1. 西欧地域の内外情勢
(1) 概 観
76年には西独,イタリア,ポルトガル,スウェーデン等での総選挙を通じ与野党伯仲状況の拡がりが見られたほか,特にイタリア共産党の進出を契機に米欧関係,NATO及び欧州統合等との関連においていわゆる「ユーロ・コミュニズム」の動向が注目された。
西欧諸国経済は,76年中にようやく緩慢な景気回復過程に入つたものの,多くの国は依然として失業とインフレという経済困難を抱え,特に一部の国では,通貨価値の下落,貿易収支赤字の継続,大量失業等の困難な国内情勢を背景に保護貿易主義的な動きが見られた。
(イ) 概 観
76年には欧州の東西関係に特に大きな動きはなかつた。ソ連は2月のソ連共産党大会等を通じ,「緊張緩和」政策の継続を確認するとともに,「緊張緩和」がイデオロギー闘争を排除するものではないとの従来よりの主張を一層鮮明にした。更にソ連は,紆余曲折の後,6月にユーゴースラヴィア及びルーマニアの参加を得て懸案の欧州共産党会議を開催した。
東西貿易に関しては,EC・コメコン間の協力に関する両者の提案,OECD閣僚理事会におけるキッシンジャー米国務長官の「東西貿易関係再検討」提案(6月)等の動きがあつた。
76年においては,75年8月にヘルシンキにおいて署名された欧州の安全保障及び協力に関する最終文書の履行状況が注目された。西側諸国が重視した信頼醸成措置(演習の事前通報及びオブザーバーの相互派遣)及び人・情報の交流(いわゆる「第3バスケット」)の2つの分野では,若干の措置(演習の事前通報の実施,〔西側13件,東側3件〕,ソ連人移民申請手続簡素化,ソ連における西側ジャーナリストに対する数次査証発給,旅行制限緩和等)が実施されたにとどまつた。なお,本件会議のフォロー・アップのための準備会議が77年6月ベオグラードにおいて開催される予定である。
73年10月からウィーンで開催されている中欧相互均衡兵力削減交渉においては75年12月に西側から行つた提案(昭和51年版外交青書上巻135頁参照)に対する東側の反応ぶりが注目されていた。76年2月,東側は78年までに東西両勢力の15%削減等を内容とする新提案を行つたが,その後も交渉の具体的進展は見られなかつた。
NATO諸国は,ワルシャワ条約機構側が76年においても通常兵力を中心に軍備を引き続き増強したことに強い懸念を表明した。NATO側においても軍事力均衡維持のため,装備の合理化・標準化への努力が続けられたがあまり進展は見られなかつた。一部のNATOの諸国(英・蘭・伊)では,財政難から国防費の一部削減が行われた。NATO南翼においては,特にイタリア共産党の進出を契機に「ユーロ・コミュニズム」の動向が注目を集めた。
(イ) 政治・経済両面における統合への動きは必ずしも順調ではなかつた。しかし1月には統合の具体的構想を示すティンデマンス報告の発表,7月の欧州議会直接選挙の際の各国議席配分についての合意成立等の動きがあり,また仏独首脳定期協議に続く仏英首脳定期協議の開始に見られるようにEC内の主要国間の協議の緊密化が図られた。
(ロ) 政 治 協 力
欧州議会直接選挙の実施を78年5~6月に控え,その際の全体の議席数及び国別配分の決定が重要な課題となつていたところ,7月に開かれた欧州理事会において合意が成立し,9月20日のEC外相理事会において本件に関する理事会決定及び手続規則が署名された。
(ハ) 経 済 統 合
EC諸国の景気回復が必ずしも順調でなく,加盟国間の経済力格差の拡大,仏フランの欧州共同変動相場制よりの再離脱,英ポンド,伊リラの価値下落等の事情もあり,経済・通貨同盟成立に向けてのはかばかしい進展は見られなかつた。
(ニ) 対 外 関 係
(a) EC・アラブ対話
すでに開催されていた専門家会合に加え,一般委員会の第1回会合が5月18~20日ルクセンブルグにおいて開かれ,中東問題に次いで経済協力問題が話し合われた。
(b) ECとカナダは,通商経済協力フレームワーク協定を,7月6日,オタワで締結した。
(c) EC・ポルトガル
9月,ECとポルトガルは73年の工業製品自由貿易協定を改訂するとともに追加的経済・技術協力,資金援助,補足協定を内容とする新協力協定を締結した。
(d) ギリシャは,75年6月EC加盟申請を行つていたが,76年7月,正式に加盟交渉が開始された。
(イ) ドイツ連邦共和国
シュミット政権は,10月の連邦議会選挙において政権成立以来初めて国民にその信を問うた。この選挙は争点なき選挙といわれながらも,野党側の激しい追いあげにより白熱化した。結果は与党(社会民主党と自由民主党の連立)の辛勝に終つたが,連邦議会における与野党の議席差は46議席からわずか10議席に縮小し,12月に発足した第2次シュミット内閣は,連邦参議院(各州政府代表により構成)における野党側優勢と相まつて,かなり困難な議会運営を余儀なくされることとなつた。
