第 2 部

 

各   説

 

第1章 各国の情勢及びわが国とこれら諸国との関係

 

第1節 ア ジ ア 地 域

 

1. アジア地域協力機構とわが国

 

(1) 東南アジア開発閣僚会議

(イ) 東南アジア開発閣僚会議は,わが国の提唱で1966年に創設されたもので,東南アジア諸国における経済開発の共通の諸問題について,閣僚レベルで率直な意見を交換することにより,参加諸国間で経済・社会開発のための地域協力を推進することを目的とするフォーラムである。

(ロ) 第10回会議は75年秋にシンガポールで開催される予定であつたが,主催国シンガポールは諸般の事情から会議開催への具体的措置をとらなかつたため未だ会議は開催されるに至つていない。

(ハ) 本会議を母体として種々の地域協力プロジェクトが生まれているが,主要なプロジェクトは次のとおりである。

(a) 東南アジア漁業開発センター(略称SEAFDEC)

 本センターは,東南アジアの漁業開発の促進を目的として67年12月に設立された政府間国際機関で,閣僚会議が生み出した最初の地域協力プロジェクトである。

 加盟国は,日本,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ及びヴィエトナムの6カ国である。センターには事務局,訓練部局(バンコック),調査部局(シンガポール)及び養殖部局(フィリピンのイロイロ)があり,加盟各国の研修生に対する訓練,資源調査,養殖技術の研究等の活動を行つている。

 わが国は,これまで同センターに対し船舶・機材の調達資金等を拠出しているほか,奨学金(41名分)及び運営費の拠出,専門家派遣等の協力を行つている。

 76年度においては,総額1億3,872万円を拠出したほか,76年末現在20名(訓練部局7名,調査部局5名,養殖部局8名)の専門家を派遣している。

(b) 東南アジア貿易投資観光促進センター(略称SEAPCENTRE)

 本センターは,東南アジア諸国からの輸出を促進するとともに,これら諸国への投資及び観光客の増大を図り,もつてこれら諸国の国際収支の改善に寄与することを目的とする地域協力のための政府間機関で,72年1月発足,事務局は東京にある。

 加盟国はインドネシア,カンボディア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ,ヴィエトナム及びわが国の9カ国であつたが,インドシナ3国は,75年の政府の変更以後センターの活動に参加しなかつた。

 かかる状況において,77年1月,センター設立協定の有効期間5年間が満了したので,インドネシア,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ及びわが国の6カ国は,77年1月20日,センターの活動を1年間継続する議定書を締結,センターの活動は1年間延長された。

 センターは,東南アジアの加盟国の物産展,観光展の開催,これら諸国産品の日本国内市場調査,対日輸出有望商品の発掘調査,これら諸国への投資促進のための調査団の派遣,セミナー・会議の開催,東南アジア観光促進のためのセミナー開催等の事業を行つている。

 わが国は,センター経費として,76年度において約2億2,000万円を拠出した。

(c) アジア租税行政及び調査に関する研究グループ(略称SGATAR)

 第5回閣僚会議(70年)における提案に基づき,域内各国の税制,税務行政の改善・強化を図るとともに,投資にインセンティブを与えるため,税制上の環境を整備することが重要であるとの観点から,各国間の情報交換のための研究グループが設けられ,以来会合を重ねてきている。第6回会合は76年10月シンガポールで開催された。

(d) 東南アジア運輸通信開発局(略称SEATAC)

 第2回閣僚会議(67年)において,東南アジア諸国の運輸通信部門拡充のための地域協力を推進するため,東南アジア運輸通信高級官吏調整委員会(COORDCOM)の開催が決定された。COORDCOM(わが国はオブザーヴァー)は,67年9月クアラルンプールで第1回会合を開催して以来,会合を重ね,各種開発プロジェクトのフィージビリティー調査の実施とりまとめ,東南アジアの総合的運輸調査である「地域運輸調査」(RTS,アジア開銀により71年9月に完成)のフォローアップ等を行つてきている。RTSの諸プロジェクトの実施推進のため,COORDCOMの常設事務局として東南アジア運輸通信開発局(SEATAC)が72年クアラルンプールに設置され,73年1月から活動を開始した。

 わが国は,SEATACに対し,74年度より資金協力を開始し,76年度においては約1,300万円の資金協力を行つたほか,76年7月より運輸経済の専門家1名を派遣している。

(e) 東南アジア家族・人口計画政府間調整委員会(略称IGCC)

 第5回閣僚会議(70年)における提案に基づき,人口問題に関し域内閣僚レヴェルで意見交換を行うため,70年10月クアラルンプールで第1回の東南アジア家族・人口計画閣僚会議が開催され,第2回会議は73年5月チェンマイで開催された(わが国はいずれもオブザーヴァーとして出席)。2回にわたる会議では家族・人口計画に関する意見及び情報交換が行われ,常設事務局をクアラルンプールに設置すること等が合意された。爾来IGCCは,家族・人口計画に関する諸分野につき,セミナー/

ワークショップ会合及び専門家会合の開催,医師/準医療要員等の訓練,研修旅行等の諸活動を行つてきている。

 わが国は,IGCCに対し,76年度において約700万円の資金協力を行つたほか,わが国の国連人口活動基金拠出金より運営費として10万米ドルを贈与した。

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(2) アジア開発銀行(ADB)

(イ) アジア開発銀行は,アジア及び極東地域の経済開発に寄与することを目的として設立され,1966年12月から業務を開始した。加盟国は76年4月にクック諸島の加盟が承認された結果,域内28カ国(ないし地域),域外14カ国,計42カ国(ないし地域)となつた。なお,76年9月,アジア開発銀行理事会において,ヴィエトナム社会主義共和国は同年7月より同銀行のメンバーであることが承認された。

(ロ) アジア開発銀行がその業務を行うための財源には通常資本財源及び特別基金財源(アジア開発基金)がある。

 通常資本財源の76年12月末現在の応募資本は36億9,000万ドル(うち払込資本11億8,000万ドル,請求払資本25億1,000万ドル)である。このうちわが国の出資額は6億300万ドル(うち払込資本1億9,300万ドル,請求払資本4億1,000万ドル)であり,最大の出資国(シェア16.4%)となつている。

 一方,特別基金財源については,76年12月末現在の拠出額累計は8億6,730万ドルであり,わが国はこれに4億2,160万ドルの拠出(シェア46.7%)を行つている。このほかアジア開発銀行の財源には,贈与ベースにより,技術援助を行うための技術援助特別基金があるが(76年末現在2,076万ドル),わが国はこれにも加盟国中最大の拠出を行つている(76年12月末現在1,490万ドル,シェア63.1%)。また,さらにわが国はアジア開発銀行に対して,日銀から300億円,輸銀から75億円,計375億円の借款を供与しており,そのほかわが国市場において,410億円のアジア開銀債が発行されている。

(ハ) アジア開発銀行は発足以来10年を迎え,その業務拡大とともに増資及び資金補充の必要性が高まり,75年12月には総額8億900万ドルのアジア開発基金第1次資金補充及び76年11月には授権資本を135%拡大する通常資本の第2次一般増資が決定された。

(ニ) 76年12月末現在の融資承諾累計額は,通常資本24億7,000万ドル,アジア開発基金8億9,000万ドル,計33億6,000万ドル(件数288)である。これを部門別にみると,公共事業11億1,195万ドル(シェア33.1%),農業及び農業関連産業7億8,990万ドル(23.5%),工業7億7,250万ドル(23.0%),運輸・通信6億5,856万ドル(19.6%)となつており,主要借入国は,韓国5億4,760万ドル(シェア22.2%),フィリピン4億4,890万ドル(18.2%),タイ3億530万ドル(12.4%),パキスタン2億9,800万ドル(12.1%),マレイシア2億9,060万ドル(11.8%)である。

(ホ) なお,アジア開発銀行総裁は初代よりわが国から選出されているが,76年11月吉田太郎一氏が第3代総裁に就任した。

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(3) アジア生産性機構(APO)

(イ) アジア生産性機構は,1961年5月アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された政府間国際機関で,わが国をはじめとする14のメンバーからなつており,事務局は東京にある。

 この機構は,訓練コース,シンポジウム等を開催するほか専門家の派遣,視察団受入等により,中小企業を主な対象として経営改善,生産技術の向上などにつき助言・協力を行つている。

(ロ) わが国は,アジア生産性機構の最大の援助国として,76年度は64万9,000ドルの分担金及び1億1,617万円の特別拠出金を拠出したほか,わが国で実施されるアジア生産性向上事業費の一部として1億9,589万円を支出した。

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(4) アジア工科大学院(AIT)

(イ) アジア工科大学院は,1967年11月アジア地域の土木工学分野における修士・博士の養成を目的とする高等教育機関として発足した。同大学院の本部はバンコック郊外に所在している。

 現在,アジア工科大学院には,社会・地域開発,環境工学,地質・土質工学,工業開発・管理,構造工学,水資源工学等の学科が開設されており,アジア地域17カ国からの410名の学生が,わが国のほか英国,米国,カナダ等から派遣された約50名の教授の指導を受けている。

(ロ) わが国はアジア工科大学院の主たる援助国として現在4名の教授を派遣しているほか,AITセンターの建設,奨学金及び運営費の拠出,機材供与等の援助を行つている。

 76年度においてわが国は,20名分の奨学金(10万ドル)及び設備機材費として2,320万円を拠出した。

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(5) 東南アジア諸国連合(ASEAN)

 ASEANは,1967年にインドネシア,マレイシア,フィリピン,シンガポール及びタイの5カ国を加盟国として発足したが,75年春のインドシナ半島情勢の激変がひとつの契機となつて,連帯を一層強めることとなり,76年2月23日・24日には,インドネシアのバリ島で発足して以来初の首脳会議を開くに至つた。

 首脳会議では,ASEAN協和宣言,東南アジア友好協力条約が採択され,また,共同プレス・コミュニケが発出されたが(昭和51年版外交青書下巻資料編4,(9)~(11)参照),ASEANは,この首脳会議によつて機構としての基盤を強固にするとともに,域内協力の推進を通して各加盟国及び地域の強靭性強化を図るとの意志決定を最高レベルで行つた。

 前記の協和宣言は,ASEAN協力推進のための行動計画を含んでおり,ASEANは以後この計画に沿つて域内協力を進めた。

 まず3月8日,9日には,クアラルンプールで第2回ASEAN経済企画閣僚会議が開催され,また,5月17日から19日まではマニラでASEAN労働大臣会議が,6月24日から26日までは同じくマニラで第9回定例閣僚会議が開かれた。さらに,8月10日・11日にはクアラルンプールで非公式の経済閣僚会議が開かれた。

 ASEANは,76年中このように一連の閣僚レベルの会議を開いて域内協力の推進を図ると同時に,同年秋以降加盟国首脳の相互訪問と意見交換を活発化した。他方わが国をはじめ,EC,豪州,ニュー・ジーランド,カナダ,米国など域外諸国との対話と協力の拡大・強化にも努めた。

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(イ) 域内協力の進展

 前述のASEAN協和宣言の行動計画は経済面での協力として(a)産業協力,(b)基礎産品,特に食糧・エネルギーに関する協力,(c)貿易に関する協力,(d)国際経済問題に関する協力等を掲げているが,それぞれにつき以下の進展があつた。

(a) 産業協力に関しては,第2回経済企画閣僚会議で,ASEAN産業プロジェクトとしてインドネシアとマレイシアに尿素肥料,フィリピンに過燐酸肥料,シンガポールにディーゼル・エンジン,タイにソーダ灰のプラントを設立することが決定された。これらプロジェクトについては,その後産業委員会を中心に検討され,76年8月の非公式の経済閣僚会議ではプロジェクトに対する資本参加などの問題につき検討され,各国の資本のシェアにつきホスト国が60%,他の4カ国が残りの40%を均等に分担するというような点が合意された模様である。

(b) 基礎産品,特に食糧・エネルギーに関する協力に関しては,行動計画は,緊急時に加盟国間で食糧・エネルギーを相互に優先的に供給することを掲げており,第2回経済企画閣僚会議ではその最初の品目として,米と石油が決定された。

(c) 貿易に関する協力についても行動計画に沿つて貿易委員会を中心に検討が進められた結果,77年1月の第3回経済企画閣僚会議で特恵貿易制度に関する協定案が合意され,同年2月24日の特別外相会議で署名された。

 他方,シンガポールは,別途,フィリピン及びタイとの間で,10%の関税一括引下げに合意した。

(d) 国際経済問題に関する協力についてはASEANは,地域産品の域外市場へのアクセス拡大のための共同の努力,国際経済問題における共同のアプローチなどを掲げたが,具体的には下記のわが国に対するパイナップル缶詰問題における共同アプローチ,UNCTADナイロビ会議,ジュネーヴでのガットMTN熱帯産品交渉におけるグループとしての行動等がみられた。

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(ロ) 日本・ASEAN関係

(a) わが国は従来よりASEANを東南アジアの自主・自立の地域協力機構として高く評価しているが,パリ首脳会議以降ASEANがその活動を積極化したことにも鑑み,対ASEAN政策を従来以上に推進することとなつた。このためにはまず先方との対話と交流を深める必要があるとの認識から,76年4月以降ASEAN国内事務局長を順次わが国に招請し,12月にはダルソノ初代事務総局長も招請した。右招請は,わが国がダルソノ事務総局長の初の域外正式訪問国となつた点意義深いものであつた。

 他方,わが国とASEANとの協力の場としては73年以来下記(b)のゴム問題に関するフォーラムが設置されているが,ASEANとの対話をより一層拡大・強化するため,わが国は76年9月ASEANに対し日本・ASEANフォーラムの設置を申し入れた。これに対し,ASEAN側は同年11月この申入れを歓迎する旨通報してきた結果,77年3月23日には,ジャカルタでその第1回会合が開かれた。

(b) ゴム・フォーラムを通じてのASEAN協力としては,76年1~3月わが国と先方との間に調査団及び専門家チームの往来があつたが,11月には東京で第4回会合が開かれ,わが方は,ASEANの天然ゴム需要拡大のためのプロジェクトに対し技術協力を行うことを約した。

