1. 米 国
(1) 内 政
(イ) 1976年は,米国にとつては,建国200年の記念すべき年であつた。7月4日を中心に,全国津々浦々で多彩な記念行事が催され,国民は,米国の過去2世紀の力強い発展の歴史を振り返り,将来に向つての決意を新たにする機会を持つた。
今日の米国民の間には,伝統的な米国のリベラリズムに対しては懐疑的であるという意味で保守的空気が強いが,他方,既存の政治パターンに対する不信感及びその裏返しとしての新しい型の政治的リーダーシップに対する待望感が顕著になつており,特に若い人達の間でこの傾向が強い。76年大統領選挙におけるカーター氏の勝利は,現在の米国のこのような政治的ムードを背景としたものであるといえよう。
カーター氏の勝利は,当初これを予想した者がほとんどいなかつたという意味で「政治的奇蹟」と評されたが,深南部の一地方政治家に過ぎなかつたカーター氏が,現職のフォード大統領を破り,民主党の政権奪回の担い手となりえたのは,同氏が,他の誰よりも,今日の米国民の心理を的確に把握していたことによるとされている。
(ロ) 76年大統領選挙の結果を米国の政治地図の上からみると,民主党の政権獲得は,共和党からの南部の奪還と民主党の地盤である北部大工業州の一部の確保によつてもたらされたものである。その限りにおいて,カーター大統領は,形のうえでは,ニューディール時代以来の伝統的な民主党支持勢力の「連合」の復活に成功したといえないこともないが,その政治的基盤に関しては次のような指摘を行うことが可能である。すなわち,南部の奪還は,主として,南部出身のカーター氏個人に対する支持によるものであつたのに対し,一部の北部大工業州における勝利は,労働組合等の既存の党組織の力に負うところが大きく,その間に,双方を結びつける共通の政策的基盤はほとんど存在しなかつた。それにもかかわらず,カーター氏が,この2つの異質な政治勢力の上に乗つて選挙に勝ちえたのは,選挙戦のあらゆる段階を通じ,具体的な政策問題ではなく,「米国民の健全性」をテーマに有権者にアピールする立場をとりつつ,既存の型の政治家に対する不満に訴える作戦が功を奏したためである。
(ハ) こうして誕生したカーター政権にとつての基本的課題は,いかにして具体的政策を通じ国民の期待により明確な形で応える政治姿勢を打ち出し,それによつて,政治的に意味がある強固な政権基盤を形成しうるかということである。
発足後間もないカーター政権の長期的将来について判断することはできないが,これまでに明らかになつた若干の事実から,新政権の特色ともいうべき幾つかの傾向を知ることができる。第1は,政治基盤を強化するためには先ず国民の広範な支持を取り付ける必要があり,そのためには,政治のスタイルも実質的な一部をなしているとの認識に立つて,就任式におけるオープンな態度に始まり,炉辺談話,国民との電話対談,月2回の記者会見等を通じて国民との接触に努めている。かかる政治姿勢を今後いかに維持し,国民の支持に結びつけていくか,その具体的成果が注目されよう。第2に,民主党が多数を占めている議会がカーター大統領の政策を当然支持するわけではなく,大統領としてはいかに議会との協調関係を維持していくかが当面の内政上の大きな課題であるといえよう。第3には政策面における現実主義的姿勢であり,これは実務型を中心とした閣僚級人事においても反映されている。
(イ) 76年の米国経済は,名目ベースで11.6%の増加,実質ベースでも6.1%の増加となり,74年,75年と2年続いたマイナス成長からの脱出を遂げ,GNPは1兆6,916億ドルを記録した。これを四半期別にみると,米国経済は75年の第2四半期から回復に向つたわけであるが,76年に入つてからも一段と回復基調を強めて,第1四半期には実質(年率)9.2%の大幅上昇を示した。また,物価に関しては農産物価格の下落によりかなり鎮静化していたし,失業率も1月の7.8%から3月には7.5%へと漸減した。この第1四半期の好調の要因としては,個人消費が極めて好調に推移したことのほか,75年末に完了した在庫調整が76年に入つて積増に転じて急激に在庫投資が増加したこと等が考えられる。これで米国経済は1年間にわたつて回復を続けたことになり,その結果,76年第1四半期に至つてようやく不況前のピーク(73年第4四半期)を若干上回るところまで回復した。