75年夏に底入れした西独経済は,76年に入つてからも輸出を牽引力として比較的順調な回復過程を辿り,対75年比で実質5.6%の経済成長を達成した。しかし,年央以降には,景気上昇のテンポに鈍化が見られ,失業者数も,12月に再び100万人の大台に乗り,企業の設備投資意欲にも依然盛上りが見られず,このような情勢を背景に連邦政府は,11月の16億マルクの雇用対策及び77年3月の約160億にのぼる「中期公共投資プログラム」等一連の景気刺激策を決定した。
外交面では,対米(7月シュミット首相訪米),対EC関係強化の努力を引き続き行つた。ソ連との関係では,74年のシュミット首相訪ソ以来の懸案であるブレジネフ書記長の訪独が実現しておらず,更に,カリーニングラードの原子力発電所計画が挫折する等全体として大きな進展はなかつた。東欧諸国との関係でも特に目立つた動きはなかつたが,3月の独波協定の批准及び6月のギエレク第1書記の訪独が注目された。その他南北問題に関し,5月のUNCTADナイロビ総会等の国際フォーラムにおいて積極的な役割を果した。
内政面では,3月の県議会選挙等を通じ社共連合勢力が着実に伸長したことを背景とし,与党の一部,特にドゴール派内に78年3月に予定される国民議会選挙への危機感が高まり,またジスカール・デスタン大統領の施政への国民の支持は一般的に低下の傾向を示した。このような情勢下において,8月,ドゴール派を率いるシラック首相は辞任,ジスカール・デスタン大統領は後任に経済学者のバール(シラック内閣の貿易大臣)を任命した。与党内における大統領派とドゴール派の関係はその後も改善をみず,むしろドゴール派が左翼連合への対決姿勢を強めたこと及びパリ市長選準備の過程で両派の思惑が食い違つたこと等の事情により極めて悪化した。
他方,左翼連合内部においても社共間で必ずしもしつくりいつていない面もみられたが,選挙協力が順調な成果を納めていたこともあり,共同綱領を軸とする協調路線が維持された。なお,共産党は,2月の第22回党大会で「民主化徹底による社会主義の実現」及び「プロレタリア独裁概念の放棄」等の柔軟路線を打ち出し注目された。
経済面ではバール内閣がインフレ抑制等経済困難の解決に重点的に取り組んだ結果(バール・プラン),物価及び貿易収支の面では年末に至り若干改善の兆しが見られたが,失業問題は依然深刻であつた(76年の平均失業率は4.2%)。
外交面では,ドゴール以来の基本的外交路線を踏襲しつつも,対米関係の調整(5月のジスカール・デスタン大統領訪米),欧州統合の推進等に重点を置く活発な外交を進めるとともに,中東問題についても引き続き積極的な姿勢を示した。
国防面では77年からの5カ年計画で通常兵器拡充に力点を置くことが決定され,また統合参謀総長が論文を発表し(6月),NATOとの関係の緊密化を説いたことが注目された。
3月ウィルソン首相が引退し,4月にキャラハンが労働党政権を引き継いだが,内政面の主要課題は引き続きインフレ・失業増加・ポンド価値下落等経済問題であつた。7月と12月には公共支出削減・財政赤字圧縮を決定し,また,一応成果を収めた所得政策を受けて,8月より賃上げを年間5%または週4ポンド以内に抑える第2次所得政策に移行する等の措置がとられた。この結果,小売物価上昇率は年平均で前年の24.2%より13.6%へと鎮静に向つたが,76年12月現在失業率5.6%(133万人),年間の貿易赤字36.1億ポンド,経常収支赤字15.3億ポンドと依然困難な状況が続き,ポンド価値は3月には2ドルを,10月には1.6ドルを割るに至つた。このような事態に対して,6月のIMF主要国等による53億ドルのスタンド・バイ・クレジット,9月の39億ドルのIMF借り入れ申請など,国際的なポンド支援への動きがみられ,年末にいたりポンドは1.7ドル台を回復した。経済困難を反映して政府支持率は秋以降下降線をたどり,相次ぐ補欠選挙に敗れた結果,与野党の議席差は1議席にまで縮まつた。
他方,スコットランド,ウェールズ両地域の「ナショナリズム」に対する配慮から,地方議会を設け大幅な自治付与を目指す「地方分権法案」の審議が始まつたが北アイルランドでは英政府の直接統治が続いている。
外交面では,アイスランドによる200カイリ漁業専管水域実施に端を発した「タラ戦争」が一時両国間の国交断絶にまで進んだ。6月には暫定協定が成立して事態は収拾されたが,12月の協定失効とともに英漁船は同水域から締め出された。他方英国も12月に77年からEC共通200カイリ水域を実施するため「漁業水域法」を成立させた。