(c) わが国は,ASEANの域内協力促進への協力として,ESCAPの下部機構であるADIに対し,76年末3万5,000ドルの資金拠出を行つた。

(d) ASEANよりパイナップル缶詰の輸入割当を増加するよう要望してきたのに対し,わが方は最善の努力を行つたが,先方は76年6月の第9回閣僚会議共同声明で,わが国との関係はこの問題で限られた成果しか上がつていないと記した。

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(6) アジア・太平洋協議会(ASPAC)

 本機構加盟国は,国際情勢の変遷により,1973年に予定されていた閣僚会議を無期延期させたのをはじめとして,その活動を順次停止させているが,76年3月には4つの下部機構のうちの経済協力センター(ECOCEN)につき,同月末をもつて活動を停止する旨が同機構の執行理事会で正式に決定された。この結果,引き続き活動を続けているものは,文化社会センター及び食糧肥料技術センターのみとなつた。

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2. 朝 鮮 半 島

 

(1) 朝鮮半島の情勢

(イ) 南北朝鮮関係

(a) 南 北 対 話

 離散家族捜しのための南北赤十字会談は,1973年7月の本会議(第7回)を最後に中断状態にあるが,本会議再開のため実務者レベルの会議がもたれており,76年中に6回の実務会議(第15回~第20回)が開催された。

 また,南北調節委員会は,委員会の運営を正常化させる副委員長会議も75年3月に北朝鮮の一方的拒否により中断し,韓国側の正常化の呼びかけにもかかわらず,76年中一度も話し合われなかつた。

 韓国は,南北調節委員会では経済・文化・スポーツ等容易な問題から解決することを,南北赤十字会談では人道問題を無条件で話し合うことを主張しているのに対し,北朝鮮は,いずれにおいても対話正常化のための先決条件として反共政策・2つの朝鮮政策の撤廃を主張して,双方は大きく対立している。8月30日以降は南北間のホットラインも不通となり,対話正常化の見通しはたつていない。

 77年1月朴大統領は,年頭記者会見で北朝鮮が対話の場所にこだわるならば(北側はソウルは会談する雰囲気ではないとして拒否),板門店又は合意する第3の場所での開催にも応じると述べ,対話の正常化を訴えた。

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(b) 軍事的緊張

 朝鮮半島の緊張は,75年後半以降落着きをとり戻していた。しかしながら76年に入つてからは,北朝鮮は国連対策・非同盟諸国対策等の観点から,「朝鮮半島の緊張は激化しており,その原因は米軍の韓国駐留にある」旨強く主張し,8月5日には米・韓は戦争準備を完了したとの声明を発表するに至り,緊張感は高まつてきた。

 8月18日には,板門店事件が発生し,国連軍側,北朝鮮軍側の双方とも軍事的措置等をとるに至り,緊張は頂点に達した。しかしながら,その後双方は慎重な対処ぶりを示し,21日北朝鮮軍側が,国連軍側に対し,金日成人民軍最高司令官のメッセージとして,かかる事件が発生したことについて遺憾の意を表明したことから緊張は次第に和らいだ。9月6日には,国連軍側と北朝鮮軍側の協定により,共同警備区域での接触による紛争を防止するための新たな措置が合意された。

 またその他,この間,主要な局地的軍事紛争としては,北朝鮮軍戦車の非武装地帯侵入事件(1月21日),北朝鮮軍武装ゲリラの韓国軍陣地侵入事件(4月7日),北朝鮮軍と韓国軍との非武装地帯での相互射撃事件(8月5日),北朝鮮武装ゲリラの巨文島侵入事件(9月20日)等が発生した。これらは,主として陸上における紛争であり,特に板門店事件においては,休戦協定締結以来初めて国連軍側の米軍将校2名が殺害されたことが注目される。

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(c) 南北の対外政策

 韓国は,韓・米安保体制の堅持,日本等自由陣営の友邦国との紐帯強化等を基本政策としている。また北朝鮮との関係で国際社会においてより優位に立つため,国連外交の一層の強化,中東・アフリカ地域の非同盟,中立諸国に対する外交の強化に努力している(76年を通じ韓国は新たに3カ国(バハレーン,セイシェル,パプア・ニューギニア)と外交関係をスーダンと領事関係を設定した)。更に共産圏諸国との関係についても東欧共産圏を含む非敵性共産諸国との関係改善(7月統一ヴィエトナムに対しては,「6.23外交宣言の対象となる非敵性共産国である」との方針を明らかにし,敵性共産国は北朝鮮のみとなつている),及び輸出増大,資本技術の導入,資源確保等を中心とする経済外交にも重点を置いた積極的な外交を展開した。

 一方,米国との関係では,10月下旬,米国の各新聞が,在米韓国人朴東宣の米議会工作に朴大統領が関与していると報道したのを契機に,この問題をめぐり韓・米間に一時的な紛糾が生じた。韓国政府は,12月8日,9日声明を発表し,(あ)「在米韓国大使館金相根参事官の"亡命"につき,「米国は金参事官を強制抑留していると疑わざるを得ない」(い)また,米国機関による韓国大統領官邸の盗聴の報道に関し,米国側の釈明がなされない場合「しかるべき措置をとる」との強い対米非難声明を発表した。これに対し米国側は,(あ)金参事官の“亡命”は自由意思によるものである,(い)米国の諜報活動については一切コメントしないと反論し,双方の対立は一時的に高まつた。しかし,その後の両国による「伝統的」かつ「基本的」な米韓友好関係の観点に立つた外交努力により,12月末には,本問題につき一応の解決をみ,朴東鎮外務部長官は12月28日(あ)両国の伝統的友好関係と米国の対韓防衛コミットメントには変化はない,(い)朴東宣は韓国政府とは無関係である,(う)大統領官邸(青瓦台)盗聴は米国政府が外交ルートで否認した等を要旨とする声明を発表した。

 また,米国との関係では,更に在韓米軍の撤退及び韓国にある核兵器の撤去を主張したカーター氏が大統領に就任したことによつて,本問題のとり進め方が注目されることとなつた。現在までのところ,撤退の対象は地上軍のみであり,その具体的態様も未定となつている。日米首脳会談(77年3月21日・22日)においては,カーター大統領は,この問題に関しては,韓国とまた日本とも協議の後,朝鮮半島の平和を損なわないような仕方で,これを進めていくことになろう旨述べたが,いずれにせよ,今後この問題の成行きが注目される。なお韓国にある核兵器の撤去に関しては,カーター政権の誕生後何ら言及はなされていない。

 北朝鮮は,76年においてパプア・ニューギニア,ナイジェリア,セイシエルの3カ国と新たに外交関係樹立に合意した。その結果,76年末現在,外交関係設定合意国数は,韓国が96,北朝鮮が91,うち南北双方ともに設定合意している国は48となつた。

 北朝鮮は,75年の非同盟諸国会議への加盟(韓国は未加盟),国連総会における北朝鮮側決議案の採択という一連の進展に勢いを得て,76年においても5月に国連貿易開発会議(UNCTAD)77カ国グループに加入するとともに8月の非同盟諸国首脳会議及び秋の国連総会を目指し,主として開発途上諸国を対象に活発な外交活動を展開した。

 即ち,タンザニア,マダガスカル,ザンビア,ブルンディ,リビア,シリア,イラク,イエーメン・アラブ共和国,エジプト,セネガル,ギニア,ベナン,トーゴー,ガーナ,カメルーン,赤道ギニア,サントメ・プリンシペ,コンゴ,パナマ,ペルー,ガイアナ,ヴィエトナム,カンボディア,ラオスの24カ国に金日成主席の特使を,ビルマとユーゴスラヴィアに外交部長を,インドに外交副部長をそれぞれ派遣する一方,マリ,マダガスカル,ベナン,ボツワナの各国大統領,パキスタンの首相及びチャドの外相を北朝鮮に招待した。

 しかしながら,上記北朝鮮の積極的な外交活動にもかかわらず,8月スリランカのコロンボで開催された非同盟諸国首脳会議では,北朝鮮提出の決議案及び政治宣言案はほぼ原案どおり採択されたとはいうものの20数カ国が留保を付し,さらには8月18日板門店において北朝鮮兵士が米軍将校2名を殺害するという事件が発生し,国際世論は北朝鮮に対し厳しいものとなり,情勢は必ずしも北朝鮮の思惑どおりには進まなかつた。また国連においても,北朝鮮は,9月21日に北朝鮮側決議案を撤回した。更に10月14日デンマーク政府により同国駐在の北朝鮮外交官が麻薬,酒,タバコ密売のかどで国外追放されたのを皮切りに,ノールウェー,フィンランド,スウェーデンにおいても同様の理由によりそれぞれ同国駐在の北朝鮮外交官が本国召還要請や国外退去処分の措置を受けた。

 このように,76年の8月から10月にかけて相次いで起つた外交上の瑳跌は,74年末頃から表面化してきた対外債務不履行問題と相まつて北朝鮮の国際的威信と信用の失墜をもたらした。

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(ロ) 韓国の政情

(a) 「民主救国宣言」発表事件

 3月1日反政府人士は,大統領緊急措置第9号の撤廃,言論等の自由,朴政権の退陣等を求める「民主救国宣言」を発表し,9カ月ぶりに反政府の動きがみられたが,金大中,尹ボ善等を含む関係者18名は,民衆を扇動し政府転覆を企図したとして緊急措置第9号違反で起訴された。1審判決(8月28日)で懲役2年から8年の実刑が言い渡され,ついで控訴審判決(12月29日)でも若干量刑が軽減されたが(1部執行猶予付を含む懲役1~5年),全員に対し有罪が宣告され,被告側は上告した。77年3月22日には,大法院において上告が棄却され刑が確定した。

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(b) 内 閣 改 造

 朴大統領は,12月4日内閣改造を行い,中央情報部長を含む6閣僚を更迭した。

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(c) 総力安保体制の定着

 「民主救国宣言」発表事件以後は,キリスト教関係者や学生の間に民主回復を求める若干の動きがみられたにとどまり,野党も従来の対政府極限闘争を改め中道統合政策に転換したため,与・野党間の協調が高まつた。他方,一般国民の間にも8月の板門店事件の発生により国家安保優先の認識の高まりがみられ,経済面の成果に対する評価が高まつたことと合わせ,政情は安定し,総力安保体制の定着が一層進んだ。

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(ハ) 韓国経済の状況

 76年の韓国経済は,世界景気の回復に伴う輸出需要の急伸長に支えられて実質経済成長率15.2%という史上2番目の高水準を記録した。産業別の成長をみると,まず鉱工業部門の成長が著しく成長率は輸出の急増に支えられて前年の12.9%から25.1%へ倍増し,このうち製造業は前年の12.9%から25.9%へ増加し,全体の成長率に大きく寄与することとなつた。また,農林水産業部門は米穀及び麦類の豊作と遠洋漁業の漁獲増により8.3%増加した。社会間接資本及びその他サービス部門は生産活動の活発化に伴い11.3%の成長率を記録した(前年5.8%)。

 国際収支面では,輸出の急成長(前年の50億ドルから78億ドルへ)を反映して貿易収支赤字は前年の17億ドルから4億ドル,経常収支赤字は同じく19億ドルから3億ドルへ大幅に改善し,外貨準備高は年末には前年の15億ドルから30億ドルに増加した。物価は年末対比で卸売物価上昇率8.9%,消費者物価上昇率11.4%と比較的安定した。76年は第3次経済開発5カ年計画の最終年であり,同計画の主要目標が超過達成されるとともに,77年からはじまる第4次5カ年計画が策定された。

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(ニ) 北朝鮮の政情

 金日成主席のいわゆる「主体思想」を中心に同主席の絶対化が引き続き強化される中で,76年には世代交代の徴候がかなり表面化してきた。76年3月南日副総理の死亡,4月金一総理の解任,5月崔賢人民武力部長の解任,9月崔庸健副主席の死亡といつた古参幹部の後退傾向がみられた。一方,73年初め頃から若手グループにより構成された「三大革命(思想・技術・文化)小組」の各経済部門における活躍が注目を浴びたが,これらの動きは,金日成体制の基盤をさらに強固なものとしつつ,後継者(金日成の実子金正一が内定しているとみられている)体制を逐次,整備していくための布石であるとみられている。

 また前年に引き続き,主体思想による全国一色化運動,三大革命赤旗獲得運動等の思想戦を挺子とし,経済建設への奮起を国民に訴える一方,従来にも増して「米帝国主義の挑発による戦争の脅威」を内外に強調し,在韓米軍撤退等自国の統一路線に対する国際世論の支持獲得に全力を傾けてきた。

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(ホ) 北朝鮮の経済の状況

 北朝鮮政府は,75年9月経済6カ年計画(1971~76年)を1年4カ月繰り上げ,同年8月末をもつてこれを達成し,工業生産の年平均増加率は,当初計画目標の14%を上回る18.4%であつた旨発表した。

 しかしながら,次期経済計画は発表されず,76年は鉄鋼,セメント等6カ年計画の未達成部門の調整を進め,次期経済計画に移行するための緩衝期と定められた。金日成主席は,77年1月1日の年頭の辞において,76年には経済6カ年計画の未達成部門として残つていた鉄鋼,セメントも成功裡に達成し,6カ年計画を全般的かつ完全に遂行した歴史的な勝利の年であつたと述べる一方,一部経済部門で緊張が生じ,かなりの面で経済建設が支障を受けていると経済困難をはじめて正式に認め,77年を前年に引き続き,緩衝の年とすることを明らかにした。

 このように経済6カ年計画は完全に遂行されたとしながらも,未だ次期経済計画に着手できないこと及び74年末頃から表面化してきた対外債務不履行問題等から北朝鮮経済はかなり困難な状況にあつたとの見方が行われている。

 北朝鮮は,73年産業構造の高度化を目指し,基本建設優先主義のもとに経済6カ年計画を手直ししたと推測され,大量の近代技術及び装備を西側諸国から導入した。その結果,北朝鮮の貿易収支は,73年以降,毎年赤字になり,オイル・ショックの影響と相まつて外貨事情は極度に悪化した。北朝鮮が抱えている対外債務は約17億ドルといわれ,現在,関係西側諸国との間に債務繰延べ等の交渉が行われている。

