1. 中東和平をめぐる動き
75年9月のエジプト・イスラエル間の第2次シナイ協定により,アラブ・イスラエル間の武力衝突発生のおそれは当面回避されたが,その後キッシンジャー米国務長官(当時)による往復外交は行き詰つた。76年2月には,イスラエル側は交戦状態終結協定交渉の開始についての提案を行つたが,これに呼応するアラブ側の動きはなかつた。その後,レバノン紛争をめぐつてアラブ諸国内の対立が深まり,また,第4次中東戦争(1973年)以降和平交渉の斡旋役を務めてきた米国が,大統領選挙に忙殺されたこともあり,中東和平交渉は進展をみなかつた。
しかしながら,レバノン紛争が76年10月のリヤド及びカイロにおけるアラブ首脳会議以降収拾の方向に向うとともに,サウディ・アラビア等アラブ産油諸国の強い働きかけもあり,アラブ内の和解が進み,12月には,エジプト・シリア首脳会談が行われる等,アラブ側の和平に対する見解の調整と協力体制の確立が図られた。11月には米大統領選挙が終了し,12月の国連総会では,中東和平会議の早期開催を要請する決議が行われ,和平交渉の次のステップとして,ジュネーヴ和平会議の再開が関係当事国の交渉の焦点となつた。ジュネーヴ和平会議については,PLOの同会議への出席をどう取り扱うかが問題点の1つとなつており,アラブ側がPLOの同会議への出席を主張しているのに対し,イスラエル側は,PLOとの交渉を拒否している。
PLO内部では,従来より,あくまで武力によるパレスチナ全土の解放を主張する強硬派路線と,ジヨルダン河西岸とガザ地区によるいわゆるミニ・パレスチナ国家の樹立を受け入れる穏健派路線の対立が続いていたが,特にレバノン紛争収拾後は,穏健派の現実路線が優勢となり,12月に開催されたPLO中央委員会では,PLOとアラブ諸国との協調と結束及びパレスチナ国民評議会の開催等についての決定が行われた。イスラエルでは,12月にラビン内閣が総辞職した結果,総選挙が77年5月に行われることとなり,今後の中東和平の動きとの関連でも,総選挙をめぐる国内政情の動きが注目されるところとなつた。
ソ連は,76年には,4月と10月の2度にわたつてジュネーヴ和平会議再開を呼びかけ,同会議開催の方式及び議題等に関する提案を行つた。また,米国も76年1月に新政権の発足をみ,中東問題について積極的和平工作を行う姿勢を示している。以上のような関係諸国の動きを踏まえ,77年には,中東和平問題に新たな進展が期待されるところとなつた。
1976年は中東湾岸各国とも,引き続き国内体制整備,開発の推進に努め,総じて安定的に推移した。しかし,開発面では,多くの域内産油国において,急速な開発計画推進に伴うインフラ整備のための技術労働者不足,一部諸国における相対的資金不足等が認識された。
レバノン紛争及びエジプトの復興と安定については,湾岸諸国の大きな関心事であつたが,76年年初のハーリド・サウディ・アラビア国王による近隣諸国歴訪,6月のリアドにおけるアラブ4首脳会議開催,7月の湾岸アラブ産油4カ国によるエジプト経済復興・開発のための基金の設立決定等,活発な動きが見られた。
域内協力については,11月湾岸アラブ8カ国による外相会議が開催されたが,域内集団安全保障構想等にイラクが反対したこともあり,見るべき進展はなかつた。
また,12月のOPEC総会において採用された二重価格制をめぐり,今後,穏健な価格政策をとるサウディ・アラビア及びア首連と他の中東産油国との調整の動きが注目される。
(1) エ ジ プ ト
サダート大統領は76年9月の大統領選挙において,99.9%の支持票を得て再選され,10月には複数政党制への移行を発表し,従来の自由化路線を更に推し進めるとともに,11月には主要経済閣僚の更迭を行い,オープン・ドア・ポリシーのより効果的な推進に努め,慢性的経済困難の打開を図つた。
