1. 世界経済の調和的発展への貢献
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国際経済は,76年において多くの困難に直面した。73年のOPECによる石油価格大幅引上げを契機に戦後最大の不況へと突入した世界経済は,75年春以降ようやく景気回復過程に入り,この回復基調は,76年春頃まで継続した。しかし,世界経済は,76年後半に入るとともにその回復速度を急速に低下させ,個人消費及び設備投資の伸び悩み,高失業率改善の足踏み,インフレ,通貨不安,国際収支のアンバランス等深刻な経済困難は改善を見るに至らず,一部には停滞感の深まる中で,77年を迎えることとなつた。更に,世界経済全体の景気回復速度が低下する中で,先進民主主義諸国間においては,わが国,米国,西独等の経済情勢の比較的良い国と,英国,フランス,イタリア等の経済情勢の良くない国との2極分化傾向が顕在化した。 74年以来縮小に転じた世界貿易量は,景気回復に伴う先進国輸入の増大を中心に75年後半から拡大を示した。しかし,世界貿易が拡大する一方,一部の国においては,高い失業率など困難な国内情勢を背景に保護貿易主義的な動きが見られたことも事実である。すなわち,一部の国においては,石油輸入のための負担や各国経済の景気回復速度の相違等から貿易収支が悪化し,また,特定のセクターにおける輸入が急増したが,これが国内の高失業率と結びつけて考えられ,輸入制限的な動き等が生じたわけである。 72年以降国際通貨基金(IMF)の場等において行われてきた国際通貨制度改革の動きも,75年11月のランブイエ首脳会議を経て結実し,76年1月ジャマイカで開催されたIMF暫定委員会において,IMF協定改正のための一括合意が成立した。かかる動きは,新時代に対応すべき制度上の枠組み作りの努力として評価されるが,実際の運用においては種々の困難が見られた。欧州の通貨情勢は,各国のインフレ率の違い,国際収支の順逆の違い等経済力格差を反映して,1月のイタリア為替市場の閉鎖をはじめとして3月のフランス・フランのEC共同フロートよりの再離脱,ベネルックス3国のミニ・スネークの解体等76年を通じて波乱含みに推移した。 国際エネルギー情勢は,76年を通じ比較的平穏に推移したものの,12月にカタールで開かれたOPEC総会においては石油価格の再引上げが行われた。さらに,価格引上げに際し,イラン,イラク等の強硬派諸国が10%引き上げたのに対し,サウディ・アラビア,アラブ首長国連邦の穏健派2カ国は,5%に留める決定を行つたため,石油価格の異例ともいえる二重価格制が開始され,国際石油情勢の一層の不安定化をもたらした。 国際経済における南北問題の占める比重は,ますます高まりつつあるが,この問題に関しては,第3節において詳述する。 |
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景気回復,貿易,エネルギー,南北問題をはじめとするこれらの諸問題の大部分は,一国のみの力では到底解決しえない性格のものであつた。さらに,国際経済社会における国家間の相互依存関係は,貿易及び資本交流の活発化等により従来にも増して強まつた。かかる状況において,国際経済上の諸問題に有効に対処するためには関係各国による緊密な協力が不可欠な要素であるとの認識が深まり,76年における世界経済の調和的発展のための努力も関係各国間における密接なる国際協調を基礎に行われ,わが国もこれに積極的な貢献を行つた。 かかる国際協調の代表的な事例としては,76年6月27日及び28日の両日プエルト・リコで開催された主要国首脳会議があげられる。主要国首脳会議は,世界経済の繁栄のためには世界経済の運営に大きな責任を有する日,米,英,西独,仏,伊,加の主要先進民主主義諸国間の協力が不可欠であるとの認識に立ち,これらの各国の首脳が一堂に会して世界経済が当面する諸問題に関して忌憚のない意見交換を行うものであつた。会議においては,経済の回復及び持続的拡大,通貨,貿易,エネルギー,南北問題,東西関係につき参加首脳間で意見交換が行われるとともに,今後の主要先進工業国間の協力の重要性が確認された。特に,景気回復に関しては,共同宣言において「景気回復は,順調に回復しつつある。」として景気回復に対する各国の自信を表明するとともに,参加国首脳間でインフレの再来を回避しつつ経済の持続的拡大を達成することを各国の共通目標とすることが合意された。このように主要7カ国の首脳が世界経済の運営に関して共通の目標を設定し,目標達成のため努力すべきことに合意したことは,石油危機以後不安定性を増している世界経済の将来に対する人々の自信を回復するうえで大きな影響を与えたものとして評価される。