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(2) 日 韓 関 係

(イ) 日韓外相会談及び韓国要人の来日

 6月9日より11日までの間,朴東鎮外務部長官はタイ国訪問の帰途,非公式にわが国に立ち寄つたので,10日,宮澤外務大臣は同長官との間に会談を行つた。

 また,6月30日より7月4日までの間,金聖鎮文化公報部長官は,東京,京都,福岡の3都市で開催された韓国美術5千年展の関係で訪日した。

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(ロ) 通 商 関 係

 1976年のわが国の韓国向け輸出は28.2億ドル(前年比25.6%増),輸入は19.2億ドル(同46.5%増)であり,75年に初めて前年実績を下回つた対韓貿易額は再び増加傾向を示した。輸出入比率は1.5対1であり,対韓貿易黒字幅は前年と同水準の約9億ドルであつた。

 韓国からの輸入商品の一部について,国内業者の間から韓国側の秩序ある輸出を求める動きが生じ,生糸及び絹製品貿易に関しては76年2月ソウルで,3月東京で専門家レベルの協議を行つた後4月ソウルにおいて政府間協議を行い両国政府間の合意が成立した。このほか11月には第13回日韓貿易会議(東京)が開かれた。

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(ハ) 経済協力関係

 11月に通信施設拡張計画及び忠北線複線化計画のための109億円の円借款供与の書簡交換が行われ,また,一般の無償資金協力としては,3月にソウル大学校工科大学に対する機材供与(10億円)のための書簡交換が行われた。

 更に,技術協力として研修員の受入れ,専門家の派遣,各種開発調査の実施,技術訓練センター,医療協力,農業研究協力の実施等幅広い協力を実施した。

 他方,民間輸出信用については,わが国は一般プラント,漁業協力及

び船舶輸出に対し76年末現在で約14億ドル(輸出承認ベース)の延払輸出を行つた。

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(ニ) 民 間 投 資

 76年のわが国の民間資本の韓国への進出状況は,韓国側資料によると到着ベースで4,900万ドルであり,累計すると4億4,000万ドル(全体の65%)となつている。わが国の対韓民間投資は74年以来不振であり,わが国の景気回復の遅延による投資意欲の減退と,開発途上国間の外国人投資誘致競争の熾烈化を反映しているといえよう。

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(ホ) 漁 業 問 題

 75年秋以来問題となつていた北海道沿岸漁場での,韓国漁船によるわが国漁業者漁具への被害は,76年1月と2月に外交ルートを通じて,わが国より善処方を申し入れ,76年6月には日韓間で民間レベルの協議会が開かれて民間レベルでの解決への努力が図られた。しかし76年12月頃より被害が再発し始めている。

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(ヘ) 竹 島 問 題

 わが国政府は,韓国による竹島不法占拠に対し,従来繰り返し抗議してきており,76年10月にも,同年8月に行われた海上保安庁巡視船の調査結果に基づき,竹島における韓国側各種建造物の設置及び官憲の滞在につき抗議するとともに,これらの撤去を求める旨の口上書を発出した。

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(ト) 反共法等違反日本人の釈放

 日本人3名は,韓国の国家保安法,反共法に違反し,無期懲役の判決を受け各々服役していたが,本件に関し日本政府は,弁護士の選任の斡旋,家族との面会斡旋等の便宜供与を行つてきたほか,外交ルートを通じ韓国側に対し,同人らが老齢であることにも鑑み人道的見地から,また日韓友好関係の見地からできる限り早期に釈放が実現されるよう特別の配慮を要望していた。12月24日韓国政府は,これら3名の日本人を刑の執行停止により釈放する措置をとつた。同人らは,12月27日帰国した。

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(3) 北朝鮮との関係

(イ) 通 商 関 係

 1976年の貿易については,北朝鮮の外貨事情を反映して前年に引き続き輸出は激減(9,600万ドル,前年比47%減)したが,輸入はやや持ち直し(7,200万ドル,前年比10%増),その結果わが国の出超は2,400万ドルと前年より9,100万ドルも減少した。なお,北朝鮮のわが国企業に対する債務の繰延べに関して,わが国民間代表団と北朝鮮との間で年末に合意が成立した。

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(ロ) 人 的 交 流

(a) 76年中の邦人の北朝鮮への渡航は,年間旅券発給数によれば587名で,74年の877名,75年の615名に比し減少している。また渡航目的別には,商用が約80%を占めている。

(b) また,同期間中の北朝鮮からの入国者数は94名で,74年の157名に比し減少しているが,75年の84名より多少増加している。

(c) 在日朝鮮人の再入国は,従来の北朝鮮への里帰りから,近年,スポーツ,学術,文化,商用,教育,祝典を目的とするものなどに,徐々に範囲が広まりつつあるが,76年は更に第3国で開催される各種国際会議への参加が増加している。

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3. 中国及びモンゴル

 

(1) 中  国

(イ) 中国の内外情勢

(a) 概  観

 1976年は中国にとつて激動の1年であつた。周恩来総理の死去(1月)に続く「走資派」批判運動の拡大,天安門事件とトウ小平副総理の失脚(4月),朱徳全人大会常務委員長の死去と河北地震の発生(7月),毛沢東主席の死去(9月),「4人組」の失脚と華国鋒の党主席就任(10月)等革命第1世代の相つぐ死去や政変,自然災害が続いた。10月に発足した華国鋒体制は,毛沢東路線の継承を明らかにするとともに,具体的政策の面においては,より現実的政策を打ち出し,77年を「大乱から大治に至る」年であるとしている。

 他方,対外関係においては,上記の如き内政面における激動にもかかわらず,従来からの「覇権主義反対」の基本路線は堅持され,ソ連を第1の敵とし,開発途上諸国との友好関係を重視し,同時に西側先進諸国との関係にも配慮するという基本政策に変化はみられなかつた。

 また,経済面においては,76年は第5次5カ年計画の初年度であつたが,中国の内政事情,地震等の災害の影響のため,やや不調であつたと伝えられている。対外貿易は世界的不況の影響もあつて,68年以来8年ぶりに若干の減少を記録したものとみられている。

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(b) 国内動向(内政)

 76年は,中国国内において国家的事件が相ついで発生した1年であり,中国側の表現によれば「なみなみならぬ年」であつた。

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(i) 周恩来総理の死去と「走資派」批判運動の拡大

 周恩来総理は76年1月8日,中国の革命と建設に捧げたその生涯を終えたが,周総理の死去を契機として,国内の政治キャンペーンは教育の分野から経済・科学技術の分野にまで拡大し,ついには「走資派」批判運動へと発展する情勢が看取された。

 こうした情勢の中で華国鋒副総理・公安部長(当時)が総理代行に就任している事実が判明(2月7日)するとともに,「走資派」とはトウ小平副総理(当時)を指すことがますます明らかとなつた。

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(ii) 天安門事件ととう小平氏の失脚

 上記の「走資派」批判運動が一層の高まりをみせていた4月5日,北京の天安門広場において,清明節における故周総理の追悼をめぐつての大規模な騒擾事件が発生した。同事件に対し,党中央は直ちにこれを「反革命事件」と断定し,民兵を動員して鎮圧に努めるとともに,同7日,(あ)毛主席の提議により,華国鋒を党第1副主席兼総理に任命し,(い)トウ小平を党内外のすべての職務から解任(ただし,党籍は留保)するとの2つの党中央決議を公表した。

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(iii) 朱徳委員長の死去と河北地震

 天安門事件以後,一部地方における混乱が伝えられていた中で,7月6日朱徳全人大会常務委委員長の死去が報ぜられた。ついで7月28日,河北省唐山市を中心に大地震が発生し(マグニチュード7.5と発表),同市から天津,北京一帯にかけて大きな被害をもたらすという災害が発生した。

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(iv) 毛沢東の死去と「4人組」の失脚

 9月9日,かねてから病状悪化が伝えられていた毛沢東中国共産党主席は,中国の歴史に不滅の足跡を残して82歳の生涯を閉じた。

 毛主席の死去後,党中央は団結を訴えていたが,毛主席死後間もない10月6日,王洪文,張春橋,江青,姚文元の4名の政治局員(いわゆる「4人組」)が「党権簒奪を図つた」かどで突然逮捕されるという事態が発生した。これに引き続き,華国鋒総理が党主席兼党軍事委主席に就任したことが明らかにされた。その後,「4人組」の追放と華総理の党主席就任を支持する祝賀集会が全国各地で開催された旨報じられた。

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(v) その後の趨勢

 10月以降中国の公式報道等は,「4人組」の「陰謀活動」,各方面に与えた「公私にわたる悪行」等を大々的に暴露し,彼らを批判すると同時に,これまで「4人組」に抑圧されてきたとされる周恩来,朱徳,陳毅,賀龍等の故元老たちを改めて肯定的にプレイ・アップしはじめた。

 この間,華体制は全人大会常務委第3回会議を開催し,トウ穎超夫人(周総理未亡人)を全人大会副委員長に任命し,また喬冠華外交部長を更迭して黄華国連大使を外交部長に迎えるなどの人事を決定した。さらに年末には第2回「農業は大寨に学ぶ全国会議」を開催し,同会議における華主席演説等を通じて,中国は本年を「天下大乱から大治に至る」年であると規定し,具体的には地方革命委員会の再建等着実に体制整備を図りつつ,経済建設に重点を置くとの現実的な政策・方針を明らかにした。

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(c) 外  交

(i) 対 米 関 係

 米中関係では,カーター新大統領などが上海コミュニケを基礎として米中関係を進めることを再確認したが,同時に,台湾の安全保障に留意するとの発言もみられた。

 他方,中国要人は,米中関係は上海コミュニケを基礎とすべきであり,米中正常化については台湾に関する条件(在台米軍撤退,米台条約破棄,台湾との断交)を堅持する,との従来の立場を繰り返し明らかにした。

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(ii) 対 ソ 関 係

 中ソ関係では,毛主席の死後ソ連側が対中批判を控え関係改善を呼びかけたのに対し,中国側はこれを「バカげた妄想,白昼夢」(11月李先念副総理演説)と非難し,従来どおりの対ソ批判を続けた。また76年11月末より国境交渉が再開されたが,ソ連側代表のイリチョフ次官は77年2月末帰国した。

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(iii) アジア大洋州関係

 (あ)北朝鮮との関係では,中朝友好油送管による送油開始や代表団の往来があつた。76年8月の板門店事件の際には北朝鮮と異なり中国の対米非難はなかつた。(い)インドシナ諸国との関係では,76年12月中国政府貿易代表団がカンボディアを訪問し援助議定書等に署名したが,ヴィエトナム労働党大会(12月)には中国共産党は代表を派遣せず,また,ラオス首相訪中(4月)の際にも共同声明を出さなかつた。(う)その他の東南アジア諸国との関係では,シンガポール首相が訪中した(5月)ほか,南沙群島におけるフィリピン等の石油採掘につき中国外交部スポークスマンが抗議声明を発表し(6月),インドネシアの東チモール併合(7月)についてはこれを非難する論評が出された。また,トウ穎超全人大会常務委副委員長がビルマを訪問(2月)した。(え)南西アジア諸国との関係では,インドとの間に大使交換が再開され(4月),パキスタン首相,ネパール国王(5,6月),バングラデシュ戒厳令執行官(77年1月)が訪中した。(お)大洋州諸国との関係ではニュー・ジーランド,豪州,パプア・ニューギニア各首相及び西サモア元首が訪中し,また同地域へのソ連の進出を批判する記事論評が発表された。

(iv) 中近東・アフリカ諸国との関係では,マダガスカル,ベナン,ボツワナ,中央アフリカ,タンザニアの元首クラスが訪中し,タンザン鉄道引渡し式に孫健副総理が出席したほか,対ソ友好協力条約を破棄したエジプトから副大統領が訪中した。

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(d) 経  済

(i) 76年は第5次5カ年計画の初年度にあたつたが,毛沢東主席,周恩来総理等要人の死去,「4人組」による妨害,河北地震,及び異常天候による自然災害等により経済活動はおおむね低調に推移したことが伝えられた。

他方,10月に発足した華国鋒政権は,「4人組」失脚後の「石炭工業部の『4人組』批判放送大会」(11月),「第2回全国大寨学習会議」(12月)等一連の会議などを通じて「4人組」批判のマス・キャンペーンを進めるとともに,75年の全国人民代表大会で故周恩来総理が政治報告の中で提唱した「4つの近代化」(農業,工業,国防,科学技術の近代化)の方針を前面に押し出すなど生産重視の方針を明らかにした。例えば農業面では,大寨型県の建設,農業機械化推進の方針が確認されており,工業面では,懸案となつていた

全国工業大慶学習会議の開催を決め,再び合理的な規則制度の確立,品質向上等が強調された。

(ii) 76年の生産についての資料は乏しいが,農業生産中の穀物生産高については,「史上最高の水準に達した」と発表されてはいるものの,自然災害等の影響のため75年に比し2%程度の伸びに止まつたものと推計する向きもある。

 工業生産については,76年上半期において前年同期比7%増と報ぜられたが,7月の河北地震の影響により76年下半期の工業生産はやや減退したものとみられている。したがつて,76年1年間を通じての工業生産の伸びは,75年の伸び(11%)には及ばなかつたものと一般にみられている。

 産業別の動向については原油の生産高が前年比13%増,石炭が4.27%増,電力が11%増と発表されているが,鉄鋼生産については,前年に比べ若干減少したとみる向きもある。

(iii) 対外貿易も68年以来8年ぶりに減少したものとみられており,貿易総額で137億米ドルと前年比2.8%減,うち,中国の輸出は約1%増,輸入は6%減とみられている。他方,73年以来の入超が是正され,9,000万米ドル程度の出超を記録する模様である。

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(ロ) わが国との関係

(a) 各種実務協定の履行

(i) 漁業共同委員会の開催

 75年12月22日に発効した日中漁業協定の第6条に基づき,日中漁業共同委員会第1回年次会議(毎年1回開催)は,76年6月15日から3日間北京において開催された。同会議には日中両国の政府委員が出席し,協定発効後の協定の実施状況について検討するとともに,協定水域内の漁業資源の一般的状況についての意見交換が行われるなど,同会議は今後の協定の円滑な実施に役立つ成果を挙げた。

