第6節 ソ連・東欧地域

 

1. ソ  連

 

(1) ソ連の内外情勢

(イ) 内  政

 ブレジネフ政権にとつて1976年は,第25回党大会の開催(3月),党中央委10月総会と最高会議における第10次5カ年計画の最終決定,農業の記録的豊作等内政上は概して順調に推移した年であつた。

 ブレジネフ書記長は76年12月に70歳の誕生日を迎えたが,個人崇拝に行き過ぎのないよう配慮しつつも,誕生日を1つのピークとするよう種々の祝賀行事が行われ(胸像の建設,連邦元帥称号の付与,誕生日に際しての盛大な祝賀行事),また後述のとおり,人事面においてもブレジネフ色が徐々に濃厚になる等ブレジネフ書記長の地位と権威は,一層高まり,安定度を増してきたとの印象を与えている。

 経済は積年の諸欠陥,特に75年の極めて深刻な農業不振が国民経済活動に集中的に投影して成長率の著しい低下を招いた。

 しかし,農業においては,穀物が従来の最高記録である1973年の2億2,250万トンを凌駕する2億2,400万トンの収穫をあげたのをはじめ,棉花その他も好調な収穫を記録した。

 このほか76年の国民所得の増加率は,5.0%(計画5.4%),工業生産は,生産財生産が5.5%,消費財生産は3.0%で年度計画を上回つた。

 1976年の人事面の動きは例年よりも多く第25回党大会後,ウスチノフの国防相及び連邦元帥任命(それぞれ4月及び7月),ブレジネフ書記長への連邦元帥称号付与(5月),ティホノフの連邦第1副首相昇格(9月),アンドロポフ国家保安委議長とシチェロコフ内務大臣の上級大将昇格(9月),リャボフ・スヴェルドロフスク州第1書記の連邦党書記選任(10月),シバエフの連邦労組中央評議会議長就任(11月),クリコフのワルシャワ軍総司令官,オガルコフの連邦参謀長就任(77年1月),カトウシェフ連邦党書記の連邦副首相転出(3月)等があつた。これらを,通観すると,ブレジネフ色が濃厚であること,軍関係の異動が多いこと及び綱紀引き締めの傾向がうかがわれる。

 このほか,作家同盟,映画人同盟,ジャーナリスト同盟等の大会が開催され,77年3月には,労組大会が開催された。

 イデオロギー・社会面については,カーター政権の人権外交,1977年にベルグラードにおいて開催が予定される欧州安保会議のフォローアップのための会議の関連で,ソ連の報道機関を通じて,社会主義的民主主義,ソ連邦における人権擁護を称揚し,西欧の人権尊重を偽りとする論調が目立つた。他方,反体制運動については,サハロフ博士の言動について連邦検事総長代理が警告を行う(77年1月)等,締めつけ傾向が続いている。

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(ロ) 外  交

 対外政策の面では,第24回党大会以来のいわゆる緊張緩和政策をすすめてきたが,ヘルシンキ会議前後から西側諸国で抬頭した対ソ警戒論はアンゴラ問題とも絡んでますます活発となつた。このような情勢下で開催された第25回党大会において,ブレジネフ書記長は新平和綱領8項目を打ち出し,国家関係における緊張緩和路線の継続を確認して西側諸国に対する平和攻勢の姿勢を明らかにする一方,緊張緩和は階級闘争を放棄するものでないとしてイデオロギー面での共存を否定し,民族解放闘争支援の立場を明確にした。76年中の西側主要国に対するソ連外交には特に目立つた動きはなく,上記の路線に従つて平和攻勢に努めるとともに,東欧圏における体制を固め,開発途上地域に対する影響力拡大を図るという従来の基本的政策が追求された。

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(a) 対米関係

 大統領選挙とも関連して,米国においてはソ連が緊張緩和政策を戦略的に自己に有利に利用しているとして警戒心が高まり,他方ソ連側は,緊張緩和は民族解放運動及び階級闘争を妨げるものではないと明言するなど,双方の考え方の差異が表面化した。米ソ間には平和目的地下核実験制限条約が調印(5月)されたが,76年中の米ソ関係は米国大統領選挙もあつておおむね停滞の様相をみせた。殊に米国のカーター政権発足後は同政権がいわゆる人権外交を推進したのに対し,ソ連側はこれを内政干渉として激しく反発してきた。