第2四半期になると,それまで好調に推移してきた個人消費が,耐久財支出の不振を中心としてその伸びに大幅な鈍化をみせたこと,また在庫投資も企業の慎重なビヘイビアを反映して同じく大きく伸びが鈍化したこと等により,成長率(実質,年率)は前四半期に比べて半減し,4.5%の成長にとどまつた。また物価に関しては若干の上昇がみられ,失業率に関してもそれまで順調に低下傾向を示していたものが,下げどまりと反転上昇の兆しを見せるに至つた。第3四半期に入つても,米国経済は鈍化傾向を強めて,成長率は3.9%へと更に低下した。この不振の要因としては,個人消費が引き続き低迷したこと及び在庫投資が小売販売の不振に応じて前期の実績を下回つたこと,また世界景気の回復停滞から輸出が伸び悩み,貿易収支が大幅赤字となり,純輸出も前期比マイナスとなつたこと,更にフォード自動車ストライキ,連邦支出の遅れ等が考えられる。また失業率は反転上昇を見せて9月には7.8%となつたが,物価は前期に比べてわずかに落ち着きをみせた。第4四半期に入ると,フォードのストライキが終り,連邦支出の回復に向つて生産活動は再上昇を始め,これに応じて個人所得が増大し,個人消費も再び活発化し始めた。また住宅着工にも大幅な増加傾向がみられた。実質成長率は在庫投資の不振から2.6%と更に低下したものの,経済活動の実態は確実に改善を示し,第2四半期以降の景気中だるみからの脱出をうかがわせた。失業率に関しては上げどまりから低下の兆しをみせたが,物価の方は前期に比べト若干の上昇気配がみられた。
(ロ) 76年の11月に大統領選挙が行われ,カーター民主党候補が当選した。この大統領選挙においては,折から中だるみの様相を呈していた米国経済を,いかにして順調な成長軌道に戻すかということが主要な論争点の1つとなつていた。フォード政権は,景気中だるみの予想以上の長期化を認めながらも,基本認識として米国経済の自律的回復力を信頼して,従来どおりのインフレ再燃防止を主体とした慎重な政策を続けていたのに対して,カーター陣営では失業率の悪化しつつある局面にかんがみ,より積極的な財政金融政策を主張していた。この財政刺激策を唱えていたカーター候補の当選で,財界及び金融界を中心としたインフレ懸念が高まつたが,当選後のカーター氏の発言に現実的かつ穏健な色彩が濃くなると同時に,77年1月に発足した新政権の閣僚人事も穏当なものとなつたため,経済界を中心としたカーター氏に対する懸念もしだいに緩和していつた。また大統領選挙後発表された経済指標は,米国経済の中だるみからの脱出をうかがわせるものが相次ぎ,77年にかけての米国経済の動向に関しても,カーター氏の現実的な政策が予想されたところから,ほぼ明るい展望をもつのが一般的となつていつた。
(ハ) 77年に入つてからも米国経済は順調に推移するかに見えたが,1月中旬以降全米的な異常気象(東部の寒波,西部の旱魃)の経済への影響が懸念されるに至つた。実際に天然ガス不足また生鮮食料品値上り等のため,経済活動は一時落ち込みを示したし,また物価も上昇傾向を見せた。しかしながらこの影響も一時的なものにとどまり,年間を通してはさほどマイナス要因とはならないと見るのが一般的であり,第2四半期以降は大幅な回復を示すものと期待されている。
(ニ) カーター政権の当面の経済政策は,現在の米国経済の成長力は依然として力不足との認識から,77~78年度における財政刺激策とまた異常気象の影響及び財政赤字拡大からのインフレ懸念の払拭のため,包括的なインフレ対策を講じることにある。また上向きに転じてはいるものの依然本格的上昇にはつながつていない設婦投資をいかに回復させるかも,今後の米国経済の動向を握る鍵となろう。
(イ) 1976年の米国外交は,日本及び西欧の主要友好国との関係では良好な年であつたが,大統領選挙の年でもあつたため東西関係ではほとんど目立つた進展は見られず,全体として比較的動きの少ない年であつた。
しかしながら,大統領選挙との関連では,民主党のカーター候補(当時)が「開かれた外交」の提唱,外交における道義性の重視,核拡散防止等を公約に掲げたことから,これらが米国の外交政策の分野で新たな論議を呼んだ年でもあつた。また,11月の選挙でカーター氏が勝利をおさめ,翌77年1月の新政権発足に伴いヴァンス新国務長官が就任するに至つて,過去8年間にわたり米国の外交の基調であつたキッシンジャー外交の時代は終りをつげた。