 なお同共同委員会の第2回会議は,77年10月から12月の間の適当な時期に,東京において開催される予定である。

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(ii) 海 運 協 定

 両国政府は,日中海運に関する民間協議団体がそれぞれの国に設立され,かつ,右団体の代表連絡事務所が相互に設置されることが有益であると認め,右に関連して両国政府がとる措置に関する取極を締結すべく,75年9月以来北京にて交渉を行つてきたが,76年8月25日,東京において,中江アジア局長と張交通部遠洋運輸局長との間で,本件に関する書簡が交換された。

 本取極によつて,日中海運協定に基づく具体的な体制作りの第一歩が踏み出されたわけであり,今後上記民間団体同志のチャネルを通じて,両国海運の実務上の諸問題につき密接な協議が行われることとなつた。

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(b) 日中経済関係

 76年の日中貿易は総額30億3,300万米ドル(前年比20%減)と8年ぶりに減少した。これは,76年のわが国を含む世界的な経済不況,中国の政情及び自然災害等の影響によるものとみられる。わが国の輸出は16億6,300万米ドル(前年比26.4%減),輸入は13億7,100万米ドル(10.5%減)であつた。輸入に比し輸出の鈍化が大きく,わが国の出超は75年の7億2,800万米ドルから76年には2億9,200万米ドルへと大幅に減少した。

 わが国の輸出を商品別にみると化学製品が2億500万米ドル(前年比54.9%減),機械機器が3億9,600万米ドル(前年比43.2%減)となつた反面,鉄鋼は8億2,400万米ドルと前年比3.7%増となり,数量では347.9万トンと前年を23.7%も上回り,わが国の対中国鉄鋼輸出において史上最高となつた。また,プラントの新規契約は4件,約1億3,600万米ドルに達した。他方,わが国の輸入をみると,その減少は,原油輸入減によるところが大きく,75年の7億4,000万米ドル(914万KL)から76年には5億6,600万米ドル(701万KL)へとそれぞれ23%余減少している。

 経済関係のミョションの往来は前年を上回つた(75年120団体,76年124団体)。また天津市主催の神戸中国展の開催(3~4月),大阪国際見本市への中国の初参加(4月),及び北京での日本国貿促主催の環境保護油圧空気圧工業技術展の開催(10月)等,両国の経済交流は活発に進められた。

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(c) 日中平和友好条約

 日中共同声明第8項において,その締結のための交渉が謳われている平和友好条約は,「日中間の平和友好関係を強固にし,発展させるため」(共同声明第8項)に締結されるものである。すなわち,本条約は,将来にわたり,日中両国間の平和友好関係を律する原則を定めるものであつて,この点については,日中両国間で基本的な合意が成立している。

 両政府間の本条約に関する話合いは,74年11月韓念龍中国外交部副部長が来日した際に開始されたが,以後東京及び北京において外交チャネルを通じて交渉が続けられており,更に75年9月末にはニューヨークにおいて国連総会出席中の宮澤外務大臣と喬冠華外交部長との間で,本件に関する初の外相レベルでの会談が行われたほか,76年10月初旬には再びニューヨークにおいて小坂外務大臣と喬部長との間で本件に関する意見交換が行われた。かかる両国政府間の接触によつて,双方の理解が深められるとともに,両国政府とも本条約交渉の早期妥結に対し強い熱意を有していることが確認されている。

 現在のところ,両国政府は,従来の交渉経緯を踏まえつつ,日中間の永遠の平和友好関係の基礎となるべき本条約が,日中双方にとつて満足のいくような形で,できるだけ速やかに締結されるよう,引き続き努力を重ねている。

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(d) 人的往来及び文化等の交流

 76年の日中間の人的往来については,訪中した日本人数は1万8,825名と前年に比べ11%の伸びを示し,また来日した中国人数は4,018名となり前年度(4,441名で対74年比41%増)に比べ若干減少してはいるが,国交正常化以来両国間の人的交流は着実に緊密化の度を加えている。

 これらの人的交流は政府,各政党,経済・貿易の各分野から学術文化,科学技術,スポーツ及び一般的な友好交流の諸団体に及んでおり,団体件数別にみると訪中件数219件(前年度170件),来日件数33件(前年度31件)を数える。このうち文化,スポーツ等の交流としては,日本から書道,音楽,作家,体操,野球,卓球,サッカー等の代表団が訪中している。

 これに対し中国からは,バスケット,マラソン,バレー,卓球,重量挙げ,射撃等のスポーツ代表団が来日したほか,わが国において中国古代青銅器展(3~8月),中国魯迅展(10月~77年2月)が開催され,中国上海京劇団の公演(6月)が行われた。

 なお73年から始つた政府の援護による中国からの邦人の引揚げ,里帰りは順調に行われており,76年度の1年間で,引揚者281名(前年度390名),里帰者は791名(前年度1,562名)となつている。

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(e) 日中間海底ケーブルの開通

 日中間海底ケーブルは日本側熊本県苓北町白木尾と中国側上海市南ワイを結ぶ全長約875kmのものであり,75年10月25日開通した。同海底ケーブルは国交正常化を機として,日中間通信の改善,強化のため建設の話合いが始り,73年5月「日本国郵政省と中華人民共和国電信総局との日本・中国間海底ケーブル建設に関する取極」が署名され,同取極に基づき建設担当者間で敷設工事が進められてきたものである。

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(2) モ ン ゴ ル

(イ) 内 外 情 勢

(a) 内  政

 1976年6月14日から18日までの間,第17回モンゴル人民革命党大会が5年ぶりに開催されたが,同大会ではツェデンバルが党第1書記に再選され,76年も引き続きツェデンバル体制に揺ぎはみられなかつた。ただ,ルブサン党政治局員が解任され(後任にラグチャー政治局員候補が昇格),またチミドドルジ党中央委書記が解任されるなど党内人事には若干の異動がみられた。また同じく第17回党大会において,第6次5カ年計画(76~80年)の党指令草案が採択されたが,これは12月に開催された人民大会議において国家計画として採択された。

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(b) 外  交

 77年3月1日現在モンゴルと外交関係を有する国は81カ国となつた。各国との関係についてみると,モンゴルは76年も引き続きソ連を積極的に支持する外交政策をとつており,1月にはソ蒙友好協力相互援助条約30周年の祝賀行事が行われ,2月にはツェデンバル党第1書記がソ連党大会に出席し,5月には両国間の76~80年間経済協力協定が調印された。また10月16日より24日まで,ツェデンバルを団長とする党政府代表団が訪ソし,同19日両国間国境条約及び両国間の全面的協力を更に拡大し深めることに関する諸文書に調印する等,両国関係は従来にも増して密接となつている。他方中国との関係では,76年前半にはウネン等のモンゴル紙誌に中国非難記事が多数みられたが,毛沢東主席死去後,非難記事は停止されている。

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(c) 経  済

 経済面では,前述のとおり第6次5カ年計画(76~80年)が採択されたが,同計画では社会総生産を44.8%,国民所得を41.9%,工業総生産を62.9%,農牧業生産を年平均30%,1人当り実質収入を16.5%それぞれ増加させることを目標に掲げている。他方76年の経済については,春先及び秋期の悪天候により,農牧業が不振で計画未達成であつたが,工業生産は計画(7.3%増)を超過達成した旨が報じられている。

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(ロ) わが国との関係

 わが国とモンゴルとの関係は,72年の外交関係樹立以来順調に発展しているが,76年においても文化・経済協力,人的交流等各方面での進展がみられた。

 まず文化交流の面では,74年9月に結ばれた文化取極に基づき,共同学術調査,留学生の相互派遣,日本語教師の派遣,映画会の相互開催等が行われ,更に77年2~3月にはホンジャブ・モンゴル外務省文化局長が来日してわが国関係者と両国間の文化交流に関して意見交換が行われた。

 また,懸案となつてきた経済協力については,77年3月17日わが国政府からモンゴル政府に対し,カシミヤ及びラクダの毛の加工工場の建設のため4年間にわたつて50億円を無償供与することを内容とする経済協力協定がウランバートルで署名されたことが特筆される。

 更に人的交流についても77年2月わが国衆参両院議長の招待によりツエデンダムバイン・ゴトブ氏を代表とするモンゴル人民大会議議員団がわが国を訪れ日モ親善に多大の貢献をなした。

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4. ASEAN5カ国及びビルマ

 

(1) タ  イ

(イ)内 外 情 勢

(a) 内  政

 1976年のタイ政局は1月12日ククリット首相による議会解散に始まつた。4月の総選挙では保守中道派の民主党が圧勝し,同党を中心とするセニー連立内閣は279議席中206議席の圧倒的多数を制したので,安定した政権になるものと期待された。しかし,セニー首相は指導力に欠け,またこの間国内的には左派学生,一部労働者などの革新勢力が伸張し,対外的にはインドシナ諸国の共産化,米軍撤退などの情勢変化が進んだことから,軍の内部にタイの将来についての危機感が醸成されてきた。9月のタノム元首相の帰国をめぐつて左右両派の対立が激化する中にあつて,10月6日サガット国防相を議長とする国政改革評議会(軍部)によるクーデターが行われ,3年間にわたるタイの議会制民主主義は崩れ去つた。

 改革評議会は,クーデター後2週間で新憲法を制定し,同日ターニン最高裁判事を首相とする文民内閣が発足した。更に11月には340名の官選議員よりなる改革議会が発足した。

 新内閣は,国家及び国民の平和と安寧の確保並びに物価抑制による国民生活の安定の2点を緊急政策としたほか,共産主義の脅威の除去,治安の回復,汚職の追放などの諸政策を打ち出した。

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(b) 外  交

 ククリット,セニー内閣は共産圏を含むあらゆる国との友好関係の確立を目指したが,ターニン新内閣は反共色を強く打ち出し,当面ASEAN及び米国,日本など自由主義諸国との関係強化に重点を置いている。

 76年7月,駐タイ米軍は軍事顧問団263名を除く一切の軍事施設及び軍事要員の撤退を完了した。

 76年8月,ピチャイ外相はラオス,ヴィエトナムを訪問し,その結果8月6日タイ・ヴィエトナム共同声明により両国間の外交関係が樹立され,また8月3日のタイ・ラオス共同声明により両国間の関係改善が達成された。しかし,10月のタイ政変により,その後の関係正常化の動きは停滞した。

 カンボディアとは変則的ながらも両国の国境連絡事務所を通じる対話のチャネルが機能しており,ときおり生じる偶発的事件も話合いにより処理された。

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(c) 経 済 情 勢

 76年のタイ経済の実質成長率は6.2%と推定され,ゆるやかながら回復し始めた。

 76年の農業生産は,東北地方を中心とする旱魃など天候に十分恵まれなかつたこともあつて,75年に比べやや不振であつたが,工業生産はおおむね好調で,76年には前年比7%以上の成長となつた模様である。

 消費者物価上昇率は,74年の23.3%から75年の4.1%へと低下していたが,76年に入ると再び高くなり始め同年中は5%程度の上昇率となつた。

 76年のタイの貿易は,輸出が好調であつた一方,輸入は横ばい状況で推移したため貿易収支赤字は大幅に縮小した。このため,総合国際収支も赤字幅が縮小され,外貨準備高は75年末13.7億ドルから76年末には14.8億ドルまで増加した。

 75年に激減した外国投資は76年に入りやや改善の兆しをみせたものの,全体としては盛上りに欠けていた。

 76年12月,タイ政府は第4次経済社会開発5カ年計画(76年10月~81年9月)を決定した。計画では所得格差を始めとする経済社会的な格差を縮めるため,農村,周辺部における開発を促進することとしている。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

 従来よりわが国の大幅な出超が続いていた日・タイ貿易は,近年改善傾向を示しつつあり,76年においても対日輸出額が8.48億ドルと対前年比17.2%の伸びを示した一方,輸入は10.70億ドルと同11.6%増に止まつたため,タイの対日入超額は2.23億ドルと若干の改善をみた。

 68年に設立された日・タイ貿易合同委員会の第8回会議は,76年7月14日より16日まで東京において開催され,両国間の貿易不均衡是正策について話合いが行われた。

 76年のわが国の対タイ投資は,前年に引き続き不振であつた。しかし,投資額累計は投資委員会認可ベース約7.6億ドル(76年8月末現在)に達し,外資中37.6%を占め,依然として2位(米国,15.4%)以下を大きく引き離して首位にある。

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(b) 経済協力関係

 第4次5カ年計画に対する円借款供与については,76年5月タイ側ミッションの訪日,76年9月わが方ミッションの訪タイがあり,両国間で意見交換が行われた。

 無償援助協力関係では,総額9.5億円を供与したモンクット王立工科大学新校舎の落成式が,76年6月国王・王妃両陛下を迎えて行われた。また76年9月口蹄疫ワクチン製造センター第2期工事(総工費9億円)に関する書簡交換が行われた。

 76年中の技術協力の実績は,調査団の派遣34件155名,専門家派遣24件130名,研修員受入れ188名,機材供与61件,金額にして約2.3億円にのぼつた。

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(2) インドネシア

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政 治 情 勢

(i) 1976年におけるインドネシアの内政は,77年5月2日に予定されている総選挙をめぐつて推移した。政府は,国軍及び与党たるゴルカール(職能グループ)の支持を得て,前年に発生したプルタミナ(石油・ガス公社)債務問題,東チモール問題等同国内外の政治経済情勢に大きな関わりのある問題を処理しつつ,きたるべき総選挙において有利な立場を築くため,種々の施策を展開した。他方,野党たる開発連合党(PPP)及びインドネシア民主党(PDI)は,それぞれ党内体制を固める努力を行いつつ,政府の施策に対して,官民のモラルの向上,開発の成果の国民全体への均霑,雇用の拡大等を求めて,論陣を張つた。この過程で,サウィト事件(政府転覆陰謀事件),メダンにおける爆破事件(回教徒とキリスト教徒間の紛争)等の不穏事件,新聞等言論機関及び政府外有力者等による政府批判等があつた。しかし,国内の全般的情勢は総じて平穏に推移した。