 当面,米ソ2国間の懸案としてはSALT IIの妥結及び米国の対ソ通商・経済協力上の制限の取扱い問題がある。SALT IIについては77年3月末,ヴァンス米国国務長官が訪ソし,カーター政権発足後,初めてハイ・レベルによる接触が行われたが,実質的進展をみるに至らず,問題は今後に持ち越された。通商・経済協力問題についても米国側の人権外交推進という基本姿勢と関連して解決をみるに至つていない。

 ソ連としては米国の人権外交を内政干渉として非難し,米国内の緊張緩和反対勢力を批判しつつも,対話継続によつてソ連外交の大きな柱の1つである米ソ関係の改善を図るという基本的路線は維持していくものと思われる。

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(b) 対西欧関係

 欧州安全保障協力会議によりソ連の西欧に対する緊張緩和外交は一応の成果を収めたが,中欧相互均衡兵力削減交渉,ベルリン問題あるいは欧州安保協力会議のフォローアップ等をめぐりソ連と西欧諸国との基本的立場の隔りは依然大きい。

 グロムイコ外相は英国(3月),フランス(4月),ベルギー及びデンマーク(10月)を訪問したが,伝えられたブレジネフ書記長の独,仏訪問は76年中には実現しなかつた。西欧からはスウェーデン首相(4月)のほかフランス外相(7月)の訪ソが行われ,ソ仏間に核兵器偶発・無許可使用防止協定が成立した。

 また,77年2月にはスペインとの間に外交関係を樹立した。

 なお,75年半ばに開催を予定されながら遅延していた欧州共産党会議は,ソ連がフランス,イタリア,ルーマニア,ユーゴ党の自主路線派の主張と一定の妥協を行うことによつて76年6月,東ベルリンで開催の運びとなつた。

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(c) 対東欧関係

 ソ連は西欧との緊張緩和路線を進める一方,東欧諸国の団結強化に腐心した。ブレジネフ書記長は自ら自主独立路線のユーゴスラヴィア及びルーマニアを訪問(11月),11月末にはブカレストにおけるワルシャワ条約政治諮問委員会に出席した。ブカレスト会議ではヘルシンキ会議参加諸国による核兵器先制不使用条約の締結を提唱し,また,政治諮問委員会の機関として外相委員会及び統合書記局の設置を決定してソ連・東欧諸国の共同歩調を強く打ち出した。なお,7月のコメコン第30回総会では,執行委員会に対し第31回総会までに各国経済統合綱領具体化案を提出するよう指示する旨の決議を行つた。

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(d) 対中国関係

 ブレジネフ書記長は,第25回党大会において,毛思想とその政策をマルクス・レーニン主義に敵対するものと断ずる一方,平和共存原則に基づく対中国正常化の用意を表明した。殊に9月毛沢東党主席の死去以降,ソ連は中国批判を抑制し,関係改善の用意があることを頻繁に表明した。しかしながら,華国鋒政権は,毛路線の継続を表明してソ連側の呼びかけを厳しく拒否し,新聞等の対ソ批判論調も毛沢東死去以前と変らなかつた。このため77年2月のプラウダ論文以降,ソ連側の対中国批判は次第に頻度を高め,批判内容も次第に調子を強めるに至り,自己の正当性を主張しつつ関係改善は中国の出方いかんによるとの基本的姿勢を示している。国家関係の正常化については,国境問題の解決いかんが重要な意味をもつと考えられるが,従来の経緯からみてその解決は容易ではなく,したがつて本格的な国家関係の改善は当分困難であろうとみられている。

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(e) 対アジア関係

 ソ連のアジアに対する基本的関心は,米国の影響力を排除し,中国の影響力拡大を阻止することにあるとみられる。東南アジアにおいてはヴィエトナムを,南アジアにおいてはインドとの関係を軸として外交を展開してきた。長期的外交目標としてはアジア集団安保構想の実現を期し,当面は2国間関係の実務的積み上げに努力を傾けているとみられる。