対外的には,10月,リヤドのアラブ首脳会議においてサウディ・アラビアの仲介により75年9月の第2次シイナ協定締結以来対立していたシリアと和解し,中東紛争解決に向つてアラブ関係国の団結強化を図る一方,12月には,国連事務総長の中東訪問を要請するなどジュネーヴ和平会議の早期再開につき関係諸国に積極的に働きかけた。対ソ関係では3月にエジプト・ソ連友好協力条約を破棄したことが注目される。
対日関係では,1月には河本通産大臣(当時)が訪埃し,その際,1億ドルのクレジットラインがプレッジされたほか,7月には日埃投資保証協定の仮調印及びアレキサンドリア港改修計画への資金協力に関する交換公文の締結,12月にはカイロ都市用水計画への資金協力に関する交換公文の締結が行われる等経済技術協力関係を中心に緊密の度合いを増している。なお,10月にはサダート大統領夫人が訪日した。
シリアは,76年6月からレバノン内紛への軍事介入を行い,これに反対するエジプト,イラク,ソ連などとの関係が悪化したが,10月のリヤード,カイロ両首脳会議においてレバノン内紛を収拾に向わせるとともに,エジプトとの和解を実現した。ただし,イラクとは依然対立関係を続けている。
国内においては,レバノン内紛介入に伴う戦費の増大と介入に反対するアラブ産油国よりの資金援助の一時中止,更には高率のインフレ等による経済的困難にみまわれ,第4次5カ年計画の実施が遅れている。
わが国とは,経済技術協力,文化交流等を通じて従来からの友好関係が維持されており,両国間の貿易量も着実に増大している。270億円の混合借款の対象プロジェクトの選定については引き続き協議が行われている。
一応の成功を見た経済3カ年計画に引き続き,投資総額24億ドルに及ぶ5カ年計画が76年より着手されたことや,レバノン内紛による俄か景気等により,76年は前年を上回る経済成長を達成したものと見られる。外交面においても,シリアとの関係が急速に緊密化している。また,70年の内乱以来,険悪な関係にあつたジヨルダンとPLOが,年末に接触を再開したことは,中東和平に関する動きが活発化している中で,注目に値する。
わが国との関係では,3月のフセイン国王夫妻の訪日,6月の皇太子・同妃両殿下のジヨルダン訪問と要人の相互訪問が相次いで実現し,両国の友好関係の増進に寄与した。
75年4月に勃発したレバノン内戦は,76年に入り,キリスト教徒,回教徒,パレスチナ・コマンド及びシリアの4者を巻き込む複雑な紛争にまで発展した。2月中旬に,政治・社会改革案が発表されたことにより,一時事態収拾の兆しが見られたが,その後も事態は改善をみるに至らず,6月にはシリア軍が大規模介入し,それまで優勢であつた回教徒左派及びパレスチナ・コマンドが封じ込められることとなつた。このような事態に至り,サウディ・アラビアのイニシアティヴによるリヤード・カイロ両アラブ首脳会議の決議に基づいて,シリア軍がアラブ平和維持軍に編入され,同平和維持軍が南レバノンを除く,レバノン全土に進駐することとなり,情勢は一応平静に向つた。他方,9月に就任したサルキス大統領は,平和維持軍の進駐を契機に「新しいレバノン」を建設するよう呼びかけた。12月に発足したホス内閣も,組閣以来,国内の再建に本格的に取り組むべく,アラブ及び欧米諸国の援助を求めているが,緊急物資の供与を除いて,再建のための援助は具体化していない。
わが国との関係では,75年秋,在留邦人の大部分が引き揚げ,76年中も在留邦人のレバノン復帰はほとんど皆無であつた。
ニメイリ政権は,インフレと財政逼迫という経済的諸問題に加えて,7月のクーデター未遂事件の勃発等内政面では種々の困難に直面した。このためニメイリ大統領は内閣改造を行つて,これまで兼任していた首相,国防相の地位を他に譲るとともに,治安対策を強化して国内体制の建て直しに努力した。外交面では,クーデター未遂事件後,リビア及びエティオピアとの関係が冷却化した。