わが国も,同会議の重要性に鑑み,これに積極的に参加したが,会議を通じ主要国間の相互理解が深まり,これら各国間の協調関係は一層強化された。 貿易の分野では,ガットの場において,多角的貿易交渉東京ラウンドの枠組みの中で関税・非関税障壁を軽減・撤廃し,新しい国際貿易のルール作りを行うことが,保護主義の回避及び自由貿易体制の維持・発展のために必要不可欠であるとの認識に立つて,76年を通じ交渉が継続され,わが国も交渉進展のための努力を行つた。 また,76年5月の経済協力開発機構(OECD)閣僚理事会において,各国が貿易及び経常取引上の制限を自制するとの趣旨のOECD貿易制限自粛宣言が向う1年間再更新された。さらに,主要国首脳会議の宣言でも保護貿易主義的な動きに対する懸念が表明された。 国際金融面でも,IMFのクレジット・トランシュ枠の拡大,英ポンド支援のためのわが国を含む先進民主主義9カ国及び国際決済銀行(BIS)による信用供与の決定等国際機関や各国の協力が見られたことは高く評価されよう。 エネルギー面においては,国際経済協力会議において産油国との対話が続けられるとともに,国際エネルギー機関(IEA)においてエネルギーの節約,代替エネルギーの開発,新規エネルギーの研究開発等の分野における先進消費国間協力が推進され,わが国もその一員として重要な役割を果した。 なお,南北問題解決に関する国際的努力及びわが国の寄与に関しては第3節に詳述する。 |
わが国は,76年6月8日,核兵器不拡散条約(NPT)を批准し,原子力平和利用のための基盤を一層強化するとともに,批准に際しての政府声明において,わが国の原子力平和利用活動がいかなる面においても他のNPT締約国と差別されてはならないと考える旨強調した。更に77年3月4日には,NPTに基づく保障措置協定を国際原子力機関(IAEA)との間で署名した。
また,76年10月,フォード米国大統領(当時)は,核兵器製造能力につながる使用済み核燃料の再処理,濃縮技術・施設の輸出等の問題を含む原子力の平和利用問題に関し,厳しい政策を発表した。これに対して政府は,76年12月に,わが国の立場について米国の理解を求める文書を発出した。また,カーター新大統領は,フォード政権以上に厳しい態度でこの問題に臨んでいるが,政府は,77年2月に使節団を派米したほか,3月の日米首脳会談においても,米側の理解を求めるよう努力を続けた。
ウラン供給国の規制権強化を求めるカナダとの間では,77年1月に東京で日加原子力協力協定改訂のための第1次交渉を行い,以後も同交渉妥結のための努力が続けられた。
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わが国は,世界最大の遠洋漁業国としての利益を図るとの立場から,200海里水域の設定は,海洋法会議を通じての国際的合意に従つて行われることが望ましいとの考えに立ち,海洋法会議の早期妥結に最大限の努力を払つてきた。また,諸外国による一方的な立法の動きに対しても海洋法会議の結果を待つて行うべしとの立場を繰り返し表明するとともに,わが国の国益が損われないよう対外折衝を行つてきた。 |
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しかし,海洋法会議が期待どおりに進展しなかつたこともあり,世界の大勢は,米国,カナダ,EC諸国,ノールウェー,ソ連等が200海里水域の設定に踏み切るなど急速に200海里水域の設定が一般化した。特に,隣国ソ連の200海里漁業水域設定に伴う日ソ漁業協定交渉の推移にも鑑み,わが国としても200海里漁業水域設定に踏み切らざるをえなくなつた。かかる現実を踏まえて,77年3月29日の閣議において,わが国周辺水域の水産資源の適切な保存と管理を図るため200海里漁業水域の設定を行う方針を決定し,第80国会に法案を提出した。 |
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また領海の12海里拡張についても,外国漁船の操業により被害を蒙つている沿岸漁民の切実な要望に応えるべく,海洋法会議の動向をも勘案しつつ,鋭意検討を重ねてきたが,77年3月29日に領海法案を国会に提出した。 |
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200海里時代の到来の結果,200海里水域内における外国の漁船による漁業を継続するための交渉が課題となつた。わが国と米国との間では,76年4月に米国において「1976年漁業保存管理法」(いわゆる200海里法)が成立したこと等を背景に交渉が行われ,77年2月に暫定取極が,3月には長期取極がそれぞれ署名された。また,ソ連との間においては,ソ連が76年12月200海里宣言を行つたため,77年2月の鈴木農林大臣の訪ソを経て,3月に交渉が開始された。 |