76年は,新生アンゴラ社会主義国家の成立とその南部アフリカへの少なからぬ影響,キッシンジャー米国務長官(当時)のアフリカ訪問と南口一デシア・スミス政権による多数支配の原則受諾,ナミビアをめぐる動きの活発化,60年以来初めての南ア国内の黒人やカラードによる大規模な暴動の発生等,南部を中心としてアフリカが大きく転回した流動の年であつたといえよう。
非自治地域の独立の動きとしては,セイシェル共和国が6月28日独立を達成した。
他方,2月にはナイジェリアでクーデター未遂があつたほか,11月にはブルンディのクーデター,77年1月にはベナンの外国兵侵攻,同2月にはエティオピア元首殺害,同3月にはアンゴラからの反ザイール政府軍のシャバ州進攻,同月コンゴ一元首の殺害と,アフリカ大陸の不安定化を示す事件が相次いだ。
経済面においては,アフリカ諸国の主要輸出品である一次産品の価格が,特殊な例外を除いていずれも低迷しつづけ,また先進工業諸国の不況が引き続いたこともあり,アフリカ諸国は,76年も深刻な経済困難から立ち直れないままに推移した。なおEC-ACP(アフリカ・カリブ海・太平洋諸国)間のロメ協定が4月1日に発効した。
西アフリカ15カ国を加盟国とする「西アフリカ諸国経済共同体条約」(ECOWAS)は,76年6月末発効し,同年末には同条約の付属議定書も採択され,事務局及び基金の所在地がそれぞれラゴス及びロメと決められた。
エティオピアでは,臨時軍事行政評議会(PMAC)が75年中に実施した企業,農地等の性急な国有化措置の結果,76年には生産の低下(失業者の増加),インフレをもたらした。このため,一般大衆の施政者に対する不満が高まり,政情は極度に不安定な様相を示した。エリトリア問題は解決の兆しがなく,エリトリア解放勢力の活動は活発である。他方,地下組織である「エティオピア人民革命党」(EPRP)は,早期民政移管を強く主張し,各地の反政府団体と連帯関係を結び,テロ活動等を行つている。これに対し政府は徹底的な弾圧を断行している。評議会内部の対立も激しく,77年2月3日テフェリ議長ら多数が殺害された。その後メンギスツ中佐が議長に就任した。
エティオピアは,中立非同盟を外交の基本としているが,軍事政権成立以降ソ連等の社会主義諸国との接近が顕著となつている。近隣国との関係では,エリトリア解放勢力を支援するスーダンをはじめ,一部アラブ諸国と鋭く対立し,オガデン問題及び77年6月に独立が予定されている仏領アファール・イッサをめぐり,ソマリアとの確執が続いている。
ソマリアでは,7月単一政党としてソマリア社会革命党が発足したが,実体的には軍部を基盤とする南部優位の体制は変化がなく,バレ大統領の地位も安定している。旱魃による打撃は大きく,国内建設の困難は当分続くものと見られる。
ケニアでは,ケニャッタ大統領の強力な指導の下で経済の順調な回復を背景に内政は平穏に推移した。またUNCTAD,UNESCO等の国際会議を開催し,国威を高めた。7月のイスラエルによるウガンダ・エンテベ空港襲撃事件を契機にウガンダとの関係が決定的に悪化した。また77年3月1日,対日ガット35条援用を撤回した。
タンザニアでは,引き続きウジャマー村建設,タンザニアナイゼーション等の社会主義政策が推進された。アルーシャ宣言10周年目に当る77年に入り,2月懸案のTANU党とザンジバルAfro-Shiraz党との合併が実現し,新党CCM(革命党)が発足するとともに大幅な内閣改造も行われ,ニエレレ大統領の指導力は一層強化された。
75年10月開通したタンザン鉄道は7月中国より正式に引き渡され,タンザニアはザンビア等南部アフリカ地域との政治的経済的なつながりを更に強めた。
ウガンダでは,長期政権への基盤を固めつつあつたアミン政権は,7月のイスラエルによるエンテベ空港襲撃事件とこれに続く対ケニア関係悪化と英国の対ウガンダ断交で一時危機的な局面を迎えた。更に77年2月のクーデター未遂事件をめぐり,欧米諸国との関係も一層悪化した。
東アフリカ共同体は,東アフリカ3国間の政治経済体制の相違からその存続が危ぶまれ,条約の再検討が行われているところ,77年1月東アフリカ航空の全面的な運航停止とケニア航空の発足により事態は一段と深刻化した。