(ロ) 76年の米外交の主要な動きを地域別にみると,まず同盟国との関係では6月27日及び28日の両日フォード大統領の提唱によりプエルト・リコで第2回主要国首脳会議が開催され,日本,米国,フランス,西独,英国,イタリア及びカナダの7カ国の首脳が一堂に会して,世界経済が直面する諸問題につき意見交換を行うとともに,先進民主主義国間の協調関係を確認した。また,77年1月,カーター氏が新大統領に就任してからは,同大統領のかねてからの持論であつた友好国重視政策の第一歩として,就任直後の1月23日から2月1日こかけてモンデール副大統領をベルギー,西独,イタリア,英国,フランス及び日本の6カ国に派遣し,これら諸国との緊密な協調関係を確認するとともに,5月に開催の運びとなつた主要国首脳会議のイニシアチヴをとつた。
ソ連との関係では,76年1月20日から23日までキッシンジャー国務長官がモスクワを訪問し,ブレジネフ書記長やグロムイコ外相と会談したのを始め,SALT II交渉打開のために様々な努力が払われたが,依然として米国の巡航ミサイルとソ連の戦略爆撃機バックファイアの取扱いをめぐつて折り合いがつかなかつた。またカーター新政権発足後の77年3月26日から同31日にかけては,ヴァンス新国務長官がモスクワを訪問し,SALT II交渉の打開に努力したが,格別の進展は見られなかつた。なお,本件SALT II交渉のほかに,カーター新政権発足後は,大統領がソ連の反体制学者サハロフ氏らの動きを支援する態度を示唆したこと等もあり,同大統領の人権重視政策が米ソ間の新たな摩擦の要素となりつつあると言われる。
76年の米中関係は,2月にニクソン前大統領,7月にスコット上院議員,9月にシュレジンジャー元国防長官,同じく9月にマンスフィールド上院議員及び11月にカーティス上院議員を団長とする上院議員団が,それぞれ中国を訪問する等の動きはあつたが,大統領選挙及び中国における毛沢東主席・周恩来首相の死去と,その後の中国国内情勢を反映して,実質的進展はみられなかつた。しかし,米国としては,カーター政権下においても上海コミュニケに基づいて米中関係を改善していくという基本姿勢には変更はないものと見られる。
76年の対アジア関係は,ヴィエトナム戦争後のアジア情勢に大きな変化がなかつたこともあり,比較的平穏であつたが,民主党のカーター大統領候補(当時)が,在韓米地上軍の撤退を提唱したことから,新政権のアジア政策の動向がにわかに注目を浴びることとなつた。カーター候補は,かねてより,在韓地上米軍を,日本及び韓国との協議の後,慎重かつゆつくりと撤退するとの意向を表明しており,就任後も,朝鮮半島の平和を損わないようなやり方でこれを実施すると述べている。米国が,太平洋国家として,今後ともアジア・太平洋地域に強い関心をもち,同地域において積極的かつ建設的役割を引き続き果していくということについては,77年3月に行われた福田総理とカーター大統領との会談の際に再確認されている。
劇的な動きの少なかつた76年の米国外交の中で,キッシンジャー国務長官(当時)の南部アフリカ外交は,事実上キッシンジャー外交最後のイニシアチヴとなつた。アンゴラ内乱後のアフリカは,いかにして緊張緩和を追求しつつ,同地域における東西の政治的,軍事的均衡を維持するかという意味で,米国外交にとつて重要な地域となつていた。76年4月から5月初旬にかけてケニア,タンザニア,ザンビア,ザイール,リベリア,セネガルのアフリカ6カ国を訪問した同長官は,その途次,ザンビアの首都ルサカにおける演説において積極的にアフリカ外交を推進するとの姿勢を示し,なかんずく南部アフリカ問題の政治的解決のため努力する意向を表明した。このようなラインに沿つて同長官は,6月に西独で,また9月初旬にチューリッヒでフォルスター南ア首相と会談するとともに,9月中・下旬には,再度アフリカ諸国(タンザニア,ザンビア,南ア,ザイール,ケニア)を訪問し,南部アフリカ問題,特に南ローデシア問題の解決のため努力した。その結果,9月24日,スミス首相は,2年以内の多数支配移行を認める旨発表し,これを受けて旧宗主国である英国の召集により暫定政府樹立のためのジュネーヴ会議が10月28日より12月14日まで開催された。なお,カーター新政権も,77年2月上旬,ヤング新国運大使をタンザニア,ケニア及びナイジェリアに派遣してアフリカに対する積極的姿勢を示している。