(ii) 外交面では,76年2月に,パリにおいて,初のASEAN首脳会議が開催され,以後ASEANの各種閣僚レベル会議の開催並びにASEAN諸国首脳及び閣僚の相互訪問等が続いた。その中で,インドネシアの外交もASEANを中心に行われ,ASEAN事務総局をジャカルタに設置するほか,インドネシアのダルソノ中将が同事務総局の初代事務総長に任命されるなど,インドネシアがASEANの中で重要な地位を占めることが明らかとなつた。更に,インドネシアは,わが国とASEANとの間の対話の窓口となり,この面でも重要な役割を果すこととなつた。

 東チモール問題については,75年12月に親インドネシア派により樹立された東チモール臨時政府が,76年5月末に住民代表会議を開き,インドネシアとの合併を全会一致で決議し,同6月には,インドネシア政府に対し,その旨の請願を行つた。同政府はこれを受け,7月17日同国国内法を成立させ,東チモールをインドネシア領とし,同国27番目の州とした。しかし,ポルトガルはこれを認めておらず,また国連においても,東チモール問題は引き続き係属中となつている。

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(b) 経 済 情 勢

(i) 75年の輸出不振

 外国投資の落込み,プルタミナ債務問題等により,75年末の外貨準備は4億9,000万ドルに落ち込んだ。インドネシア政府は,76年4月より輸出税の減免,輸出業者に対する金融上の優遇措置,船賃,港湾料金の引下げ等の輸出振興策をとつた。この措置と世界的に景気が幾分上向いたこともあつて,76年には,非石油輸出は,25億3,700万ドル,石油輸出は,60億3,000万ドルとなり,前年を大きく上回つた。この結果,総合収支でも7億3,200万ドルの黒字(前年は,9億8,200万ドルの赤字)となり,76年末の外貨準備は,12億2,200万ドルとなつた。

(ii) 76年の石油生産は,前年を15%上回る5億5,100万バーレルとなつた。またこの年には,インドネシア政府は,プルタミナ外国石油会社との間の請負及び生産分与契約両方の内容をインドネシア側に有利な方向に改訂し,石油収入の増大を図るなど,資源ナショナリズムを主張する態度もみられた。同政府は,76年5月のパリOPEC総会では,石油価格の据置きに努力したが,同年12月のドーハ総会では,10%引上げグループに加わり,77年1月より平均7%価格引上げを行つた。

 76年度の米作については,旱魃,虫害などになり,生産量は,目標の1,650万トンを下回る1,560万トンとなつた。インドネシア政府は,総選挙を控えて,米価を安定させる必要から,諸外国に食糧援助を要請するとともに,米の商業輸入を行つた。

 鉱工業生産については,若干景気が上向いたこともあり,前年を幾分上回つた。

(iii) 物価は,金融引締め政策が維持され,また基礎的生活物資の価格抑制策がとられたことから,年間14.2%と,最近の数年間に比較して低率の上昇率となつた。

(iii) 外国援助の面では,76年6月のIGGI(Inter-Governmental Group on Indonesia)会議において,インドネシア政府は76年度分として34億ドル(プルタミナ関係を含む。うち国際機関及びIGGI諸国から14億ドル)の外国からの資金需要があるとして,援助要請を行つた。これに対し,世銀,アジア開発銀行等国際機関が約7億ドル,IGGI参加各国が合計約4.5億ドル程度のプレッジを行つた。また,セミ・ソフトローン(輸出信用)の取り入れ額は,合計約15億ドルに達した。また同国は,東欧諸国及び中東産油諸国からの援助取り入れにも努力している。

(iv) インドネシアへの直接投資は,76年においても前年に引き続き著しい落ち込みを示し,70年以来最低となつた。この理由としては,世界的に景気が低迷していること,急速なインドネシアニゼーションの懸念があること等のため,投資先としての不安があること並びに主な業種がほぼ一巡したこと等が挙げられる。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

(i) 76年の日本の対インドネシア貿易は,日本の輸出16億3,900万ドル,輸入40億9,100万ドルとなつている。前年に比較すると,日本の輸出は,化学製品,繊維,金属製品などを中心に減少し,11%減となつた。他方,日本の輸入は,石油及び非石油(特にゴム,木材,コーヒーなど)の輸入が著増した結果,19%増となつた。

(ii) 76年中のわが国の対インドネシア民間投資は,従来に比してかなりの落込みを示し,7件,4,000万米ドル(許可ベース)にとどまつたが,76年末現在の累計(67年以来)では,208件,25億6,800万ドルで,引き続き第1位の座を占めている(第2位の米国は131件,10億1,500万米ドル)。

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(b) 経済技術協力関係

(i) 76年6月のIGGI会議で,わが国は76年度分新規援助として,410億円の円借款供与を約束し,IGGI諸国中,米国とともに最大の援助国となつている。

(ii) 無償援助の面では,漁業訓練船等を供与するため,76年4月の交換公文に基づき,6億円を限度とする無償資金協力を行い,また動力研究所に機材等を供与するため,同年12月の交換公文に基づき,2億円を限度とする無償資金協力を行つた。

(iii) 技術協力については,わが国は76年中に658名の研修員を受け入れ,207名の専門家派遣を行つたほか,各種の分野において調査団を派遣した。また,機材供与として,約5億円相当の技術協力に係る各種機材を供与した。また,国際協力事業団の開発投融資事業として,76年中に,農業・林業・鉱工業関係の9件に対し,合計約11億円の貸付けが行われた。

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(c) 要 人 往 来

 76年中も,両国間の往来は活発であつた。特に,76年10月にウィジョヨ国家開発企画庁長官,また12月に,マリク外務大臣が訪日し,わが国政府関係者と広汎な意見交換を行つたことが注目される。

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(3) マレイシア

(イ) 政治・経済情勢

(a) 1976年1月,ラザク首相の急逝により政権を引き継いだフセイン首相は,種々の困難に直面しつつも,全体としては安定化の方向に政局を導いたといえる。中央政界で,フセイン首相の対抗馬としてマレイ人青年層の支持を受けているハルン前スランゴール州首席大臣は,一度は与党統一マレイ国民組織(UMNO)を追放されたが,76年10月,青年部の後押しにより復党し,フセイン首相にとつての不安要因は消えていない。また,同年6月マレイシア有力紙の編集局長の国内治安法違反のかどによる逮捕は,フセイン首相側近の取調べにまで波及した。他方このような試練にもかかわらず,フセイン首相は,3月にマハディール教育相を副首相に抜擢し,7月にはUMNOの年次総会を乗り切る等の手腕をみせ,地方政界においても,ムスタファ元サバ州首席大臣が政界を引退する等,対立要因の緩和も進んだ。

(b) 治安面では,特にタイとの国境において共産ゲリラ活動が続いたが,前年に比し,事件数及び死傷者数が減少し,また隣組制度の徹底等官民を挙げての治安体制整備も進みマレイシアの治安情勢は,一般的に改善された。しかし,反政府ゲリラの活動が停止したわけではなく,政府のゲリラ対策もタイとの国境共同作戦の実施等強化されつつある。

(c) 76年のマレイシア経済は,木材,ゴム等の一次産品及び石油の好調な輸出の伸びに支えられ,2年続きの停滞を脱し,国民総生産は実質7.8%の成長率を達成したとみられるが,民間投資の伸びは実質3.0%と依然として緩慢な伸びに止まつた。76年からは,貧困の撲滅と人種間格差の是正を基本目標とする第3次マレイシア計画(~80年)が実施に移された。同計画では,実質成長率8.5%を目標とし,前計画期の7.4%に比べて意欲的な成長を見込んでいる。

(d) フセイン首相は,76年1月,フィリピンを除くASEAN諸国を歴訪し,また,2月のASEAN首脳会議にも積極的に参加し,各国首脳との意志疎通を図るなど,故ラザク首相時代に引き続き,ASEAN協力外交を積極的に展開した。

 76年8月の第5回非同盟諸国首脳会議において,マレイシアの推進する東南アジア中立地帯構想をめぐり,インドシナ諸国との間に不協和音が聞かれたが,2国間関係では,7月,ヴィエトナム外務次官の訪マ,11月,マレイシアの駐ヴィエトナム大使派遣などの交流があつた。

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(ロ) わが国との関係

(a) 貿 易 関 係

 76年のわが国の対マレイシア輸出は,7億400万米ドル,輸入は13億6,200万米ドルで,前年比で輸出は24%,輸入は97%の増加を示した。輸入の増加は,マレイシアの主要輸出産品である木材,原油,すず地金の顕著な伸びによるものである。マレイシアの総輸出入に占める日本の割合は,輸出14%及び輸入20%で,前年と大差なく,また,国別順位は,輸出が前年の2位から3位に下がり,輸入は前年同様1位を維持したとみられる。

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(b) 経済・技術協力

(i) 74年8月に署名された第3次円借款供与に関する交換公文に基づき,76年には,クラン港コンテナ・クレーン増設事業等に関するローン・アグリーメントが締結された。

(ii) 対マレイシア技術協力としては,76年において研修員395名の受入れ,専門家182名の派遣及び海外青年協力隊64名の派遣が行われた。

 その他,船舶機関士養成計画の協力継続,石油産業開発調査,ペナン下水道計画調査等が着手された。

(iii) わが国の対マレイシア民間投資は,76年3月末現在,許可残高ベースで合計419件,3億200万米ドルに上つており,マレイシアの外資導入政策にほぼ沿つた形で,製造業を中心として,鉱業,建設業等多岐にわたつて進出している。

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(c) 要 人 往 来

 76年7月,マハディール副首相兼教育相が非公式に訪日し,永井文部大臣(当時)と会談したほか,11月にはリタウディン外相が非公式に訪日,小坂外務大臣(当時)と会談を行つた。

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(4) フィリピン

(イ) 政治・経済情勢

(a) マルコス大統領は,1972年9月の戒厳令布告以降,治安の回復,経済実績の改善,汚職の追放等の諸改革についてかなりの成果を挙げてきたが,76年10月に4回目の国民投票を実施し,再び圧倒的な支持を得た。今回の勝利により,戒厳令体制継続に対する国民の支持(90%)が再確認され,更に,憲法を改正して,反マルコス派の主張する暫定国民議会の召集に代えて暫定立法議会を創設すること(賛成88%)に成功した。

 この結果,マルコス体制の国内的政治基盤は,一層堅固なものになつた。

(b) 国内の反政府活動は依然として続いており,特に,モロ民族解放戦線(MNLF)及び新人民軍(NPA)と政府軍との武力衝突は,76年においても続発した。

 南部回教徒問題については,イメルダ・マルコス大統領夫人が11月にリビアを公式訪問し,カダフィ・リビア革命評議会議長と会談した結果,同議長の仲介で,フィリピン政府とMNLFの和平会談が行われることとなつた。この和平会談は,12月15日からトリポリで開催され,その結果12月23日南部回教徒住民地域への自治権付与,停戦実施等についての原則的合意が成立した。

(c) 外交面ではASEAN外交の強力な展開が目立つたほか,76年2月にUNCTAD準備G77閣僚会議をマニラに招致し,また,5月の第4回UNCTADにマルコス大統領自身が出席するなど,南北問題に関する積極的な活動が著しかつた。対共産圏外交では,6月のマルコス大統領の訪ソにより,ソ連との間で国交が樹立された。この他,ヴィエトナムとの間でも外交関係を樹立した。

 対米関係では,軍事基地及び通商に関する2つの協定交渉が断続的に行なわれたが,新通商協定の交渉については,特に進展がみられなかつた模様である。基地交渉については,フィリピンは従来より在比米軍基地に対するフィリピンの主権を一層明確に認めるべきことを主張して交渉に臨んでおり,ワシントン及びマニラで行われた交渉では,両国の立場が最終的な段階でくい違い,合意に達していない。

(d) 76年の経済は,内外の困難な情勢にもかかわらず,GNPの実質成長率は,前年をわずかに上回る6.3%(推計)を示し,また,物価上昇率も年率6%程度に抑えることに成功した。しかし,対外部門では,前年に引き続き大幅な貿易収支の赤字(8.8億ドル)を記録したほか,対外債務が著増し55億ドルに達した。なお,外貨準備の水準は維持され,76年末には,11億ドル前後になつた。

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(ロ) わが国との関係

(a) 友好通商航海条約

 76年6月比政府はわが国に対し,現行の友好通商航海条約の終了予告を行うとともに,現行条約署名(1960年)後の国際政治・経済情勢の変化を踏まえ,現在の状況を反映した新しい条約を作成したい旨提案してきた。その後両国間で協議した結果,とりあえず終了予告による現行条約の失効期限(77年1月26日)を1年間延期し,その間更に両国間で話し合つてゆくこととなつた。

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(b) 経 済 関 係

(i) 76年におけるわが国の対比輸出は,11億1,400万ドル(対前年比108.5%)と一応の伸びを示したが,輸入は,砂糖の輸入減,木材,銅精鉱の価格低迷等により,7億9,300万ドル(対前年比70.7%)と大きく後退した。主要輸出品目は,機械機器,金属品,輸送機械,化学品,繊維品等,主要輸入品目は,金属原料,木材,バナナ,ココナッツ油等である。

(ii) わが国の対比民間直接投資許可累計額は,76年3月現在,3億3,900万ドルであつた。これは75年3月末に比べ78%の増であり,ASEAN諸国中でもインドネシアに次ぐ水準となつた。

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(c) 経済・技術協力関係

(i) 56年に締結された賠償協定(総額5億5,000万ドル,20年支払い)に基づく賠償供与は76年7月に完了した。また77年に入り(1月),KR援助として,120万ドル相当のタイ米の贈与を決定した。一方円借款については,76年6月,第5次円借款として総額233億円をプレッジし,同年9月そのうちの50億円の商品援助について,また77年3月には残金の183億円のプロジェクト援助につき交換公文の署名を行つた。

(ii) 技術協力については,76年に373名の研修員を受け入れ,295名の専門家及び109名の青年協力隊員を派遣した。

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(d) 要 人 往 来

 76年6月,イメルダ・マルコス大統領夫人が非公式に,また,同9月には,ロムロ外務長官が公式に,それぞれわが国を訪問した。また,76年1月,カリラヤ戦没者慰霊園(日本庭園)のフィリピン政府への贈呈式には,岸元首相等が参列した。

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(5) シンガポール

(イ) 政治経済情勢

(a) 1976年のシンガポール内政の焦点は12月の総選挙であつた。この選挙で,与党人民行動党は72%の得票率により全議席を獲得した。これは,人民行動党政権がこれまで達成した経済発展を国民が評価し,さらに今後に期待したためとみられる。