 社会主義諸国からはラオス党・政府代表団(4月),モンゴル党・政府代表団(10月),朴北鮮首相(77年1月)が訪ソし,ヴィエトナム労働党大会(12月)にはスースロフ政治局員らの大型党代表団が出席した。

 また,マルコス比大統領の訪ソ(6月)に際してソ比間国交が樹立されたほか,ガンジー・インド首相(6月),ネパール国王(11月)がそれぞれ訪ソした。なお,ソ連は大洋州の新興国パプア・ニューギニア(5月)及び西サモア(7月)とも外交関係を樹立した。

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(f) 対中東・アフリカ関係

 中東においては,3月,エジプト側がソ連・エジプト友好協力条約を破棄するに至り,ソ連はリビア,シリア,イラク,PLO,ヨルダンとの接触強化を図つたが,レバノン内乱に際してはシリアの介入問題に関連して同国との関係にかげりが生じた。ソ連は,中東問題に対して決め手を欠いているが,再三ジュネーヴ会議の早期再開を提唱し,米国とともに共同議長国としての立場から中東問題への関与を強く主張している。ブレジネフ書記長は,77年3月,ジュネーヴ会議早期再開を主張するとともに,関係諸国間で結ばれるべき平和文書についても具体的に言及した。またエジプトとの間でも関係調整を意図している。

 ソ連はアンゴラ独立運動内部の抗争を契機として民族解放運動支持の主張を具体的支援行動に移し,MPLA(アンゴラ解放人民運動)全面支持を明らかにし,西側諸国の非難に対してもこれが緊張緩和政策と矛盾するものでない旨強調した。76年も引き続いてアフリカ諸国との接触を強め,これら諸国からはモザンビーク大統領(5月),アンゴラ首相(5月),ソマリア党・政府代表団(8月),サントメ・プリンシペ首相(10月),アンゴラ大統領(10月)が訪ソした。アンゴラ大統領訪ソに際しては友好協力条約及び党間協力協定が調印された。さらに77年3月にはポドゴルヌイ最高会議幹部会議長がタンザニア,ザンビア,モザンビーク,ソマリアを歴訪し,モザンビークとの間に友好協力条約を締結した。なお,ソ連は南部アフリカ問題について人種差別,新植民地主義を非難し,上述のごとく周辺諸国に対する影響力の増大を目指しており,エティオピアに対しても関心を深めている。

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(2) わが国との関係

(イ) シベリア開発協力問題

(a) 日ソ間ですでに実施に移されたシベリア開発案件は,第1次及び第2次極東森林資源開発,パルプ・チップ開発,ウランゲル港建設,南ヤクート原料炭開発,サハリン大陸棚探鉱及びヤクート天然ガス探鉱の7件であり,このうち第1次極東森林資源開発及びウランゲル港建設の2件は終了している。

(b) 右以外については,パルプ・プラント建設について日ソ当事者間で話合いが行われているほかは,新規の案件はなく,76年8月,土光経団連会長が訪ソ,ヤルタにおいてブレジネフ書記長と会談(重光在ソ大使同行)した際も,ソ側より具体的な案件の提案は行われていない。なお,同年11月に東京で開催が予定されていた日ソ当事者間の第7回経済合同会議は,ソ側の都合により延期となつている。

(c) 政府は,シベリア開発案件に対しては,それぞれの案件が経済的・技術的に実現可能であり,かつ互恵平等の原則の下に,当事者間の話合いが双方に満足のゆく形でまとまるのであれば,信用供与等必要な協力を行うとの立場をとつている。

(d) 政府はまた,当事者間の基本契約の成立したものに対しては,ソ連政府との間で,相互にその円滑な実施促進を約す旨の書簡交換を行つており,76年5月及び77年3月にそれぞれサハリン探鉱及びヤクート天然ガス探鉱各案件につき,これを行い,これまで前記7件すべてにつき,これを終了している。