わが国との関係は,道路建設計画への円借款供与及びKR食糧援助に関する交換公文が行われる等,経済技術協力関係を中心として,緊密化している。
国内政治面では特に,直接民主主義を目指す人民統治機構造りが精力的に進められ,76年11月の全国人民大会ではその基本的考え方を示す「人民主権確立宣言案」を採択した。対外関係ではソ連等との関係が強化された反面,アラブ内ではエジプトと激しく対立,シリアとも関係が悪化するなど概して孤立傾向にある。
わが国との関係は,貿易及び技術協力面で順調に発展しており,5月にはマブルーク石油相が来日した。
76年の内政は国民憲章及び憲法の制定,大統領の選出(ブーメディエンヌ革命評議会議長が選出された)等,新国家体制移行への基礎固めに重点が置かれた。このように76年は内政に重点が置かれ,外交面では特に際立つた動きは見られないが,西サハラ問題をめぐつてモロッコと外交関係を断絶したこと(3月),リビア,ニジェール両国首脳と2度(4月,11月)にわたる3国首脳会談を行い,3国間の連帯強化を図つたこと等が注目される点である。
わが国との関係は,プラント輸出,技術協力等により更に緊密化している。
76年の政治面での主要な動きは,4月のモロッコ・モーリタニア両国による西サハラ分割,11月の地方議会選挙及びハッサン国王の訪仏等であつた。経済面では公共投資が伸びたが,燐鉱石の輸出が振わなかつたため貿易収支の赤字が拡大した。
対日関係では,2月にオスマン首相夫妻が公賓として来日し,その際国鉄輸送力増強計画のための30億円の円借款交換公文が署名された。
76年3月,テュニジアは独立20周年記念式典を行つた。また,76年は,第4次経済社会開発計画の最終年に当るが,その当初目標はほぼ達成された。外交面では,特にリビアとの関係が,チュニジア人労働者のリビアからの追放(3月)を契機に一時悪化した。また,前年に引き続き,アラブ産油諸国との関係緊密化が図られた。
わが国との関係では,貿易総額が前年比約2.8倍とその伸張が著しい。わが方より上記独立記念式典への西村特使派遣があり,テュニジアのザヌーニ計画相らの要人の来日があつた。青年協力隊員派遣等の技術協力も順調に拡大した。
76年のトルコ政局は前年同様,デミレル連立内閣内の不統一,与野党の対立激化,左右両派の衝突等,多端であつた。外交面では,ソ連を含む東欧諸国及びアラブ諸国との関係強化が図られ,5月にはイスタンブールでイスラム外相会議が開催されたほか,これら諸国との要人往来が盛んであつた。また対米関係の改善にも努力し,3月には米土防衛協力協定が署名された(ただし,その後批准されるには至つていない)。隣国ギリシャとの関係は,エーゲ海大陸棚問題をめぐつて一時緊張したが,本件については国連安保理の決議等もあつて両国間の話合いによる解決の方向に進んでいる。経済面では,経済の安定成長を目指してインフレ対策が第1の政策目標であつた。海外トルコ人労働者送金が減少したこともあり,国際収支の改善の兆しはみられなかつたが,現在の5カ年計画(1973年から77年)の進捗状況自体は,農業及び工業の伸びに支えられて一応順調であつた。
わが国との関係では,76年末に経団連の第2次経済使節団が訪問しており,特に経済技術協力面での関係が緊密化しつつある。
76年のラビン内閣は,国内的には,占領地及び国内に続発したアラブ人の反イスラエル暴動に直面し,その対応ぶりをめぐり連立与党内部の亀裂を深めた。更に既存の政党外から政界再編成を目指す動きが現われ,政局に大きな動揺を与えるに至つた。こうした状況下でラビン首相は,12月20日総辞職を行い,その結果77年5月総選挙が行われることとなつた。経済面ではインフレが進行し,政府の国防費削減,輸出拡大,平価切下げ等の努力にもかかわらず好転の兆しは見られなかつた。