(b) リー・クアン・ユー政権は,従来からマラヤ共産党による政府転覆計画に対し,強い警戒心を抱き,共産党活動家の取締りを行つてきている。

(c) 外交面では,シンガポールは,非同盟政策を維持するとともに,大国間の多角的バランスの上に立つて,近隣諸国との友好関係を深めることを,対外政策の基本としている。76年の特記すべき外交関係の事項としては,ロックフェラー米副大統領の訪シ(3月),ラジャラトナム外相の訪ソ(4月),リー首相の訪中(5月)等が挙げられる。他方対ASEAN関係についても,2月のASEAN首脳会議への参加を初めとして,積極的な外交活動をみせた。特に年末には,11月のインドネシアのスハルト大統領及びタイのターニン首相の訪シ,12月のリー首相のマレイシア訪問等,頻繁な首脳間交流が行われ,経済協力,貿易の促進,反政府ゲリラの浸透阻止,域外国との協力問題等が話し合われた。

(d) 72年石油危機以来不況にあつたシンガポール経済も76年には実質成長率7%までに回復した。しかし76年末に近づくにつれて,世界の景気回復の遅れ,12月の原油再値上げ等により,再び景気の先行きに 対する気迷いが抬頭してきた。76年のシンガポールの主な経済指標は次のとおり。

 消費者物価指数2%下落(年間),失業率4.5%,製造業実質10%増,貿易21%増,アジア・ドル173億5,000万米ドル

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(ロ) わが国との関係

(a) 日・シ両国の関係は,76年も一般的に良好に推移した。リー首相の対日関心も依然強く,「シ」国民は国造りにあたり,日本の発展の歴史を範とすべきであるとの発言を累々行つている。

(b) マラッカ海峡問題

 自由貿易,自由海運を国是とするシンガポールはマラッカ海峡通航問題でも,沿岸3国の中でわが国に最も近い立場をとつてきた。しかし,同時に隣国マレイシア及びインドネシアとの関係も無視しえず,12月の高級官吏会合では,UKC(船底から海底までの間隔)3.5mを含む航行規制案に賛成したと伝えられる。

(c) 経済関係

(i) 76年6月末現在,わが国の対シ投資は,米国,英国に次いで第3位にあり,そのシェアは14.4%,投資残高は2億800万米ドルである。75年1月シンガポール政府と住友化学との間で基本契約が結ばれた石油化学プロジェクトは,「シ」独立以来の最大の産業プロジェクトとして,「シ」はその早期実現を待望している。

(ii) 貿易関係

 シンガポールにとつて日本は,マレイシア,米国に次いで第3の貿易相手国である(76年の対日貿易額21億7,800万米ドル)。76年の両国間貿易は75年に比べ,輸出入とも好調に推移し,特に,対日輸出の増加が目覚ましかつた。同年の対日貿易バランスは,2.2:1で日本の出超である。

(iii) 技術協力については,76年において,研修員受入れ223人,専門家派遣66人,海外青年協力隊派遣0人である。

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(6) ビ ル マ

(イ) 政治・経済情勢

(a) 民政移管後3年目を迎えたビルマの政治体制は,1976年を通じ一応順調に推移し,定着する傾向をみせた。しかし,前年に引き続く国民の生活水準の停滞及び国内経済不振の結果,経済的困難克服のための施策の実施が急務となつた。

 他方,76年7月軍部内で発覚したクーデター未遂事件は,現政権に大きな衝撃を与えたといわれる。

 ネ・ウィン大統領は事態の深刻さを認め,10月のビルマ社会主義計画党臨時党大会で,党はそのイデオロギーをたえず批判的な目で見ながら,情勢の変化等を踏まえつつ,より完全なものへと作り変えなければならない旨強調するとともに,党の基本綱領の改正,経済困難の打開及び党員の綱紀粛正等につき,抜本的対策を行うべき旨主張した。

 治安面では,74年12月以来のラングーン管区戒厳令が9月に解除され,10月には大学が再開されるなど,都市の治安はおおむね改善の方向へ向かつた。しかし,辺境地区では反政府分子の活動が依然衰えていない。特に,ビルマ共産党反乱軍の活動は,外国勢力の支援を受け,執拗であるといわれている。

(b) ビルマの外交は非同盟・厳正中立を基調としつつも,内外情勢の変化に従い,漸次対外積極化政策を打ち出してきている。76年においてはカンボディア,メキシコ,モーリタニア,キューバ及びアルバニアと各々外交関係を樹立し,東西両陣営のいずれにも偏しない形でその外交を展開している。なお,8月のコロンボにおける非同盟諸国首脳会議にセイン・ウィン首相がビルマから初めて出席した。

(c) 76年においては,前年に引き続く好調な農業生産,物資流通面における若干の改善,外国からの大規模な援助導入の可能性等若干の明るい材料も出てきたが,全体としては,依然恒常的な経済停滞と直面する経済困難の克服が,ビルマ政府にとつての最大の課題となつている。かかる観点より租税制度の改革,価格政策等の見直し及び国営企業の経営合理化等一連の経済改革が行われるとともに,これまでの経済20カ年計画とは別に,開発5カ年計画(1977/78-1981/82)を策定し,従来強調された「生産拡大」のスローガンをさらに一歩進めて「投資拡大」とし,国内に存するすべての経済力を動員するとの方針を明らかにした。

 76年の対外経済面での最大の出来事は,わが国はじめ欧米主要先進国,ビルマ及び国際機関からなる対ビルマ援助国協議グループが,11月に東京で開催された第1回会議をもつて正式に発足したことである。この会議において,ビルマ側は上記開発5カ年計画を提示し,外国からの援助強化を必要とする旨強調した。これに対し,同協議グループ側は,民間投資等を重視した経済運営の重要性につき勧告するとともに,今後の対ビルマ援助の必要性につき理解ある姿勢を示した。

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(ロ) わが国との関係

 わが国との関係は諸分野において円滑に推移した。特に,上記協議グループ会議の開催や,右会議開催を機会に行われた,ウ・ルウィン副首相等ビルマ政府閣僚の訪日により,両国首脳の相互理解が一層増進された。

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(a) 貿 易 関 係

 76年も引き続きわが国の出超となり,わが国からの輸出総額は6,657万ドル,輸入総額は2,740万ドルであつた。輸出は機械,金属,繊維が中心で,輸入は木材,豆類,鉱物が大部分である。

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(b) 経済・技術協力関係

(i) わが国が63年に締結したビルマとの経済・技術協力協定に基づく協力の76年末現在の支払済額は,1億3,690万ドルで履行率97.8%である。

(ii) わが国は76年に一般無償援助として,電話回線網システムの供与(約6億円相当)を行つた。

(iii) 有償資金協力としては,わが国はマン製油所建設に対する借款供与を含め,69年以来9件の円借款を供与した。

(iv) 技術協力の分野では,76年にわが国から87名の専門家(調査団を含む)を派遣し,また,ビルマから農林,建設,厚生,工業等の研修員71名を受け入れた。

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(c) 投 資 実 績

 62年3月の現ネ・ウィン政権成立直後に発表された「社会主義へのビルマの道」と題する政策基本方針で,基本的生産手段の国有化の必要性が指摘されて以来,外国企業の投資活動は一切認められておらず,わが国の投資実績もない。

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5. インドシナ半島 

 

(1) ヴィエトナム

(イ) 概  論

(a) 内  政

(i) 南北ヴィエトナムの統一

 1976年は,ヴィエトナム民族多年の願望であつた南北ヴィエトナムの統一が実現をみたヴィエトナム史上記念すべき年であつた。

 南北ヴィエトナムの統一については,75年11月,サイゴンで開催された南北両ヴィエトナム代表団による政治協議会で76年前半に統一ヴィエトナム国会を選出する選挙を行い,この国会を通じて統一を実現することが決められた旨公表された。

 そして76年4月25日,予定どおり実施された選挙の結果,492名の国会議員が選出され,6月24日から7月3日までの間統一ヴィエトナム国会が開催された。

 統一ヴィエトナム国会では,7月2日,「ヴィエトナムは独立,統一,社会主義の国であり,『ヴィエトナム社会主義共和国』の名称をとる」旨決議するとともに,首都(ハノイ),国旗,国歌(いずれもこれまでのヴィエトナム民主共和国のものと同じ),国章(これまでのヴィエトナム民主共和国の国章の国名部分が変更)を定めた決議が採択され,ここに南北ヴィエトナムは統一された「ヴィエトナム社会主義共和国」として新発足した。

 統一国会では同時に新国家指導者として,トン・ドック・タン大統領(前ヴィエトナム民主共和国大統領),並びにグエン・ルオン・バン(前ヴィエトナム民主共和国副大統領)とグエン・フー・ト(前南ヴィエトナム共和国臨時革命政府諮問評議会議長)両副大統領,ファム・ヴァン・ドン首相(前ヴィエトナム民主共和国首相)を選出し,新政府閣僚を決定した。また,同国会で新国家の機構については,新憲法制定までの間,これまでのヴィエトナム民主共和国の憲法を国家の組織,活動の基礎とすること及び新憲法起草のための委員会の設置等も決定された。

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(ii) 第4回ヴィエトナム労働党大会の開催

 こうしたヴィエトナムの統一実現のあと,60年の第3回党大会以降開催されていなかつたヴィエトナム労働党の第4回大会が76年12月14日から20日までハノイで開催された。同大会においては,ヴィエトナム戦争終結後の完全独立,統一の達成という新事態を踏まえ,ヴィエトナム革命が新しい社会主義革命推進の段階に入つたとの認識に立つことが明らかにされた。更に同大会で,科学・技術革命を中核とした3革命(生産関係,科学・技術,思想・文化の3革命)の同時遂行といつた社会主義革命路線を打ち出すとともに,当面の具体的任務として,南北の実体的統一のため南部の社会主義改造を重視した党中央委員会政治報告を採択した。

 同大会ではこの他に,当面の経済政策の重点を食糧自給及び内需を満たすための軽工業の発展に向けた76~80年の第2次5カ年計画に関する中央委員会報告を採択した。

 更に,党名を「ヴィエトナム共産党」と改称し,党規約の改正が行われた。また,注目された党人事については,レ・ズアンを頂点とする現指導体制がそのまま引き継がれ,レ・ズアン第1書記のポストは書記長に改められ,中央委員会委員及び同候補が大幅増員された。また,党最高指導機関たる政治局については,従来の11名の局員が14名となつた。

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(b) 外  交

 グェン・ズイ・チン外相は,76年12月の第4回党大会における対外政策演説で,すべての社会主義国,中でもソ連,中国との協力を定着,強化するための努力を続けること,社会主義諸国間の連帯の回復,相互支援と援助について他の社会主義諸国と共同して貢献すべく最善を尽すこと,インドシナ3国間の連帯に最上の重要性をおいていること,東南アジア諸国とは従来から表明してきている原則に従つて友好協力関係を発展する用意があること等を述べたが,その大筋においては,従来からヴィエトナムの対外政策として表明されてきたところのものであつた。

 統一後のヴィエトナムの外交活動として最も注目されたのは,76年7月,統一直後,ファン・ヒエン外務次官を団長とするヴィエトナム政府代表団をマレイシア,フィリピン,シンガポール,インドネシアの各国を歴訪させ,これらASEAN諸国との関係調整を図つたことであり,フィリピンでは7月12日,ロムロ外相とファン・ヒエン次官との間に,両国間の外交関係樹立に関する共同声明が署名されるという具体的成果もみられた。タイとの間では,75年5月訪タイした北ヴィエトナム代表団との間に行われた両国関係改善の交渉が,旧南ヴィエトナム軍航空機の返還問題から,中断されていたが,76年8月ヴィエトナム政府の招待を受けてハノイを訪問したタイのピチャイ外相との間に関係正常化の話合いが行われた結果,両国外相の間で,外交関係樹立と両国関係一般に関する2つの共同声明に署名をみるに至つた。このタイとの外交関係樹立をもつてヴィエトナムとすべてのASEAN諸国との間に外交関係が樹立をみるに至つた。

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(c) 経  済

 新段階におけるヴィエトナムの社会主義経済路線については,第4回党大会で採択された中央委員会政治報告において,社会主義工業化の促進,小規模生産から大規模社会主義生産への移行,農業・軽工業の発展を基礎としての重工業の優先的・合理的発展,中央・地方経済の結合,経済と国防の結合,独立・主権の維持と互恵を基礎とする他の諸国との経済関係の発展,などが謳われている。

 また,第4回党大会では,ヴィエトナム戦後の本格的社会主義建設に入るための76~80年の第2次5カ年計画の方向,任務,目標に関する中央委員会報告が採択されたが,その基本的任務の第1に「農業の飛躍的発展を実現することに全国すべての部門と隊列の勢力を高度に集中すること」を掲げて,農業優先を明確に打ち出していることが注目された。なお,5カ年計画の投資額は約300億ドルに達し,このうち約30%が農業,35%が工業に向けられ,年間の社会的生産高は平均14.5~15.5%,国民所得は13~14%増大するものと期待されている。

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(ロ) わが国との関係

 ヴィエトナムの統一実現に当り,76年7月3日,三木総理大臣(当時),宮澤外務大臣(当時)より,それぞれ,ファム・ヴァン・ドン首相,グェン・ズイ・チン外相あてに祝電が発出された。次いで8月には,わが国よりJICAのメイズ開発協力調査団が派遣され,9月14日には,わが国より統一ヴイエトナムに対する50億円を限度とする無償経済協力取極の署名が行われたほか,10月には,わが国石油業界の招きにより統一ヴィエトナムより石油開発視察団が訪日した。

 76年のわが国の対ヴィエトナム貿易は,輸出,1億6,724万ドル(対前年比205.1%),輸入4,888万ドル(対前年比118.6%)であり,主要輸出品目としては,機械機器(27.5%),化学品(23.1%),金属品(18.8%),繊維品(16.1%),また,主要輸入品目は,無煙炭(55.4%),魚介類(28.1%),コーヒー豆(7.2%),天然ゴム(1.3%)であつた。