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(ロ) 日 ソ 貿 易

(a) 76年の日ソ貿易高は,通関統計で,輸出22億5,600万ドル,(FOB),輸入11億6,600万ドル(CIF),合計34億2,200万ドルに達し,75年に比し,往復で22%の伸びを示し,また,輸出が大幅に増加(38%)した反面,輸入は国内需要の不振を反映して前年並みの水準にとどまつたため,貿易収支は前年に引き続き,わが方の大幅出超(約11億ドル)となつた。

(b) わが国の対ソ主要輸出品目は鉄鋼,機械・設備,化学品及び繊維品等で,76年には全体の約9割を,また輸入品は木材,石炭,石油製品,白金等非鉄金属,棉花等で,全体の約8割余を占めている。なお,76年からは,肥料,化学各プラント及び鉄鋼(ガス輸送用鋼管)等のソ連向け輸出につき,わが国はバンク・ローンの供与を実施している。

(c) 75年10月開始された1976~80年日ソ貿易支払協定締結交渉は,76年11月実質的に妥結に至つたので,政府は署名のためソ連貿易大臣への招待を行つた。

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(ハ) 日ソ漁業交渉

(a) 日ソ漁業委員会第20回会談(さけ・まず・にしん等)

 北西太平洋日ソ漁業委員会第20回会議は,76年3月15日からモスクワで開催され,5月3日,日ソ双方の委員が合意議事録に署名して終了した。

 その結果,76年(不漁年)におけるわが国のさけ・ますの漁獲割当量は前回不漁年である74年(83,000)トンを3,000トン下回る80,000トンと決定された(ソ連側の76年における漁獲割当量は5,000トン)。

 なお,北緯45度以南のいわゆるB区域における共同取締り問題については,ソ連側は日ソ漁業条約第7条に基づきソ連監視船の単独乗入れを例年どおり主張してきたが,最終的には,75年と同様,日本側監視船に日ソ双方の監督官が乗船して共同で取り締ることに合意し,その旨の書簡が交換された。

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(b) 日ソ政府間かに・つぶ交渉

 第8回かに交渉及び第5回つぶ交渉は3月15日よりモスクワで行われた。

 かに交渉については,かに資源に対する日ソ双方のそれぞれの法的立場を留保したうえで,4月30日に最終的な合意をみ,仮調印が行われた。交渉の結果,わが国の76年のかに全体の漁獲割当量としては75年比約15%の減少となつた。

 つぶについても,つぶ資源に対する日ソ双方の法的立場を留保したうえで,4月30日に仮調印が行われ,76年の北西太平洋におけるわが国のつぶ漁獲割当量は樺太東方水域で殻付1,500トン(75年と変らず),オホーツク海北部水域でむき身1,125トン(75年と変らず)となつた。

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(ニ) 日本近海におけるソ連漁船の操業問題

(a) 近年,わが国沿岸水域におけるソ連漁船団の操業に伴い,わが国沿岸漁民の漁具等に多大な被害を生じていることに鑑み,漁業操業に関する事故を未然に防止し,事故が発生した場合にはその迅速かつ円滑な処理を図ることを目的として,75年6月7日「漁業操業に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定」の署名が行われ,同協定は国会承認を経て同年10月23日発効をみた。

(b) 本協定に基づき,東京及びモスクワに設置された漁業損害賠償請求処理委員会については,日ソ両国委員等の任命手続きを経て,76年6月には委員会運営規則も採択され,その活動を開始した。

 委員会は,77年3月末日現在,27件の請求案件を審理中であり,うち2件をモスクワ委員会に送付した。

(c) 本協定発効後,被害は協定発効前に比較し大幅に減少しているが,トラブルは未だ皆無とはいえない。

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(ホ) 北方水域における本邦漁船の拿捕

 北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の拿捕事件は,依然として頻発しており,76年における本邦漁船の拿捕件数は35隻,198名であり,同年中に27隻216名(その内32名が75年より越年)が帰還した。なお,1946年から76年12月31日までにソ連に拿捕された漁船及び漁船員の総数は,1,534隻,1万2,742名に達した。その内,ソ連側から返還された漁船は,939隻,帰還した漁船員は,1万2,692名で,拿捕の際または引き取りの途中で沈没した漁船は25隻,抑留中に死亡した漁船員は37名である。