外交面では1月ラビン首相が訪米し,2月には中東問題解決のための交戦状態終結協定交渉の開始についての提案を行つたが,アラブ側からの積極的な反応を得られなかつた。一般的には6月のレバノン内戦激化等の国際環境の推移は,同国の内政,外交両面に一時的ながら小康状態をもたらしたものといえる。
73年7月アフガニスタンは,王制より共和制に移行し,ダウド元首相が大統領兼首相に就任したが,77年2月に開催された伝統的な国民大会議(各州選出の者,ダウドが任命した者,閣僚,司法部,軍の代表などが代議員となつている)において共和国新憲法が採択され,ダウドが任期6年の大統領に選出された。また憲法の規定により閣僚は解任され,新閣僚が77年3月任命された。また76年3月から76~83年の経済開発7カ年計画が開始された。
わが国との関係では,76年11月にテレビ放送局設立のための約316万ドルの贈与が取り決められ,技術協力の分野では,67年以降結核対策等のための医療協力が進められている。
内政面では,76年11月には,経済政策を効率的に推進するため,ホヴェイダ内閣の小幅改造が行われたが,安定的に推移した。経済面では積極的な経済開発に伴う基礎的社会資本(インフラストラクチュア)の不備に目が向けられ,右を重点的に解決する政策がとられた。外交面においては,アサド・シリア大統領,ハーリド・サウディ・アラビア国王,サダート・エジプト大統領が,またキャラハン英首相,ジスカール・デスタン仏大統領,キッシンジャー米国務長官(当時)も相次いで訪イした。
わが国との関係においては,1月の河本通産大臣(当時)の訪イを契機として,バンダル・シャプール石油化学プロジェクトの資金問題に実質的な合意がみられ,3月には288億円の円借款供与が決定するなど,両国間関係に進展が見られた。
内政面では76年5月,77年1月及び4月に大幅な内閣改造が行われ,バース党政権の地固めが行われた。また,同国の経済開発は引き続き活発になされたものの,74,75年の急激な経済開発に伴い技術労働者不足などとともにインフラストラクチュア欠如の影響が現われ始めたため,76年から実施が予定されていた新経済5カ年計画は,76年中は未発表のまま推移し,インフラ,教育部門などへの重点移行,重要性が検討された。
対外関係ではレバノン紛争,パイプライン使用問題などでシリアとの対立がみられ,11月の湾岸外相会議では湾岸の集団安全保障について他の湾岸アラブ諸国と見解の差を見せた。
76年1月の河本通産大臣(当時)のイラク訪問の後,翌77年1月マルーフ副大統領の公式訪日が実現し,その機会に第1回合同委員会が開催された。その際ハルサ火力発電所プロジェクトに対して既約束分から混合借款581億円の供与に合意をみたほか,約10億ドルの民間信用追加供与が決定されるなど,日・イラク関係は顕著な進展をみた。
75年故ファイサル国王の後を受けたハーリド国王,ファハド皇太子の体制はその地歩を固め,76年の国内政局は安定的に推移した。
同国は,莫大な石油収入を背景に野心的な第2次社会経済開発5カ年計画を実施しているが,急速な国内開発のために労働力の不足,港湾の混雑などのインフラ未整備,インフレの高進等各種社会経済問題が現われ始め,76年の同国の内政上の関心はこれら諸問題解決に向けられた。
外交面では年初にハーリド国王が近隣湾岸諸国を訪問し,また6月にはリアドにおいてアラブ4首脳会議が開催されるなど,レバノン紛争解決,域内協力の促進などに積極的な域内外交を展開した。また,12月にドーハで開催されたOPEC総会では,アラブ首長国連邦とともに他の11カ国の石油価格引上げ圧力にもかかわらず5%値上げを主張するなど,この地域の指導的穏健勢力としての立場を示した。
わが国との関係では,76年の総合貿易は約30%増(輸出は約40%増)と顕著な伸びを示し,また経済技術協力分野では,76年1月の河本通産大臣(当時)の訪サに際し,第1回合同委員会を開催するなど,その促進を図つた。