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(2) ラ オ ス

(イ) 概  論

(a) 内  政

 1975年12月ラオス人民民主共和国発足時に発表された共和国政府行動計画は,国家機関の強化,社会主義経済の建設,社会・文化の再建の3大方針を打ち出した。国家機関の強化は,永年にわたつて分断されてきたヴィエンチャン政府支配地域とパテトラオ支配地域との統合を手始めとして,中央政府の権力を国民に浸透させることを目的としたものであつた。共和国成立当初は旧ヴィエンチャン政府勢力の反撃による国内治安の乱れが懸念されたが,予想に反し比較的平穏に経過した。しかしながら,経済情勢の悪化に伴いヴィエンチャン北方のメオ族の反抗,南部諸州におけるゲリラの活動が伝えられるに至つた。これら反政府活動は孤立したものであり,中央政府の存在を危うくするものではないが,政府の目指す国内統合の障害となつている事実は否定しえない。

 いわゆる植民地主義的社会・文化の残滓を払拭し,ラオス固有の社会・文化に復帰する運動として,前年に続く前政権の官吏・軍人を初め一般国民を対象とする政治教育セミナーの開催,西洋音楽の禁止,文盲撲滅運動,学習・医療の無料化,教材のラオス語化等の措置がとられた。これらは要するに国民の精神改造を目指すものであり,効果は次第に国民の間に浸透していくものとみられる。しかしながら旧政府の官吏・軍人,事実上営業を禁止された外国商人等の中にはメコン河を渡つてタイに逃亡する者も多く,タイにいるラオス難民の数は常時6万人を下らない状況にある。

 新憲法を制定して総選挙を実施するという政治日程は顕著な進捗をみていない模様である。

 76年はラオスにとつて王国から社会主義国への変革期であり,種々の試行錯誤はあつたものの,全体的には社会主義への道を確実に歩んでいるといえよう。

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(b) 外  交

 カイソン首相は党・政府代表団を率いてヴィエトナム・中国・ソ連・キューバ・チェッコスロヴァキア・ルーマニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・モンゴルの各国を訪問し,10月にはソ連により社会主義国の一員として認められるに至つた。ラオスは中・ソ等距離を建前としているが,事実上はヴィエトナム・ソ連からの影響が強いとみられる。タイとはメコン河の国境を挾んでの小競合が絶えず,両国関係は円滑を欠いている。

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(c) 経 済 情 勢

 新政権は社会主義経済の建設を3大方針の1つとしており,具体的には農・林業を基礎として工業化へ向かうとの方向を打ち出した。当面,農業協同組合・協同販売組合の設置などに多少の成果がみられたものの,76年中には前政権の資本主義経済の破壊に主力が注がれた結果,社会主義経済の建設までには手が及ばなかつたというのが実情のようである。ラオスにおいては目下経済建設に不可欠なテクノクラートが不足気味であり,また,企業・商店の国営化ないし国家との合弁化という方針は,華僑やインド人などの外国人資本家・商人が国外に転出するという結果を招いた。6月に実施された通貨改革にかかわらずインフレ抑圧はいまだ成功したとはいえず,経済は低迷しており,予算も未だ編成されていない。10月から国庫収入の基礎となるべき農業税が新設され目下その実施ぶりが注目されているが,当面はラオス経済は困難な道をたどることが予想される。

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(ロ) わが国との関係

 ラオスとわが国との関係は従来どおり良好であり,わが国は経済協力等の面でラオスの復興に協力している。

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(a) 貿 易 関 係

 76年の貿易はわが国の輸出入それぞれ732万,290万ドルであり政変のあつた前年に比しほぼ倍増している。

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(b) 経済・技術協力関係

 わが国とラオスとの間に4月にナムグム・ダム第2期工事追加借款20.1億円供与,10月に為替安定基金(FEOF)終了に伴う残存キープ貨(約4億新キープ)贈与,12月には新政権に対する初の無償援助3億円(道路建設資材)供与の書簡交換がそれぞれ行われた。技術協力としては,わが国より専門家10名,青年協力隊員5名を派遣しており,またラオスよりはコロンボ・プラン研修生6名を受け入れた。

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(3) カンボディア

(イ) 概  論

(a) 内  政

 1月の民主カンボディア新憲法の公布,3月の総選挙を経て成立した人民代表議会は,4月の第1回会議で,シハヌーク国家首席・ペンヌート内閣の辞任を認め,キュー・サンパン副首相を国家幹部会議長(元首),新人ヌオン・チアを国会議長,同じく新人ポル・ポットを首相とする新内閣を任命し,シハヌーク色の払拭された民主カンボディアの新体制が発足した。

 新政権を指導している組織は「カンボディア革命機関」と称せられ,遠くはホーチミンと関係を有していたが,その後独自の道を歩むに至つたもので,しつかりした党組織的なものは有せず少数の指導者によつて掌握されている模様である。思想的にはマルクス・レーニン主義の基本遵守,スターリン主義擁護等,中国共産党に近い。革命機関とは別に共産党が存在していて革命機関を指導しているとの説もある。

 行政区は戦後大幅に改変された模様であるが実態は判明していない。行政に当つているものは文民より軍人が多いようである。

 76年を通じ増産のため国民を動員して集団労働に就役せしめるという体制は継続された。農村・工場はすべて協同組合化され,協同組合が社会の基礎単位となつてきている。国民の生活も集団制となり,家族単位の個人的生活はなくなつてきているようである。戦後ヴィエトナム人在留民(60万人)は全員ヴィエトナムに帰国したが,中国人(40万人)は帰国せず国内で農作業に従事させられているといわれる。

 76年に入つてから医師,教師等のインテリ層,ロンノル政権の官吏,軍人に対する粛清が行われたとの報道もある。タイへ逃れる難民は後を絶たず,相当数がフランス等第3国に再出国しているものの,在タイ難民の数は常時1万人を下らない。

 また,タイ国境方面では反政府ゲリラの活動が伝えられている。

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(b) 外  交

 4月の民主カンボディアの新体制の発足後,カンボディアはわが国を含む10数カ国と外交関係を樹立した。しかし年間を通じプノンペンに大使館を開設した国は,従来の中国,ヴィエトナム,北朝鮮,キューバ,アルバニアに加え,ユーゴースラヴィア,ラオス,ルーマニア,エジプトの4カ国にすぎず,また,カンボディアが大使を派遣している国は,中国,ヴィエトナム,北朝鮮,ラオスの4カ国のみである。

 8月のコロンボ非同盟首脳会議にはキュー・サンパン元首及びイエンサリ副首相が,また9月の国連総会には同副首相が出席し,非同盟政策の遵守,国連改革の要,経済水域200カイリ等を主張した。

 76年1月には中国民航が,また9月にはヴィエトナム航空がそれぞれ北京,ハノイとプノンペンとの間の定期便を開設した(各々隔週1便)。

 カンボディアはすべての国,特に隣国との友好関係維持の外交方針をとつているが,10月のタイの政変後国境紛争が頻発し両国関係は円滑を欠くに至つた模様である。

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(c) 経 済 情 勢

 国民は引き続き生産,特に米の増産に総動員され,水を確保するための堤防・水路,碁盤の目のような水田の建設に大きな努力が払われている。76年の米生産計画は達成され輸出用籾15万トンを有するに至つた由である。

 通貨は存在せず,国内外の郵便・電信電話制度も再開されていない。商店も存在せず食料・衣料等は配給制となつている。憲法には日用品以外のものは国家又は集団の所有に帰すことが明記されている。

 貿易はタイとの間に物々交換の国境貿易が若干行われているほか,その他の国との間に多少実施されている模様である(これまでにゴム2万トン輸出)。76年秋,香港にカンボディア政府系貿易会社レン・フン社が設立され,国内の整備につれて対外貿易は活発化するものとみられる。経済全体としては目下戦後復興期にあり戦前の水準には達していない。

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(ロ) わが国との関係

 8月2日わが国との間に外交関係が回復されたが,大使館を開設するには至つていない。9月8日イエン・サリ外務担当副首相がメキシコへの途次東京に立ち寄つた際,宮澤外務大臣(当時)との間で今後の両国関係等について話合いが行われた。

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6. 南西アジア諸国

 

(1) イ ン ド

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・経済の状況

(i) 1976年のインド内政は,ガンジー政権の非常事態宣言における強権を伴う政治姿勢と比較的好調な経済情勢に支えられ,表面的には一応安定した形で推移した。この間,11月には,行政権の強化と司法権の制限,国民の基本的人権の制限,中央政府の各州政府に対する権限の強化等を骨子とする憲法改正法案(第42次)が野党の反対にもかかわらず採択された結果,ガンジー首相はかつてない強権を握ることとなつた。

 しかし,同首相は,77年1月19日,突如として78年3月まで任期延長となつていた下院の解散と総選挙の実施を発表し,同総選挙は,3月16日より20日まで(17日を除く)実施された。野党側は予想以上に結束して,反ガンジー・ムードを盛り上げ,野党側の「民主主義か独裁か」のスローガンがいき過ぎた家族計画の実施等により鬱積していた国民大衆の反政府感情に合致したのに対し,秩序回復,農業生産の好調,相対的な物価安定等非常事態宣言下で達成された実績を誇示し,「安定か混乱か」を問いかけた与党コングレス党は受身一方に回り,その結果,野党4党が連合したジャナタ(人民)党が539議席中の270議席を獲得した。他方,コングレス党は153議席を獲得したにとどまり,同党は独立後初めて政権を野党に譲ることとなつた。

 右選挙結果に基づき,3月24日デサイ・ジャナタ党党首が新首相に就任し,3月28日,ジャナタ党,民主コングレス党(ラーム前農相党首)を中心とした閣僚による内閣が正式に発足した。

(ii) 76年のインド経済は,農業面で食糧穀物生産が75年に次ぐ豊作となり,慢性的食糧不足がさしあたり解消したこと,鉱工業面で非常事態宣言下の諸政策が効を奏し,基幹鉱工業生産が大幅に伸長したこと等の好条件に支えられ,総体的に順調に推移した。物価は,夏にかけて一部品目に上昇傾向がみられたが,その後一応の落着きをみせている。貿易も,工業製品の輸出の堅調,穀物輸入の停止,肥料輸入の減少等に支えられ,赤字幅は大幅に縮小した。外貨準備は,12月末には約30億ドルにまで急増した。政府はかかる経済の好調に自信を強め,延び延びになつていた第5次5カ年計画(74年4月~79年3月)を正式に採択した。なお,77年1月には200カイリ経済水域が設定された。

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(b) 対 外 関 係

(i) 76年のインド外交は,国内政情の安定と経済の立直りを背景として,積極化の傾向をみせ,パキスタン,中国等周辺諸国との関係改善にかなりの成果を挙げ,またソ連との緊密な関係を外交の柱として維持しつつ,外交的選択の幅を広げる努力が追求された。

(ii) パキスタンとの関係は,7月に大使の交換,民間貿易の再開,民間航空機の相互乗入れ,鉄道輸送の再開等が相ついで実現したことにより,一応正常化した。

(iii) バングラデシュとの関係は,ファラッカ・ダム問題等の要因により停滞した。スリ・ランカとの関係は良好であるが,ネパールとの関係では若干の摩擦がみられた。

(iv) 中国との関係は,7月に62年の印中紛争後14年ぶりにインドが駐中国大使の派遣に踏み切り,中国もこれに応じて駐印大使を派遣したことにより,緩慢ではあるが改善の方向に向かいつつある。

(v) ソ連との関係は,6月のガンジー首相訪ソの機会に,「印ソ間友好・協力発展に関する宣言」が調印され,ルビー・ルーブル換算率改訂交渉の停滞はあるものの,両国関係は依然緊密である。

(vi) 低迷を続けてきた米国との関係も,カーター政権誕生を契機に,インド側より改善を図る姿勢が示されつつある。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

 76年における日印貿易総額は約11億7,809万ドル,その内わが方の輸出約3億7,698万ドル,輸入約8億110万ドルで,前年に比しわが国の入超幅は一層拡大した。わが国の対印主要輸出品目は機械機器,化学品,鉄鋼等であり,主要輸入品目は鉄鉱石,えび,綿花,貴石等である。

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(b) 経済・技術協力関係

 わが国は,76年において第15次円借款として商品援助70億円の供与を約束した(3月)ほか,第16次円借款として約122.4億円の債務繰延べを行つた(11月)。また,77年2月には,第16次円借款の内のプロジェクト援助90億円及び商品援助100億円の供与を約束した。

 技術協力の面では,76年度中に,54名の研修員(農業,水産,行政一般等)を受け入れた。

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(c) 要 人 往 来

 76年4月にメータ内務(閣外)相,6月にラーグマイア住宅・公共事業相がそれぞれ来日し,わが国からは,77年1月に河野参議院議長を団長とする参議院議員団,2月にアーメド大統領の国葬に参列するため特派大使として奥田外務政務次官がそれぞれ訪印した。

 また,11月マドラスで開催された第9回日印経済合同委員会には,わが国経済界の有力者が多数出席したほか,12月にはニューデリーで第11回日印事務レベル定期協議が行われた。

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(2) パキスタン

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・経済の状況

(i) 1976年においてブットー政権は,非常事態宣言によつて付与された強権を背景として,下院総選挙の準備に力を注いできた。すなわち,ブットー首相は,精力的な国内遊説及び人民党の体質改善などを行う一方,野党指導者の逮捕や抱込み等により野党切り崩しに意を用いた。バルチスタン州においては,75年12月以来続いていた連邦政府直轄化措置の撤回による同州議会の復活(6月),同州内閣復活(12月)にみられるように,1年ぶりに同州の正常化を図つた。77年3月ブットー政権成立後はじめての下院と州議会の選挙が行われ,与党人民党が圧勝したが,野党側は選挙に不正があつたとして総選挙の結果を認めず,当選議席の放棄,主要都市部におけるストライキ等を行うなど不穏な動きを示している。

(ii) 経済:76年においては若干の明るい兆しがみられた。

 虫害で不作であつた綿花を除き,小麦,米,さとうきび等の主要農作物が豊作であつたことにより,農業面で大きな回復がみられた。また,物価上昇率も前年の20%に比べ11.7%と鎮静し,更に貿易収支も小麦,肥料の輸入減等により75年度(75年7月~76年6月)の赤字幅は8.9億ドルと前年度より若干減少した。これらの結果経済成長率(75年度)は,5.2%(前年度は3.2%)となつた。