 なお,76年中に拿捕され,同年内にソ側により釈放されず越年した漁船員は13名であつた。また抑留漁夫の自殺事件が1件発生した。

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(ヘ) 墓  参

(a) 政府は61年以降ソ連本土(戦後ソ連本土に抑留され死亡した邦人の墓地),樺太(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)及び北方4島(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)の3地域について墓参を実施してきた。しかし,ソ連側は日木側が墓参を希望する地域の多くが「外国人立入禁止区域」内にあるとして日本側の希望を部分的にのみ許可してきた。

(b) 76年度においては,76年1月来日したグロムイコ外相と宮澤外務大臣(当時)との間で行われた墓参に関する話合いを踏まえ,樺太については2月,ソ連本土及び北方4島については3月,ソ連側に対し日本側の希望どおり墓参が実現されるよう申し入れた。

 これに対し,5月ソ連側はソ連本土(モスクワ,カザン,タンボフ,キルサノフ,モルシャンスク),樺太(真岡,本斗,豊原,内幌)ならびに色丹島,歯舞群島の多楽島及び志発島への墓参に同意し,他の場所については日本側要請に応じ難い旨回答してきた。その際ソ連側はすべての墓参者は日本旅券とソ連出入国査証を保持しなければならない旨付言した。

(c) 政府はその後,北方4島のうち国後島及び択捉島への墓参についても同意するよう再三にわたりソ連側の再考を求めたが,8月ソ連側は最終的に両島への墓参を認め難い旨通報してきた。

 また,色丹島及び歯舞群島への墓参団についてもソ連側が旅券携行とソ連の査証取得を要求してきたことは,従来の慣行(領土問題に対する双方の立場に相違があることを認識し,純粋に人道的見地から本問題を現実的に解決する方法として64年以来身分証明書による渡航という慣行が確立されてきた)を突如変更し,北方4島がソ連領であることを日本側に認めさせようとする意図に基づくものとの判断から,再三再四ソ連側の再考を促したが,ソ連側の応ずるところとならず,76年度の北方上記島墓参は中止のやむなきに至つた。

(d) 上記の結果,76年度においては樺太への墓参は6月14日~19日に,ソ連本土への墓参は8月27日~9月2日にそれぞれ実施された。

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(ト) 未帰還邦人

(a) 戦後ソ連領に抑留され,あるいは樺太に残留した邦人は59年までに大部分が「集団引き揚げ」の形で帰還した。さらにその後も若干の邦人が帰国したが,現在に至るもなお,帰国を希望していながら樺太及びソ連本土に居住することを余儀なくされている邦人がいる(77年3月末現在で帰国希望者93人-家族を含めれば368人-が確認されている)。

(b) 政府は,これまで機会あるごとに帰国を希望する上記の邦人に対し,ソ連側が遅滞なく日本への帰国を許可するよう要請し,76年1月グロムイコ外相が来日した時にも宮澤外務大臣(当時)より同様の要請を行つた。

(c) その結果,76年1月より77年3月までの間に4人(家族を含めれば11人)が帰国し,3人(家族を含めれば4人)が一時帰国した。

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(チ) ミグ25型機の函館空港強行着陸事件

(a) 76年9月6日午後北海道西方より飛来した国籍不明の戦闘機がわが国への何らの事前通告もなくわが国領空に侵入し,函館空港に強行着陸した。同機の操縦士は,着陸後,わが方の当局に対して米国への亡命の希望を表明し,わが方の保護を求めた。事情聴取の結果,同機はソ連国土防空軍所属のミグ25型迎撃戦闘機であり,操縦士は国土防空軍中尉ヴエ・イ・ベレンコと判明した。

(b) ソ連の最新鋭ジェット戦闘機であるミグ25型機がソ連軍現役将校の操縦によりわが国に飛来したのは初めてであり,事件の処理いかんによつては国際問題に発展する可能性があることから,政府は慎重にこれに対処した。