対中東政策では,76年中は目立つた動きは見られなかつたが,カーター新政権発足後は,ヴァンス新国務長官が77年2月に,イスラエル,エジプト,レバノン,ジョルダン,サウディ・アラビア,シリアを訪問し,中東和平に対する米新政権の意欲を示している。
(4) わが国との関係(注)
(イ) 日米関係全般
日米間の友好協力関係は,単に政治,経済の分野のみならず,科学技術,医学,教育及び文化等,さまざまな分野で拡大を続けており,ことに76年は米国独立200年祭の年であつたため,両国の各界各層の間で活発な文化交流が行われた。文化交流は,言語や歴史を異にする両国が真の相互理解に達するうえで不可欠なものであるが,この意味で76年は実り多い年であつた。
また,両国は,国際社会が政治,経済上の諸問題をめぐつて相互依存の度合いを強めている今日,太平洋に面する先進工業民主主義国としてそれら諸問題解決のために「世界の中の日米協力」を推進しようとしており,これを具現化するため,両国政府及び両国民各層の間で一層の協議と対話が増進されることが期待される。
なお,両国は,ロッキード社の航空機の対日売りこみをめぐつて生じた不幸な贈収賄事件に際しても,双方の司法当局間で実務取決めを締結し,その真相解明のため協力している。
(a) わが国の貿易相手国として米国は,近年その比重は低下傾向にあるものの,輸出入両面において依然最大の相手国となつている。76年の日米貿易は,75年の世界的不況による縮小傾向から立直つて順調な増大基調にもどつたが,日米両国の景気局面のずれ及び一部品目における現地在庫積増要因等からわが国の対米輸出の大幅増加がみられた。米側統計によると,76年の対米輸出は前年比38%増の155.0億ドル,対米輸入は6%増で101.4億ドルとなり,貿易収支は前年の17億ドルの黒字から53.6億ドルの黒字へと,わが国の黒字幅がかなり増大した。一方米国全体の貿易収支も一転して大幅赤字となつたこと,また米国の景気が一時期中だるみの様相を呈して失業率が反転上昇したこと等もあつて,米国内に保護主義的気運の兆しが見られるに至つた。しかし日米両国政府は緊密な協議体制を保持しつつ,ともに自由貿易の原則を維持していくべきであるとの共通の認識を有している。
(b) 貿易面と並んで資本投資関係においても米国は最大の相手国である。米国の対日投資は75年末のネット投資額で33億ドルに達している。一方わが国の対米直接投資は76年3月末における許可累計で34億ドルとなつており,総許可額中の22%を占めている。特定品目におけるわが国の対米輸出急増が問題となつている現状に鑑み,今後わが国メーカーの現地生産の重要性が高まるものと思われるが,この意味からも今後日米資本関係は増々緊密になるものと思われる。
1976年10月東京において,日米航空交渉第1回協議が開催された。この協議は,第一義的には,沖縄返還に伴い1972年5月に改正された「日米航空協定の付表」の附属書の合意に基づくものであるが,わが国としては日米航空関係の現状は,航空権益上,路線,以遠権,輸送力の面で日本側に不利となつているとの認識にたち,日米航空関係の全般的見直しを行い,日米間の不均衡の是正を図るべく米側と交渉することとした。この協議においては,日米双方の考え方について意見交換を行つたが,結論を出すに至らず,引き続き協議を行うことが合意された。わが国としては,世界の民間航空情勢の動向に注意を払いつつ,日米友好の見地から双方に満足すべき解決が得られるよう鋭意交渉を続けていく考えである。
日米安保条約は,わが国の安全のみならず,極東の平和と安全の維持に大きく寄与してきている。77年3月の福田総理大臣とカーター大統領との会談においても,両者は,日米安保条約を堅持することが両国の長期的利益に資するものであるとの確信を表明した。
日米安保条約の円滑かつ効果的な運用を図るため,76年においても,日米間において引き続き密接な協議及び協力が行われた。