 なお12月バンジャブ州ドーダックで,埋蔵量2億バーレル(今後10年間の国内需要をみたすといわれる)と推定される新油田が発見された。また,12月末には,200カイリ経済水域が設定された。

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(b) 対 外 関 係

 76年中,パキスタンは,近隣諸国との関係正常化・改善に大きな実績をあげ,また2月のブットー首相の西独,スウェーデン,カナダ訪問をはじめとし,政府首脳の各国訪問,外国首脳のパキスタン訪問等引き続き積極的訪問・招待外交を行つた。

(i) インドとの関係では,5月にイスラマバードにおいて,両国外務次官会議が開催され,外交関係及び航空路の再開等に合意した。これらの合意事項は7月より実施に移された。

 バングラデシュとの関係でも,大使交換をはじめ電信・電話,郵便,貿易,航空路の再開が相ついで実現をみた。またアフガニスタンとの関係では,6月ブットー首相がアフガニスタンを訪問,8月にはダウド・アフガニスタン大統領がパキスタンを訪問し,両国間の問題について話し合う等両国関係は大きな改善をみた。

(ii) 中国との関係では,5月にブットー首相が訪中したのをはじめ,各種レベルでの使節団の活発な往来が行われた。

 米国との関係では,パキスタンがフランスより核燃料再処理プラント購入のための取極を結んだことに対し,米国が強い反対の意向を伝えた模様である。

(iii) ブットー首相は5月訪問先の北朝鮮で,開発途上国の経済的困窮を解決するための「第3世界首脳会議」開催を提案した。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

 76年におけるわが国との貿易は,わが国の輸出約2億9,745万ドル(対前年比2.4%増)に対し,輸入約1億582万ドル(対前年比19.3%増)となり,前年と同様わが国の大幅出超となつた。また,76年3月,今里日本精工会長を団長とした政府派遣経済使節団が派遣され貿易・投資の拡大につきパキスタン側関係者と忌憚のない意見交換を行つたほか,76年2月,開発輸入促進調査団が派遣された。

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(b) 経済・技術協力関係

 わが国は,76年4月70億円の第13次円借款,77年2月80億円の第14次円借款及びセメント工場建設のための105億円の円借款の供与を約束したほか,76年3月と11月の2回にわたりそれぞれ約87.5億円,約76.5億円の債務救済を実施した。

 また,農業プロジェクト・ファインディング調査団(10月),経済協力評価調査団(11月)等各種調査団がパキスタンに派遣され経済協力のあり方につき調査がなされた。

 また農業,交通,通信,租税等の分野で29名の研修員を受け入れ,他方郵便番号,ラホール市街地緑化計画等の分野で5名の専門家を派遣した。

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(c) 要 人 往 来

 両国間の要人の往来としては,76年8月第4回日本・パキスタン事務レベル定期協議が開催され,アガ・シャーヒー外務次官が首席代表として来日した。

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(3) バングラデシュ

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・経済の状況

(i) 1975年の下半期にクーデター(8月)及び2度にわたる政変(11月)を経験し大きく揺れたバングラデシュ政情も76年に入り漸く安定化するとともに,ゼアウル・ラーマン陸軍参謀総長はその権力基盤を強化した。7月末サイヤム大統領は予定どおり,これまで非合法化されていた政治活動の一部自由化を認める新政策を発表し,これまでに21政党に活動許可が与えられた。

 この結果,総選挙に向かつて在野政治家の動きが活発化するに至つたが,11月21日,サイヤム大統領は総選挙の無期延期を発表し,続いて同月29日にはバングラデシュの国益のため戒厳司令官の地位を戒厳副司令官であつたゼアウル・ラーマンに委譲した旨発表した。

 また翌30日には総選挙推進派であり,かつ総選挙をめぐりゼアウル・ラーマンと対立関係にあると見られていたアーメド前大統領を始めとする有力政治家が反国家活動もしくは汚職の容疑で逮捕された。

(ii) 76年のバングラデシュ経済は引き続き好天に恵まれ,農業生産は前年並みの豊作が期待される一方,石油危機以後国民生活を圧迫してきた悪性インフレも漸く鎮静化し,同国経済の先行きに明るさを与えている。

 しかしながら,工業部門は,国内需要が振わなかつたため依然不振を続けており,75年末に打ち出された一連の経済自由化政策も,その裏付け措置が十分でなかつたため具体的な成果を上げるに至つていない。

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(b) 対 外 関 係

 76年のバングラデシュ外交においては,75年8月のクーデターを契機に関係正常化がなされたパキスタン及び中国との友好関係に進展がみられた。すなわち,パキスタンとの間には4月に貿易取極が調印され,同年後半には両国航空機の相互乗入れが再開された。中国との関係では,77年1月にゼアウル・ラーマン戒厳司令官が中国政府の招待を受け訪中し,右訪問中に「貿易支払協定」及び「経済技術協力協定」が調印され,また,華国鋒主席のバングラデシュ訪問受諾が明らかにされるなど,両国関係の緊密化がみられた。

 これに対し,インドとの関係は76年に入つてからも国境周辺の騒擾事件やファラッカ・ダム問題等をめぐつて依然改善されておらず,特にファラッカ・ダム問題についてはバングラデシュ政府により国連に提訴はされたものの具体的な解決をみるには至らず,本問題の根本的解決のためには,今後とも両国間で相当長期にわたる交渉が必要とみられている。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

 76年におけるわが国の対バングラデシュ貿易は輸出約7,406万ドル(対前年比41.2%減),輸入約1,309万ドル(同85.1%増)と依然わが国の一方的出超となつているが,出超幅は75年の約半分と大幅に縮小されている。

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(b) 経済・技術協力関係

 わが国は76年5月に第3次円借款(商品借款)として130億円の供与を約束した。

 更に無償援助としてバングラデシュの中央農業普及技術開発研究所建設に7億円(5月),浅井戸掘削機材9.2億円(7月),KR食糧援助として725万ドル(7月)及び340万ドル(77年1月)の米の供与を各々約束した。

 技術協力の面では76年中に,専門家40名が派遣されたほか,海外青年協力隊員22名が派遣され,研修員83名の受入れが行われた。

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(c) 要 人 往 来

 わが国から76年3月に早川崇衆議院議員が同国を訪問した。

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(4) スリ・ランカ

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・経済の状況

(i) 1976年における最大の行事は8月にコロンボで開催された第5回非同盟諸国首脳会議であつた。バンダラナイケ首相は右会議を主催することにより対外的威信を高めた。

 12月に入つて野党系国鉄労組が全国的ストライキを実施したところ,右ストライキに対する政府の対処ぶりをめぐり,連合政権内の共産党と自由党との関係が急速に悪化するとともに,野党も政府不信任案を提出した。これに対して77年2月,ゴパッラワ大統領は会期中の国会を5月19日まで停会する旨の布告を公布した。また,71年3月以来実施されてきた非常事態令も右措置の結果失効した(2月15日)。共産党は国会停会措置に強く反発し,2月19日連合政権より離脱したため,バンダラナイケ政権は自由党単独政権となつた。

なお与党内においても2月25日,5議員が脱党し,人民民主党を結成したほか,3月1日こはスバシンハ工業・科学大臣も辞任した。

(ii) 76年のスリ・ランカ経済は大旱魃のため前年にも増して厳しい状況であり,経済成長率は2%に止まつた(75年は5%)。米作は10年来の最低といわれた75年実績をやや上回つたものの,以然年間必要量の約50%を満たすにすぎないものと推定される。また,プランテーション作物の生産も旱魃の影響を受け,低迷状態であつた。

 なお,貿易収支の赤字幅は,主に食糧輸入の減少,貴石輸出の増加及び紅茶・ゴム輸出価格の回復などにより,75年の約2億ドルから約5,000万ドルへと大幅に縮小した。

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(b) 対 外 関 係

(i) 従来より非同盟政策を外交の基本とするスリ・ランカにとつて,76年8月コロンボで非同盟首脳会議を主催し,各種対立する意見の調整を図つたことは,同国の国際社会における地位向上に貢献したものとみられる。

 また,石油危機以来,アラブ諸国への接近策をとり,76年も多数の閣僚がアラブ諸国を訪問し友好関係強化に努力したほか,わが国を含むアジア諸国との関係強化にも努めた。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

 76年におけるわが国の対スリ・ランカ貿易は輸出約5,354万ドル(対前年比7.3%増)輸入約3,672万ドル(対前年比19.8%増)となり,前年に引き続きわが国の出超となつた。投資の面では,76年11月のパンダラナイケ首相訪日の際の共同コミュニケで,スリ・ランカ側がわが国投資の受入れに積極的姿勢を示したことは注目される。

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(b) 経済・技術協力関係

 76年には,わが国は第11次円借款として,45億円の供与を約束(10月)したほか,KR援助として,100万ドル(7月)及び210万ドル(77年1月)相当の肥料の援助を約束した。

 また,76年11月のパンダラナイケ首相の訪日を契機に,わが国はスリ・ランカに対して初めてプロジェクト援助を供与することとなつた。

 技術協力関係では,スリ・ランカ高等水産講習所設立協定(74年4月締結)に基づき派遣している8名を含め専門家13名を派遣し,研修生76名を受け入れた。 

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(c) 要 人 往 来

 両国間の要人の往来としては,10月にラトナヤケ運輸大臣兼議会・スポーツ大臣がわが国を訪問し,11月には,パンダラナイケ首相が初めてわが国を公式訪問し,両国共同コミュニケが発表された。

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(5) ネ パ ー ル

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・経済の状況

(i) ビレンドラ国王は76年に入り,75年に発表された第2次憲法改正に伴うパンチャーヤット体制(ネパール独特の議会制の上に立つ国王親政体制)の整備・調整に力を入れ,国王親政体制の強化に努めた。3月から6月にかけて憲法改正後初めての国会議員選挙が実施された。

 また,9月には内閣の一部改選が行われ,5名の閣僚が増員された。さらに12月末には,従来反王制勢力の中心人物と目されてきた旧ネパール会議派総裁コイララとその関係者が亡命先インドより帰国した。

(ii) 生産不振,物価騰貴及び国際収支の大幅赤字に悩まされた75年と比較して,76年は米作も約3.4%増を記録し,物価も鎮静化に向かい,国際収支も黒字を記録した。この結果,75年8月には約10.6億ルピーの低水準に落ち込んでいた外貨準備も年度末(76年7月)には約14.8億ルピーの水準に達した。しかし77年については,米作が前年に比し減産を免れないと見込まれているほか,貿易収支の赤字幅が拡大しつつあり,さらに物価も再び上昇に転じつつあるなど経済の先行きは必ずしも明るくない。

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(b) 対 外 関 係

(i) インドとの関係は,1月のチャバン・インド外相の訪ネ,4月のギリ首相の訪印により改善されたとみられたが,8月に失効したネ印通商通過協定改訂交渉のいきずまり,さらには10月インドが突如発表したネパール人の入国制限措置問題等をめぐり再び両国関係に陰がさしはじめた。

(ii) 中国との関係では,ビレンドラ国王が6月四川・西蔵を訪問し,華国鋒総理を始め中国指導者と会談したほか,中ネ貿易協定が10年間延長される等緊密な関係が維持されている。

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(ロ) わが国との関係

(a) 経 済 関 係

 わが国との貿易は停滞傾向にあり,76年のわが国の対ネパール貿易は輸出925万ドル,輸入367万ドルと総額で75年実績を下回つたほか,わが国の大幅出超を記録した。

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(b) 経済技術協力関係

 76年度中に農業専門家,水力発電技師,医師等計15名の専門家を派遣したほか,青年海外協力隊員21名を派遣し,研修員45名を受け入れた。また76年3月クリカニ水力発電所建設計画に対し30億円の円借款供与を約束したほか,同年12月にはタンセン上水道整備計画に対し5億円の無償協力を約束した。

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(c) 要 人 往 来

 11月王弟ギャネンドラ殿下夫妻が米国訪問の途次わが国に立ち寄つたほか,12月にはタパ蔵相が東京において開催された第1回ネパール援助調整グループ会議に出席のため訪日した。

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(6) モルディブ

(イ) 内 外 情 勢

(a) 1976年のモルディブ政情はナーシル大統領親政体制のもとで平穏に推移したといえる。なお77年1月機構改革が行われ,漁業,教育,農業,内務の各部が省に昇格した。

 また,11月には,従来の漁業専管水域に代えておおむね矩形(南北720カイリ,東西480カイリ)の経済水域が設定された。

(b) 対 外 関 係

 モルディブは,65年の独立以来非同盟主義をその外交の基本方針としつつも非同盟会議には未加入であつたが,76年8月の第5回非同盟諸国首脳会議を契機に正式加盟国となつた。また76年3月英軍がガン島より撤退したことから諸外国のモルディブに対する働きかけが活発化している。

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(ロ) わが国との関係

(a) 貿 易 関 係

 76年のわが国の対モルディブ貿易は,輸出96万ドル(75年実績の58.8%)に対し,輸入237万ドル(75年実績の4%増)となつた。わが国の主要輸出品は機械・機器であり,主要輸入品は魚介類である。

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(b) 経済技術協力

 わが国は75年漁船動力化計画に協力するため,ディーゼル・エンジン116台(1.5億円)の無償資金供与を約束したが,右エンジンの取付けは完了し,漁獲量の拡大に貢献した。また技術協力関係では専門家2名(水産関係)を派遣した。

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(c) 要 人 往 来

 両国間の要人往来としては,76年5月ヒルミイ副大統領が外務省招待でわが国を訪問した。

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(7) ブ ー タ ン

(イ) 内 外 情 勢

(a) ブータンはシグメ・シンゲ・ワンチュク国王の下に,インドからの経済・技術援助を得て,農業,運輸,道路建設等に重点を置く第4次5カ年計画(1976年~1981年)を推進している。

(b) 対外関係では,インドとの間にインド・ブータン条約(1949年締結)に基づく特殊な関係が維持されている。

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(ロ) わが国との関係

 わが国は76年中農業専門家1名を派遣し(75年よりの継続),農業開発に協力したほか5名の研修員を受け入れた

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