(i) 先ずベレンコ中尉に関しては,わが方は同人の希望を容れて同人を保護するとともに,捜査当局が出入国管理令等の国内法令違反の容疑で事情聴取を行い,また防衛庁は領空侵犯についての事情聴取を行つた。同人の米国亡命希望については,わが方において同人の意思の確認につとめた結果,同人が自ら自由に決定した意思により米国への亡命を真剣に希望していることが明らかになつたので,米国の受け入れ意図をも確認のうえ,所要の国内手続きを了して9月9日午後,米国へ向け出発させた。なお,出発に先立ち,在京ソ連大使館員による同人との面会の機会が設けられ,同人はソ連大使館員に亡命の意思を伝えた。

(ii) 他方ミグ25型戦闘機の機体については,ベレンコ中尉に対する国内法令違反容疑の証拠物件として捜査当局が領置し,実況見分を行つた。

 次いで9月10日機体は防衛庁の管理下に置かれ,25日には茨城県百里基地に移送された。防衛庁は,ミグ25型機の領空侵犯及び強行着陸の背景状況,なかんずくわが国の安全を侵害する事実があつたか否かの解明を行うため機体の調査を行つた。なお,この移送及び調査を行うに当つては,自衛隊の能力の不足する技術的な面について,自衛隊の指令・監督のもとに必要最小限度の範囲内で米軍の技術要員及び機器の提供を受けた。

(c) 9月9日,ソ連側はわが方に対し操縦士と機体の即時引渡しを要求するソ連政府の抗議声明を行つたが,これに対しわが方は9月20日,ベレンコ中尉の米国亡命は本人の自由意思によるものであること,今回の事件はソ連機がわが国領空に侵入しわが国の安全に対する侵害があつたとの疑いを抱かせる事件であり,日本側は同機について必要な措置をとつていることを内容とする日本政府の立場を表明した。このような応酬は,その後も繰り返し行われた。

(d) 9月29日,ニューヨークの国連総会に出席の小坂外務大臣(当時)はソ連代表部においてグロムイコ外相と会談し,近く機体をソ連側に返還する用意がある旨を伝達した。これに基づき,わが方は10月15日以降機体をソ連側に引き渡す用意がある旨伝え,引渡しのための具体的な事項に関するわが方とソ連側の折衝が進められた。11月14日,ソ連側による機体の確認作業が終了し,ソ連側に機体を引き渡した。翌15日,機体を積載したソ連貨物船タイゴノス号は日立港を出港した。

(e) 今回の事件は,ソ連軍用機が,わが国領空に不法に侵入し,わが国民間空港へ強行着陸し,乗員のベレンコ中尉が米国に亡命を希望してわが国の保護を求めたというものであり,わが国の意思とは関係なく発生した偶発的事件であつた。

 これに対してわが国がとつた措置,すなわち領空侵犯及び強行着陸の背景状況,なかんずく,わが国の安全を侵害する事実があつたか否かを解明するために所要の調査を行い,その後機体をソ連に返還したことは,国際法にも,国際先例にも合致する主権国家として当然の措置であつた。

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2. 東  欧

 

(1) 概  観

 76年も東欧諸国をめぐる情勢は概して安定的に推移した。各国の政権もそれぞれ安定していると思われるが,経済的には西側の長期不況に基づく対西側輸出の困難,コメコン内での資源価格の高騰,あるいは国内での価格維持政策に基づく財政負担増等の問題を抱え厳しさを増大しており,またいくつかの国では反体制の動きが活発化している。新5カ年計画が開始されたが,厳しい内外の経済情勢でその実施が進展を見せ,政治面にどう影響を及ぼすか注目される。

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(2) 東欧各国の情勢とわが国との関係

(イ) ドイツ民主共和国

 ホネカー体制は,第9回党大会(5月),東ベルリンでの欧州共産党会議(7月)をそれぞれ成功裡に終了させ,10月にはホネカ一書記長自ら国家評議会議長(元首)を兼任することによつて,一層強化された。経済も全般に順調な発展を遂げた。

 外交面では,122カ国との外交関係を樹立したことを背景として,外交の基本をソ連をはじめとする社会主義諸国との団結維持・強化におきつつも,昨年に引き続き欧米及び発展途上諸国との多角的な外交の展開に努めた。わが国との関係では,各種の文化交流が活発に行われた。