安全保障協議委員会の第16回会合が76年7月8日外務省において開催された(出席者,宮澤外務大臣,坂田防衛庁長官,ホッドソン駐日米大使,ガイラー米太平洋軍司令官)。
この会合において,極東の国際情勢についての意見交換が行われたほか,安全保障協議委員会の下部機構として防衛協力小委員会が設置された。また,米軍施設・区域の整理・統合についても,沖縄県において10施設・区域(12カ所)の整理・統合を行うことが了承された。
防衛協力小委員会は,日米安保条約及びその関連取極の目的を効果的に達成するために,軍事面を含めて日米間の協力のあり方について研究・協議を行うことになつており,その結論は安全保障協議委員会に報告される。
この小委員会は,日本側からは,外務省アメリカ局長,防衛庁防衛局長及び統合幕僚会議事務局長,米側からは,在京米大使館公使及び在日米軍参謀長が出席する。この小委員会は76年中に3回開催され,研究・協議を進めていくうえでの前提条件及び研究・協議の対象事項が了解された。
このほか,日米両国政府の外交及び防衛当局者で構成される安保運用協議会が76年中に2回開催された。
政府は,従来から,日米安保条約の目的の達成と施設・区域周辺地域の経済的社会的発展との調和を図るため,在日米軍施設・区域の整理統合を推進してきた。76年においては,在日米軍施設・区域のうち6カ所が全面返還され,19カ所が一部返還された。
(1) 内 政
(イ) トルドー政権の基本方針
76年のトルドー政権の基本方針は,75年同様,インフレ対策を現下の最重点課題とすると同時に,いわゆる公正な社会の実現を目指し,国内諸制度の進歩的改革と国民生活の向上の推進に積極的に取り組むというものであつた。
インフレ対策については,75年12月に実施された価格所得政策が一応軌道に乗り,効果が表われてきており,76年10月現在の消費者物価上昇率を前年同月比8%にとどめるという初年度の目標は達成された。他方この価格所得政策による連邦政府の賃金統制に対し労働界が反発し,76年10月にはカナダ最大の労働組合団体であるカナダ労働評議会による史上初めての全国ストにまで発展した。
11月15日ケベック州議会選挙が実施され,大方の予想に反し,ケベック分離・独立を主張するケベック党が110議席中70議席を獲得し圧勝した。トルドー首相は選挙直後に「今回の選挙の結果ケベック党はケベック州民より州政府を組閣する委任を与えられたものであり,カナダより分離・独立する委任を付与されたものではない」旨のステートメントを発表する等事態の鎮静に努めた。
他方,レベック・ケベック党党首は選挙期間中,政権を獲得した場合,まず漸進的独立を目指して連邦政府と移民政策及び福祉行政等の割譲について交渉に入り,任期中(1981年まで)にケベックの分離・独立を問う州民投票を行う旨公約してきており,今後の推移が注目される。
(イ) 76年のカナダ経済は75年春からの景気回復をかろうじて維持し,年間の実質成長率は4.6%となつた。これを四半期別にみると,第1四半期に在庫投資の急増を主因として前期比3.1%の大幅増加を示したが,これは後向きの在庫積増であつたため,第2四半期にはこの取り崩しがみられ成長率は0.4%増と著しく低下した。第3四半期も国内最終需要は低下して0.5%と低い伸びにとどまり,第4四半期には輸出の大幅減等からついにマイナス成長となつた。
(ロ) このように,カナダ経済は76年の後半から回復テンポが鈍化したが,その中で生産活動は一進一退の状態が続き,失業率も7%以上の高水準のまま推移した。国際収支も貿易収支は改善しつつあるが,貿易外収支の悪化により経常収支は大幅赤字から脱却しえないでいる。ただし物価面に関してはインフレ対策法の効果が浸透し,76年末には消費者物価,卸売物価ともにかなりの鎮静化を示した。インフレ対策法に関しては物価面ではその効果がうかがわれるものの,一方では財政支出抑制方針から思い切つた景気対策がとれないこと,また個人消費の伸びを抑制すること,更に労使双方からの反発が高まつていること等から,今後の運用が注目される。
(イ) トルドー政権の外交政策の基本
76年のトルドー政権の外交政策の基本は,対米友好関係を維持しつつ,近年カナダ国内においてみられるナショナリズム(いわゆるCanadiam Identity)の高揚を背景として,自主外交いわゆる「第3の選択」政策を推進し,外交の多極化,なかんずく欧州及び日本との関係の緊密化を図ろうとするものであつた。
