価といった思想的準備,党・政府両面における組織,人事の刷新・強化,官僚主義の克服,法制の確立などに努力が傾注された。

また8月末から9月初にかけて開催された第5期全人代第3回会議で華国鋒総理の辞任と趙紫陽副総理の総理就任が発表され,ともにトウ小平系と目される胡ヨウ邦(党務),趙紫陽(国務)を党・政実務の要とする新たな指導体制が確立した。中国はかかる指導体制の下で近代化建設に取り組むこととなった。

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