 わが国との貿易は,往復6,244万1,000ドルと伸び悩んだ。

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(ロ) ポーランド

 76年は,前半,ギエレク第1書記の西独公式訪問が実現する等,一見順調に見えたが,6月後半の基本食料品価格値上げが,暴動を伴う労働者の激しい反発により撤回され,基本食料品価格据置きによる国家財政負担増が重大な問題となつた。同時に,この暴動に関連して逮捕された労働者を救うため組織された「労働者擁護委員会」を中心に反体制運動が活発化するに至つた。その他,対西側債務累積の問題もあり,新5カ年計画の初年度において経済面全般に及ぶ苦しい立場におかれている。このためギエレク第1書記は,11月訪ソし,経済援助を取りつける一方,西側からの協力確保のため活発な外交を展開している。

 わが国との貿易は,往復3億3,079万3,000ドルであつた。

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(ハ) チェッコスロヴァキア

 フサーク政権は,4月に開催された第15回党大会を成功裡に終了させることにより,その安定度を一段と高めた。しかし,他方において,同政権のとつている国内引締め政策が,CSCE第3バスケットとの関連で内外から批判にさらされた。国民の志気も依然として沈滞から脱していない。

 わが国との貿易は,往復6,083万8,000ドルであつた。

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(ニ) ハンガリー

 1976年は,「ハンガリー動乱」20周年に当つたが,なんら混乱はなく国内は安定している。同年スタートした第5次5カ年計画では経済改革の基本路線は堅持しつつも,オイル・ショックの後遺症からの脱却,経済改革の弊害である所得格差の是正,デタントの影響に対処するためのイデオロギー的引締め等や,中央統制強化の傾向が看取された。

 わが国との貿易は,往復4,578万ドルであつた。

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(ホ) ルーマニア

 76年においてもチャウセスク大統領の権力体制には変化なく,その2大看板である自主独立路線と高度経済成長とは一応堅持された。強力な貿易均衡努力とルーマニア史上最高の穀物生産に助けられ,新5カ年計画の初年度目標もどうやら達成された模様である。しかし,この年ルーマニアの対ソ姿勢に若干の修正が見られたことが注目される。

 わが国との貿易は,往復1億8,022万8,000ドルであつた。

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(ヘ) ブルガリア

 76年は第11回党大会,総選挙,第7次5カ年計画の採択等多事多端であつたが,ジフコフ体制は極めて安定していると見られる。党大会では,党規律の厳正化及び青少年の脱イデオロギー傾向に対処するためイデオロギー活動の強化,並びに5カ年計画における数量目標の達成と並んで品質,効率面の目標達成等が決定された。

 わが国との貿易は,往復で6,227万3,000ドルであつた。

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(ト) アルバニア

 第7回党大会が開催され,また新憲法が採択され,ホッジャ政権はその支配体制を一層強化したものと認められる。

 中国との友好を第1とし,米ソを敵視するとの外交の基本路線には変化はなかつた。

 わが国との間には僅かな貿易(289万ドル)を除いて,交流はほとんどない。

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(チ) ユーゴースラヴィア

 内政面では,チトー後に焦点を合わせ国内体制の整備と安定のための諸般の措置が進められた。内政の重点は74年の新憲法に沿つた国内体制の整備にあつた。

 経済面では従来の引締め措置のため鉱工業生産は低迷気味であつたが,貿易収支の大幅な改善による経常収支の黒字転化,物価上昇率の半減など顕著な成果が認められた。

 外交面ではチトー大統領が欧州共産党会議に参加し,フランス,イタリア,スペイン等の西側共産党とともに,各党の自主性の主張を通すことに成功し,引き続きブレジネフのユーゴースラヴィア訪問を通じ,これを再確認した。またコロンボ非同盟会議を通してもユーゴースラヴィアは活発な外交を展開した。わが国との関係では6月に皇太子殿下御夫妻が御訪問された。貿易は往復で1億1,093万2,000ドルであつた。

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