ザンビアでは,1月に非常事態宣言が行われた。その要因の1つとなつた経済状態の悪化は,引き続く銅価の低迷によつてその後も回復せず,7月にはクワッチャ貨の20%切下げ,9月には第3次国家開発計画実施の1年延期が発表されるに至つた。
政治情勢では,国境を接する南ローデシア問題が解決の見通しなく,依然緊張の要因となつている。一方,国内的には,非常事態宣言後,カウンダ大統領の率いる統一国民独立党がその結束を固め,同大統領の地位を強化している。
マダガスカルでは,75年末の国民投票により,第2共和制の大統領に就任したラチラカ国家首席は,マダガスカル革命前衛を創設して政権の強化を図るとともに,最高革命評議会の改組を行つた。なお,軍の実力者で有力な部族ベチレオ族の出身であるラコトマララ首相は,7月ヘリコプター墜落事故で死亡し,後任にラコトニアイナ文相が任命された。
経済面では,外国系銀行,保険会社の国有化,輸入管理などによる経済自立と健全化を図つたが,このため経済的困難に陥り,さらには西側諸国の投資手控えを招くという悪循環を生むこととなつた。
モーリシャスでは,12月に行われた総選挙で左派のMMM(モーリシャス闘争運動)が第1党となつたが,ラムグーラム首相の率いる労働党(PT)は,モーリシャス社会民主党(PMSD)との連合により政権を維持した。
ザイールでは,モブツ大統領が,76年2月と77年2月の2回にわたり政治局,大統領府と内閣の改造を行い,その政権基盤の安定を図つた。
経済面では,経済情勢の悪化改善のためIMFや世銀等国際機関からの借款供与を受けるとともに,ザイール平価の切下げを断行した。他方,日本を含む西側主要先進諸国との間でザイールが負う債務の繰延べのための交渉を行つた。
中央アフリカは,12月4日国名を中央アフリカ帝国と改称し,ボカサ大統領は,ボカサ1世となつた。
チャードは,わが国との友好関係を促進すべく,10月,初代大使を任命した(中国駐在大使の兼任)。また,11月にはカムーゲ外務大臣及びケリム経済計画大臣の訪日があつた。
コンゴとの関係では,わが国は4月に初代大使を同国に派遣した(ガボンより兼任)。なお,77年3月18日ングアビ大統領はクーデター未遂事件で殺害された。
ブルンディにおいては,ミチョンベロ将軍は11月,バガザ大佐を中心とする軍の青年幹部による無血クーデターで追放され,同大佐が正式に大統領に就任した。
ナイジェリアについては,2月13日クーデター未遂事件が起つたが,軍部の迅速な反乱鎮圧と事後処理により事態はまもなく正常に復した。オバサンジョ新政権は,前政権の諸政策を踏襲し,特に民政移管については,79年10月までに完了するとの既定方針に基づき,民政移管のための諸準備を進めている。事件後一時悪化した英米との外交関係は,その後,徐々に好転した。国際関係では,アンゴラの解放団体MPLAを承認し,南部アフリカ問題では強硬な対決姿勢を打ち出す等同国のアフリカ諸国におけるリーダーシップを保持し,他方6月に発足した西アフリカ諸国経済共同体の事務局を首都ラゴスに招致するなど,西アフリカ地域の経済統合の動きにも中心的な役割を務めた。
経済面では,インフレ対策のため種々な国内措置をとつたが,十分な成果を収めたとはいい難く,推進中の第3次開発計画では住宅,保健,農業開発に優先度を置く等の政策変更を行い,また企業振興法の改正によつてナイジェリア化政策を促進した。
象牙海岸においては,5月ウフェ・ボワニ大統領が,15年ぶりにフランスを公式訪問した。
ガーナでは,種々の国内問題を抱えながらも,アチャンポン政権下の政局は一応安定推移した。
リベリアでは,政情は安定を続け77年2月には中国と外交関係を樹立した。
ガンビアに対して,わが国は5月25日漁船増強計画のため1億円にのぼる贈与につき交換公文を締結した。
ニジェールにおいては,2月内閣改造が行われ,74年クンチェ軍事政権成立以来始めて,文民閣僚数が軍人閣僚数を上回つた。3月15日ムッサ前内閣農村・経済・天候大臣(大佐)らによるクーデター未遂事件が発生した。これはクンチェ政権成立以来の大きな事件といわれるが,強力な武力をもつて鎮圧された。
なおわが国は,ニジェールの輸送力増強計画に対し3億8,000万円の無償資金協力をすることとし,12月21日このための交換公文を締結した。