内政面では,レバノン情勢が直接・間接に同国の安全と安定に波及することを予防するための措置として,76年8月内閣総辞職を行うとともに,議会を解散し現行憲法のうち議会に関する4カ条の効力の停止を決定した。また,これと並行して,報道・出版の規制強化を図つた。その後9月に新内閣が成立したが,旧内閣の全閣僚が留任し,計画,行政・法務,宗教の3閣僚ポストの新設が決定された。
外交面では,サウディ・アラビアと共同して,エジプト,シリアとの関係改善のために活発な活動を行うとともに,レバノン内戦の終息に努力した。
対日関係も良好に推移し,原油の対日輸出は,多少減少したが,総貿易量は,76年歴年約27億ドル(前年比14%増)に達した。
76年は,連邦成立5周年記念を期して,現行の暫定憲法の代わりに恒久憲法を制定する予定であつたが,5月には軍隊の形式的統一が達成されたものの,ザーイド大統領の唱える連邦の実質的強化に対し,ドバイなど幾つかの首長国が消極的態度を取つたため,恒久憲法は成立を見ず,暫定憲法の5カ年延長が決定されたにとどまつた。
外交面では,12月のOPEC総会において,サウディ・アラビアとともに5%値上げを支持し,従来の穏健な立場を堅持した。
対日関係では,アラブ首長国連邦の意欲的な建設開発プロジェクトへの本邦企業の積極的な参加が見られ,両国間の総貿易量も76年暦年で約31億ドルと前年比42%増に達し,また人物交流,文化交流も活発に行われ,両国関係は良好に推移した。
75年末に南部ドファール地区におけるゲリラ活動が,ほぼ終息するに伴い,イラン軍一部の撤退,マシーラ島及びサラーラにおける英軍の77年3月までの撤退決定などの動きがみられた。また11月には,首都マスカットにおいて,湾岸8カ国外相会議が開かれ,その取りまとめに努力したが,具体的成果は得られなかつた。4月には,一部内閣改造がなされ,また6月には,約32億ドルの第1次5カ年計画(76~80年)が発表された。
内政は,76年においても安定的に推移した。対外関係では,エジプトのサダート大統領が2月に,サウディ・アラビアのハーリド国王が3月に公式訪問し,ハリーファ首長が10月のアラブ首脳会議に出席するなど近隣諸国との友好関係促進の動きが見られた。
また,12月同国の首都ドーハにおいてOPEC総会が開催された。
わが国との関係では,76年5月にアブドル・アジーズ殿下(財政・石油大臣)がわが国を公式訪問するなど両国関係の促進が図られた。
なお,カタルの輸入総額に占めるわが国のシェアは,約30%を占めるに至つている。
バハレーンは,石油収入(76年度約3億ドル)を基礎として,産業の多様化を図つており,また,ベイルートに代わる中東の金融センターを目指し外国銀行の誘致を積極的に行つている。
対外関係では,3月にサウディ・アラビアのハーリド国王が公式訪問し,また,イサ首長がフランスを訪問した。4月には,韓国との間に外交関係が樹立された。
76年の内政は,ハムディ指導評議会議長の指導の下に安定的に推移した。経済面では,依然インフレに悩んでいるものの,国外出稼ぎ労働者よりの送金,サウディ・アラビアなどからの援助をもとに経済・社会開発が進められた。
外交面では,同国にとつて影響力の極めて強いサウディ・アラビア及び欧米諸国との関係を強化しつつも,基本的には東西陣営のバランスを図るとの政策を維持した。
わが国との関係においては,75年10月に発動された対日輸入制限措置が76年5月には事実上撤廃され,9月には100万ドル相当の無償食糧援助が合意され,12月には在イエメン日本大使館が開設されるなど日・イエメン関係は大きく好転した。
南イエメンは,76年3月にはサウディ・アラビアとの国交が正常化されるなど近年湾岸諸国との接近を図つている。
対日関係では,10月から11月にかけて貿易相及び農業相が非公式に訪日し,また,11月にはわが国より最初の本格的経済協力として30万ドル相当の食糧援助供与が決定した。