内政面では,4月30日のモーロ内閣総辞職を受けて行われた6月の総選挙において,キリスト教民主党がようやく共産党を抑え(得票率,基民38.7%,共産34.4%),第1党の座を維持したものの,62年以来の政治フォーミュラである中道左派政権の再構築は,社会党の協力が得られなかつたため実現せず,結局基民党単独少数のアンドレオッティ内閣が成立した。他方,共産党は上院に続き,下院でも3分の1を上回る議席を獲得した結果,国政運営に重大な影響を及ぼすこととなつた。
経済面では,リラ防衛のため外国為替市場の閉鎖(1月21日~3月1日),公定歩合の引上げ(6→8→12%),輸入担保金制度の復活(5~11月)各種増税等極めて厳しい引締め策が取られ,総選挙後も「ア」内閣は,その不安定な政治基盤にもかかわらず,経済再建のため,公共料金の引上げ,公定歩合の再引上げ(15%)等を含む国内緊縮措置をとる一方,IMF及びECからの借款取付け等に活発な動きをみせた。外交面では,「ア」首相の仏・米訪問(12月)等,欧米諸国との密接な接触を保つ一方,ソ連,東欧諸国や地中海沿岸諸国との関係強化に努めた。
75年末からの政情安定化を背景として,新憲法の公布・発効,立法議会選挙(いずれも4月),大統領選挙の実施(6月)等民主化のための一連の措置がとられ,7月には,新憲法が定める手続きに従つて,マリオ・ソアーレス社会党書記長を首班とする新政府が従来の暫定政府に代つて発足した。
ソアーレス政府は社会党による単独少数政権であり,かつクーデター後の旧海外領からの引揚者(約50万人)等の社会経済体制の変革の影響を受けて悪化した経済の再建という難題を抱えている。
これに対して,米,EC諸国は現政権下での政情安定のため,積極的に対ポ経済援助を実施した。
ファン・カルロス1世は,アリアス内閣及び7月成立したスアレス現内閣を通じ集会に関する法律及び政治結社に関する法律の公布,政治犯に対する大赦,政治改革法の制定等国内民主化を推進した。
政治改革法案は,フランコ体制下に創設された1院制議会の廃止と普通選挙に基づく2院制議会設立を目的としており,12月中旬国民投票において全有権者の70%以上の賛成を得て承認され,77年6月約40年ぶりに総選挙が行われることとなつている。
外交上の重要課題たるEC加入・NATO加盟の早期実現には国内民主化が前提となつており,この面からも国内民主化が促進されたといえよう。
スペインは2月「スペイン領サハラ」より撤収し,同地域をモロッコ及びモーリタニアの管理下に移した。また,9月,米国によるスペイン領土内の4軍事基地の使用及びスペインに対する各種援助の供与を内容とする米西友好協力条約が発効した。
(1) 要人往来・定期協議
(イ) 日英定期協議
クロスランド英外相(当時)は,5月9~11日来日し,宮澤外務大臣(当時)との間で第11回日英定期協議を行い,国際政治・経済情勢に関し意見交換を行つた。
シラック仏首相(当時)は,政府公賓として,7月29日より8月1日まで来日し,三木総理大臣(当時)との間で,国際問題,日仏関係及び双方の共通の関心事項について意見交換を行つた。
宮澤外務大臣(当時)は,前項のシラック首相に随行来日したソーヴァニャルグ仏外相(当時)との間で7月30日,第13回日仏定期協議を行い,国際政治,経済問題及び貿易,文化交流等2国間問題につき意見交換を行つた。
皇太子,同妃殿下はジヨルダン,ユーゴースラヴィアを公式訪問の後英国に立ち寄り,6月15日から24日まで滞在され,各地で暖かな歓迎を受けた。
76年のわが国と西欧との貿易実績は,通関統計で輸出109億4,557万ドル(FOB),輸入49億5,714万ドル(CIF)で,75年より,輸出は34.6%,輸入は12.8%増加した。対EC貿易については,輸出72億3,367万ドル(対前年比27.5%増),輸入36億2,326万ドル(同7.5%増)となりわが国の対EC貿易黒字は36億1,041万ドル(前年比156%)と史上最高を記録した。
おおむね経済困難と政治的不安定に直面していたEC諸国は,10月の土光経団連会長の欧州訪問を契機として日欧貿易問題に関し対日批判を強め,貿易不均衡問題,特定産品の対欧輸出急増問題,わが国における諸種の輸入障碍問題等に関する早急な改善策をわが国に対し要求するに至つた。
わが国は,EC側のかかる対日批判の動きが顕在化する以前より,日・EC自動車協議(5月),日・ECハイレベル協議,日・ECSC定期協議(ともに6月),日・EC特殊鋼協議(9月)等の場を通じEC側との協調を図るべく努めていたが,10月以降はかかる外交努力を一層強化し,ハイレベル協議,ECSCとの定期協議(ともに11月),造船協議(12月)等の場を通じわが国の立場に対する理解を求めるとともに,ECとの均衡のとれた経済関係の達成のため可能な限りの協力を行つた(詳細は第2部第2章2(2)ECの項参照)。
76年には,このほか,日・EC繊維協定が締結され(7月),ノールウェー(3月),オーストリア(8月),スウェーデン(9月),スペイン(11~12月)等の諸国との貿易交渉が行われた。