ギニアにおいては,70年以来断絶していた西独との関係が,76年11月西独外相のコナクリ訪問によつて正常化され,西側との歩み寄りが図られた。なお,わが国は,76年1月20日コナクリに大使館を開設した。
セネガル共和国については,11月,アレクサンドレンヌ工業開発環境大臣の訪日があり,その際同大臣とわが方外務大臣との間で貿易取極が署名された。
モーリタニアにおいては,2月西サハラからのスペイン軍の撤退に伴い同地域の南部約3分の1を自国領に帰属させるため軍事的・行政的措置を進めた。このため西サハラの完全独立を宣言したポリサリオ戦線との間で76年中を通じてしばしば武力衝突事件が生じた。
なお,ダッダ大統領は,8月の大統領選挙で4選された。
南アフリカ共和国は,75年に引き続きそのアパルトヘイト政策の緩和措置としてスポーツ政策,黒人居住権に関し若干の改善策を講じた。
6月にはヨハネスブルグ郊外の黒人居住民ソウェトにおいて,アフリカーンス語による教育問題を原因とする黒人暴動が発生した。暴動は76年を通じ,カラードによるものを含め,南ア各地に飛火し,南アの政治,経済に打撃を与えた。
その暴動の中で,南アのホームランド政策の帰結第1号として,10月26日,トランスカイが独立宣言を行つた。
対外的には,フォルスター首相は6月(西独)及び9月(スイス,南ア),キッシンジャー米国務長官(当時)と南部アフリカ問題につき一連の会談を行つた。
しかし,南アの行つてきた対ブラック・アフリカ・デタント政策は同国のアンゴラ介入,アンゴラMPLA政権の樹立等により,水泡に帰した。
南ローデシアでは,3月3日,モザンビークにより国境閉鎖措置がとられ,他方同19日には,スミス首相とANC(アフリカ民族評議会)穏健派ヌコモ議長との制憲会議が事実上決裂した。しかし,キッシンジャー米国務長官(当時)の一連のシャトル外交,フォルスター南ア首相の圧力等により,スミス首相は,9月24日,2年以内の多数支配移行実施を発表した。これに伴い,10月28日よりリチャード英国連大使を議長にし,スミス首相,4黒人解放団体の間で,いわゆるジュネーヴ会議が開催されたが,独立日の設定,暫定政府の機構等をめぐる黒人白人双方の対立のため,12月14日一時閉会された。リチャード議長は12月末から,会議再開条件を携えて南ア,南ローデシア,前線諸国の往復外交に乗り出したが,77年1月24日スミス首相の拒否にあい,会議再開の可能性は遠のいた。
これら動きと並行して,黒人ゲリラ活動が活発化した。スミス政権はこれに対抗するため国防費の増加(対前年比40%増),予備役の召集期間の延長等の措置をとつた。
わが国は,4月6日採択された国連安保理決議に基づき,同30日,対南ローデシア経済制裁拡大措置をとることを決定し,所要の措置をとつた。
ナミビア問題については,ナミビア独立のための制憲会議が,3月に再開された。同会議憲法委員会は,8月末日を南アのナミビアからの撤退期日とした同年1月の国連安保理決議に鑑み,8月18日,78年末日までに独立すること,独立達成までの暫定政府樹立等を内容とした声明を発表した。しかし,SWAPO(南西アフリカ人民組織)は憲法委員会の発表を拒否し,南ア政府との直接交渉,ナミビアの即時独立,南アのナミビアからの撤退を要求している。
モザンビークでは3月,マシェル大統領が南ローデシアとの間に戦争状態が存在することを宣言し,国境を閉鎖した。
モザンビークの国境閉鎖に伴う経済的損失を救済するため,3月17日国連安保理において援助決議が採択され,わが国も12月14日,2億5,000万円の緊急援助をすることとし,更に77年3月4日には3億1,000余万円相当の食糧援助を実施するためWFP(世界食糧計画)との間でこのための交換公文を締結した。
なお,わが国は,77年1月9日モザンビークとの間に外交関係を開設した。
アンゴラでは,2月に,アンゴラ人民共和国政府がアンゴラを実効的に支配するに至り内戦状態は一応終結した。
わが国は,2月20日アンゴラ人民共和国を承認し,9月9日外交関係を開設した。
南アフリカ共和国との関税同盟に参加しているボツワナ,レソト,スワジランドの3国では,南部アフリカ問題の高まりの中で,南アへの経済的依存から脱却せんとする姿勢を示し,スワジランドのリランジェニ貨に続いて,ボツワナが8月ラント貨を廃して自国通貨「プラ」を発行した。