対米関係については,外資規制法の成立及びカナダ版リーダーズ・ダイジェスト及びタイム誌等に対する税制優遇措置廃止等の問題をめぐつて若干の摩擦が生じたが,大筋において両国の緊密な友好関係は維持された。なお前述のケベック分離・独立問題を契機として,米国資本のケベック州よりの逃避が出はじめている。
トルドー政権は,「第3の選択」政策の一方の柱として,西欧諸国との関係緊密化に努めてきており,6月11日にはカナダ・EC間の経済,通商面における相互協力の促進を目的とするカナダ・EC経済協力協定が署名された。また,軍事防衛面でもNATOの一員としてNATOの防衛力強化に協力する姿勢を示している。
カナダ政府は1974年5月のインドの核実験を契機として,核物質等の輸出に関する保障措置強化の政策を打ち出してきており,ジェイミソン外相は12月22日下院において,原子力輸出に関する保障措置の強化を目的とする新しい原子力輸出政策を発表した。なお日本との関係においても日加原子力協定の改訂交渉が行われている。
(4) わが国との関係(注)
(イ) 日加関係全般
(a) 政府間協議
76年の日加関係全般を振り返つてみると,政治面での最大の行事は10月のトルドー首相の訪日であり,この訪日を通じて両国の相互理解は一段と促進された。こうした首脳レベルの接触に加えて,政府間の各層のレベルで緊密な協議が行われ,外相レベルでは,9月にニューヨークにおいて第31回国連総会が開催された機会をとらえて,小坂・ジェイミソン両外務大臣会談が行われた。
76年はまた両国の国会議員の交流の気運が高まつた年であつた。3月にわが国において超党派の国会議員による日加議員連盟が発足し,4月に衆参両院議長の招請により国会の賓客として,ラポアント上院,ジェローム下院両議長を団長とするカナダ議員団が訪日した。同議員団の中には,第2野党のブロードベント新民主党党首も含まれていた。更に7月には河野参議院議長がモントリオール・オリンピック選手団長を兼ねてカナダを訪問した。
日加間の文化交流も促進されてきており,10月のトルドー首相訪日の際には日加文化協定が署名され,今後の文化交流の活発化が期待されている。このほか,76年には4月に三笠宮寛仁殿下が第2回国際身体障害者スキー大会に参列のため訪加され,またカナダよりは,1月にカナダ国防大学視察団が,5月にブレークニー・サスカチュワン州首相が来日した。
(a) カナダは,わが国にとつて,輸出入合計で第7位の貿易相手国であるが,わが国はカナダにとつて,輸出入双方で第2位の貿易相手国となつている。
76年の日加貿易は,対加輸出約15億ドル,対加輸入約24億ドル,往復で約39億ドルに達し,75年の世界的不況による一時的落ち込みを脱し,再び従来の拡大基調に転じたといえよう。日加貿易の内訳をみると,わが国は,石炭,銅,小麦等の原材料・食糧をカナダから輸入する一方,鉄綱,自動車等の工業製品をカナダに輸出しており,日加貿易は相互補完的なものとなつている。しかしながら,カナダは現在の貿易パターンに必ずしも満足しておらず,わが国に対し,わが国輸入原材料等の加工度向上を要請するとともに,わが国がCANDU炉,STOL(短距離離着陸航空機)等のカナダ製高度技術製品の購入を増すよう強く希望している。
(b) カナダは,最近わが国及びECとの経済関係緊密化に力を注いでおり,76年10月にトルドー首相が訪日した際,三木・トルドー両首相により,今後の日加経済協力関係緊密化のための指針を宣明することを目的とした経済協力大綱が署名された。政府は,同大綱具体化の第一歩として,同年10月末,本邦財界有力メンバーで構成される訪加経済使節団をカナダに派遣した。更に,オタワにおける第3回日加食糧農業会議の開催(8月),わが国よりのオイルサンド(1月)及びウラン探鉱開発(9月)についての調査団の派遣等両国の経済協力は着実な進展を見せた。
漁業問題については第2章国際経済関係第7節「海をめぐる諸問題」を参照ありたい。 |
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漁業問題については第2章国際経済関係第7節「海をめぐる諸問題」を参照ありたい。 |